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「苦しいです。サンタマリア」を思い出すー北村嘉蔵『神の痛みの神学』

2010年02月27日 | 宗教・スピリチュアル
一体、どんな人たちが読んできたのだろう。・・・北森嘉蔵『神の痛みの神学』


近所の市立図書館の「書庫」から、日本のキリスト教神学者の著作、北森嘉蔵『神の痛みの神学』(1981年、初版1946年)という本を借り出した。

走り読みにすぎなかったが、一応目を通した。

この本は、1981年出版の本で、最後のページに、今のシステムではもうない「図書館カード」の記録が残っていた。

図書館カードの「本の返却期日」にハンコが押してある。

昭和57年12月23日
昭和58年1月27日
昭和59年3月22日
昭和61年1月12日
昭和61年3月9日
昭和61年5月10日
昭和61年5月24日
昭和61年6月7日
昭和61年9月27日
昭和63年11月17日

この時期に、こんなキリスト教神学の「辛気臭い」本を借り出していたのは、一体どういう人たちなのだろうか。

1986年(昭和61年)に「6回」借り出されているのだが、翌年には「0回」、翌々年には「1回」となって、それ以来借り出しが少なくなったので、「書庫」にしまわれることになったのだろうか。

なんとなくこの本のそういう「歴史」を想像してしまう。


「神の痛み」。ー日本人の人間関係の「つらさ」。ー「オツベルと象」。


私が北森嘉蔵という名前を知ったのは、マクグラスの『キリスト教神学入門』で、『神の痛みの神学』は、欧米のキリスト教会にもかなり影響を与えた本らしい。

20世紀後半の神学では、伝統的な神の「不可受苦性」への懐疑が生まれ、「苦しむ神」という概念への注目が集まった。「神の痛みの神学」も、その流れの一つであったらしい。

マクグラスは、

>「苦しむ神」の神学的意義についての議論に貢献したものの中で、次の二つが特に重要である。

として、

1.ユルゲン・モルトマン『十字架につけられた神』(1974年)
2.北村嘉蔵『神の痛みの神学』(1946年)

を挙げている。

今回、私の目に留まったのは、「神の痛み」と日本人の「人間関係」における「つらさ」との関連が述べられている箇所だった。

北森は、日本の文芸上、悲劇の特徴は「人間関係の悲劇」だった、と言う。それが日本人の心にある「つらさ」であり、それは「神の痛み」と言うときの「痛み」と対応している、と言う。

「苦しみ」でも「哀しみ」でもなく、「つらさ」なのだ。

>日本の悲劇は他の国の悲劇と著しく相違せる性格をもっている。他の国の悲劇が多くの場合事件の悲劇や性格の悲劇であるに対して、日本の悲劇はいわば人間関係の悲劇とも称すべきものである。

>この人間関係はつらさという日本特有の言葉によって表現される如きものである。(辛さは苦しさでもなく悲しさでもない)。日本的人間の深さはこの「つらさ」において極まる。日本的にいって深さのある人間、「もののわかる」人間は、このつらさのわかる人間である。つらさのわからぬ人間は、浅い人間であり、「味気ない」人間であり、要するに日本人らしくない人間である。そして市井の民の方が上層の人間よりかえってこの点において感覚が鋭敏である。

>日本のこころは日本の庶民の心に代表され、庶民の心は日本の悲劇文学の中に芸術表現を見、日本悲劇の根本性格は「つらさ」において極まる。さてこの「つらさ」を今少しく一般的な言葉にいい直すならば、痛みという言葉が選ばれるであろう。そしてここに確言し得ることは、日本悲劇の唯一の関心事たる痛みこそ、我々の主題たる神の痛みに最も深く呼応するということである。(北村嘉蔵『神の痛みの神学』より)

これを読んだ私には、なぜだか宮沢賢治の「オツベルと象」が思い出された。

中学校の頃だったか、国語の教科書に載っていた文章である。

それ以来、私の中で「つらい」という言葉は、「苦しいです、サンタマリア」という「オツベルと象」に出てくるあの言葉と結びついてしまうのだ。
それが「助けて、サンタマリヤ」という言葉に変形されていることもある。

ある晩、象は象小屋で、三把の藁をたべながら、十日の月を仰ぎ見て、
「苦しいです。サンタマリア。」と云ったということだ。
こいつを聞いたオツベルは、ことごと象につらくした。
ある晩、象は象小屋で、ふらふら倒れて地べたに座り、藁もたべずに、十一日の月を見て、
「もう、さようなら、サンタマリア。」と斯う言った。
「おや、何だって? さよならだ?」月が俄かに象に訊く。
「ええ、さよならです。サンタマリア。」
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関連記事:カラマーゾフの叫びは「唯一の真剣な無神論」―マクグラス『キリスト教神学入門』より 2010年01月28日
(→20世紀後半の「神の不可受苦性」から「苦しむ神」への転換について。)