ブログ・プチパラ

未来のゴースト達のために

ブログ始めて1年未満。KY(空気読めてない)的なテーマの混淆され具合をお楽しみください。

スウェーデン政治家の「ヴィルトゥ(力量)」-宮本太郎『福祉国家という戦略』より

2010年01月24日 | 労働・福祉
宮本太郎氏の歴史への視線


最近、府立の大きい図書館に行く機会があったので、宮本太郎『福祉国家という戦略 スウェーデンモデルの政治経済学』(1999年)という本を借りて来て読んだ。

たとえば濱口桂一郎氏の著作にも感じることだが、宮本太郎氏の著作に私は「歴史」への視線の「熱さ」を感じる。つまり、「歴史」重視のスタンスを感じる。そこを信頼して私は読んでいる。

スウェーデンといえば左翼・リベラルな人の得意分野という感じだが、左翼・リベラルの人って、学者でも往々にして「歴史」を軽視することが多い。しかし「歴史重視」の態度により、「モデル」や「図式」に偏りすぎず、「制度」や「政治」に対する「分厚い」ものの見方ができるようになる。

たとえば昔の左翼の親分、丸山真男は、歴史を決しておろそかに扱ったりはしなかったはずだ。
(と、思う。よく知らないけど。江戸時代の荻生徂徠とか福沢諭吉に関して詳しかったでしょ)
でもそれ以来、左翼の人たちはイデオロギー的・図式的なものの見方をすることが多くなってしまった。

まあ、歴史というのは時系列順の「物語」なので、私のような専門外の人間としては単純に「読みやすい」ということが最も大きいのだが。
「数式」満載の「経済学」の専門書なんて、私には読みこなせないし。

この本『福祉国家という戦略』は、スウェーデン政治の「闇」の部分といわれるもの、私でもチラホラとうわさには聞く、あの「強制不妊手術」の問題についても何ページか割いて解説している。

「強制不妊手術」というのは、障害者が生まれることを防ぐために、スウェーデン国家が強制的に、国民に断種手術を行った、というもの。まるでナチスの優生学だね。
こんなこともあったんだね、スウェーデンって。怖いなぁ。

スウェーデンに対して持つイメージが変わる。


スウェーデン福祉国家を支えてきたのは、政治家の「ヴィルトゥ」(力量)だった


イメージが変わるといえば、この本を読むと、スウェーデンの政治家たちが決してイメージにあるような、「人の良い優等生」というわけではなく、ましてや日本の社民党の福島みずほさんのような「学校の先生」タイプでもなく、政治家としての力量をもって、いろいろと政治的駆け引きを繰り返してきた、ということがわかってくる。この本を読んだ収穫をひとことで言えば、それである。

この本の「はしがき」で、宮本太郎氏はスウェーデン研究に関心を持ったきっかけについて述べている。結局スウェーデンの福祉国家を動かしてきたのは「図式」や「モデル」ではなく、政治家達の「ヴィルトゥ(政治的力量)」だった、と。

(以下、宮本太郎『福祉国家という戦略』の「はしがき」より抜粋する)

>私が、とかく優等生に見られがちなスウェーデン福祉国家に関心をもったのは、あまり素直ではない視点からであった。スウェーデンという国のひたすら真面目な相貌の背後に、意表をつく大胆な制度上の仕掛けや高度な政治的駆け引き等、もっと興味深い「別の顔」が見え隠れするように思われたのである。スウェーデン福祉国家はなぜ可能であったか、そこから何を教訓としうるかを考える場合、このもう一つの顔がとても重要であるように思われた。

>今振り返ればこのような見方は的外れではなかった。福祉国家のスウェーデンモデルは、公正か効率か、市場か政府か、福祉か経済かといった単純な二項対立を超えた、一筋縄ではいかないシステムであった。

>「常識」からすれば浮かぶはずのないものが空を飛んでいたら、何かよほどの仕掛けがあると考えるべきではないか。

>また、かかるシステムが形成されてきたそのプロセスが、勤勉な優等生の歩みというよりは、スリリングな「政治」の連続であった。ずいぶん危ない橋を渡り、少なからぬ代償も支払ってきたようにも思う。しかし、あらゆる手段を尽くしてその理念を現実に移そうとする強固な意志が存在したこと、さらにそれを可能にするヴィルトゥ=政治的技量があったことは見ておいてもよい。

>要するに、そのシステムという点でも、プロセスという点でも、福祉国家のスウェーデンモデルはきわめて戦略的な思考の産物であった。

こういう視点で本書は書かれているわけだが、この「一筋縄ではいかないシステム」を巡る政治家達の物語で私がいちばん面白いなと思ったのは、「第四章 スウェーデンモデルの揺らぎ」というところだ。

-1980年代になると、世界の経済状況が変わってきて、スウェーデンの福祉政治もグラグラと揺れ動きはじめた。社民党や労働者側は、70年代頃から「労働者基金」という社会主義的な制度を作ろうとしていたが、社民党が1976年の選挙で負けてしまって一旦ご破算になってしまう。そこから労働者側とも協議を続けながら、妥協に次ぐ妥協を重ね、捲土重来、1982 年の選挙に勝って6年ぶりに社民党は政権復帰した。そのときに提出した「労働者基金」法案はしかし、もはや変わり果てた姿となっており、当初のプランとは全然別のものとなっていた。それでも無理矢理、社民党は「労働者基金」法案を国会で通す。

