ブログ・プチパラ

未来のゴースト達のために

ブログ始めて1年未満。KY(空気読めてない)的なテーマの混淆され具合をお楽しみください。

性懲りもなくまた何かを「はじめたい」ひとのためにー石川輝吉『カント 信じるための哲学』

2010年03月11日 | 生命・環境倫理
「ツイッター 集めて早し 最上川」ーツイッターの流れが速すぎてブログが追いつかない・・・


最近、石川輝吉『カント 信じるための哲学』を読んでけっこう感動したのだが、最近ツイッターのほうが面白くなってきてしまって、ブログ更新のほうが進まなくなってきた。

なかなか十分に整理ができそうにないので、この本や、この本に刺激されて最近、走り読みしているカント、アーレントから気になる言葉をピックアップしたものをあまり整理しないまま、以下に並べておく。

石川輝吉『カント 信じるための哲学』は、現代の「人それぞれ」の世界でどうやって「世界への信頼」を取り戻していくのか、ということについて語っている。そこでカントがヒントになるというのだ。文章は、わかりやすい。

「あとがき」に、

>最初は、わたしの青春物語やサブカルチャーからの引用も交えて、文体もやわらかい方向で書いていた。しかし、わたし自身の力不足もあり、こうした書き方でカントの哲学をあきらめることになった。

とあるのだが、もしそういうサブカルっぽい書き方だったら、私がこの本を読んで感銘を受けることもなかったかもしれないので、「よかった」と思った。この本の文体は、適度にやわらかく、適度にアカデミックで、私にとって「ちょうどよい塩梅」となっている。

カントの道徳的な人間のイメージについて、石川氏はたとえば次のようなわかりやすい比喩を使う。「ドライバー」のたとえ。

>「うれしいとも、悲しいとさえ感じず、ひたすら善いことを意志する人間」
>「むこうから逆走してくる車があるのに左側通行を守りつづけるドライバーのようだ」(145p)

わかりやすいです。


「ひとそれぞれ」「それって君の趣味でしょ」が前提となっている現代でも、もしかしたら「善いこと」「美しいこと」を語り合う価値があるかもしれない。ーカントとアーレントの現代的意義。


この本でもっとも私の関心を引いたのは、カントの『判断力批判』とアーレントの政治哲学との関わりだ。


>アーレントのカント解釈の特徴は、ひとことで言えば、カントの三批判書を意味と価値の原理として読み直している点にある。これは、物自体を不可知のものとしてではなく意味として読み、善や美といった価値の本質を他者関係のなかで深められるものとして置いた画期的な解釈だ。ここには、わたしたちがカントの哲学を現代によく生かすうえでは欠かせない原理が含まれている。(石川輝吉『カント 信じるための哲学』214p)

>アーレントは、カントによる美の道徳への方向づけ、美の善への回収、という文脈を上手にはずし、美は普遍性をめざして論争できる、とするカントの議論を政治の原理にも応用できると考えた。(219p-220p)

>善の普遍性は、あたかも幾何学の問題を解くように、ひとりでじっくり考えれば正しい答えとして見つかるとカントは考えた。ここには議論の必要もない。一方で、カントは美については、その普遍性をめぐって論争が行われるものだと考えた。だが、けっきょくは、その美の普遍性を善の普遍性でもって根拠づけてしまった。

>ようするにこうだ。アーレントは、カントが美を善に回収する一歩手前のところ、この論争ということのみに注目する。美は、善という普遍的なものの象徴だから論争されるのではなく、論争されるから普遍的なのだ。そして、善もまた、論争されることで普遍的となる。

>善と美の普遍性は、それを他者と話し合うことによってのみ確かめられるようなものなのだ。こうした「意味」をめぐって言葉を交わす場面を、アーレントは「社交性」と呼び、次のように説明している。

>>人間の社交性とは、人間は誰も一人では生きられない、という事実であり、人々は単に欲求と世話においてだけではなく、人間社会以外では機能することがない最高の能力である人間精神においても、相互依存的である。-アーレント『カント政治哲学の講義』
(220p-221p)

>まず、自分で普遍的だと思うことを言葉にしてみること。そしてそれを他者と交換してみること。そうすることで、お互いの言葉を鍛え合うこと。こうすること以外、だれも真理の立場に立つことのできない社会では、意味や価値の根拠はない。

>そもそも、社交性とは、たとえば、ジンメルがそう考えているように、自由を手に入れたと同時に孤独も手にした近代の都会に住む人びとのコミュニケーションのあり方の本質だと言える。現代のわたしたちは、〈ひとそれぞれ〉の時代に生きている。だれも真理の場所に立てないこの時代だからこそ、アーレントがカントの読みで示したように、すべてを「わたしたちにとって」、〈ひとそれぞれ〉の主観のあらわれであることを土台にして、そこからなにが普遍的かをお互いに交換しあうことの意味がある。このような言葉の営みにはまた、わたしたちの孤独を解く可能性もあるはずだ。

>そして、言葉を交わすことを通じて、この世界に自分だけでなく多くのひとの納得できる善や美がある、さまざまな価値あるよいものがある、という確信が深まることは、おそらく、この世界を信じられることに通じているはずだ。
(222p)


「社交性」と「普遍性」-アーレント『カント政治哲学の講義』より


以上、石川輝吉『カント 信じるための哲学』からの引用だが、次にアーレントの『カント政治哲学の講義』(法政大学出版局)を走り読みしてみた。

拙ブログで以前取り上げた、加藤秀一『個からはじまる生命論』で触れられていた、「多数性」という概念、「開始」という概念も、このへんと関係してくるのかもしれないと思いつつ読んだ。

>「交際は思索者にとって不可欠である」。社交性というこの概念は、『判断力批判』第一部の鍵をなす。(アーレント)

…この「社交性」という概念と関連するものとして、アーレントはカントの『永遠平和のために』の「訪問権」という条項に注目したりする。

>自然の計略や人間の単なる社交性についての従来の関心は、すっかり消え去ってしまったわけではない。しかしこれらの関心はある変化を被る、あるいはむしろ新しい予期しない定式化のもとに現われる。こうして我々は『永遠平和のために』の中に、「訪問権」を定めた奇妙な条項を見出すことになる。訪問権とは、他国を訪問する権利、厚遇の権利、そして「一時的滞在の権利」を意味する。(アーレント)

…以下、他に気になったアーレントの文章をかなり適当に抜き出しておく。

>言論及び思想の自由とは、我々が理解しているように、個人が他者を説得して自分の見解を共有させることができるようにするために、自分自身と自分の意見とを表現するという権利である。(…)この事に対するカントの見解は非常に異なっている。カントは、当の思考能力がその公共的使用に依存すると考える。「自由なかつ公開の吟味という試験」なしには、いかなる思考もいかなる意見形成も不可能である。理性は「自らを孤立させるようにではなく、他者と共同するように」出来ている。

>ヤスパースの言葉の中に、真理とは私が伝達しうるもののことである、というのがある。

>哲学的真理が持たねばならないことは、これはカントが『判断力批判』の中で趣味判断について要求したことであるが、「普遍的伝達可能性」である。「なぜなら自分の考えを相互に伝達し語ることは、とりわけ人間そのものに関わるすべての事柄については、人類の本然の使命だからである」。

>我々は批判的思考の政治的含意について論じ、そして批判的思考が伝達可能性を意味するという見解について論じていた。ところで伝達可能性は明らかに、話しかけられうる人々や、傾聴しており、また傾聴されうる人々の共同体を前提している。「なぜ人間(Man)よりもむしろ複数の人々(men)が存在するのか」という問いに対しては、人々が互いに語り合うために、とカントは答えたであろう。

>カントが語っているのは、いかにして他者を考慮に入れるかということである。活動するためにいかにして他者と結合するか、ということについてはカントは語っていない。

>『人類史の臆測的起源』の中で、「人間のために設けられた究極目的は社交性である」、とカントは述べているが、このことは社交性が文明の行程を通して追求さるべき目的であるかのような印象を与える。しかし我々がここに見出すのは、反対に、社交性は人間の人間性にとって目的ではなく、まさしく起源であるということである。つまりここに見出されるのは、人間がただこの世界に属するかぎり、社交性こそがまさしく人間の本質をなすということである。

>この理論は、人間の相互依存を必要と欠乏のために仲間に依存することであると主張するような、他の一切の理論から根本的に一線を画するものである。カントは、我々の心的能力のひとつである判断力の能力が、少なくとも他者の存在を前提する、ということを強調する。

>我々は他者の立場から思考することができる場合にのみ、自分の考えを伝達することができる。さもなければ、他者に出会うこともなければ、他者が理解する仕方で話すこともないであろう。

>我々は自分の感情や快や、利害を離れた喜びなどを伝達することによって、自分の選択を告げ、自分の仲間を選択する。「私はピュタゴラス主義者たちと共に正しくあろうとするよりは、むしろプラトンと共に間違っていようとするだろう」。結局、我々が伝達することのできる人々の範囲が広ければ広いほど、伝達する対象の価値も大きいのである。


ライプニッツもカントも「昆虫系男子」?ーカント『実践理性批判』より


ついでに、岩波文庫のカント『実践理性批判』からも抜き出しておこう。

カントは「感情」や「経験」抜きで、つまり「理性」で「道徳」や「倫理」のことを考えようとしたらしいのだが、カントを読んでいると、たとえば道徳法則への「畏敬」といったカントの生々しい感情が伝わってくる。

