ブログ・プチパラ

未来のゴースト達のために

ブログ始めて1年未満。KY(空気読めてない)的なテーマの混淆され具合をお楽しみください。

「社会保障」も、昭和の妖怪・岸信介が基礎をつくった-宮本太郎『福祉政治』より

2010年01月19日 | 政治・民主党
安全保障と岸信介

今年は、日米安保50周年だそうで。

今日、鳩山由紀夫首相が談話を発表した。

やはり、日米安保体制の重要性は、一応、民主党政権にも認識されているようだ。

>日米安全保障条約改定の署名から五十年を迎えた十九日、鳩山由紀夫首相が談話を発表した。

>鳩山首相談話のポイント

・日米安保体制は日本のみならず、アジア太平洋地域の安定と繁栄に大きく貢献
・予見しうる将来、日米安保に基づく米軍の抑止力は、日本が平和と安全を確保していく上で引き続き大きな役割
・米軍プレゼンスは今後も地域諸国に大きな安心をもたらす公共財
・日米同盟を21世紀にふさわしい形で深化させるため、米国との共同作業で年内に成果
(以上、東京新聞 2010年1月19日 夕刊より)

しかし、50年以上も続くわが国の安全保障の枠組みをつくった「岸信介」って、一体どういう人間なんだろう。

今さらながらすごいと思われる。

昭和の妖怪、満州国を作った男、革新官僚…

「六十年安保騒動」の時、岸信介が取った態度の「ふてぶてしさ」もすげー迫力。

『ウィキペディア(Wikipedia)』から少し引用すると、

>こうした政府の強硬な姿勢を受けて、反安保闘争は次第に反政府・反米闘争の色合いを濃くしていった。岸は、「国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつも通りである。私には“声なき声”が聞こえる」(サイレント・マジョリティ発言)と沈静化を図るが、東久邇・片山・石橋の3人の元首相が岸に退陣勧告をするに及んで事態は更に深刻化し、遂にはアイゼンハワーの訪日を中止せざるを得ない状況となった。

>新安保条約の批准書交換の日の6月23日、岸は閣議にて「私のやったことは歴史が判断してくれる」と述べて辞意を表明、7月15日、混乱の責任を取る形で岸内閣は総辞職した。辞任直前には暴漢に襲われ、瀕死の重傷を負っている。

>岸が取った一連の行動については、文芸評論家の福田和也などが「本物の責任感と国家戦略を持った戦後唯一の総理」として高く評価している。

社会保障と岸信介

しかも、おもしろいのは、安全保障(national security)の分野のみならず、日本の社会保障(social security)の基礎を作ったのも岸信介らしいのだ。

2つのセキュリティ、整備されたのは両方とも、岸内閣の時代ということになる。

『ウィキペディア』の記述でも「岸内閣誕生」の項に、

>この他、最低賃金制や国民年金制度など社会保障制度を導入し、後の高度経済成長の礎を構築した。

とちゃんと書いてある。

ソーシャル・セキュリティをこしらえたのも岸信介だった、というのは私の場合、宮本太郎氏の『福祉政治』という本を読んで初めて知った。

読売新聞の渡辺恒雄氏も、この本のことは高く評価していた。(→参考:EU労働法政策雑記帳 2009年7月10日『文藝春秋』渡辺恒雄 ・宮本太郎対談より >今月の『文藝春秋』の読みどころは、(…)わたくし的に興味深かったのは、読売新聞の渡辺恒雄主筆と宮本太郎先生の対談です。(…)ほとんど意気投合してます。(…)お二人とも、社会保障に関しては「大きな政府」を追求する社会民主主義者なんですね。)

当時の自民党の政治家たちの「福祉ナショナリズム」のエネルギーもすさまじかった。当時の日本人のエネルギーが溢れすぎていて私が思わず笑ってしまうのは、自民党・野田卯氏一の言葉、「たとえ皆年金を西欧人ができなかったとしても日露戦争に勝った日本には可能である!」というもの。

今でもわれわれは、こうした昔のエネルギッシュな自民党の政治家たち(ないし官僚たち)が作り上げた諸制度の恩恵を受けつづけているのである。
嫌かもしれないけど、感謝しましょう。

以下、 宮本太郎『福祉政治』(2008年)より

>分立的な制度の中ではあったが、戦後の日本は独立後、1961年という早い時期に、皆保険皆年金を達成した。つまり、健康保険と公的年金が国民すべてを被保険者とするにいたった。皆保険には、他には北欧三ヶ国が達成していたにすぎなかった。また、皆年金を実現した国としては12番目であった。健康保険については、戦時期に導入された国民健康保険制度が地域保険の基盤を形成していたが、年金は、終戦時には厚生年金などの職域年金のみであった。いずれも、きわめて急速な立ち上がりであった。(宮本太郎『生活保障』66p)

>もちろん、皆保険皆年金といっても内実が伴っていたわけではない。(…)だが、形式としてであれ、皆保険皆年金を達成しえたエネルギーは認めなければならない。(66p-67p)

>(当時、自民党の)野田卯一は、皆年金が欧米の先進工業国でも行き渡っていないことにふれて、「たとえ皆年金を西欧人ができなかったとしても日露戦争に勝った日本には可能である」と喝破したことが伝わっている。(70p)