このあたりの描写がスリリング。与党である社民党は、自ら法案を通しながら忸怩たるものがあったらしい。こんな描写がある。

>同年(1982年)12月21日、スウェーデン議会は、二日間に渡る討論の末、労働者基金法案を賛成164、反対158で可決した。ただし、社民党-LOブロックに勝利感は希薄であった。基金法案の審議中、一地方紙のカメラマンの望遠レンズは、偶然、同法案の趣旨説明をしたばかりの大蔵大臣フェルトが手元の書類に記した走り書きをカメラに収めた。そこには「労働者基金はクズだ。OK。クズをここまでひきずってきた」とあったのである。(217p)

自分で法案通しておきながら、社民党の大臣が「こんな法律はクズだ」とつぶやいている。このあたりのやりとりが「読み物」としてドキドキしてしまうところだ。


…図書館では、この本のほかにも、濱口桂一郎氏の『労働法政策』(2004年)という本も借りてきた。こちらは私の以降の記事で、備忘録としていくらか文章を抜粋しておくことにする。


関連記事:秋葉原事件と承認問題-宮本太郎『生活保障』より 2010年01月16日
(→秋葉原殺傷事件と「承認問題」に関する宮本太郎氏の考え方を抜粋しています。)

「マシナリさん」と「労務屋さん」のブログを見て思ったこと

2010年01月24日 | 労働・福祉
労務屋さんのブログを読んで-八代尚宏氏、湯浅誠氏、城繁幸氏について


拙ブログの「八代尚宏氏vs.湯浅誠氏」の記事に関し、hamachan 先生経由で、労務屋さんがブログで取り上げてくださいました。

労務屋ブログ『あれこれその2』2010年1月19日

労務屋さんによると、こと「雇用政策論」という土俵においては、八代尚宏氏と湯浅誠氏の力量の差ははじめから明らか、とのことです。

>「雇用政策」という政策論の土俵(これはどちらかというと八代先生の土俵です)に乗ると、たしかに「相撲になって」はいるかもしれませんが、やはり力量の差は明らかというか、まあ三役と十両くらいの違いはあるかなという気が私にはします。(労務屋さんの発言)

そりゃそうでしょうね。わたしも八代氏に興味を持つのは、その「学者としての力量」を信頼してのことです。
湯浅誠氏のことも、(今のところ)尊敬しています。私はもともと「左翼嫌い」なのですが、湯浅氏に関しては、その行動力や発言の仕方を見て、いつも「すごいな」と思って感心してしまいます。

私の「社会的身分」というか、世間的な立ち位置を言いますと、新卒一括採用のパイプラインからこぼれ落ちて漂流をつづけて現在では30歳を越えた男で、たぶん年収200万円以下の「ワーキング・プア」の部類に入るかと思われるのですが、こういう立場にいると、どうしても「ルサンチマン」がたまりがちになります。社会に対する「恨みつらみ」というヤツですね。これは放っておくと危険ですので、「冷静な学者の意見」に時々触れて、アタマを冷やす必要があるのです。そういったときにたとえば濱口桂一郎氏の本や八代尚宏氏の本を読むことが役に立ちます。

私の城繁幸氏への論評に関し、労務屋さんは、

>(ブログ・プチパラの)城繁幸氏への論評も「「君側の奸を討つ!」とか「完全自殺マニュアル!」とか、「希望は、戦争!」みたいな、いかにも辛抱が足りない日本の若者的発言」と辛口になっています。なるほどねぇ、城氏のトンデモぶりはそう理解すればいいのか。私としては若者一般を「辛抱が足りない」で片付けるのには抵抗もあるのですが…。(労務屋さんの発言)

と書かれていましたが、私は城氏の本を1冊も読んだことがなく、ネットの情報と雑誌の記事だけを読んでああいう風に批判したのはもしかして軽率だったかもしれません。またこれは、ちょっと同族嫌悪みたいなところもあって、私自身が、昔から「辛抱の足りない若者」であり、20代の頃に「完全自殺マニュアル」を愛読していましたし、2・26事件の青年将校たちに一度くらいは憧れの気持ちを持ったことがある人間ですので、「そうならないように」というむしろ自分に対する警戒心からのクサビみたいなものですね。赤木智弘さんや雨宮処凛さんの本なんて、「リアルすぎて怖い!」(((( ;゜Д゜))))  ので私はあまり読まないようにしています。

八代尚宏氏に関して、労務屋さんは、

>まあ、八代先生について意見表明するのなら、中公新書もいいですがやはり『日本的雇用慣行の経済学』を読みましょう。

と薦めておられるので、今度、府立の図書館に行った時にはその本を借り出してみようと思いました。(その後通読しました。→関連記事:「いのちを守る政治」と八代尚宏『日本的雇用慣行の経済学』(1997年)2010年02月10日

