ブログ・プチパラ

未来のゴースト達のために

ブログ始めて1年未満。KY(空気読めてない)的なテーマの混淆され具合をお楽しみください。

「神無月」に「神様を意識する少年」―施川ユウキの漫画より

2010年01月28日 | 施川ユウキ
ドストエフスキーではないが、「いない」ということで意識される神の存在というのがあるらしい。

施川ユウキ『12月生まれの少年』という漫画の第①巻で、「神様を意識する少年」というのが出てくる。16ページの「神無月」と題された四コマまんがだ。
「神無月」は、「神がいなくなってしまった月」と読める。しかしその「いなくなったこと」さえ、ほとんどの人が意識していないということに、少年はある日気がついた。
しかしそのことを意識してしまった少年は、ほんの少しだけ、「神の存在」というものを意識せざるをえない。

「神無月」のネームだけ引用。
1コマ目>10月は旧暦で「神無月」と呼ばれる 10月は神様のいない月だ。
2コマ目>でもそのコトを意識してる人はあまりいない …少年のセリフ「元々 存在感 無いんだな…神!」
3コマ目>(空の下で一瞬、無言で考え込んでいる少年)
4コマ目>「うそ! ゴメンなさい!」 …少しだけ 神様の存在を意識した

関連記事:カラマーゾフの叫びは「唯一の真剣な無神論」―マクグラス『キリスト教神学入門』より 2010年01月28日 |

平和な「ドタバタ」が永遠に続く世界-施川ユウキ『サナギさん』あとがきより

2010年01月21日 | 施川ユウキ
施川ユウキのマンガとの出会い-思春期の痛々しい「ささくれ」に

ギャグ漫画家の施川ユウキの作品では、私は『がんばれ酢めし疑獄!!』や『もずく、ウォーキング!』より、『サナギさん』が好きです。

『酢めし疑獄』は初めて読んだ時、私にはむき出しの「思春期の混乱」を突然見せ付けられたような気がして、かなり引いてしまい、むしろ「嫌い」な作品でした。読んでいると、中学2年生の男の子の混乱に付き合っているような気分になり、神経がささくれ立ってくるのです。今では、もう少し冷静に読むことができるようになり、『酢めし疑獄』も「好きな作品」になっています。

『サナギさん』は、その「中学2年生的ささくれ」がようやく鎮静化し、かなり読みやすくなっています。わたしはしかし、『もずく』のほうはあまりにも「優しく甘く」なりすぎているように感じられるので、「ささくれ方」と「ちょっといい話」の配分として、『サナギさん』くらいがちょうどいい「塩梅」なのです。

ほのぼのとした日常

私は『パタリロ!』とか『今日から俺は!!』みたいな、完結した小世界の中で、平和な、かつドタバタとしたコメディが永遠に続くような漫画が好きだったのですが、『サナギさん』にもそういう「いつまでも終わらない日常」漫画として、もう少し長く続いて欲しかったです。(全6巻で完結)

作者も、

>連載を始めた時、ネタを作っていく上でぼんやりと頭に描いていたのは「日常のなんでもない一瞬を抜き出して永遠まで引き延ばした世界」だ。
(『サナギさん』第6巻の「あとがき」より)

と書いています。

今からでも遅くないから、どこかの雑誌で『サナギさん』を書き継いで『パタリロ!』くらい長く続けて欲しいと思います。

私は1976年5月生まれで、施川ユウキ氏は1977年11月生まれで、つまり「同学年」になります。施川ユウキのマンガは、読んでいると突如、私に過去の「忘れられていた感覚」が甦ることがあり、そういう「記憶の賦活」によって脳みそや身体の細胞が活性化するという効果が少なくとも私にはあります。

子供の頃の漠然とした「神様に守られてる感」

以下、施川ユウキ『サナギさん』第2巻の「あとがき」より

>子供の頃、よく近所の神社で遊んだ。『土足厳禁』の場所も靴のまま走り回った。「『土足厳禁』は大人の決めたことで、神様はむしろ無邪気に遊ぶ我々子供達を歓迎しているに違いない」と思って狛犬に登ったりもした。神様の存在を意識した上で、自分が「特別扱いされている」という根拠の無い自信を持っていたし、「子供であるが故に、自分は神様に守られている」という誰から聞いた訳でもない、都合の良い宗教観を持っていた。宗教観という言い方は大袈裟だが、宇宙人や河童と一緒で神様も「そんなカンジで、どこかにいるんじゃないだろうか」的な認識で信じ、その感覚を背景に平和でほのぼのとした日常を謳歌していた。そんな風に漠然とあった「神様に守られてる感」を失った時自分は初めて大人になったのではないだろうか、と今となっては思う。それはもちろん、「子供でなくなったから神様に守られなくなった」のではなく、「そんな都合の良い神様はいないと確信した」という意味だ。世の中は思っていた以上に殺伐とした面を持っていて、世界の全てと信じていた日常とそれは地続きだった。いつの間にか神様は消え、それを理解していた。

>この漫画は、多少毒があったり歪んだ性格のキャラが登場したりしますが、基本的に「ほのぼとした日常」を舞台に作っています。つまり、あの頃僕が信じた神様が支配している世界の話です。

(2006年3月8日 施川ユウキ)

施川ユウキ氏がツイッターを始めていた

2010年01月02日 | 施川ユウキ
私が敬愛している漫画家、施川ユウキがツイッターを始めていることを知り、少し読んでみる。

『サナギさん』などのあの四コマギャグ漫画は、どこから生まれてくるのだろう。

施川ユウキの漫画は、ノンフィクションのようで、自伝のようで、詩のようである。

ツイッター上のつぶやきも、四コマ漫画の世界と地続きだと思った。

不安とささやかな幸福感が入り混じった日常生活そのものだ。

「ハットリくん」のシンゾウのほっぺを「ヤットコ」でつねることに誰も疑問を抱かない状況への不安。

映画「グレムリン」の本筋とは関係ないところで進行するエピソードへの気懸かり。

「クソゲー」のような世の中でせつない気分になるとき、わたしは施川ユウキの漫画を読みたくなる。

以下、ツイッター上の施川ユウキ氏の言葉より

2009年12月5日の言葉
…「がんの痛み」で検索させるCMにショックを受ける。癌と死は、イメージの中で漠然と記号的に結びついてるけど、その間には「痛み」という生々しい現実が確実に存在する。…で、どう痛いんだ!?

2009年12月9日の言葉
…アマゾンから昨日ポチった「自死という生き方」が届く。送料無料にするために一緒に頼んだ本は「妻を帽子とまちがえた男」。妻の頭を帽子と間違えてかぶろうとする音楽家とか、色んな症状を抱える患者が出てくる医学エッセイらしい。こっちの方が面白そうだ。

2009年12月15日の言葉
…だが、立ち向かわなければならない。世の中もまたクソゲーだからだ。

2009年12月18日の言葉
…「ハットリくん」と言えば、「涙パワー」を使わせるためにシンゾウの頬をヤットコでつねって意図的に泣かせるという策が、何度か使われていた。繰り返され作業化してしまっているのを見て、戦慄した。

2009年12月20日の言葉
…パンクブーブー面白かった。さて、「仁」を見逃す準備でもするか。

2009年12月22日の言葉
…クリスマスと聞くと、いつも子供の頃観た「グレムリン」を思い出す。ヒロインが作中「イブに行方不明になった父が、煙突の中でサンタの格好のまま首を骨折して死んでた」っていう、トラウマ話をする。グレムリンと関係無い所での突然のショッキング展開を、受け止める準備はできてなかった。