安全保障と岸信介
今年は、日米安保50周年だそうで。
今日、鳩山由紀夫首相が談話を発表した。
やはり、日米安保体制の重要性は、一応、民主党政権にも認識されているようだ。
>日米安全保障条約改定の署名から五十年を迎えた十九日、鳩山由紀夫首相が談話を発表した。
>鳩山首相談話のポイント
・日米安保体制は日本のみならず、アジア太平洋地域の安定と繁栄に大きく貢献
・予見しうる将来、日米安保に基づく米軍の抑止力は、日本が平和と安全を確保していく上で引き続き大きな役割
・米軍プレゼンスは今後も地域諸国に大きな安心をもたらす公共財
・日米同盟を21世紀にふさわしい形で深化させるため、米国との共同作業で年内に成果
(以上、東京新聞 2010年1月19日 夕刊より)
しかし、50年以上も続くわが国の安全保障の枠組みをつくった「岸信介」って、一体どういう人間なんだろう。
今さらながらすごいと思われる。
昭和の妖怪、満州国を作った男、革新官僚…
「六十年安保騒動」の時、岸信介が取った態度の「ふてぶてしさ」もすげー迫力。
『ウィキペディア(Wikipedia)』から少し引用すると、
>こうした政府の強硬な姿勢を受けて、反安保闘争は次第に反政府・反米闘争の色合いを濃くしていった。岸は、「国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつも通りである。私には“声なき声”が聞こえる」(サイレント・マジョリティ発言)と沈静化を図るが、東久邇・片山・石橋の3人の元首相が岸に退陣勧告をするに及んで事態は更に深刻化し、遂にはアイゼンハワーの訪日を中止せざるを得ない状況となった。
>新安保条約の批准書交換の日の6月23日、岸は閣議にて「私のやったことは歴史が判断してくれる」と述べて辞意を表明、7月15日、混乱の責任を取る形で岸内閣は総辞職した。辞任直前には暴漢に襲われ、瀕死の重傷を負っている。
>岸が取った一連の行動については、文芸評論家の福田和也などが「本物の責任感と国家戦略を持った戦後唯一の総理」として高く評価している。
社会保障と岸信介
しかも、おもしろいのは、安全保障(national security)の分野のみならず、日本の社会保障(social security)の基礎を作ったのも岸信介らしいのだ。
2つのセキュリティ、整備されたのは両方とも、岸内閣の時代ということになる。
『ウィキペディア』の記述でも「岸内閣誕生」の項に、
>この他、最低賃金制や国民年金制度など社会保障制度を導入し、後の高度経済成長の礎を構築した。
とちゃんと書いてある。
ソーシャル・セキュリティをこしらえたのも岸信介だった、というのは私の場合、宮本太郎氏の『福祉政治』という本を読んで初めて知った。
読売新聞の渡辺恒雄氏も、この本のことは高く評価していた。(→参考:EU労働法政策雑記帳 2009年7月10日『文藝春秋』渡辺恒雄 ・宮本太郎対談より >今月の『文藝春秋』の読みどころは、(…)わたくし的に興味深かったのは、読売新聞の渡辺恒雄主筆と宮本太郎先生の対談です。(…)ほとんど意気投合してます。(…)お二人とも、社会保障に関しては「大きな政府」を追求する社会民主主義者なんですね。)
当時の自民党の政治家たちの「福祉ナショナリズム」のエネルギーもすさまじかった。当時の日本人のエネルギーが溢れすぎていて私が思わず笑ってしまうのは、自民党・野田卯氏一の言葉、「たとえ皆年金を西欧人ができなかったとしても日露戦争に勝った日本には可能である!」というもの。
今でもわれわれは、こうした昔のエネルギッシュな自民党の政治家たち(ないし官僚たち)が作り上げた諸制度の恩恵を受けつづけているのである。
嫌かもしれないけど、感謝しましょう。
以下、 宮本太郎『福祉政治』(2008年)より
>分立的な制度の中ではあったが、戦後の日本は独立後、1961年という早い時期に、皆保険皆年金を達成した。つまり、健康保険と公的年金が国民すべてを被保険者とするにいたった。皆保険には、他には北欧三ヶ国が達成していたにすぎなかった。また、皆年金を実現した国としては12番目であった。健康保険については、戦時期に導入された国民健康保険制度が地域保険の基盤を形成していたが、年金は、終戦時には厚生年金などの職域年金のみであった。いずれも、きわめて急速な立ち上がりであった。(宮本太郎『生活保障』66p)
>もちろん、皆保険皆年金といっても内実が伴っていたわけではない。(…)だが、形式としてであれ、皆保険皆年金を達成しえたエネルギーは認めなければならない。(66p-67p)
>(当時、自民党の)野田卯一は、皆年金が欧米の先進工業国でも行き渡っていないことにふれて、「たとえ皆年金を西欧人ができなかったとしても日露戦争に勝った日本には可能である」と喝破したことが伝わっている。(70p)
>ちなみに(当時の首相の)岸信介は後に、「岸内閣の時代に社会保障や福祉の基礎がつくられたということが、私のイメージに合わないというか、私になじまないような印象を受けるらしいが、そういう評価の方がなじまないと言うべきで、私にとっては意外でもなんでもないのである」と述べている。(宮本太郎『生活保障』70p)