私は道徳や倫理といっても、「模倣」や「感情」が大事になってくると思っている。カントも、素朴で「誠実な人」を見たときの自分の感情を述べている箇所がある。昔の教育でも「感化される」というのは大事なファクターだったと思う。


岩波文庫『実践理性批判』161p-162pより。

>私は更にこう付け加えることができる、「ここにひとりの、社会的にはまことに微々たる身分の人がいる、しかし私はこの人に、私がみずから内に省みて忸怩たるほどの誠実な性格を認めている、するとーたとえば私が欲すると否とに拘らず、また私が自分の身分の優越を彼に見誤らせまいとして、いかに昂然と頭をもたげてみても、私の精神は彼の前に屈する」と。

>いったいこれはなぜだろうか。彼が身をもって示すこの実例は、私の眼前に一個の法則(誠実という)を提示する、そしてこの法則を私の行状と比べ合わせると、私の独りよがりは無残に打ちくだかれ、この法則が実際に遵奉されていること、従ってまたこの法則は実行できるものであることを事実によって証明しているような実例をまざまざと見せつけるからである。

>私を照らしているよりもいっそう純粋な光のなかへ姿を現しているこの人は、私にとってやはり一個の亀鑑となるのである。尊敬は、我々が欲すると否とに拘らず、他人の功績に対して我々が否応なしに捧げる貢物である。我々は、事と次第によっては尊敬の感情を表に現すことを差し控えるかも知れないが、しかしこれを内心に感じることをついに禁じ得ないのである。

…こういう「模倣」や「感化」というのは、「理性」ではなくて、「経験」や「感情」に根ざしたものだと思う。でも、それさえも「なぜそういう人間を見て感動してしまうのか」ということを考え出すと、カントがいう「先験的」な判断ということになるのかもしれない。

最後に、「こぼれ話」として、『実践理性批判』を走り読みしていて、「ちょっといい話だな」と思ったライプニッツの「昆虫観察」のエピソード。

313p-314pより

>自然を観察する者は、初めは彼の感官にとって嫌らしいと思われた対象でも、そのものの有機的組織のなかにすばらしい合目的性を発見して、彼の理性がかかる考察を楽しむようになると、ついにはこの対象を愛好するようになる。

>それだからライプニッツは、一匹の昆虫を顕微鏡下で丹念に観察し、それが済むとまたこの虫をそっと元の葉の上に返したのである、彼は昆虫を観察することによって教えられたことを知り、この昆虫からいわば恩恵を蒙ったからである。

ライプニッツとかカントも「昆虫系男子」だったのかなぁ…。私見だが、「きたない」に「きれい」を発見するのって、男の子によく見られる能力だと思う。女の子って「きれい」なものを「きれい」とする感受性は強いが、「芸術」や「宗教」や「科学」など、これらは「きたない」に「きれい」を発見する能力とも関係していると思うのだが、そうしたものを自力でこしらえる力が弱かった(ような気がする)。

「生物多様性」の保全の根拠って何?ー「変化するシステム」の保存 と、「おばあちゃんの知恵」の保存。

2010年03月05日 | 生命・環境倫理
2010年に名古屋でCOP10が開かれる、っていうけど、私には「生物多様性の保全」の根拠がサッパリわからない。


今年は名古屋で生物多様性条約COP10が開かれるという。

私は、「生物多様性」を保全することの根拠がよくわからなかったので、自分のツイッターで次のように呟いた。


>生物多様性保全の根拠がわからない。絶滅危惧種を守る、ということの倫理的根拠がよくわからない。(2010年2月28日)

>絶滅寸前のトキを一匹殺すことと、カラスを一匹殺すことと、どちらが倫理的に「より悪」なのだろうか?

>種の多様性の保全、っていう発想、なんか「ノアの箱舟」を思い出す。それぞれの種の「つがい」だけ救い出せば、あとの「その他大勢」の生物たちは海の藻屑となっても構わない、という…


ツイッター上での@Clunioさんからの返答ー「生態学的サービス」が根拠。また「多様性の保全」とは「変化する力」を保存することだ。


この私の呟きに対して、@Clunioさんから次のような返答を頂いた。


>合理的根拠としては人類は直接・間接的に生態系から「生態学的サービス」を受けて生存している、あるいは経済活動も「生態学的サービス」により成立していることによります RT @alsinceke: 生物多様性保全の根拠がわからない。(2010年2月28日)

…「生態学的サービス」または「生態系サービス」については、後でもう少し専門家の言葉を引用しておこう。

>種の多様性は個体群の中の遺伝子多様性によって担保されるのでひとつがいだけ救出しても無意味 RT @alsinceke: 種の多様性の保全、っていう発想、なんか「ノアの箱舟」を思い出す。

>変な話ですが、トキの絶滅は皇室祭祀を危機に陥れます。つまり日本の国家の正統原理に大きな「生態系サービス」を提供している。 RT @alsinceke: 絶滅寸前のトキを一匹殺すことと、カラスを一匹殺すことと、どちらが倫理的に「より悪」なのだろうか?

…この@Clunioさんの「トキの絶滅」「皇室祭祀」という言葉のつながりは、一見奇妙に思えるが、生物多様性の保全の根拠として、私は「共同体主義」的価値観、「保守主義」の価値観を根拠としたものがありうるかもしれない、と思っているので、この見方は、ジグソーパズルの一片として、どこかで回収できるかもしれない。

>厳密には「より多くのつがい」だけでなく、個体に共生している数多くの微生物や親から子に伝えられる「生活の知恵」も保存しないと種の多様性の保全にはなりません 。

…ここに「生活の知恵」という言葉が出てきたが、保守主義的な自然保護思想、という流れを考えれば、こうした言葉もまた合流してくることになるだろう。

…私が最近読んだ、池田清彦氏の『正義で地球は救えない』などの著作では、「生物多様性保全」の思想が批判されている。「生態系とは変化していくもの」ということを前提にすると、たしかに生物多様性保全というのが「何を守ろうとしているのか」が明確ではなくなってくる。私もそこに疑問を持った。たんに、研究者たちが自分達の研究材料を保存したがってるだけじゃないの? という疑念も生まれる。しかし@Clunioさんは、生物多様性の保全とは、「変化していく力」を保全していくことなのだ、と言う。

>変化していく力を持ったシステムそのものを変化していくまま保全していくわけですよ RT @y_mirin: これからも変化していくものを保全してどうするのかな。研究対象の保全?@Clunio RT @alsinceke: 種の多様性の保全

…「変化するシステム」を保存する、という言い方には目を開かれた。内田樹氏がよく使う言葉でいえばこれは「次数が一つ繰り上がる」ということだ。なるほど、と思った。

また、私が生物多様性の保全の「倫理的根拠」という話から始めたので、別の方からCOP10の根拠はそのようなものではない、という指摘も頂いた。

>@wata909: @Keiko_dolphin 倫理的動機から多様性を保全するのではなく,利用可能な資源を保護するための生物多様性保全というとらえ方が主だったように感じました。私もそちらの方が重要だと思います。

倫理学の言葉で言うと、これは「功利主義的な立場」だということになるだろう。そして私は、「環境倫理」と言われるものよりも、むしろそちらのほうが重要だと言いたかった。「倫理」を持ち出して、環境保護思想はアヤシクなってきた、という側面があるからだ。


「おばあちゃんの知恵」のようなものとして「自然」を守る。「共同体主義的・保守主義的」な態度がありうるんじゃないか。


なお、私が最近、時々考えることがある、「共同体主義」の価値観・「保守主義」の価値観を根拠とした「自然保護」というのは、簡単に言えば、「おばあちゃんの知恵」のようなものとして、自然を守ろう、という態度のことだ。

現在の自然保護思想において影響力があるという、レオポルドの「土地倫理」とか、「自然の権利」などのやり方は、私のような素人目に見ても、かなり危なっかしいもので、それとは別のアプローチができないものか、と考えていると、とりあえず、「共同体の倫理」というのに行き着く。(伊勢田哲治『動物からの倫理学入門』に、そのような考え方へのヒントが書かれてあった。)

「保守主義」の感覚ー「おばあちゃんの知恵」みたいなもの、「古いもの」はとりあえず残しておこう、という態度。美術品でもそうだけど、世界には何となく、よくわからないけど「残しておいたほうがいいのかな」と思えるようなものがある。

自然界には「複雑で調和のとれたもの」がある。そういう「複雑で調和のとれたもの」は、それが何かの役に立つのかどうか、どういうシステムで動いているのか、今はまだはっきりわからなくても、とりあえず将来のために残しておこう、という、いわば政治学における「保守主義」のような感覚に基づいて、自然を残しておこうという考え方がありえないかなー、といったことを考えている。

「おばあちゃんの知恵」がホントに賢い言葉なのかどうかは、科学的に「調査」してみても、よくわからない。ただ単に、そのおばあちゃんは実はちょっとボケてて、どこかで聞いた言葉を壊れたレコードのように繰り返しているだけにすぎず、別に「複雑で調和のとれたもの」がそこには全く存在していない可能性だってある。見たい人が勝手に、そこに「奥深い知恵」や「価値あるもの」を見出して喜んでいるだけなのかもしれない。しかし人間の理性では、今の段階ではそれを全くのムダだと判定することはできない。だから、とりあえず「保存」しておこう。


『現代用語の基礎知識 2010』の「生態系サービス」の説明を読むと、ワケワカラナイ。どちらかを選ぶとするなら、やはり『日本の論点 2010』の方を買いましょう。


最後に、@Clunioさんが挙げていた「生態学的サービス」だが、『現代用語の基礎知識 2010』にも「生態系サービス」について記述があったので、勉強のためにも引用しておく。