>ちなみに(当時の首相の)岸信介は後に、「岸内閣の時代に社会保障や福祉の基礎がつくられたということが、私のイメージに合わないというか、私になじまないような印象を受けるらしいが、そういう評価の方がなじまないと言うべきで、私にとっては意外でもなんでもないのである」と述べている。(宮本太郎『生活保障』70p)



あなたが神を見捨てても神はあなたを見捨てない-遠藤周作・ ジャン・コクトーより

2010年01月18日 | 宗教・スピリチュアル
高校時代に、遠藤周作のエッセイを読んでいて、とても印象深かったジャン・コクトーのエピソード。

ジャン・コクトーがカトリックになる前に
神父に訊いたことがある。

「おれは阿片は吸ってるし、女と寝るし、その上同性愛だし、
これからどうしたらいいだろうか」と。

そうしたら神父が笑って

「そのままで生きたらいいじゃないか
きみは神様を問題にしなくても
神さまはきみを問題にしているよ」と

答えた。

美しい日本の負け犬の私たち-桶谷秀昭『日本人の遺訓』より

2010年01月18日 | 日記
以下、最近拾い読みした、桶谷秀昭『日本人の遺訓』(文春新書、2006年)より。

三島由紀夫

>また、文学者の一人は三島由紀夫の最後の行動を「病気」と言つた。するともう一人の文学者は、「あなたは日本の歴史を病気と言ふのか」と反問した。小林秀雄である。(211p)

(小林秀雄、かっこいい)

岡倉天心

>天心は大正二年、赤倉山荘において最後の病床によこたはってゐたとき、「神様、あなたのなさることは、感心できないことがある」とつぶやいたと、伝記作者の一人が語つてゐる。(161p)


(でも私は岡倉天心より、宮崎滔天が好き。「武蔵野の、花は折りたし、それかとて、アアそれかとて…」

少しでも世界をマシなものにして死にたい-内村鑑三『後世への最大遺物』より

2010年01月18日 | 宗教・スピリチュアル
以下、明治時代の戦闘的キリスト者-内村鑑三の『後世への最大遺物』(明治三十年)より

>しかしながら私にここに一つの希望がある。この世の中をズット通り過ぎて安らかに天国に往き、私の予備学校を卒業して天国なる大学校にはいってしまったならば、それでたくさんかと己れの心に問うてみると、そのときに私の心に清い欲が一つ起ってくる。すなわち私に五十年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、この楽しい社会、このわれわれを育ててくれた山、河、これらに私が何も遺さずには死んでしまいたくない、との希望が起ってくる。ドウゾ私は死んでからただに天国に往くばかりでなく、私はここに一つの何かを遺して往きたい。それで何もかならずしも後世の人が私を褒めたってくれいというのではない、私の名誉を遺したいというのではない、ただ私がドレほどこの地球を愛し、ドレだけこの世界を愛し、ドレだけ私の同胞を思ったかという記念物をこの世に置いて往きたいのである、すなわち英語でいう Memento (メメント)を残したいのである。こういう考えは美しい考えであります。

>有名なる天文学者のハーシェルが二十歳ばかりのときに彼の友人に語って「わが愛する友よ、われわれが死ぬときには、われわれが生まれたときより、世の中を少しなりともよくして往こうではないか」というた。実に美しい青年の希望ではありませんか。

以下、桶谷秀昭『日本人の遺訓』(文春新書、2006年)より

>明治三十一年の或る講演で、鑑三は、自分に悔いることが三つある、一つはこの世に生まれて来たこと、第二にアメリカへ行ったこと、第三にキリスト教を信じたことである、といつた。聴衆は、鑑三特有の諧謔をいつてゐるのだらうと思つて笑つたが、冗談ではない、本当なのだといつたとき、その語調には怒気が孕まれてゐた。就中、キリスト教は自分の心のど真中深く鋤を入れて、その感情と思想を根底からひつくり返したといふ。(143p)

(…内村鑑三は、日露戦争の時に非戦論を唱えて「万朝報」を退社することになる。しかし、次のようなエピソードも。)

>日露戦争の緒戦の勝利に、彼は隣り近所にきこえる大声で万歳を唱へずにゐられない人間だった。(145p)



「永遠に超えんとするもの」-芥川龍之介『西方の人』より

2010年01月18日 | 宗教・スピリチュアル
芥川龍之介の「漠然とした不安」(抽象的な苦しみ)なんて今や、帝大出の文学者の特権というより、そこらへんの「ふつうの人」でもわかるような苦悩になってしまった。昔は1万人に1人、今は100人に1人、みたいな。

私が好きなのは、キリストについて書かれた『西方の人』というアフォリズム。
「頑丈に出来た腰掛け」に感じられる「多少のマリア」だって。
これを読むと芥川は詩人だなと思う。

以下、芥川龍之介『西方の人』(昭和二年)より抜粋

マリア

>我々はあらゆる女人の中に多少のマリアを感じるであらう。同時に又あらゆる男子の中にも――。いや、我々は炉に燃える火や畠の野菜や素焼きの瓶(かめ)や巌畳(がんでふ)に出来た腰かけの中にも多少のマリアを感じるであらう。マリアは「永遠に女性なるもの」ではない。唯「永遠に守らんとするもの」である。