労務屋さんはさらにこの記事で、私が参考にさせて頂いたマシナリさんの『machineryの日々』というブログの「経営者目線」という言葉に関しても論評されています。

最後の方の文章で、

>それにしてもあまりあからさまに住民をバカ扱いするような発言は慎まれたほうがいいのではないかと

という所がありました。

これに対しマシナリさんは、

machineryの日々『労労対立が企業を超えるとき』2010年01月24日で、

>不快感を与えるような記述になってしまっていたことは大変申し訳なく思います。誤解を与えるような記述となっている部分がないか見直してみたら、

と書かれ、ご自分の文章から引用して「…叩いている側と叩かれている側が実は相互に影響し合うという現実を認識できるかが非常に重要だと思います。」…このあたりではないでしょうか、と提示されているわけですが…。


マシナリさんのブログを読んで。どこかすれ違っているような気が…


この引用箇所は、ちょっとちがうのでは? と私には思われました。

もともと、マシナリさんの記事は、「市営バスの運転手とか公立学校の給食のおばちゃんとか公立保育園の保母さんの年収が1,000万円近くになるのはけしからん」という住民側のクレームの電話から始まっていたわけです。

「え? 公務員、1000万円以上?」この金額にびっくりしてしまうのは、まあ民間では普通の感覚だと思いますが、そこをマシナリさんは「公務員バッシングのブーメラン効果」「自業自得」みたいな話に直接結び付けてしまいます。「公務員バッシングがマズイ」という話はわかるのですが、その最初の、例の出し方がちょっと…。このあたりが誤解されやすいところだったと思います。

労務屋さんがおっしゃっていた「住民をバカ扱いするような発言」と取られかねない所を私が引用してみるとするなら、たとえば、

『「労働」と「経済」を定義する主体』2009年12月20日というエントリの末尾の、

>まあ、国民がそのような変化を「主体的に」担う組織を否定しつづける限りは当然の帰着ではあるわけで、国民自らが望んだことだとあきらめるしかないのでしょうね。(マシナリさんの文章)

とか、『渡る世間はブーメランばかり』2009年12月28日 というエントリの

>財源の裏付けすらないマニフェストで「まず、政権交代」と主張したブーメラン野党を選んだ国民の側にもブーメランが帰ってきているわけで、そんなブーメラン政権の姿は、果たしてそれを笑うことができるのかと国民一人一人が自問するための手本なのかもしれません。(マシナリさんの文章)

というところが、「お前ら自業自得だぜ」という突き放した物の言い方に見えてしまいます。

マシナリさんが言いたいのは労働環境をよくするためには労働組合が大事だぜ、民間もパブリック部門もそれは同じで、足の引っ張り合いみたいな無駄な争いはよくない、といったことだと思われるのですが、「年収1000万円」のインパクトが強すぎて強すぎて、そういう奥深い趣旨までもがかすんでしまう…(笑)

マシナリさんのブログは、私は、hamachan 先生経由で知りました。
初めて見たときには、おお! 現代には、ちゃんと「思考する公務員」「学問する公務員」という方がおられるんだな、と少し感動しました。

私も「公務員バッシング」は端的によくないと思っていまして、以前の記事でも次のように書いています。

…たとえば最近国民の憎悪・怨嗟の的になってて、「あなたたちはもしかしてナマハゲなのか?」状態に陥っている厚生官僚たち。…
…私がいた職場でも、ほぼ毎日、公務員の悪口を言ってる人がいた。もはや「あいさつ」代わりなのである。「共同体」のコミュニケーションをスムーズにするために公務員に「諸悪」を押しつけるという構図が、私には「ナマハゲ」っぽく見えるのである。他県のことは知らないが、大阪では特に公務員バッシングが強いようにも感じられる。…(昔の厚生官僚は偉かった!― 富永健一『社会変動の中の福祉国家』より 2010年01月19日

民間では、「公務員の悪口」というのが「コミュニケーションの潤滑油」としての機能を果たしているんですね。
困ったことですけど。


官民・貴賎・老幼の区別なく…


あと、民衆のルサンチマンってゼロにはできないんですよね。
互いに「寛容」でないと。
地方公務員も、ワーキング・プアも、官僚も、トヨタの社員も、どこかで共生できる点があるはずだから。

そういえば、以前の記事でも似たようなことを書いていたな。池田信夫氏のようなエリート達に対して、「もっと下層民に優しくしてくださいよー」と「下から目線」で懇願するような気持ちで書いた文章だった。(↓)

…私は、社会を動かすエリートや知識人たちは、もちろん、ルサンチマンなしに、物事を明澄なアタマで考えることが出来なければならないと思う。でも、同時に、民衆にルサンチマンがあることを考慮に入れて物事を動かしていかないと、マズイことになりそうな気がする。一般民衆に、ルサンチマンという人間的感情の一滴もない「超人」を求めるのは酷というものである。…(エリートは「恨み」なしに「民衆」を考慮することができなければならない。2010年01月13日





最近の拙ブログのアクセス数。

2010年01月22日 | 労働・福祉
以下、【ブログ・プチパラ】の最近のアクセス・ランキング

過去1週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)

2010.01.21(木)  525 PV   186 IP   7343 位 /1354712ブログ
2010.01.20(水)  269 PV  139 IP      - 位 /1354150ブログ
2010.01.19(火)   582 PV  188 IP   7149 位 /1353606ブログ
2010.01.18(月)   326 PV   145 IP      - 位 /1352974ブログ
2010.01.17(日)   302 PV   135 IP      - 位 /1352394ブログ
2010.01.16(土)   553 PV   217 IP   6281 位 /1351955ブログ
2010.01.15(金)   509 PV   165 IP   8798 位 /1351525ブログ