『現代用語の基礎知識 2010』の巻頭に『「生物多様性」ってなんだろう?』という特集があり、そこで、横浜国立大学・環境情報研究院教授の松田裕之氏という方が、Q&A形式で、生物多様性の保全について説明している。

松田氏によると、多様性といっても3つに分けることができて、「生態系の多様性」、「種の多様性」、「種内の遺伝的多様性」という3つの多様性が大事だという。

3つに分けたからといって、それで多様性保全の「大事さ」の説明になっているのかどうかは、よくわからない。これらをまとめて、@Clunioさんの言うように「変化する力」を保存するのが多様性保全なのだ、という言い方をしたほうが私にはわかりやすい。

以下、引用するが、困ったことに、これも私にはあまり「よい説明」だとは思えない。

「生態系サービス」って何? という質問に対し、松田裕之氏はまず「自然の恵み」と答えている。そして、今度はそれを「3つに分けて」説明し、「調整サービス」「文化サービス」「基盤サービス」という3つの「生態系サービス」があるんだよ、と言っている。なんのこっちゃ。これじゃさっきと同じで、1つの「?」を3つの「???」に分けただけで、ほとんど答えになっていないと思う。

・・・・・・・・

「Q.なぜ生物多様性が大切なのですか?」
「A. 近代文明が発達しても、私たちは多くの生活必需品を生き物から得ています。これを「生態系サービス」または自然の恵みといいます。農林水産物は人手をかけた田畑や森や海だけでなく、周囲の生態系全体の調和が大切なのです。人手をかけた自然との調和が損なわれることになるのです。」


「Q.生態系サービスとは?」
「A. 食料、木材、繊維などの供給サービス、洪水、水質汚濁、疫病などを制御する調整サービス、観光資源、祭儀などの文化サービス、これらを支える光合成などの基盤サービスに分けられます。半世紀前には世界第4位の広さを誇る湖だったアラル海は、綿花栽培の大量の灌漑用水のために枯渇し、現在では27%に縮まりました。湖の漁業は痛手を受け、広域の塩害を招きました。不適切な土地利用は湖や地形をも激変させ、結果的に調整サービスを損なったのです。」

・・・・・・・・・

(以上、『現代用語の基礎知識 2010』より。松田裕之氏の説明)


どうだろうか。あなたはこの説明で納得できただろうか。

追記:この記事を書いた後、@silasdorさんのツイッターで知った平川浩文氏の論文「歴史的価値としての生物多様性の保全」を読み始めた。まだ読んでいる途中だが、この論文に「生物多様性の保全を支える価値観は、歴史的価値観である」という言葉がある。参考になりそうな論文だ。

「障害者」という言葉についてーもともとは「身体的条件の異なる無数の人々」がいるだけ。

2010年03月05日 | 生命・環境倫理
鳩山首相の提案ー「障害者」より「チャレンジド」という言葉を使った方がいい。


鳩山首相が「障害者」という呼称に代えて、「チャレンジド」を使うようにしたらどうか、と提案しているらしい。→(「障害者」から「チャレンジド」へ 首相ご推薦の新呼称は定着するの?(サイゾー)2010年2月23日

「障害者」とは変な言い方だと、私も前から思っていたが、「チャレンジド」もどうかと思う人は多いだろう。

そもそも政策上「援助を受けるべき人」を定義するためには、人間の「線引き」は避けられそうもないので、どう言い換えたとしても、このような「変な言葉」が出てくるのは仕方のないことなのかもしれない。


私がふと思いついた「障害者」の定義ー「身体的条件の異なる無数の人々のうち、現在の経済的・社会的条件の下で、以後、経済的・社会的に不利な生活を強いられる可能性が高いことが推測される人たちのこと。」


それでは、仮に「障害者」を定義するとしたら、どう定義したらよいのだろうか。

人間はみな、それぞれの肉体的条件を負っている。

つまり、人間は「健常者」と「障害者」にスパッと分けられるわけではなく、世界には、ただ、「肉体的条件の異なる無数の人たち」が存在するだけなのだ。

しかし、時代によって「その範囲」は変化すると思われるが、そこから国の政策上、「障害者」としてくくり出される人たちがいることも事実だ。

このようなことを考え合わせてとりあえず、次のような定義になるのかなと思った。

「障害者とは、身体的条件の異なる無数の人々のうち、現在の経済的・社会的条件の下で、以後、経済的・社会的に不利な生活を強いられる可能性が高いことが、現在の医学的診断の結果等を根拠として推測される人たちのことである。」

この定義がどういうところで役に立つのかはよくわからない。

でも「障害者」という「線引き」が、いくつもの「条件」を重ね合わせた「暫定的なもの」にすぎない、という感覚を強調しているつもりだ。

臓器移植法改正ー「脳死は人の死」は欺瞞。

2010年02月19日 | 生命・環境倫理
実際には、「生命の質」と「多数の者の福利の増進」が問題になっているのに、「脳死は人の死」という定義でごまかすのは欺瞞だ。


臓器移植法が改正され、2010年7月から施行されることとなっている。

気になるのは、「脳死は人の死」という定義と「臓器移植の可否」との関係である。

ここで問われているのは、「まだ身体全部が死んでいない人」から臓器を取り出すのが、どのような条件で許されるか、ということだ。

私が一つ指摘しておきたいことは、ここでは実際には「生命の質」と「多数の者の福利の増進」が問題になっており、どのような条件で医者の意図的な「生命の停止」が許されるのか、という判断がなされているはずなのに、そのあたりを「脳死は人の死」という定義でごまかすのは欺瞞だ、ということだ。

私は、脳死は人の死ではない、と思っている。

しかし、だからといって、これだけではまだ、「臓器移植には反対」にはつながらない。

たとえば、植物人間になってしまった人間のその後の「quality of life(生命の質)」や「幸福」と、その人から臓器提供を受ければ救われる人間たちの「quality of life」や「幸福」とを比較して、条件次第では前者の「生命の停止」が肯定されることがあるかもしれない、と思っているからだ。

というか、現に今の社会は、そのような「功利主義的判断」を行っているのではないか。

脳死と判定された人から、いくつかの条件の下に臓器を移植することが可能、とされているのが現代の社会なのだから、

脳死と判定された人は、臓器移植によって助かる子どもたちの「quality of life」の増進のために、速やかな生命の停止を求められる場合がある、そのほうが社会全体の幸福にとっては望ましい、

という価値判断が、すでになされていることになるのではないか。

生命倫理学の言葉で言えば「生命の神聖性」よりも「生命の質」を優先させる考え方に移行しているということであり、これはたとえば、安楽死はある条件の下で認められる、という考え方と整合性がある。

しかし、臓器移植法に賛成する人たちも、このあたりの価値観の表明がはっきりとしないのだ。

たとえば臓器移植法は、現行法でも、2010年7月から施行される改正法でも、「脳死した者の身体」を「死体」と呼んでいる。
これは「死体」から臓器を取り出すのだから許されるはずだ、という考え方が前提になっているのだろう。

しかし私は、脳みそという臓器が死んだくらいで、人間の身体がまるごと死んでいるわけではないと考える。

「脳死は人の死」という定義でごまかすことは、単なる欺瞞なのだ。実際にやっているのは、多くの人たちの幸福の「比較考量」の上での「生命の停止」なのだ。
(「人格」があるのかどうかは定かではないが、とにもかくにも「生きているもの」を殺すことを、「殺人」と呼ばず「生命の停止」とここでは呼んでいる)

このような視点を思いついたのは、私が最近倫理学者のピーター・シンガーの『生と死の倫理』という本を読んだからだ。

以前の記事でシンガーの考え方を紹介して私はこう書いている。(「ガダラの豚」に同情するシンガーの凄さーピーター・シンガー『生と死の倫理』を読む 2010年02月16日 より)

>シンガーはこの本で「生命の神聖性」という考え方を攻撃する。
>「脳死」は人の死、という定義を行った医者たちは、死の定義をずらすことで「生きている人間から臓器を取り出すわけではない。つまり殺人を犯しているわけではない」という言い訳ができるようなった。
>シンガーによればそれは「偽装」である。
>実際には「生命の質」に基づいた判断がなされているのに、「生命の神聖性」を冒していないという偽装が行なわれている。

今回の私の記事は、この線に沿って考えてみた結果である。


「脳死が死であるかどうかはっきり言えない医師」・・・普通では?ー『日本の論点 2010』ー河野太郎氏の論文より


『日本の論点 2010』に、臓器移植法の関する論文が二本入っている。

そのうち、父・河野洋平に肝臓を移植した経験などから、先般の臓器移植法の改正にも尽力されたという「河野太郎」氏の論文で、医者や看護士など現場にいる人たちにも「脳死=人の死」には疑いがあるということを、河野氏が憂えている箇所がある。

>(…)驚いたことに、医学部、看護学部の教育が脳死を取り上げていないためか、改正案を作成するためのヒアリング中に、脳死が死であるかどうかはっきり言えない医師や看護士がいた。医療の専門家になるべき人材が、きちんとしたカリキュラムのなかで脳死についてまず教育を受ける必要性を痛感した。(『日本の論点 2010』ー河野太郎氏の論文より)