聖霊

>我々は風や旗の中にも多少の聖霊を感じるであらう。聖霊は必ずしも「聖なるもの」ではない。唯「永遠に超えんとするもの」である。


クリスト教

>クリスト教はクリスト自身も実行することの出来なかつた、逆説の多い詩的宗教である。

>石鹸の匂のする薔薇の花に満ちたクリスト教の天国はいつか空中に消えてしまつた。が、我々はその代りに幾つかの天国を造り出してゐる。クリストは我々に天国に対する惝怳(しやうけい)を呼び起した第一人だつた。

>我々はいつもクリストの中に我々の求めてゐるものを、――我々を無限の道へ駆りやる喇叭(らつぱ)の声を感じるであらう。


東方の人

>ニイチエは宗教を「衛生学」と呼んだ。それは宗教ばかりではない。道徳や経済も「衛生学」である。それ等は我々におのづから死ぬまで健康を保たせるであらう。「東方の人」はこの「衛生学」を大抵涅槃(ねはん)の上に立てようとした。老子は時々無何有(むかいう)の郷に仏陀(ぶつだ)と挨拶をかはせてゐる。しかし我々は皮膚の色のやうにはつきりと東西を分(わか)つてゐない。クリストの、――或はクリストたちの一生の我々を動かすのはこの為である。

>「古来英雄の士、悉(ことごと)く山阿(さんあ)に帰す」の歌はいつも我々に伝はりつづけた。が、「天国は近づけり」の声もやはり我々を立たせずにはゐない。老子はそこに年少の孔子と、――或は支那のクリストと問答してゐる。野蛮な人生はクリストたちをいつも多少は苦しませるであらう。太平の艸木(さうもく)となることを願つた「東方の人」たちもこの例に洩れない。クリストは「狐は穴あり。空の鳥は巣あり。然れども人の子は枕する所なし」と言つた。彼の言葉は恐らくは彼自身も意識しなかつた、恐しい事実を孕(はら)んでゐる。我々は狐や鳥になる外は容易に塒(ねぐら)の見つかるものではない。

秋葉原事件と承認問題-宮本太郎『生活保障』より

2010年01月16日 | 労働・福祉
私は基本的に、若者の「労働」の問題と、若者の「承認」の問題はゴッチャにしないほうがよい、と考えています。
生きていく上で、「承認されないのが当たり前」という覚悟のほうが大事だと思うから。
そもそも「承認」問題に関し、政府の政策に期待しすぎるのは危険です。

それに私は、洋泉社ムック『アキバ通り魔事件をどう読むか?』(2008年)で東浩紀氏が述べていたように、今の若者の「生き難さ」には、政治や経済の状況といったわかりやすい話とは別に、「抽象的な苦しみ」が含まれているように感じていますので、「いい政治」によって労働や雇用の条件がよくなったからといって、われわれの「実存的な痛み」がなくなるわけはない、と思ってます。

拙ブログで「労働・福祉」カテゴリーと「宗教・スピリチュアル」カテゴリーを分けて設けているのは、一つにはそういう意図があります。(時々わざと混ぜこぜにして読者を混乱させようとすることもしますが)

仏教用語で言うと、「世俗諦」と「勝義諦」の区別に近いものがあります。

しかしやはり「承認問題」は、現代の若い世代にとっては切実な問題であるかもしれないので、宮本太郎『生活保障』に、労働の問題とからめて「承認」の問題について論じている部分があるので、引用しておきます。


以下、宮本太郎『生活保障』第2章第3節 「生きる場」の喪失 より


…2008 年6月の秋葉原における殺傷事件は、「生きる場」からほぼ完全に閉め出された若者による凶行であった。第一章でも触れたこの事件を、もう少し掘り下げておこう。事件の容疑者が、事件の前にインターネットの掲示板に書き込んだメッセージは、自分が何者でもない、という狂おしいまでの虚無感に満ちていた。たとえば、事件から三ヶ月ほど前、2月27日に容疑者が記したと思われる書き込みは以下であった。

「負け組は生まれながらにして負け組なのです まずそれに気付きましょう そして受け入れましょう」

… 容疑者が自己の存在を徹底して否定的にとらえるこの言説を、いささか唐突かもしれないが、1970年代半ばのイギリスの地方都市、ハマータウンの若者たちの発言と対照してみたい。イギリスの社会学者ポール・ウィリスによる『ハマータウンの野郎ども』は、21世紀初頭の日本と同様に、あるいはそれ以上にはっきりした格差社会のなかで生きる若者たちの言説を記録したルポルタージュである。そこでの若者たちは、秋葉原事件の容疑者と同じく社会的上昇の可能性をほとんど喪失している。にもかかわらず、彼らの自己肯定感は、対極的なまでに強いのである。

「連中よりもおれたちのほうが世の中を知っているよ。(中略)あいつら、数学や理科や国語では頭がいいよ。そりゃ認めるね。でも生き方についちゃ、まるでパーだよ。おれから見りゃ、負け犬だな。」
(57p-59p)