過去3週間の閲覧数・訪問者数(週別)
        
2010.01.10 ~ 2010.01.16  2892 PV 1092 IP
2010.01.03 ~ 2010.01.09  1439 PV 772 IP
2009.12.27 ~ 2010.01.02   1116 PV 600 IP

…こんなふうに1週間も「100IP」を超えているということは、今までになかった。今月に入ってから、アクセス数がかなり増えているのは、やっぱり濱口桂一郎氏のブログや、「労務屋」さんのブログが拙ブログの記事を取り上げてくださったことが影響しているのだろうな。私もちゃんとフォローしとかないと。

でも「労働・福祉」関係って、ちゃんと考えるの、すごく面倒くさくて。
勉強しようとしたら、私は失業中でかなり「当事者」なので、それが「生々しい」のでいやになる。

私としては「宗教・スピリチュアル」の記事だって、「施川ユウキ」の記事だって増やしていきたいし。

拙ブログ、テーマがバラバラになっていて、「労働・福祉」関係の記事を期待してここに来られた方がいましたら、どうもいま部屋を取り散らかしておるところでして、マコトにすいません。

神保氏 vs 産経・読売-千葉法相の記者会見をめぐって

2010年01月21日 | 政治・民主党
これは、すごいな…この対比は…。
ジャーナリズムの教材みたいだ。

神保哲生氏のビデオニュース (2010年01月19日)で、
「千葉法相、指揮権に言及せず リークは無いと思う」という見出しで、
…千葉景子法務大臣は、19日、閣議後の会見で、民主党の小沢幹事長の政治資金規正法違反事件をめぐり、党内で検察批判が高まっていることに対して、法務大臣としての指揮権発動の可能性については、一切の言及を避けた。また、一連の捜査情報が報道されている問題についても、検察からのリークはないとの見方を示した。
…「一般論として指揮権が存在していることは承知している。個別に行使する、しないについてはコメントしない。」千葉大臣は繰り返しこのように述べ、指揮権発動の可能性については否定も肯定も避けた。…

と報道されているのだが、同じ記者会見の内容の報道で、
「産経」では、次のような報道となる。
千葉法相、指揮権発動否定せず 小沢氏土地疑惑事件という見出し。
>千葉景子法相は19日の閣議後の記者会見で、民主党の小沢一郎幹事長の資金管理団体の土地購入をめぐる政治資金規正法違反事件について「一般的に指揮権が私のもとにあることは承知している。個別に行使する、しないはコメントすべきではない」と述べ、検察当局に指揮権を発動する可能性を否定しなかった。<

「読売」では、次のような報道になる。
「指揮権発動、一般論としてある」…千葉法相という見出し。
>千葉法相は、「個別事件についてコメントはしない」としながらも、「一般論として指揮権を発動することはある」と発言した。<

「肯定も否定もしない」、「否定しない」、「一般論」と「個別論」、という言葉を使い分けていて、どれも同じ事を言っているはずなのに、全然ニュアンスが違う。というか、読売と産経は、かなり恣意的に、千葉法相の発言に「匂い」や「ニュアンス」を盛り込もうとしているように見える。映像を見ると、とても「そういう風」に言っているようには感じられない。

映像と記事を見比べてみると、今回の記事に限っては、神保氏のヴィデオニュースが明らかに「公正さ」「客観性」で勝っているように見えた。

そうなのか-。これほどまでに…。
いろいろと考え込んでしまった。
ともかく、勉強になった。

関連記事:「みのもんた」のひと言のほうが、ツイッターのつぶやき1000より強いー『思考停止社会』を読んで 2010年02月10日
(今回、私が検察批判で知った郷原信郎氏が書いた本『思考停止社会 「遵守」に蝕まれる日本』を読んで、みのもんた氏のエピソードにうならされました。)

NYタイムズが日本の検察を批判?-英語の記事を読んで一部訳してみた

2010年01月21日 | 政治・民主党
上杉隆氏のツイッターを見ていたら、

>外圧高まる。NYタイムズのマーティン・ファクラー東京支局長も「検察批判」に参戦。(2010年1月20日)

というつぶやきがあって、ニューヨーク・タイムズのJapan Stalls as Leaders Are Jolted by Old Guard
By MARTIN FACKLER
(2010年1月19日)という記事にリンクが張られていたので、さっそく読もうとしてみると、

ちょっと英語のレベルが高すぎて、辞書引かないと私には意味が取れない!(笑)

ということに気づき、しぶしぶと辞書を引きながら読む。

読んでみると、上杉隆氏が言うような、「検察批判」に参戦、というような勇ましい感じは受けなかったけど、郷原氏の言葉を引用したりして、日本の検察やメディアのあり方をやんわりと批判しているようでもある。

気になったところを以下、一部、私訳してみる。(「私訳」って変な言い方だけど。「私が訳す」のは当たり前だから。ここでは、それほど信頼置けませんよ、というくらいの意味。)

以下、NYタイムズの記事の、私なりのかなり「ゆるーい」翻訳ですので、もし参考にする方がおられるなら、そのあたりはお気をつけください。誤訳の危険性あり。ちゃんと原文をお確かめください。

以下、“Japan Stalls as Leaders Are Jolted by Old Guard”の一部私訳

“This scandal has put Japan’s democracy in danger,” said Nobuo Gohara, a former prosecutor who now teaches public policy at Meijo University. “This is the bureaucratic system striking back to protect itself from challengers, in this case elected leaders.”