そしてこの河野氏の「脳死が死であるかどうかはっきり言えない医師」という言葉に、「編集部の注」がつけられており、

>東大医学系研究科の会田薫子特任研究員らが08年10月-09年3月に実施した全国調査(日本救急医学会に所属する医師約2800人が対象・有効回答約 930人)では、半数近くが、臓器提供とは関係なく脳死診断をしていると回答したが、このうち3分の2は「脳死と診断しても呼吸器は外さない」。対して、「呼吸器外しを選択肢としている」は全体の2%、混乱する脳死現場の実情を浮き彫りにする結果となった(日本経済新聞09年10月25日付)

とある。これは「普通」の感覚ではないか。


「脳死は人の死ではない」という日本人の感覚って「アニミズム的感性」?ー『思想地図 vol.1』ー川瀬貴也氏の論文より


しかし、諸外国の人たちがいとも容易に「脳死は人の死」という医者の判断を受け入れるという事情があるらしいので、もしかするとこれは日本人だけの感覚なのかもしれない、とも思う。


『思想地図 vol.1 特集・日本』(2008年)
の川瀬貴也氏の論文『「まつろわぬもの」としての宗教』では、一部、臓器移植問題が扱われており、そこで文化人類学者のマーガレット・ロックという人が、日本人が臓器移植に抵抗感を覚える原因の一つとして「アニミズム的感性」を挙げているらしいと知る。

ーそうかもしれない。
自分の中に、日本古来の「アニミズム的感性」みたいなものが残存していることを、私もときどき感じる。
たとえば、粘菌だって森だって「生きている」という感覚。
神社の近くの古い木を見ると思わず「敬虔」な気持ちになる。

イメージとしてすぐに思いつく例を挙げれば、南方熊楠、宮沢賢治、宮崎アニメの『隣のトトロ』、水木しげるの妖怪漫画などに通低しているあの感覚ー「目玉おやじ」はたしかに「目玉」だけど、私にはやっぱり「生きている」と感じられる。

水木しげるの漫画なんて読んでいると、「肝臓」という「臓器」が死んだ時と、「脳みそ」という「臓器」が死んだ時と、どう違うのかよくわからなくなってくる。\(^o^)/

体の一部はともかく生きているじゃないか、という感覚。

>欧米ではさほどの抵抗なく受け入れられた「脳死」という概念が日本では何故このように抵抗に遭うのか。文化人類学者のマーガレット・ロックは膨大な文献・インタビュー調査を通じた比較検討の上で、控えめではあるが、「日本人は人体解剖の歴史が浅いこと」「遺体を傷つけることを忌避してきたこと」「医者という専門家に対する敬意の度合いが欧米より低いこと」「死の社会性(死を意味づける家族の存在)を重んじること」「無機物や機械にもいのちを感じるアニミズム的な感性」などが日本における脳死概念受容の進展を妨げてきたという仮説を唱えている。(『思想地図 vol.1』ー川瀬貴也論文『「まつろわぬもの」としての宗教』より)

川瀬貴也論文は、脳死忌避と日本人の「宗教性」との関連を扱っている。

>日本人の脳死忌避の答えは容易には見つからないし、短絡的に「日本の伝統的な身体観」というものを措定して解釈することも慎まねばならないだろう。脳死という、テクノロジーによって生み出された新しい「死」の形に、受容であれ拒否であれ、明確な答えを与えてくれる「伝統」を探る試みそのものを批判する視座すらあり得るだろう。ただ言えるのは、このような「脳死・臓器移植の拒否」という事態から、日本人の「宗教性」が思いがけずあぶり出された、という事実だけである。我々はこの事実の中核にある「何か」にまだいかなる輪郭も与えてはいないが、確かに「それ」はあるのである。(川瀬貴也論文)

この川瀬貴也氏の論文がすごいと思ったのは、日本の新興宗教にも取り組んでいるところで、

>この脳死・臓器移植問題について、各教団はいかなる回答を与えてきただろうか。大雑把に言って、臓器の提供を「博愛」とか「利他行」として合理化しつつも、積極的にそれを信者に勧めることはしないという中途半端に見えるスタンスをとる教団がほとんどであると言ってよいだろう。

とあって注釈で、「大本教」や「幸福の科学」といった教団の出版物にまでチェックを入れていることがわかる。

>「脳死」を死とみなさないスタンスを最も鮮明に打ち出した教団は、大本である。人類愛善会・生命倫理問題対策会議編『異議あり!脳死・臓器移植』天声社、 1999年を参照。他に幸福の科学も独自の身体観、霊魂観から反対を表明している。大川隆法『永遠の生命の世界』幸福の科学出版、2004年、第三章を参照。ただし、幸福の科学は臓器移植に絶対反対の立場はとっておらず、霊的な苦痛を覚悟の上なら認めている。

臓器移植と「功利主義」との関係は。
臓器移植問題においても、「功利主義」の正しい理解と、「宗教性」を深めること、両方ともしっかりと考えることが必要なはずなのに、それがちゃんとなされているようには見えない。だから合理的な「功利主義」の考えを深めることもできないし、合理を超えた「宗教性」を深めることもできない。

>では、教団の特殊な語彙ではなく、例えば功利主義的な考えは訴求力を持つだろうか。もちろん、一定の訴求力を持つであろうし、現に持っているであろう。脳死臓器移植は一人の脳死体から複数の臓器を提供でき、多くの人を助けられるという点から見ても、非常に功利主義的に納得のいく話であるし、合理的とすら言えよう。しかし、その合理性に納得できないという感性を否定することはできないし、またそれを否定してはならないだろう。結局、この功利主義にある意味対抗できるのは、合理性を超越するものと見なされている「宗教性」であろう。我々は具体的な「信仰」を失ったといっても、このような場面で再び「宗教性」を召喚してしまうのである。(川瀬貴也論文より)


おまけ:大本教の出口王仁三郎のエピソードー『日本の論点 2010』ー松本健一氏の論文より


ついでに臓器移植に反対しているという「大本教」について、たまたま『日本の論点 2010』の別の論文、松本健一氏の論文に「出口王仁三郎」のエピソードが紹介されていたので少し抜粋しておく。

日本の敗戦を予言していたのは、唯物論者の中江丑吉、大本教の出口王仁三郎、2.26事件の思想的指導者とされた北一輝の三人ぐらいのものだった、という話の文脈で、以下、出口王仁三郎の予言のエピソード。

>(…)出口王仁三郎は満州事変の1931年を語呂合わせで「いくさのはじめ」と読んで好戦気分をあおりたてたジャーナリズムに対して、この年は皇紀 2591年だから語呂合わせでいえば「じごくのはじめ」じゃないか、といった。そしてその4年後の1935年、大本教本部が「不敬」を理由として爆破されると、「日本もいずれは焼野原になるんだ」、と予言した。(『日本の論点 2010』松本健一氏の論文より)

出口王仁三郎ってすごいですね。

ジャーナリズムにも「ケアの倫理」を、なんて言われてビックリー『現代用語の基礎知識 2010』より

2010年02月19日 | 生命・環境倫理
メディアの「職業倫理」として「ケアの倫理」が使えるかもしれない?


倫理学の分野において「ケアの倫理」という考え方があることを以前の記事で紹介した。(→身近な人との「触れ合い」からはじまる「ケアの倫理学」-ネル・ノディングズ『ケアリング』を読む 2010年02月13日

私自身、このように「ケアの倫理」には最近しろうと的な興味を持っただけなので、この考え方を十分に咀嚼しているわけではないのだが、たまたま、『現代用語の基礎知識 2010』を読んでいると「ケアの倫理」と「報道倫理」の関係について論じている文章があった。

林香里『「偏向報道」と「ケア」』という文章だ。

メディアの「職業倫理」として「ケアの倫理」の考え方が使えるのではないか、という内容だった。

驚いたのは、ふつう、育児や介護の分野にあてはまりそうな「ケアの倫理」が、「報道倫理」にもあてはめられるかもしれない、ということ。

そもそも「客観中立」って、一番大切にすべき「報道倫理」なのだろうか。
それよりも、一定の「偏り」を持ちながら、文脈に依存しつつ、相手にとって役に立つ情報を提供するという「ケアの倫理」こそが、報道の世界にも成り立つのではないか。林香里氏のコラムの文章を読むととりあえず想像できるのは、このような問題提起のようである。

「ケアの倫理」に基づいた報道って、具体的にどういう記事のことを指すのかは、しかしすぐには想像がつかない。
けれど、おっ、何となく面白い、と思ったので、φ(・・")メモメモ 引用しておく。

『現代用語の基礎知識 2010』・・・林香里『「偏向報道」と「ケア」』

>(林香里氏)「偏向報道」という言葉が、マスメディア批判の言葉として定着した感がある。

>それでは、そもそも偏向報道はどこまで報道の「悪」なのだろうか。「偏向」や「偏り」は、それ自体メディアの退廃や不道徳の現象形態であり、「客観中立」へと修正されなければならないと考えるべきだろうか。

>倫理学において、いわゆる自由主義的公平(正義)原則では説明しきれない、この種の文脈依存的道徳命令の体系を「ケアの倫理」と呼ぶのだが、近年これをより広く、社会の一般倫理として政治や経済の領域にも応用すべきだとする動きがある。それは、弱い立場に置かれた当事者たちのニーズを知り、それを積極的かつ優先的に充足する実践を重視するのだ。

>私は、批判が強まる一方のマスメディアにも、この「ケアの倫理」をもう一つの職業倫理として導入し、絶対的情報弱者に声を与えるプロフェッショナルとしての道を再点検してはどうかと考えている。加えて、インターネットの普及により情報検索が容易になった現在、著者の立場を不可視化し、内容を機械的に公平化した情報に価値は少ない。その代わりに、著者個人の立場性や事象の文脈性は、情報価値の重要な構成要件となりつつある。「ケアの倫理」は、デジタル情報化時代にふさわしい報道のあり方を提案する一助にもなりうるのではないか。

(以上、『現代用語の基礎知識 2010』-林香里『「偏向報道」と「ケア」』より)

関連記事:神保氏 vs 産経・読売-千葉法相の記者会見をめぐって 2010年01月21日
(→「報道倫理」ということで最近もっとも気になったのは、やはり小沢汚職問題の報道。検察・マスコミと、ネット界の言論がものすごく「割れ」ていた。)
関連記事:NYタイムズが日本の検察を批判?-英語の記事を読んで一部訳してみた 2010年01月21日
(→こういう事件があったときに、ネットの中で、たとえば内外の新聞記事を立場別にまとめたり、ある分量を超えてそれについて論じているブログをも合わせて読めるようになってほしいな、と思う)

「文化的価値」あるから「京都」に原爆を落とさなかったなんて、「はだしのゲン」が聞いたら何と言うか?