…このルポルタージュは、人々の生活を支えるものが、所得の保障のみならず、相互承認の場の存在であることを明らかにしている。逆に秋葉原事件は、所得ばかりではなく相互承認の場を喪失したときに、人々が追い込まれかねない状況を示唆する。(60p)

…アメリカの政治学者ナンシー・フレイザーは、福祉政策における承認という問題を重視し、福祉国家の役割を「再分配」と「承認」の二つに分けて論じて議論を呼んだ。(62p)

…このような、ライフスタイルをめぐる承認問題は、これからの生活保障が取り組むべき重要な課題である。(63p)

… 実は、同じく承認の問題を論じながらも、ドイツの社会哲学者アクセル・ホネットは、承認をマイノリティ集団の問題としてとらえて再分配に対立させるフレーザーに反対する。ホネットによれば、承認はもっと個人の次元の問題であり、社会とつながっていく上で、マイノリティ集団ならずとも誰もが必要とする事柄なのである。(63p)

…秋葉原事件などが象徴する日本の状況は、このホネットの議論のほうにリアリティを感じさせるのではないか。

… 事件の容疑者はマイノリティ集団に属するわけではないが、自らについて、派遣労働者として業績達成の機会を阻まれた「要らない人間」であり、「三流短大卒」などの属性から恋愛関係から疎外されており、ウェブの世界だけが「私の唯一の居場所」であると考えていた。さらには、雇用関係から簡単に放り出されることに異議を唱えることができる権利主体という意識もなかった。こうして徹底して「生きる場」を喪失した容疑者が直面したのは、他者からの承認を媒介した自己承認への飢餓感であった。

…この承認という問題を考えていくと、社会保障や福祉のあり方をめぐる議論が、なぜ貧困そのものより、「社会的包摂」(ソーシャル・インクルージョン)の問題として論じられるようになったか、ということも理解できる。

… 社会的包摂とは、EUの社会政策ではもっとも基軸的なコンセプトとなっている言葉で、さまざまな貧困、失業、差別などにかかわって社会から排除されている人々を、社会の相互的な関係のなかに引き入れていくことを目指す考え方である。相互的な関係とは具体的に何を意味するかというと、それは政治的立場によっても異なってくる。失業者を就労させることに留まることもあれば、あるいは職業訓練や所得保障など、より包括的な支援をおこなうことを強調する場合もある。地域コミュニティなどへの参加を重視する場合もある。この幅の広さゆえに、EUのなかでは多様な政治勢力がこの言葉を異なったニュアンスで使うことになる。

…このように強調点の相違があるとはいえ、人々が具体的な社会関係のなかで自立することが大切である、という考え方が広く共有されていることは強調に値する。経済的な貧困だけではなく、「生きる場」を失っていることが人々を苦境に陥れ、貧困からの脱却それ自体を困難にする。社会的包摂とは、「再分配」と「承認」の総合として理解されるべきなのであり、それゆえに分断社会への処方箋となっているのである。(64p-65p)


関連記事:「社会保障」も、昭和の妖怪・岸信介が基礎をつくった-宮本太郎『福祉政治』より 2010年01月19日
(→宮本太郎氏の著作から、岸信介と皆年金制度の関わりを描いた箇所を抜粋しています。)
関連記事:スウェーデン政治家の「ヴィルトゥ(力量)」-宮本太郎『福祉国家という戦略』より 2010年01月24日
(→宮本太郎氏の歴史研究への態度と、スウェーデン政治の生々しい一シーンを紹介しています。)

「保守」は本来、社会の「綻び」に敏感なはず-宮本太郎『生活保障』より

2010年01月16日 | 労働・福祉
前項の記事で「自民党よ、頑張って欲しい」と保守派にエールを送ったつもりだが、最近の岩波新書、たとえば宮本太郎氏の『生活保障 排除しない社会へ』は、保守派を自認する方たちが読んでも決して損はない読み物だと思う。

この本にある、宮本太郎氏の保守主義への評価を引用しておく。

… 保守主義というのは本来、人々のつながりと秩序が失われていくことに対しての危機感に支えられた思想のはずであった。その限りで筆者は、保守主義の思想には学ぶべき点が多くあると考える。本来の保守主義の思想は、道徳論だけで人々のつながりが蘇るかのような主張にいきつくとは思えない。にもかかわらず、その種の単純な主張が多い現実を見ると、むしろあまりに危機感が欠落していると言いたくなる。

…保守主義の思想が強調してきたように、人間が社会を上から自在に造形できると考えるのは間違いである。後にも触れるが、北欧のように成功した福祉国家が試みたのは、そのようなことではない。人々の現実の利害関係や感情に沿って、漸進的な改良を積み重ねてきたからこそ、北欧は安定した社会を築くことができた。しかし逆に言えば、大きな社会の変化のなかで人々のつながりを維持していくためには、社会的な支えが不可欠となるのである。(『生活保障』66p)

ただ、この節の最後のほう(68p-69p)、社会学者の見田宗介氏の「ルール圏」と「交響圏」という言葉を紹介している所などは、岩波新書の読者の「間口」を広げる上では、不要だと思った。