今年は、日米安保50周年だそうで。
今日、鳩山由紀夫首相が談話を発表した。
やはり、日米安保体制の重要性は、一応、民主党政権にも認識されているようだ。
>日米安全保障条約改定の署名から五十年を迎えた十九日、鳩山由紀夫首相が談話を発表した。
>鳩山首相談話のポイント
・日米安保体制は日本のみならず、アジア太平洋地域の安定と繁栄に大きく貢献
・予見しうる将来、日米安保に基づく米軍の抑止力は、日本が平和と安全を確保していく上で引き続き大きな役割
・米軍プレゼンスは今後も地域諸国に大きな安心をもたらす公共財
・日米同盟を21世紀にふさわしい形で深化させるため、米国との共同作業で年内に成果
(以上、東京新聞 2010年1月19日 夕刊より)
しかし、50年以上も続くわが国の安全保障の枠組みをつくった「岸信介」って、一体どういう人間なんだろう。
今さらながらすごいと思われる。
昭和の妖怪、満州国を作った男、革新官僚…
「六十年安保騒動」の時、岸信介が取った態度の「ふてぶてしさ」もすげー迫力。
『ウィキペディア(Wikipedia)』から少し引用すると、
>こうした政府の強硬な姿勢を受けて、反安保闘争は次第に反政府・反米闘争の色合いを濃くしていった。岸は、「国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつも通りである。私には“声なき声”が聞こえる」(サイレント・マジョリティ発言)と沈静化を図るが、東久邇・片山・石橋の3人の元首相が岸に退陣勧告をするに及んで事態は更に深刻化し、遂にはアイゼンハワーの訪日を中止せざるを得ない状況となった。
>新安保条約の批准書交換の日の6月23日、岸は閣議にて「私のやったことは歴史が判断してくれる」と述べて辞意を表明、7月15日、混乱の責任を取る形で岸内閣は総辞職した。辞任直前には暴漢に襲われ、瀕死の重傷を負っている。
>岸が取った一連の行動については、文芸評論家の福田和也などが「本物の責任感と国家戦略を持った戦後唯一の総理」として高く評価している。
社会保障と岸信介
しかも、おもしろいのは、安全保障(national security)の分野のみならず、日本の社会保障(social security)の基礎を作ったのも岸信介らしいのだ。
2つのセキュリティ、整備されたのは両方とも、岸内閣の時代ということになる。
『ウィキペディア』の記述でも「岸内閣誕生」の項に、
>この他、最低賃金制や国民年金制度など社会保障制度を導入し、後の高度経済成長の礎を構築した。
とちゃんと書いてある。
ソーシャル・セキュリティをこしらえたのも岸信介だった、というのは私の場合、宮本太郎氏の『福祉政治』という本を読んで初めて知った。
読売新聞の渡辺恒雄氏も、この本のことは高く評価していた。(→参考:EU労働法政策雑記帳 2009年7月10日『文藝春秋』渡辺恒雄 ・宮本太郎対談より >今月の『文藝春秋』の読みどころは、(…)わたくし的に興味深かったのは、読売新聞の渡辺恒雄主筆と宮本太郎先生の対談です。(…)ほとんど意気投合してます。(…)お二人とも、社会保障に関しては「大きな政府」を追求する社会民主主義者なんですね。)
当時の自民党の政治家たちの「福祉ナショナリズム」のエネルギーもすさまじかった。当時の日本人のエネルギーが溢れすぎていて私が思わず笑ってしまうのは、自民党・野田卯氏一の言葉、「たとえ皆年金を西欧人ができなかったとしても日露戦争に勝った日本には可能である!」というもの。
今でもわれわれは、こうした昔のエネルギッシュな自民党の政治家たち(ないし官僚たち)が作り上げた諸制度の恩恵を受けつづけているのである。
嫌かもしれないけど、感謝しましょう。
以下、 宮本太郎『福祉政治』(2008年)より
>分立的な制度の中ではあったが、戦後の日本は独立後、1961年という早い時期に、皆保険皆年金を達成した。つまり、健康保険と公的年金が国民すべてを被保険者とするにいたった。皆保険には、他には北欧三ヶ国が達成していたにすぎなかった。また、皆年金を実現した国としては12番目であった。健康保険については、戦時期に導入された国民健康保険制度が地域保険の基盤を形成していたが、年金は、終戦時には厚生年金などの職域年金のみであった。いずれも、きわめて急速な立ち上がりであった。(宮本太郎『生活保障』66p)
>もちろん、皆保険皆年金といっても内実が伴っていたわけではない。(…)だが、形式としてであれ、皆保険皆年金を達成しえたエネルギーは認めなければならない。(66p-67p)
>(当時、自民党の)野田卯一は、皆年金が欧米の先進工業国でも行き渡っていないことにふれて、「たとえ皆年金を西欧人ができなかったとしても日露戦争に勝った日本には可能である」と喝破したことが伝わっている。(70p)
>ちなみに(当時の首相の)岸信介は後に、「岸内閣の時代に社会保障や福祉の基礎がつくられたということが、私のイメージに合わないというか、私になじまないような印象を受けるらしいが、そういう評価の方がなじまないと言うべきで、私にとっては意外でもなんでもないのである」と述べている。(宮本太郎『生活保障』70p)