2010年02月16日 | 生命・環境倫理
戦争や原爆に「倫理」もクソもあるのだろうか。


戦争では、多くの人命が無残な形で費消されていく。

生命倫理・環境倫理学に併設される学問として、「戦争倫理学」という分野があるようだが(加藤尚武氏の『戦争倫理学』 )、原爆などというとてつもない人命損失を目の前にすると、そこには倫理もクソもなく、何だか思考停止(頭の中が真っ白)状態に陥ってしまう。

もしかすると、それでいいのかもしれないが、ここで少し考えてみよう。


三浦俊彦氏の「原爆肯定論」-『戦争論理学 あの原爆投下を考える62問』


三浦俊彦『戦争論理学 あの原爆投下を考える62問』(二見書房 2008年)は、「あの原爆は仕方がなかった。アメリカが原爆を落としたことは正しかった」ということを論証する本で、読んだ私は衝撃を受けた。原爆はOKだった、というこの本も、京都ではなく広島、というアメリカの選択はおかしい、と述べている。


アメリカの「戦後国際戦略」とスティムソン長官の「京都慕情」


「京都」は直前まで、アメリカが行う原爆投下の目標地だった。
スティムソン長官が京都原爆投下に反対したのは、表向きは戦後の国際政治でのアメリカの道義的地位を高める必要があったからだが、裏には「感傷」も含まれていた。スティムソンは戦前京都を訪れたことがあり、つまりベンチャーズの「京都慕情」のようなものがあったのかもしれない。もしかすると「舞妓さん」のイメージが京都を救ったのかもしれないと想像してみたりする。

私も京都は学生時代に過ごした「思い出」の街だ。
たとえば今居住している「大阪」と比べてみると、明らかに京都のほうが「文化」の香りが高いと思っている。(大阪の方ごめんなさい)


中岡ゲンが聞いたら怒るでしょ。


しかし、「文化的価値」が高いから「京都」に原爆を落とさなかったなんて、「はだしのゲン」のゲン少年が聞いたら何と言うか。「なんでじゃい!」と怒るのではないか。そのような恣意的な選択が、アメリカの「道義的地位」を高めるとは思えない。


アメリカ人の「戦略」と「感傷」-仲晃『黙殺』,吉田守男『京都に原爆を投下せよ』,ロナルド・シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』より


仲晃『黙殺 ポツダム宣言の真実と日本の運命(下)』(NHKブックス 2000年)に「京都が除外された本当の理由」(15p-18p)という節があるのでそこから引用する。

>(…)スティムソンの動機は、京都市民の生命というよりは、この町に残る過去の遺産を救済する(バーンスタイン)ことにあった。原爆によるこうした歴史的遺産の破壊が、日本人を憤慨させ、のちになって日本がソ連と組むようになる可能性を、この老練な政治家は懸念したのである。(17p)

>(…)7月24日「スティムソン日記」はもっと端的にこう書いている。「(…)こうした野蛮な行為によって生まれるかも知れない(日本国民の)苦々しい感情は、戦後の長期間にわたってアジア地域で、日本人たちがロシア人とではなくアメリカと和解するのを不可能にしてしまうかも知れない。われわれの政策は、ソ連が満州に侵攻した場合、日本がアメリカ寄りになることを必要としているが、こうした(京都への原爆攻撃のような)やり方は…そうしたアメリカの政策の実現を阻害する可能性がある(…)」(『黙殺』18p)

京都に原爆を落とすと、反米感情が高まり、日本がソ連と手を組む可能性があったと。

吉田守男『京都に原爆を投下せよ ウォーナー伝説の真実』(角川書店 1995年)も、京都への原爆投下の回避があったのは、アメリカの戦後国際戦略を目的としたものだった、と述べている。
しかし著者は、アメリカの「人道主義」を守るために「京都」ではなく「広島」に原爆を落とすというのはどういう神経なんだ、と当然の怒りを表明している。

>(…)スチムソンにとっては、京都への投下が「無茶な行為」に思われた。(…)しかしそれにしても、京都への投下は「無茶な行為」だが、広島や長崎ならそうではないというのはどういう判断なのであろうか。(150p)

しかしスティムソン長官には、この本や仲晃氏の言うような国際戦略のことだけではなく、「感傷」的な側面もあったようである。

ロナルド・シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか 戦略爆撃の道義的問題』(草思社 1996年)には、スティムソンが自分の部下に「京都を投下目標から外したい、だなんて、きみは私を感傷的な老人だと思うか」と尋ねた事が記されている。

スティムソンは当時70歳を超えていた。

>スティムソンは1920年代、少なくとも三回京都を訪れていた。その美しさに魅了された彼は、その文化的・宗教的重要性を認識していた。ある日、もし自分が提案されている標的リストから京都を除外したら、君は私を「感傷的な老人」と思うかとマクロイ陸軍次官補に尋ねたことがある。(203p)

>芸術家や作家たちに混じって育てられ、紳士の教育を授けられ、さらに極東旅行を体験していたために、スティムソンは日本の高度な文化に敏感になり、京都の破壊を軍事問題以上のこととしてとらえた。京都を救うために彼が提起した実際的議論はたんに合理的なものであったかもしれないが、頑固で几帳面な法律家であったスティムソンは、この件については彼自身がジョン・J・マクロイ陸軍次官補に示唆したように、感傷的な老人であったということは十分考えられる。(『アメリカの日本空襲にモラルはあったか 』235p)

これらのことを踏まえて、

『戦争論理学 あの原爆投下を考える62問』で三浦俊彦氏は、アメリカの戦後政策のためというのは「表向きの理由」で、本音は「感傷」だったのであり、そして京都には投下しないで広島には投下してよいというのは「文化差別」にすぎないという。

>ちなみに、原爆投下目標の選定に人種差別は関係していなかったとしても、「文化差別」の思惑は働いていた。第一目標だった京都が、直前になって陸軍長官スティムソンの強い反対で候補から外されたのである。京都に固執するグローブズ将軍らマンハッタン計画指導部とスティムソンとの間でかなり揉めて、ポツダムにまで説得の電報を送ってきたグローブズにスティムソンは激怒し、トルーマンに再三訴えて解決した。スティムソンの表向きの理由は「京都を破壊すると日本人に反米感情を残して戦後政策が困難になる」というものだったが、戦前に京都を訪れたことのあるスティムソンの本音は、宗教と文化の中心地を破壊するにしのびないという感傷だった。建前と本音のいずれもが、京都よりも他の候補都市のほうが政治的・文化的価値が低く、それらが核攻撃されても日本人自身にとって許容されやすいはずという差別意識にもとづいている。(『戦争論理学』37p-38p)

京都という街の「文化的価値」と、大量の人間の「生命の価値」とが計りにかけられ、前者を守ることに決定した、というのは何とも納得がいかない。


ロナルド・シェイファーの本の方が、『空の戦争史』よりも記述が分厚い。


ちなみに、田中利幸『空の戦争史』(講談社現代新書 2008年)は、無差別爆撃の歴史的背景や、その道義的責任を問うという問題意識において、ロナルド・シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか 戦略爆撃の道義的問題』(草思社 1996年)と重なっている部分があるが、私には今回、シェイファーの本のほうが有益だった。

シェイファーほうが空爆の歴史や、軍人たちの心理、無差別爆撃の道義的問題に関して「分厚い記述」を心掛けている印象を受けた。

田中『空の戦争史』は、新書という小さな本に知識が詰め込まれすぎている感じがした。ゆえに記述が堅苦しい。歴史的な記述をややマニアックに詰め込んだ後、日記や伝記などから当時の政治家や軍人たちの発言が一つか二つ抜粋される。そしてわずか二、三行で、一方的に軍人の良心的感覚の麻痺を断罪する、という形式が取られている。

分量を制限された新書という体裁上、仕方のないことなのかもしれないが、シェイファーはもうすこし丁寧に軍人達の心理に分け入っている印象があった。よって私は『空の戦争史』と比べるならば、ロナルド・シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか 戦略爆撃の道義的問題』のほうをお薦めしておきたい。


QALYという医療行為指標・幸福な「マーゴ」のエピソードー伊勢田『生命倫理学と功利主義』より

2010年02月16日 | 生命・環境倫理
伊勢田哲治・樫則章『生命倫理学と功利主義』(2006年)には、「クォーリー(QALY)」という功利主義的な医療資源の配分の仕方について論じている文章がある。