社会のことを考えるときに「交響圏」だなんて、高踏的すぎて、ついていけなくなる人が多くなってしまう。

もっとドチャック(土着)な感覚から離れすぎない言葉のほうがよいのだ。

せっかく岩波新書もいいところまで来ているのに、「鼻持ちならない左翼インテリ臭」はできるだけなくしていったほうがいい。

同じ理由で、この本『生活保障』で一度だけ、著者が「小泉の言うとおりなのである。」(51p)と、小泉元首相を「呼び捨て」にする箇所があるが、ここはちょっと嫌だなと思った。

世間一般の人に訴えかけようと思っている学者ならば、公的な場で、「小泉」とか「コイズミ」などと呼び捨てにして、かつての一国の総理を「忌まわしいもの」を扱うような態度を取ることは慎まなければならないと思う。

たとえば宮本太郎氏の友人であるらしい政治学者の山口二郎氏に、私は時々「そういう雰囲気」を感じることがあるのでちょっと心配した。

関連記事:ハローワークの「ワン・ストップ・サービス」はいいと思った。でも現場は… 2009年12月21日
(→ハローワークの機能向上や、現在の民主党政府の自殺対策について少し触れています。私は、自民党-保守系の政治家の方達が、この10年ほど、「自殺対策」について具体的な方策を練ることにあまり時間をかけて下さらなかったことを、「保守」感覚の衰退の象徴、として残念に思っています。)

自民党は自民党のままで、「保守の新生」を心掛けてほしい

2010年01月16日 | 政治・民主党
「みんなの党は政界再編の受け皿になるか」池田信夫blog 2010年01月14日
…鳩山政権が政権末期の様相を呈し、自民党もわけのわからない復古政党になろうとしている今、みんなの党の存在感が高まっている。著者(渡辺喜美代表)も『文藝春秋』で、中川秀直氏に「新旧分離」によって自民党を「清算会社」にしようと呼びかけていた。河野太郎氏は今のところ、みんなの党に合流する気はないようだが、このまま参院選に突入すると、自民党の惨敗は必至だから、みんなの党が「存続会社」として政界再編の受け皿になる可能性もある。…

と、池田氏は書くのだが、「みんなの党」ってそんなに存在感あったかなぁ。私は、自民党は自民党のままで、「保守の新生」を心掛けてほしいと思っているのだが、政治家自身がやる気を失っているのかもしれない。河野太郎氏のブログを読むと、やはり保守系の政治家のなかには、自民党で頑張ろうという気が最早失せてきている人がいるらしい。そういう人は、いちどは「みんなの党」に行くことも考えてみるのだが、河野氏によると「比例復活の議員はその任期期間中は既存の政党には移ることができない」というルールがあって、それで「みんなの党」には行けないから、とりあえず「新党」を結成しよう、と思いついたりするのだそうだ。何だか、情けない話だ

「みんなの党が増えないわけ」 河野太郎ブログごまめの歯ぎしり 2010年1月15日
…ある先輩議員と長ーい電話。総裁選挙で谷垣選対の一員で、推薦人にもなっていたんじゃないかな。自民党はもう立て直せないから新党を考えよう、といきなり言われる。思わず目が点。じゃみんなの党に行ったらどうですかと言ったら、僕は比例復活だから既存の党にはいけないんだよ、でも、新しい党を作ればそこには移れる。目から鱗。そうだ、比例復活の議員はその任期期間中は既存の政党には移ることができないんだ。だからなかなかみんなの党に行こうという議員が増えないのか。…

次に紹介するのは、自民党の若手議員の山本一太氏のブログで、河野氏と親しい山本一太氏も、ここで「新党結成」と「比例復活の議員」について書いている。「前回の衆議院選挙で自民党が得た119議席のうち、選挙区で当選したのは60数名」くらいだったという。これは、残りの50名くらいは「比例復活で当選した議員」だ、と考えてよいのかな? 私には、選挙の仕組みがよくわからないけど。だとしたら、そういう議員さんたちはそりゃ不安になるだろうな…。

「山本一太が組みたいと思う政治家」山本一太の「気分はいつも直滑降」2010年1月16日
…前回の衆院選挙の前もそうだった。 選挙の弱い政治家ほど、「新党、新党!」と言う傾向がある。
…選挙区の当選と、比例復活の当選は違う。比例復活の議員バッジは「半分」に切って渡したほうがいい!(笑)前回の衆議院選挙で自民党が得た119議席のうち、選挙区で当選したのは60数名(?)だった記憶がある。 つまり、これが自民党の本当の実力だ。…

さらに山本氏は、参院選以降は、自分もどういう決断をするかはわからない…と、選挙後の「新党結成」を匂わせるような書き方をしている。「保守」がこんなに不安定なままで、日本は大丈夫なのかな?