元検事で名城大学の郷原信郎氏は、「この事件は、日本のデモクラシーを危険にさらしています。これは、選挙で選ばれた政治家たちに対する、官僚機構の側から行われる反撃です。」と言う。

…(略)…

Mr. Gohara and other critics do not so much defend Mr. Ozawa, a master of the machine-style politics of the Liberal Democrats, as criticize what they see as the selective justice meted out by the prosecutors, who come down hard on challengers to Japan’s postwar establishment while showing leniency to insiders.

郷原氏や他の批判者は、別に、民主党内に強権的政治を敷いている小沢一郎氏を擁護しているわけではない。むしろ彼らは、検察が行使する正義の恣意性を批判している。検察は、戦後日本のエスタブリッシュメントへの挑戦者に対して厳しく、エスタブリッシュメントの枠内の者に対しては優しいのだ。

…(略)…

The debate has focused unusual public scrutiny on Japan’s 2,600 public prosecutors, who are a force unlike any in the justice systems of the United States and other Western democracies. The Prosecutors Office has the right not only to choose whom to investigate and when, but to arrest and detain suspects for weeks before filing charges, in effect giving them powers of the police, attorneys general and even judges all rolled into one.

日本の検察の権力は、アメリカ合衆国や他の民主主義諸国の司法システムには見られないものである。日本の検察は、どの人物を、いつ取り調べるかを自分たちで決められる。また、正式に告訴する前に、被疑者を逮捕し、何週間にも渡って勾留することができる。その結果、彼らの権力は、警察と州の地方長官と裁判官を全部合わせたくらいの強いものとなっている。

Prosecutors are traditionally drawn from the cream of young law students who have passed Japan’s demanding bar exams. They are known for lightning raids on the offices and homes of their suspects, with lines of stone-faced prosecutors in dark suits marching determinedly past a phalanx of reporters and photographers, tipped off about the raid minutes before.

検察と言えば、被疑者のオフィスや自宅に踏み込むときのあの電撃的な光景で有名だ。レポーターや報道カメラマンたちが詰め掛けるなか、ダークスーツに身を固め、険しい表情の検察官たちが、断固たる歩調で進んでいく。何十分か前に、報道陣には「ガサ入れしますよ」という通告が行われる。

Indeed, media experts say the prosecutors enjoy close ties with the major news media outlets, which has led to generally positive coverage of the investigation into Mr. Ozawa.

メディアの専門家は、検察と大手メディアは緊密な関係にあることを指摘している。その結果、小沢一郎氏への調査に関し、一般に検察に肯定的な調子で紙面が書かれることになる。

…(略)…

“This scandal shows how much the new administration is making waves,” said Mr. Gohara, the former prosecutor, “but also how the old system will fight back.”

郷原氏は「この事件は、新しい政治統治が、どれだけ波乱を作り出すかを示しています。また、旧体制が、どのように抵抗の反撃を行うのかをも示しています。」と言う。

(終わり)

関連記事:「みのもんた」のひと言のほうが、ツイッターのつぶやき1000より強いー『思考停止社会』を読んで 2010年02月10日
(→郷原信郎氏の『思考停止社会 「遵守」に蝕まれる日本』という本を読んで、そこから「みのもんた」氏やテレビの力の凄まじさが伝わるエピソードを紹介しています。)
関連記事:原口総務大臣のクロスオーナーシップ禁止発言 2010年01月16日
(→上杉隆氏のツイッターからのが引用あります)
関連記事:Google(グーグル)と中国-英語のニュースを読んでみた 2010年01月15日
(→NYタイムズより、自分にとってはもうすこし易しめの英語の文章を訳してみました。)

平和な「ドタバタ」が永遠に続く世界-施川ユウキ『サナギさん』あとがきより

2010年01月21日 | 施川ユウキ
施川ユウキのマンガとの出会い-思春期の痛々しい「ささくれ」に

ギャグ漫画家の施川ユウキの作品では、私は『がんばれ酢めし疑獄!!』や『もずく、ウォーキング!』より、『サナギさん』が好きです。

『酢めし疑獄』は初めて読んだ時、私にはむき出しの「思春期の混乱」を突然見せ付けられたような気がして、かなり引いてしまい、むしろ「嫌い」な作品でした。読んでいると、中学2年生の男の子の混乱に付き合っているような気分になり、神経がささくれ立ってくるのです。今では、もう少し冷静に読むことができるようになり、『酢めし疑獄』も「好きな作品」になっています。

『サナギさん』は、その「中学2年生的ささくれ」がようやく鎮静化し、かなり読みやすくなっています。わたしはしかし、『もずく』のほうはあまりにも「優しく甘く」なりすぎているように感じられるので、「ささくれ方」と「ちょっといい話」の配分として、『サナギさん』くらいがちょうどいい「塩梅」なのです。