また、この本では、長岡成夫氏の論文に含まれている「マーゴ」という人のエピソードも印象深い。
両方とも引用する。
アルツハイマー患者のマーゴは、美術セラピー教室で、「同心円が四つ重なった絵」をずっと書き続けている。マーゴは、幸せに生きる生き方を知っているように見える。周りにも、幸福のいくたりかを分け与えているようにも見える。

生きていることの価値って何なのだろう。

適切な医療資源の配分のために、「生きている時間の質」を数値化する「QALY」という指標。


浅井篤氏の「QALYと医療資源配分」という論文から。

Quality-adjusted life-year(質調節生存年数)

>QALY は医療行為がもたらす効用の指標の一つで、QOL(quality of life)を考慮した生存年数の単位である。QALYでは完全に健康な状態を1、死を0とし、或る特定の医学的状態が持つ高揚を1から0の間の値で表現する。そして効用値に生存年数を掛けた値がQALY値となる。QALYを計算する際に使用される効用値は、さまざまな医学的状態のシナリオを人びとに示し回答者たちがその状態をどの程度好ましいと評価するかによって得られる。(194p)

>QALYは次のように算出される。脳出血に対する救急治療を行うと、後遺症とsちえ半身麻痺は残るが10年間生存できるとする。半身麻痺の状態のQOLが0(死)-1(完全に健康な状態)のうち0.7と評価されたとすると、脳出血のために半身麻痺で生きる状態は0.7の効用値を持つことになる。この場合QALYは0.7×10=7と計算される。この状態の人びとを 100人生存させる脳出血に対する救急治療は結果的に700QALYをもたらす。仮にこの700QALYを得るために1億円の医療費がかかったとすると、 QALY1単位あたり約14万3000円の費用ということになる。同様に内科的治療に反応しない心疾患に対する心臓移植手術は、患者を効用値が0.9と評価される状態で10年生存させることができる。このような患者を100人生存させる心臓移植手術は0.9×10×100=900QALYをもたらす。仮にこの900QALYを得るために10億円の医療費がかかったとすると、QALY1単位あたり約111万円の費用ということになる。

>脳出血に対する救急治療は心臓移植手術の約10分の1の値段(約14万3000円対111万円)で1QALYをもたらすことができる。限られた医療費のためいずれか一方にしか医療保険を適応できない場合、より多くの人びとが医療の恩恵に浴することができる配分を行う観点から前者が選ばれることになる。つまり「資源は可能な限り多くのQALYを入手できるように配分されるべきである」という考え方が、QALYに基づく医療資源配分理論の基本になる。(195p)


アルツハイマー患者のマーゴは、幸せに生きる生き方を知っている。


長岡成夫氏の論文に含まれている「マーゴのロゴ」のエピソードを紹介する。

アメリカのある若い医者がマーゴというアルツハイマーの患者に出会う。
マーゴはとても幸福そうに見えた。マーゴは、「同心円が四つ重なった絵」を書くのが好きだった。

その若い医者はマーゴを回想して「彼女の精神はその絵の中にある。自分が誰なのかを知っている。他人を自分の心の中に入れる方法を知っている。私にはそれが分かった。」と書く。


>『アメリカ医師会雑誌』は'A piece of My Mind’というコラムを設けており、1991年の或る号はそこで「マーゴのロゴ」というエッセイを掲載している。筆者ファーリックは、医学生だったときの研修の中でマーゴという患者に会った。マーゴは55歳のかなり進行したアルツハイマー患者で、家政婦の世話を受けながら自宅のアパートで生活している。徘徊を防ぐためそのアパートには各所に鍵がつけてある。ミステリー小説を読むのが好きだと言うが、順を追って読んでいるとは思えない。レコードで音楽を聴くことを好んでいるが、同じ歌を全く飽きないで熱心に聞き続けている。医学生の訪問者である筆者が訪ねてくれば、歓迎してくれて誰であるかは認識しているようだが、筆者の名前を口にしたことはない。筆者を最も困惑させたのは、その病気にもかかわらず、あるいはまさにその病気のために、マーゴが筆者の知る最も幸福な人の一人であるという点だった。「彼女の精神は衰えつつあったが、そこにはどこか優雅さがあり、そのためいつも楽しくくつろいでいられる。彼女が自分の抱える問題をどう認識していたかは分からないが、脳の悩み中枢に届いていないのは確かである。マーゴは自分というものの感覚をどのようにして保っているのか。新しい記憶を蓄積することはできなくなり、古い記憶が急速に消えていく中で、そこには何が残っているのか。マーゴとは誰なのか。」

>しかし、アルツハイマー患者のための美術セラピー教室で、マーゴが同心円が四つ重なった絵をここ5年間ずっと書き続けていたことを知る。その軟らかな色調といい、複数の円を選んでいることといい、まさにマーゴの性格を表しているものだった。「彼女は自分のアイデンティティを持ち続けていたのだ。彼女の精神はその絵の中にある。自分の精神を伝えることができるのだ。自分が誰なのかを知っている。他人を自分の心の中に入れる方法を知っている。私にはそれが分かった。どうしてそんな彼女を絶望的だと決めつけられるだろうか。」(133p-134p)


ダウン症児の将来と人生という「不安な航海」についてーシンガー『生と死の倫理』より

2010年02月16日 | 生命・環境倫理
ピーター・シンガー・樫則章訳『生と死の倫理 伝統的倫理の崩壊』(1998年,原著1994年)に、ダウン症児に関するもので、印象深い文章がある。

たとえば出生前診断で我が子が「ダウン症児」として生まれる可能性が高いとわかったら、産まないほうを選択する人もいるだろう。

このことはどう考えればよいのだろうか。

これは、今生きているダウン症の人たちが生きなくてもよい、ということを言っているわけではない。

親たちは、わたしたちの人生という「不安な航海」を目の前にして悩んでいるのだ。

>ダウン症の人たちは特有の外見をしていて、協調運動(四肢を組み合わせた複雑な運動)がうまくできず、さまざまな程度の知的障害がある。しかし、まったく痛みはなく、何度も手術を繰り返す必要もない。ダウン症の人の多くは性格が明るく、暖かみや思いやりがある。ベビー・Cやベビー・Jとは異なって、ダウン症の人たちの生命を「苦しみに満ち、その苦しみを補うだけの要素がない」と表現することはできない。それではどうしてサー・ダグラス・ブラックのようなすぐれた医師が、アーサー医師の公判で「ダウン症の子どもが生存しないようにすることは倫理にかなっている」と言うことができると思ったのだろう。(262p)

>これらの疑問に対する一つの答えがある。かつてシェイクスピアは人生を不安な航海にたとえた。私たちは親として、あるいは親になろうとする者として、自分の子どもには航海の途中で何が起こってもよいようにできるかぎり万全の備えをしてその航海に出て欲しいと思う。「自分の子ども」という表現はすでに生まれている特定の子どもだけを指す必要はない。私たちにはまだ子どもがなく、これから子どもをもとうと計画している場合でも、私たちが欲しいと思っている子どもに、人生という不安な航海にさいして幸先のよいスタートを切らせてやりたいと願うのはもっともなことである。そのほうがー広い意味でー私たちの子どものためになるだろう。しかし、私たちがダウン症の子どもを育てないことを選択するかもしれないのは、「そのほうが子ども自身のためになるから」という理由だけからではない。子どもをもつことは、私たち自身の不安な航海の中心的部分でもある。子どもが10 代になるまで、私たちはその世話をし、子どもの人生を導いていく。子どもが私たちからひとり立ちするようになっても、私たちはなお子どもを愛し、子どもの喜びと悲しみを分かち合うだろう。

>ダウン症の子どもをもてば、正常な子どもをもつこととはたいへんちがった経験をすることになる。それは暖かみのある愛情に満ちた経験でありうるが、自分の子どもの能力については多くを期待することはできない。ギターを弾いたり、SF小説を鑑賞したり、外国語を学んだり、ウディー・アレンの最新の映画について話し合ったり、バスケットボールやテニスなどの一流選手になったりするのをダウン症の子どもに期待することはできない。ダウン症であれば、成人になっても自立できないかもしれない。そしてダウン症の人が自分の子どもをもつことはあまり例のないことであって、彼らの手におえない問題を生じるかもしれない。ダウン症児の親のなかには、こうしたことをまったく問題にしない人もいる。そのような親にとっては、ダウン症の子どもを育てることはじつに多様な意味で報われる経験である。しかし、ダウン症の子どもを育てるのがたいへんな親もいるのである。

>行く末が雲に覆われていれば、「自分の子ども」のためにも、そして私たち自身のためにも、自分の子どもが人生という不安な航海に出るのを私たちは望まないかもしれない。船出の直後にこのことがわかれば、新たな出発をする機会もまだあるかもしれない。このことは、私たちとその子をすでに結びつけはじめている絆が断ち切れなくなる前に、生まれた子どもに別れて自由な身になることを意味している。もっと先に進んで、その状況を最善のものにするために精一杯の努力をするかわりに、私たちは「いやだ」と言ってはじめからやり直すこともまだできる。これこそモーリー・ピアソンが、ダウン症児を産んだと聞かされたときに「ダック、わたし、その子は欲しくない」と夫に言ったときにしたことである。(シンガー『生と死の倫理』263p-264p)