「中曽根弘文後援会、14年ぶりの挨拶」山本一太の「気分はいつも直滑降」2010年1月16日:パート4
…最近、若手の支援グループから、「山本一太は離党して、仲間と新党を作ったほうがいい!」と言われていることを話した。「私は自民党に残って、党を立て直すことに力を注ぎたいと思ってるんです!」と言うと、ある幹部が言った。 「一太さん、とにかく夏の参議院選挙までは、本気でやったほうがいい!でも、そこで自民党が惨敗するようなら...」 この部分は、書かないようにしよう。(笑)…

このような自民党周辺の「政界再編」の動きに対し、「愛国者」「保守」の立場から、「それでは民主党に続く、幼稚な"お試し政権"になってしまうだけだ。魔法に惑わされてはならない」、と警鐘を鳴らしている方もおられる。私が「政界再編」で検索して見つけたこのブログは、「保守派」を自認する人たちにこそ「よく考へて頂きたい。」と訴えている。“積み重ねを厭ひ、性急に結果を求めることこそ「保守精神」に最も反するものである。”と、「真髄」に注意を促している。

旧仮名遣いで書かれている文章なので、若い人たちの中には違和感を感じる人も多いだろうが、私は学生時代に保田與重郎や、桶谷秀昭氏の文章を愛読していた時期もあり、これくらいのディープさは全然「平気」である。(別にいばることではない)

魔法の言葉「政界再編」に騙されるな! Part.1~4「夕刻の備忘録」2010年1月11-14日

…魔法の言葉、四文字言葉に踊らされたのが昨年の選挙であつた。「政権交代」といふ呪文は誠に効果抜群であり、多くの日本人の脳を「思考停止状態」に追ひ込んだ。悪徳政治家は、そしてマスコミは、次なる手品の種を求めてゐる。如何にして国民を「考へさせずに投票させる」か。この一点に絞つて、計画を練つてゐる。

…そこで今夏の参議院選挙において、広く使はれるであらう四文字を予言しておく。「政界再編」が次の魔法の言葉である。特に衆議院も含めた同日選挙ともなれば、必ずこの言葉が五月蠅いほどに叫ばれる。

…客観的に見て、自民党にも信頼出来る議員は多くはない。民主党に至つては限り無くゼロに近い。この両者から掬い上げて、「健全党」と「ゴミ党」に分ければいい、或ひは「愛国党」と「売国党」に分ければいいといふ話であろうが、世の中そんなに簡単ではないのである。「ガラガラ」は結構だが、何処に「ポン」と何かが生まれ出る保証があるのか。「ガラガラ・ガシャン」で全てを失ふ確率の方が遙かに高いのではないか。何しろ再編後の筋の通つた構図を描ける人間は誰一人ゐないのであるから。

…二代続けて「お試し政権」が日本の国政を担ふことは、内政・外交の両面において、現在以上の禍根を残す可能性が極めて高い。政策よりは政局、即ち権力闘争が一層激しくなり、国の舵取りが益々難しくなる。従つて、中期的な国益を考へた場合、一旦自民党を軸とした「国際的にも信頼のある政権」を誕生させて、その後、内部の改革を進めさせながら、次なる機会へと準備を重ねるのが穏当である。これを「月並み」であるとか、「後ろ向き」であるとか、否定的に考へてはならない。今してゐる我慢を、「僅かに明るい気分で」もう少し続けやうといふことである。特に「保守派」を自認する方には、よく考へて頂きたい。積み重ねを厭ひ、性急に結果を求めることこそ、「保守精神」に最も反するものであることを。

…非常に現実的な見方をすれば、誠に残念ながらと云ふしかないが、我が国において政権担当能力を有する政党は「自由民主党」以外には無いのである。この点を是非真剣に考へて頂きたい。「政権交代」で騙された人々が、再び「政界再編」で騙されることがないやうに御願いしたい。

…山崎拓が民主党から立候補すれば、それは政界再編の狼煙なのか。自民党では黒かつた烏が、民主党に入れば白くなるのか。新党から出れば、旧弊な既存政党と決別した正義の闘士に生まれ変はれるのか。かうした馬鹿馬鹿しいことを、アッサリと許してしまふのが、「魔法の言葉」の魔法たる所以である。…

原口総務大臣のクロスオーナーシップ禁止発言

2010年01月16日 | 政治・民主党

総務相が新聞社の放送局への出資禁止を明言「ビデオニュース・オン・ディマンド 」(2010年01月14日)


…原口一博総務相は14日の外国特派員協会での講演の中で、現在のメディア集中排除原則を改正し、新聞社のテレビ局への出資を禁止する法案を国会に提出する意思を表明した。…

…「クロスメディアの禁止、つまり、プレスと放送が密接に結びついて言論を一色にしてしまえば、そこには多様性も民主主義の基である批判も生まれないわけであります。これを、法文化したいと考えています。」原口氏はこのように語り、マスメディア集中排除原則を法案として提出する意向を明らかにした。…

ジャーナリストの上杉隆氏は、この報道に対し、

「原口総務大臣、遂にルビコンを渡る。」(上杉隆ツイッター 2010年1月14日)

とつぶやいた。

ジャーナリストの神保哲生氏によると、

>すべての報道を見たわけではありませんが、今のところ昨日の原口大臣のクロスオーナーシップ禁止発言を主要メディアは見事なまでに黙殺してますね。同じ講演 で出た外国人参政権問題への言及や5日のキー局の地方局への出資規制緩和のニュースはどこも記事にしているというのに…。
> more voices(言論・情報の多様化)の喪失、少数メディアの強大化、新規参入の制約、メディア内の相互批判能力の喪失。これが多くの国でクロスオーナー シップが禁止されり制限されている根拠です。今回の原口発言の報じられ方(報じられない方!)はまさにそれを立証している?」
>原口大臣のクロスオーナーシップ禁止発言について。「そんなことできっこないから、どこも報じてないんだよ。」友人のテレビ局幹部が(多分)親切心から解説してくれました。ありがとう。何と香ばしい。いろいろな香りがする発言でした。
>昨日のビデオニュースの報道に対して、原口さんテレビに出られなくなって選挙に落ちるよとか、原口さん死なないでなんてコメントまで届く始末。同じ日に検察 を真っ向批判した郷原さんについてはそんなこと誰も言ってこなかった。どうやら日本ではメディアは検察権力よりも怖い存在となっているようだ。(以上、神保哲生氏のツイッター 2010年1月14日より)