ほのぼのとした日常

私は『パタリロ!』とか『今日から俺は!!』みたいな、完結した小世界の中で、平和な、かつドタバタとしたコメディが永遠に続くような漫画が好きだったのですが、『サナギさん』にもそういう「いつまでも終わらない日常」漫画として、もう少し長く続いて欲しかったです。(全6巻で完結)

作者も、

>連載を始めた時、ネタを作っていく上でぼんやりと頭に描いていたのは「日常のなんでもない一瞬を抜き出して永遠まで引き延ばした世界」だ。
(『サナギさん』第6巻の「あとがき」より)

と書いています。

今からでも遅くないから、どこかの雑誌で『サナギさん』を書き継いで『パタリロ!』くらい長く続けて欲しいと思います。

私は1976年5月生まれで、施川ユウキ氏は1977年11月生まれで、つまり「同学年」になります。施川ユウキのマンガは、読んでいると突如、私に過去の「忘れられていた感覚」が甦ることがあり、そういう「記憶の賦活」によって脳みそや身体の細胞が活性化するという効果が少なくとも私にはあります。

子供の頃の漠然とした「神様に守られてる感」

以下、施川ユウキ『サナギさん』第2巻の「あとがき」より

>子供の頃、よく近所の神社で遊んだ。『土足厳禁』の場所も靴のまま走り回った。「『土足厳禁』は大人の決めたことで、神様はむしろ無邪気に遊ぶ我々子供達を歓迎しているに違いない」と思って狛犬に登ったりもした。神様の存在を意識した上で、自分が「特別扱いされている」という根拠の無い自信を持っていたし、「子供であるが故に、自分は神様に守られている」という誰から聞いた訳でもない、都合の良い宗教観を持っていた。宗教観という言い方は大袈裟だが、宇宙人や河童と一緒で神様も「そんなカンジで、どこかにいるんじゃないだろうか」的な認識で信じ、その感覚を背景に平和でほのぼのとした日常を謳歌していた。そんな風に漠然とあった「神様に守られてる感」を失った時自分は初めて大人になったのではないだろうか、と今となっては思う。それはもちろん、「子供でなくなったから神様に守られなくなった」のではなく、「そんな都合の良い神様はいないと確信した」という意味だ。世の中は思っていた以上に殺伐とした面を持っていて、世界の全てと信じていた日常とそれは地続きだった。いつの間にか神様は消え、それを理解していた。

>この漫画は、多少毒があったり歪んだ性格のキャラが登場したりしますが、基本的に「ほのぼとした日常」を舞台に作っています。つまり、あの頃僕が信じた神様が支配している世界の話です。

(2006年3月8日 施川ユウキ)

人は、何かに感動することでしか変われない部分がある。-甲本ヒロト・インタビューより

2010年01月21日 | 日記
ブルーハーツ、ハイロウズ、クロマニヨンズのボーカル・甲本ヒロトは今でも、動いているのを見るだけで、何だか泣きそうになります。

初めて聞いたのは、14歳くらいの頃、ともだちのオックンのうちで「知らへんの?」といってかけてもらったCDのブルーハーツ「人にやさしく」でしたが、それを聞いて私は電流が走るというより、聞いているうちに身体の細胞がツブツブと泡だってきて、やがて自分も周囲も三ツ矢サイダーのようになり、音楽が終わると、何だか鼻がスウスウとしました。私はオックンに、興奮しながら「ふうーん…」とつぶやいていました。

雑誌『splash!! vol.1』(2008年11月)より、甲本ヒロト・インタビュー

>僕はね、若いバンドの人に相談されることもあります。「どうすればロックバンドで有名になれますか?」「どうすればロックバンドで生活できますか?」 そんなこと知らねえよ! そんなこと考えたこともない。僕は、有名になるためにやってるんじゃないんだよ。金儲けするためにやってるんじゃないんだよ。ロックンロールは、お金を儲けるための手段じゃないんだよ。人気を得るための手段じゃないんだよ。ロックンロールは目的なんだよ! 

>ロックンロールをやるために、その前に何かをすることはあるよ。けど、ロックンロールが最終ゴールだから、ロックンロールをやるっていうことでは目的達成なんだ。その先には何もなくていいんだよ。だから、お金が欲しいんなら働け。人気者になりたいなら、なんだっていいじゃん。ロックンロールを何かのために使うな。ロックンロールを使って平和活動? ふざけんな! 何かに使わないで欲しい。ロックンロールこそが目的なんです・・・・僕はね(笑)。

-でも、ヒロトさんのように強くなれず、僕みたいにウジウジした人たちもいっぱいいると思います(笑)。

>ウジウジしてんなぁ(笑)。でも、僕もそうだったよ。いまでもそんな自分がどこかにいるよ。僕はたまたまロックの話しかできないけど、映画でも、絵画でも、何でもいいけどさ、人はどうしようもないくらいの感動を体験することでしか変われない部分もあるし、それでしか成長できない部分もあると思う。お笑いで爆笑することも感動のひとつだと思うし。で、僕がお笑い番組ばっかり見ているっていうのは、お笑いが、いまのメディアの中で最もストレートに感動させてくれているものだからなんだ。・・・