「ガダラの豚」に同情するシンガーの凄さーピーター・シンガー『生と死の倫理』を読む

2010年02月16日 | 生命・環境倫理
ピーター・シンガー・樫則章訳『生と死の倫理 伝統的倫理の崩壊』(1998年,原著1994年)を読む。

>科学技術は「それができるなら、それをしよう」という規則を作り出し、倫理学は「それをすることができるとしても、それをしてよいか」と問う。(35p)

医療の分野においても、考えるべきことは、いろいろある。
医療資源の希少性。臓器移植の必要性。
障害を持って生まれてくる子どもへの配慮。
親への配慮。


脳死問題に関してー「生命の神聖性」と「生命の質」


シンガーはこの本で「生命の神聖性」という考え方を攻撃する。
「脳死」は人の死、という定義を行った医者たちは、死の定義をずらすことで「生きている人間から臓器を取り出すわけではない。つまり殺人を犯しているわけではない」という言い訳ができるようなった。

シンガーによればそれは「偽装」である。

実際には「生命の質」に基づいた判断がなされているのに、「生命の神聖性」を冒していないという偽装が行なわれている。

必要なのは、(西洋の)伝統的な倫理について我々が「もう一度考え直す」ことである。

>ハーバード脳死委員会は主に医学の専門家から成り立っていたー(…)1968年8月、『アメリカ医師会雑誌』に報告書(『不可逆的昏睡の定義』)を発表した。(…)「われわれの第一の目的は不可逆的昏睡を死の新たな判定基準として定義することである。この定義が必要とされる理由は二つある。(1)蘇生手段および生命維持手段の改善によって、絶望的なほど損傷を受けた人々の生命を救おうとする努力がますます増大した。これらの努力も、ときには部分的にしか効を奏せず、その結果、心臓は動いているが、脳が不可逆的に損傷を受けた患者が出るようになった。知性を永久に失った患者、その家族、病院、およびこれらの昏睡状態にある患者によって必要な病院のベッドをふさがれている他の患者にもたらされる負担は甚大である。(2)死の定義の時代遅れの基準によって移植用臓器の獲得に関する論争が生じるおそれがある。

>ハーバード脳死委員会は二つの重要な問題に直面していた。回復の見込みがまったくない患者が人工呼吸器につながれていながら、誰もそのスイッチを切ろうとしない。生命を救うために使うことのできる臓器は、潜在的な臓器提供者の血液循環が止まるのを待っていれば役に立たなくなってしまう。委員会はこれら二つの問題を「脳の観察可能な活動が止まった人を死者の側に分類する」という大胆な方便によって解決しようとしたのである。この死の再定義は、その結果が望ましいものであることが明らかだったので、反対論にあうことはほとんどなく、たいていどこででも認められた。それにもかかわらず、それは初めからまちがっていたのである。定義し直すことで問題を解決しようとしてもめったにうまくいくものではない。そして、この場合も例外ではなかった。(シンガー『生と死の倫理』72p)

こと、「倫理的」な問題に関しては、どんな発言であっても「ロジカル」に「首尾一貫」しているから正しい、とまでは言えない。「歴史」や「感情」を考慮に入れると「論理的・首尾一貫性」が保てなくなる可能性もある。

しかし、それでもピーター・シンガーの「論理的一貫性」は私にとってはインパクトが強く、われわれの無反省な倫理的・慣習的思考を厳しく批判にさらす効果がある。


なぜ「人間」の生命だけが擁護されるのか。


たとえば、ベジタリアンのシンガーからすれば、無条件で中絶に反対する「生命擁護派」は、そもそも名前が不正確である。人間以外の動物の「生命」は尊重していないわけであるから。

>中絶反対運動を「生命擁護派」と表現することは、中絶の合法性を唱える人たちを「選択擁護派」と表現することとまったく同じくらい誤解を招きやすい、ということである。生命擁護運動のなかには菜食主義の人がほとんどいない。この運動に参加しているほとんどの人たちは、人間と人間以外の動物の間にはっきり線を引いている。彼らは人間の生命を守りたいと思っているのであって、食事をとるときはいつも動物を殺すことに賛成しているのである。したがって、生命擁護運動は自らを「人命の擁護派」と呼ぶべきなのである。しかし、それでもまだ不十分である。というのは、この運動は戦争における殺人や死刑制度には反対していないからである。したがって、「罪のない人間の生命の擁護派」のほうが適切である。ところが、これでさえまだ十分ではない。なぜなら、世界の貧しい地域の子どもたちが栄養不良や予防可能な病気のために死ぬことがないようにするほうがー中絶と戦うことよりもー罪のない人間の生命を救うためのはるかに確実で有効な方法であるにもかかわらず、この運動はそのための活動を何一つしていないからである。(114p-115p)


カトリックには昔、「赤ちゃんがお腹を蹴ったとき」を「生命の始まり」とみなす考え方もあったートマス・アクィナスの「胎動初感」説


カトリックの考え方も批判にさらされる。
しかし昔からカトリックが「受胎の瞬間」を「生命の始まり」とみなしていたわけではない、とシンガーは指摘する。

たとえばこの本で紹介されている、トマス・アクィナスの「胎動初感」説。

「ケアの倫理学」のノディングズなら何と言うだろうかと思った。
アクィナスが言う「体内で胎児が動くのを妊婦が初めて感じるとき」というのは、ノディングズが重視している「出会い」や対話が始まる瞬間ではないだろうか。

>リベラル・カトリックの人たちはカトリック教会の教えを緩和しようとして、しばしば次のような指摘をしている。すなわり、トマス・アクィナスのような中世のキリスト教哲学者たちの主張によれば、胚や胎児は「胎動初感」のさいに霊魂が宿るまで「形相を与えられていない(アンフォームド)」ので、自ら動くことはできないー「胎動初感」とは、体内で胎児が動くのを妊婦が初めて感じるときである。アクィナスは、これが起こるのは男の胎児の場合、受胎から40日後、女の胎児の場合、受胎から80日後であると信じていた。胎動初感以前の胎児の成長について科学的知識がまったくなかった頃、胎動初感が生命の始まりと考えられたことは無理のないことだった。したがって、胎動初感以前に中絶することは殺人ではなく、むしろ人口抑制策だとみなされていた。ローマ・カトリック教会や多くの国の法律制度で「受胎の瞬間から中絶は殺人の一形態である」と広く主張されるようになったのは20世紀に入ってからにすぎない。(115p)


オランダの安楽死とアメリカの社会保障制度


オランダの安楽死について。
シンガーは安楽死を肯定するわけだが、たとえばそれをそのままアメリカなどに持ってくるときには、オランダとアメリカの社会保障制度の違いなどを考慮に入れる必要があるという。この辺りまでちゃんと説き及ぶところが、私が「シンガーってすごいな…」とつい感心してしまうところだ。

>オランダで安楽死がおこなわれているからといって、それをそのまま他の国に持ち込むことは容易ではないかもしれない。とくにアメリカ人は、オランダは高水準の医療と社会保障とを全国民に与えている福祉国家であるという事実を覚えておいたほうがよい。十分な医療を受ける経済的なゆとりがないからという理由で安楽死を必要とする患者は一人もいないのである。(198p)


イエスに崖から追い落とされた「ガダラの豚」たちに同情するシンガー。


聖書に、イエス・キリストが悪霊たちを豚の群れの中に追いやり、豚たちを崖から転落死させるエピソードがある。

しかしこのエピソードを読んで、崖から落ちていく「豚」のほうが気になった人がいるだろうか。

シンガーは筋金入りの動物解放論者として、イエスではなく「豚」のほうに同情の視点を置くのである。これには驚いた。

ちなみにこのエピソードは、中島らもの小説『ガダラの豚』の題名の由来ともなっている。

>イエス自身の行ないも、人間以外の生命に対する無関心さを示す例を二つ与えている。イエスはイチジクの木にイチジクの実がなっていないことを見つけると突然怒り出し、イチジクの木を呪ったが、そのためにイチジクの木は衰え、枯れてしまった。別のあるときに、イエスは悪魔を追い払い、豚の群のなかに追い込んだ。それから、豚の群は海を目指して突進し、溺れ死んだ。初期の教父たちのなかで最も影響力のあったアウグスチヌスは、このようなイエスのおこないは熟慮のうえでおこなわれたものであり、人間以外の生命の価値について私たちに何かを教えようと意図したものであると信じて疑わなかった。

>>(アウグスチヌス)動物を殺したり、植物を枯らしたりしないようにすることが迷信の極みであることをキリスト自ら示されたのである。われわれと獣と木との間に共通の権利は何もないと判断し、豚の群のなかに悪魔を追いやり、呪いをかけて実のなっていない木を枯れさせられたのである。たしかに、豚には罪がなく、木にも罪はなかった。
(ピーター・シンガー『生と死の倫理』208p-209p)

どうだろうか。シンガーの凄さというか、少なくとも「無視することは出来ない」というインパクトの強さが少しでも伝わっただろうか。


関連記事:臓器移植法改正ー「脳死は人の死」は欺瞞。 2010年02月19日
(→以上のようなシンガーの立場を踏まえて考えてみると、臓器移植問題に関する現在の日本の議論に「欺瞞」があることがあぶり出される。)