次の日、原口大臣は記者会見で、「クロスメディア禁止の法制化の発言について、ほとんどの主要メディアでは報じられていないようなのですが」という質問に対し、

原口総務大臣 「それは主要メディアの方に聞いてください。クロスメディア、これは何かというと、一つの大きな資本体がテレビも取るわ、新聞も取るわ、ラジオも取るわと、そして言論が一色になるということは、これは皆さんジャーナリズムの世界ではあってはならないということだとされているわけです。そして、いろいろな国が出資規制を置いている。そのことについて私たちもしっかりと、これは国会でも御議論いただいていることでありまして、その議論を踏まえた一定の結論を出していきたい、それを言っただけです。主要メディアが報じなかったどうかというのは、私のコメントできるところではありません。」(総務省HP「原口総務大臣閣議後記者会見の概要 1月15日」

と答えている。

テレビ、新聞は今、小沢幹事長・秘書逮捕のニュースで一色になっている。


関連記事:宮本太郎氏の「官僚主導の三重構造」-原口一博氏ツイッターより 2010年01月13日
(→クロスメディア問題とは関係ありませんが、原口氏のツイッターの感想があります。)
関連記事:NYタイムズが日本の検察を批判?-英語の記事を読んで一部訳してみた 2010年01月21日

八代尚宏氏の『雇用改革の時代』を読むーホントに、雇用問題って難しいなあ…

2010年01月15日 | 労働・福祉
雇用問題、労働問題についてもう少し考えようと思って、図書館で八代尚宏氏の近著『労働市場改革の経済学』を読もうとしたのだけど、私の家の近くの市立図書館では、この本は既に「予約」が2、3人詰まっており、今すぐには借り出せなかった。

仕方なく、ちょっと古くなるが、10年前の八代尚宏『雇用改革の時代』(中公新書 1999年)という本を借り出して読んでみると、案の定、面白かった。

へー、そうなのかー、といろいろと勉強になった。

岩波新書の濱口桂一郎氏の『新しい労働社会』は、どちらかというと「労働法」の用語を使って雇用問題が語られていたが、八代尚宏氏の『雇用改革の時代』は、主に「経済学」の用語を使っているので、文章の「歯切れ」がよい。

「machineryの日々」2009年12月26日 の記事に「労働」という言葉を使う人と、「経済」という言葉を使う人との対立が示されていたが、この対比を使えば、どっちかというと濱口氏は「労働」の人で、八代氏は「経済」の人になるだろう。

わたしが、やっぱり学者ってカッコいいな、と思うのは、たとえばこの本では八代氏が「男女間の賃金格差はなぜ生まれるのか」の説明をしている箇所を読んでいる時だ。「それは日本の男根主義者たちに根強く残っている封建主義的な女性蔑視観によるもので…」といった説明はしない。たしかに日本に男女差別が強いのは事実だけど、そこに行く前に、経済学的視点からワンクッション置いてみる。

>こうした男女間の職種の違いを、日本の大企業を中心に残っている結婚退職や既婚女性の採用制限等、人事管理の特殊性によるものとする見方がある。しかし、それでは、なぜ差別的な慣習が、とくに日本で根強いのかという点についての説明が必要となる。これは、「企業が真に利益を追求する行動を取っていれば、本来、雇用差別は存在しえない」(フリードマン)からである。(『雇用改革の時代』142p)

>そこで競争的な市場の下でも男女間の大幅な賃金格差が持続することの説明要因としては、企業内訓練を極度に重視する日本的雇用慣行があげられる。(143p)

…出ましたね。「企業内訓練を極度に重視する日本的雇用慣行」。濱口氏の『新しい労働社会』でも説明されていた、日本のメンバーシップ型の雇用契約から派生する雇用慣行。

>同じ仕事能力を持つ女性の従業員を差別すれば、会社側にとっても「差別のコスト」がかかる。しかしその例外は、労働者の仕事能力自体が、企業内の訓練を通じて形成される場合である。この場合、労働者をどのポストに配置するかは、経営者側の恣意的な判断に委ねられる。このため、平均して結婚や出産、夫の転勤等の非経済的な事情で退職するリスクの大きな女性は、相対的に貴重な企業内訓練の機会を配分されにくい。これは個々の従業員の能力や意欲をあらかじめ知ることは困難(情報の非対称性の制約)な状況では、女性というひとつの集団の平均的に高い離職率という特性を、個々の雇用者について機械的に当てはめる「統計的差別」の行動である。(143p-144p)