宗教は「子供のときに見た青い空」か- 橋本治『宗教なんかこわくない!』より

2010年01月21日 | 橋本治
橋本治『宗教なんかこわくない!』は、20代の頃、赤線だらけ、ボロボロになるまで読んだことがあります。

その時の気分は、自分の中で「コレ」は終わりにしよう! と何かを決意していたみたいです。
結局は、形を変えていくだけで、その後も「コレ」はけして「終わりはしなかった」わけですが。

以下、『宗教なんかこわくない!』より

>「幸福とはどんなことか? それはあの“青い空”に対応するようなものだ。一体あの“美しい青空”というのは、自分にとってなんだったんだろう?」という思考方法を捨ててしまったら、もう“幸福”なるものは発見できない。

>宗教は解体された。だからこそ人間は、今や信仰抜きでも“美しいもの”が作り出せる。宗教は、捨てられるものではなくて、人間達によって解体され再吸収されることを必要としている“子供の時の美しい空の記憶”なのである。

植物への愛と「沈潜」感覚-ルソー『孤独な散歩者の夢想』より

2010年01月21日 | 日記
ジャン=ジャック・ルソーの『孤独な散歩者の夢想』は、私が高校時代から好きな本でした。とても静謐な感じがして、読んでいると何か、ツブツブと身体ごと沈んでいくような心地よい「沈潜」感覚があるのです。

ルソーの植物への愛がぞんぶんに語られています。

私も20代の前半くらいまでは、道端に咲いている小さな花を見ただけでクラッと「陶酔感」が得られたりして、かなり安価に「自然」から快楽を引き出せるという、今思えば安上がりで「便利な体質」を持ち合わせていましたが、近頃はそうでもないので生活がパサパサしていて、少し哀しいです。

まあこれは単純に年を取ったということでもありますし、20代の頃、日本の「社会」に「適応」するためにはこのままじゃダメで、意識的に「美しさ」を感じる感性を抑制しようと努力した、ということもどこかで影響しているかと思います。作家の橋本治が『人はなぜ「美しい」がわかるのか』という本の中で、若い頃、「生活」しにくくなるから「美しい」を感じないように努力した、という旨のことを書いていますが、私もそれとどこか似たような状況があったな、と思い出します。

20代の初め、牧野富太郎の植物図鑑が欲しくて、京都のある古本屋で「買いたいな」と思って棚を眺めていたら、古本屋のおじさんが話しかけてきてくれて、私にお金ができるまで、牧野の図鑑を売らないで取っておいてやる、ということを言ってくれました。さすが学生街の京都です。今思うと、ああいう古本屋のおじさんたちも含めて、京都の街の独特の「文化の香り」を構成する雰囲気が作り出されていたのでしょう。

しかし私はそれ以来、その古本屋に出向くことがなかったので、結果的に、店主の好意を無駄にしてしまったことになります。申し訳ないです。10年以上前のことですが、今ここで謝っておきます。

しかし、あのときは、阪神大震災とオウム真理教事件が起きた直後で、私もやたらに情緒的・精神的な不安定性に悩んでいた頃で、しばらくすると、もう「植物への愛」どころではなくなっていた、という事情もありました。ま、それは挨拶にいかなかった言い訳にはなりませんが。

ほかに、「植物への愛」が呼び戻されるような本としてよかったのは、これもかなり以前に読んだいとうせいこうの『ボタニカル・ライフ』ですかね。ベランダの植物や、道端を歩いている時に歩道まではみ出す、「おばさん」たちが植えた発泡スチロールの鉢の上で繁茂している植物たちも、私の目を楽しませてくれます。

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『孤独な散歩者の夢想』
第五の散歩より

「僕のこれまで住んだあらゆる土地のなかで、ピエンヌ湖中のサン・ピエール島くらい、僕を真に幸福にし、そしていつまでもそこをなつかしむ情を残した土地はないだろう。」

「石を投げつけられて、モティエから追い出され、僕が逃げ込んだのが、この島だったのである。」

「毎朝、朝食はみな集まって一緒にしたが、それがすむと、僕は虫眼鏡片手に、愛読書の『植物学分類法』を腕にはさんで、目ざす地区に向かって出かけるのだ。とういのは、あらかじめ僕は島をいくつかの小さな正方形に区切っておいて、季節ごとに、順々にそれらを跋渉しようという考えだったからだ。僕は植物の構造や組織を観察したり、またその方法を知ったのもそのときが全然初めてだったのだが、結実のためのおしべ・めしべの遊戯を観察したりするごとに、僕の覚える恍惚、陶酔くらい、不思議なものはなかったろう。それまで僕には念頭にさえなかった、植物における通有性の識別は、それらを同じ種類のものについて調べているうちに、僕を有頂天にさせたのだが、いよいよ珍奇な通有性が現れてくるにおよんで、僕の驚嘆はひとかたでなかったのである。ウツボグサの二本の長いおしべに叉のあること、イラクサやヒカゲミズのおしべには弾力のあること、ホウセンカの実や、ツゲのさくは破裂すること、その他、初めて僕の観察した、結実に関する無数の小さな遊戯は、僕をすっかり悦ばせるのだった。そして、ラ・フォンテーヌがアバキュークを読んだかと会う人ごとにたずねたように、僕は諸々方々へ行っては、ウツボグサの角を見たことがあるかとたずねたものだ。」