ヨブの「呻き」と「確率の手触り」,「雑音」混じりの生命論ー加藤秀一『〈個〉からはじめる生命論』を読む

2010年02月16日 | 生命・環境倫理
生命倫理学も「生権力」に転化する・・・加藤秀一氏の<個>の「うめき」から始まる生命論。


以前、拙ブログで福嶋亮大氏のブログ『仮想算術の世界』「阿久根市長発言と生権力」という文章を少し引用したことがある。

>(福嶋亮大氏)フーコーは、およそ二つのタイプの権力を分けています。一つは生殺与奪の権限を握った古典的な権力、つまり「死なせる権力」です。もう一つは、この世界に出生した生命を最大化する権力、つまり「生きさせる権力=生権力」です。高度医療にせよ、社会福祉にせよ、近代の制度的デザインというのは前者から後者への移行として捉えられる。要するに、人間の生にダメージが加えられたときにそれを修復するとか、予測不可能なアクシデントが発生したときにそれをカバーする保障制度をつくるとか、そういうメカニズムが非常に発達する、それが生権力の時代です。

>その点では、阿久根市長が「権力者だ」と言われるのは、二つの権力を混同しているところに由来する。一方から見れば、阿久根市長は、血も涙もない古典的権力者に見える。しかし、他方から見れば、彼はむしろ高度医療そのものが生権力の源泉になっており、「生命を最大化する」ことのもたらす弊害が無視できなくなっていることに着眼している。このズレは深刻です。

加藤秀一『〈個〉からはじめる生命論』は、人の生と死の線引き問題を扱っている「生命倫理学」自体が、フーコーの言う「生権力」になる可能性を危惧している。

したがって、この本は「生命倫理学」全般への厳しい批判とも読める。
人の生と死に関しては、生命倫理学さえ言葉を失うような実存的側面があり、加藤秀一氏はそのような生ある者たちの「呻き」のようなものに焦点を合わせる。


「ロングフル・ライフ訴訟」ー「生まれてこないほうがよかった」


私がこの本を知ったのは、「環境倫理談話会」という、環境倫理を勉強する会で知り合った方のブログを読んでいるときである。

なんと言っても、この本では「ロングフル・ライフ訴訟」というものの存在を知ったことが一番衝撃的である。

「ロングフル・ライフ」というのは「間違った・生」ということで、ロングフル・ライフ訴訟というのは、典型的には、重度の障害を背負って生まれた人間が、「私は生まれてこないほうがよかった」と、親や医者に損害賠償を請求する訴訟のことをいう。

>ロングフル・ライフ(wrongful life)という不穏な言葉がはじめて公の場に登場したのは、1963年のゼペダ対ゼペダ訴訟においてであった。ただしこの訴訟は先天的な疾病・障害を問題にしたものではなく、非嫡出子がその地位を不服であるとして自分の父親を訴えた裁判だったから、すぐ後で見ていくような典型的なロングフル・ライフ訴訟とは性格が異なる。

>けれども、それだけにこれはむしろ本書の視点にとってはきわめて興味深いケースだともいえる。もしも人が、自分が生まれたこと自体を損害として誰かを訴えることができるのだとしたら、その条件は何なのか。人はいかなる条件を負って生まれたら、自分の出生および存在が「不当」であるということができるのか。誰かが重篤な障害や疾病をもって生まれたことに同情し、生まれない方がよかったという訴えを認めたくなってしまう人も、非嫡出子ーここではあえて差別的なニュアンスを含む言葉を使っておくーであることを理由とする訴えは行き過ぎだと感じるかもしれない。だがそれはなぜか。

>さらに、客観的にはあらゆる点で恵まれているにもかかわらず、なぜか深い厭世観にとらわれている人が、自分を生んだ親や医師を訴えたとしたらどうか。そのような場合に損害賠償請求を認めず、障害者の場合に認めるとすれば、両者を隔てる基準は何か。障害のある生だけを損害として認めるということは、結局、障害者という存在の価値を低くみることではないのかーロングフルライフ訴訟の可能性を先天的障害のあるケースだけに限定せず、こうした難問から目をそらさないことは重要である。

>ともあれ、当初はロングフル・ライフの訴えは棄却され続けた。その主な理由について、最初期の代表的なロングフル・ライフ訴訟である1967年のグライトマン対コスグローヴ訴訟の判決文は次のように述べている。

>>究極的に、この子どもの不満とは、彼が生まれなかった方がより良かっただろう(he would be better off)ということである。[しかしながら]人は死について、あるいは無であることについて何も知らないのだから、そうであるかどうかを知ることは不可能である。私たちが思い起こさねばならないのは、健康に生まれるか否かが選択肢なのではないということである。(…)そうではなく、選択は、世界のなかに実存することと、まったく実存しないこととの間にある。(…)生まれない権利(right not to be born)を認めることは、誰も自分の途を見いだせない(no one can find his way)領域に踏み込むことなのである。(加藤秀一『〈個〉からはじめる生命論』88p-90p)

著者は、「生まれてこないほうがよかった」という思想の伝統として、旧約聖書の『コヘレトの言葉』にも言及しているが、私も旧約聖書の『ヨブ記』を少し思い出してしまった。(→関連記事:落ち込んだときは『ヨブ記』を読んで元気を出そう!2010年01月09日


「生」と「死」と「確率」の手触りー東浩紀


また、この本の「仮想問答」の相手となっているのは、井上達夫、大庭健、宮崎哲弥、東浩紀、土井健司などであり、その人選も私の関心範囲と多少重なるところがあったので、読むとき集中力を持続させやすかった。

たとえば土井健司氏は、拙ブログでも何度かその文章を取り上げたことのある、キリスト教学者だ。(→関連記事:ドストエフスキーと「因果関係の空しさ」-土井健司『キリスト教を問いなおす』より 2010年01月28日など)

東浩紀氏については、この本では東氏の初期の論文「ソルジェニーツィン試論ー確率の手触り」から引用されている。「生と死」、あるいは自分や他人の「人生」のことを考えるとき、こうした「確率の手触り」は考慮に入れざるをえない。

『〈個〉からはじめる生命論』147p-148pから孫引きする。

>(東浩紀氏)『収容所群島』を読めば分かるように、ソルジェニーツィンの、そして当時生きていた人々の経験は、いわば「解消不能」なものである。逮捕されるかされないか、10年の刑か25年の刑かもしくは銃殺か、どこに何の罪でいつ送られるのか、すべてはほぼ確率的に決められる。(…)例えば、ナチスであれば、ガス室に送られるのはユダヤ人ということに決まっていたし、それがいかに支離滅裂なものであれ、少なくとも何らかの「理由」は存在した。つまり、そこでは、「なぜ私の父は殺されたのか」という問いが有効でありうる。(…)それに対して『収容所群島』の経験は、徹底的に、「解消不能」なものとしてある。そこでは、「なぜスターリン体制が生まれたか」という問いは、「なぜ私の父が殺されたのか」という問いと、実は一切関係がない。「私の父」は「スターリン体制」のなかにいたから、殺されたわけではない。それは確かに条件ではあるが、理由とは異なる。例えば私の父の隣人は父とたいして変わらない生活を送っていたにもかかわらず、別に逮捕されることもなく、いまに至っている。(…)私の父とその隣人との差異、片方が逮捕され、もう片方は何の問題もなく幸せに暮らしているという差異に、理由などありはしない。そこでは、「なぜ」という問いが禁止されてしまうのである。

「生命の尊厳」を大切にしましょう、などといった安易な生命尊重主義を注意深く避ける著者は、最終的にはアーレントの「多数性」と「活動」という概念を手がかりにし、大庭健を参照して「雑音源としての個人」という見方を提示する。

これでは、あまりにも「文学的」な感じがするが、少しくらい雑音があってもいいじゃないか、という懐の深さや、そうした人間や生命に対するつつましい態度こそが、論理的整合性を重んじる倫理学や、「人間改造主義的」「設計主義的」な生命操作技術へ向かう風潮などへの「対抗の倫理」になるのかもしれないな、と思った。


アーレントの人間の条件ー「多数性」と「活動」


>私たちが別の誰かから生まれたこと、別の誰かを生むということは、「生命」の平面で退屈に反復される「生殖=再生産」などではなく、まったく新しいことの始まりとしての「誕生」(birth)であるーこれこそが『人間の条件』の、最も素晴らしく、目の覚めるような数ページでいわれていることである。(213p)

>アーレントによれば、「活動」の人間的条件は「多数性」に、すなわち「地球上に生き世界に住むのが一人の人間 man ではなく、多数の人間 men であるという事実」に対応している。(213p)

>アーレントの言い方を引けば、私たちは「人間であるという点ですべて同一でありながら、だれ一人として、過去に生きた他人、現に生きている他人、将来生きるであろう他人と、けっして同一ではない」のである。そのような差異ある者同士のあいだで交わされる活動は、世界のなかに、それまでは予測されなかったような新しい契機ー「始まり」-をもちこむ。しかし、その新しさは、根源的には、「人間は一人一人が唯一の存在であり、したがって、人間が一人一人誕生するごとに、なにか新しいユニークなものが世界にもちこまれる」ということに始原するのである。

>したがって、新しい人の「誕生」は、つねに奇跡という相を帯びる。(214p)


赤ん坊は雑音だ、「雑音源としての個人」という見方


>そうだとすれば、大庭の倫理学における「システムの雑音源としての個人」を、アーレントのいう「人間が一人一人誕生するごとに、なにか新しいユニークなものが世界にもちこまれる」という洞察に重ね合わせて理解することができるだろう。(218p)

>新しく誕生する者、すなわち赤ん坊とは社会におけるまさに真正の雑音源である。この「新しい人」が発する未曾有の雑音を除去してしまえば、新しい音楽が創造されることもないだろう。(加藤秀一『〈個〉からはじめる生命論』219p)