…「統計的差別」か、なるほど、と思った。「情報の非対称性」があるから雇う側もおっかなびっくりで、だから女性を「統計的に」差別せざるをえない。

>仮に、労働者が自らの負担で教育・訓練を受ける大学などの教育機関で熟練が形成される場合には、こうした要因に基づく男女間の格差は小さくなる。男女を問わず企業内訓練の比重が小さく、自己負担の教育や他の企業での職務経験を通じて技能を形成する米国のホワイトカラーの場合には、女性にとって幹部ポストへの登用機会も相対的に多く、賃金格差も小さいことになる。男女間の雇用・賃金格差は、どこの国でも存在するが、それが日本でとくに大きいことは、企業内訓練を重視する日本的雇用慣行の下で、性別や学歴による差別の要因が働きやすいためと考えられる。(『雇用改革の時代』144p-145p)

…こうして、ぐるぐると悪循環がはじまるわけだ。性別差別や学歴差別の。

そして、この男女の雇用問題に関する文章の最後に、八代氏はこう書く。

>共働き家族は、今後の低成長の社会では、リストラにも強く、また一方が生活費を稼ぐうちに、他方が個人の能力のグレードアップのため、自費での教育・訓練を行うこともできる。女性が働きやすい社会は、多くの男性にとっても同様に、選択肢の多い、働きやすいものとなる。(163p)

…最後の「女性が働きやすい社会は、多くの男性にとっても同様に、選択肢の多い、働きやすいものとなる。」というのには私も同意。

話は飛ぶが、同じように、「外国人が働きやすい社会は、多くの日本人にとっても同様に、選択肢の多い、働きやすいものとなる」から、外国人労働者をもっと増やして、外国人の労働環境を改善していってほしいと思うことがある。

さらに、リチャード・フロリダの本によれば、ゲイ(同性愛者)にとって住みやすい街は、若い女性や年寄りの夫婦たちにとっても同様に、住みやすい街となる。したがってゲイにとって住みやすい街は、有能な人材が集まり、産業が発展し、経済力が強くなるのだそうだ。資本主義を強くするためにも、女性や外国人、同性愛者たちが働きやすく住みやすい環境を作ることが、大事なのだ。

…このように私は八代氏の本を読んで感銘を受けたのだが、いまブログ検索で八代尚宏氏の名前をちょっと調べてみると、この人は「労働ビッグバン」を推進しようとした新自由主義者の「悪の権化」みたいな存在として、いろいろな人に罵倒されてきたようだ。

「えー、なんでー?」と私は思う。

自民党・小泉路線を批判するような「左」っぽい人の中でも、私が読んだ中では、たとえば「市役所の職員で、組合の委員長」をやっているという方が、3年ほど前に書かれていた『公務員のためいき』 2007年2月12日 八代尚宏教授の発言 Part2という文章などは「穏当」だと感じられた。

この記事には八代氏の著作に対して次のようなコメントがある。すごく「まとも」だと感じられる。

>1年ほど前、当ブログへのコメント欄で八代教授の著書「雇用改革の時代」をご紹介いただき、すぐ手に入れ目を通していました。最近、八代教授が注目を浴びるようになったため、探し出して手元に置きパラパラと頁をめくっています。1999年12月に発刊された著書ですが、八代教授の主張は現在に至るまで一貫している点がよく分かります。

>雇用の規制緩和などの是非は置いた上で、日本的雇用慣行の分析などに関して感心した覚えがありました。企業が労働者の長期雇用を保障するのは温情ではなく、企業の教育訓練投資の成果である熟練労働者を重視したものであり、年功賃金と退職金制度は熟練労働者を企業に縛りつける仕組みであると述べていました。

>八代教授は日本的雇用慣行の担ってきた役割を一定評価した上で、時代状況の変化からその見直しも必要であると訴えていました。要するに「雇用改革」であり、現在の政府の施策となっている「労働ビッグバン」につながっています。

>例えば経済財政諮問会議の中で、八代教授は「派遣労働者の固定化防止のために派遣期間3年の制限が必要であると言うが、その企業でもっと働きたいと思う人が法律によってクビを切られることになる」と発言しています。この発言一つとっても短絡的に判断できるものではなく、頭から否定できない問題提起を含んでいるものと感じています。

>賛否が分かれる八代教授の主張に対し、「非正規」労働者の待遇改善に向けた思いは共通する課題だと言い切れます。(以上、『公務員のためいき』より)

…どうしてこういう冷静な議論がネット上には少ないのか。

以下、今回この記事を書く際に参考にさせて頂いたブログ。

五十嵐仁の転成仁語 2008年4月10日 最賃制をめぐる「攻防」
雑種路線でいこう 2009年10月06日 人材の流動性って強引に高めるべきか
池田信夫氏 2009年11月29日 八代尚宏『労働市場改革の経済学』の書評
EU労働法政策雑記帳 2009年11月25日 8,9割までは賛成、しかし…八代尚宏『労働市場改革の経済学』をめぐって
EU労働法政策雑記帳 2008年2月27日 hamachan=八代尚宏?
EU労働法政策雑記帳 2009年9月9日 お待ちかね、労務屋さんの書評

拙ブログ内関連記事:八代尚宏氏と湯浅誠氏- 『EU労働法政策雑記帳』より 2010年01月07日