第七の散歩より

「僕は自分自身を忘れるときにのみ、はじめてこころよく思いにふけり、思いに沈む。いわば、万物の組織のなかに溶けひたり、自然とまったく同化することに、僕はえも言えぬ歓喜恍惚を感ずるのである。」

「もはや、僕は感覚しかもっていないのだ。そして、もはやこの世では、この感覚を通じてしか、苦痛も快楽も僕まで達しえないのである。あたりの目に映る楽しい物象に心を惹かれて、僕は彼らを眺める、考える、比較する、はては、分類することを知る、こうして僕はいきなり植物学者になってしまった。それは、自然を愛する新しい理由をたえず見い出すためにのみ、自然を研究しようと欲する人なら、そうならざるをえぬような植物学者に。」

「植物が、地上いたるところ、あたかも大空の星のように、惜しみなく蒔き散らされてあるのは、自然の研究への愉楽と好奇心の餌で人間を誘っているためではないかと思われる。しかしながら、星辰はわれわれから遠いところにある。それに達し、われわれの手近にちかづけるためには、予備知識が、器具が、機械が、相当長い梯子が必要である。」

「植物学は、ひまで、怠けものの孤独者にはうってつけの学問である。」

「植物学は、僕のイマジネーションのために、そのイマジネーションがなお一層よろこぶようなあらゆるイデーをかき集め、想起させるのである。つまり、牧場、水、森、寂寞、とりわけ、平和、および、それらの中に見い出される、安らぎ、これら一切は植物学のおかげで、僕の記憶にたえず思い浮かんでくるのである。」

「むかし、僕が一緒に生活した人々のような、素朴で善良な人たちのいる、平和な土地に連れていってくれる。それは、僕の幼い日のことや、無邪気な楽しみごとを思い出させてくれる。人間が生きながらにして受けうる最上の悲しい運命の中にあっても、なおかつ、その昔の楽しみを味わわせ、そして、今もって僕を幸せにしてくれる。」

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昔の厚生官僚は偉かった!― 富永健一『社会変動の中の福祉国家』より

2010年01月19日 | 労働・福祉
前項の記事は、昔の自民党は偉かった、父よ、あなたは強かった-、といった内容だった。今回は、公務員、官僚の話。
たとえば最近国民の憎悪・怨嗟の的になってて、「あなたたちはもしかしてナマハゲなのか?」状態に陥っている厚生官僚たち。

私がいた職場でも、ほぼ毎日、公務員の悪口を言ってる人がいた。もはや「あいさつ」代わりなのである。
「共同体」のコミュニケーションをスムーズにするために公務員に「諸悪」を押しつけるという構図が、私には「ナマハゲ」っぽく見えるのである。
他県のことは知らないが、大阪では特に公務員バッシングが強いようにも感じられる。

でも、われわれは、彼らが作った諸制度から今も恩恵を受け続けている。
私が言いたいのは、誰のおかげで医療を受け、失業手当を頂き、年金をもらったりできているんだ? ということだ。

50年単位で見れば、マイナスよりプラスのほうが大きかった。
自民党だって同じだ。
私の感触では、自民党のマイナスがだんだん大きくなってきたのは、80年代、90年代以降のことにすぎない。

富永健一氏の『社会変動の中の福祉国家』(中公新書 2001年)は、厚生官僚の役割を高く評価している。
私もそうだと思う。彼らがいなければ今、介護保険制度だってロクに整備されてなかったかもしれないんだよ。
一体どんなことになっていたか。

だから、嫌かもしれないが、昔の官僚たちに感謝しましょう。

以下、 富永健一『社会変動の中の福祉国家』(2001年)より

>私は日本福祉国家を「ハイブリッド型」としたが、日本はあえていえば「後発産業国型」なのである。日本の産業化は遅れて出発して先進諸国に追いつくことをめざしたがゆえに、「官僚主導型」になった。日本の福祉国家づくりもまた、その一環として、官僚主導型でここまでやってきた。ここで日本官僚制の総合評価を下す用意はないが、少なくとも日本が福祉国家の仲間入りをするまでになったのは厚生行政の主導によるものであり、そのかぎりで日本の厚生行政は立派な仕事をしてきたことを認めるべきである。離合集散の激しい諸政党が定見をもたず、とりわけ自民党もかつての社会党もともに福祉の確実な推進者にならない中にあって、厚生省は、高度の国家的使命意識をもって、国民のために福祉政策を用意してきた。日本が福祉国家になったのは、その産物である。政権政党としての自民党には、福祉国家化の推進に貢献した人もいたが、それに反対の人も多かった。そのような自民党政権が福祉国家づくりの担い手になり得たのは、官僚に依存してきたからである。これは一つの歴史的事実である。かつて「清廉」といわれた日本の官僚にも汚職事件がふえ(とりわけ厚生省には 1998年に岡光政務次官の汚職があった)、公庫・公団・事業団などの「特殊法人」のように改革を必要とする多くの問題がある。とはいえ、日本の厚生行政のすぐれた業績の遺産を評価することは、エスピン-アンデルセンの三類型の中にはない日本の独自性に着眼することにほかならない。(富永健一『社会変動の中の福祉国家』220p-221p)