ブログ・プチパラ

未来のゴースト達のために

ブログ始めて1年未満。KY(空気読めてない)的なテーマの混淆され具合をお楽しみください。

性懲りもなくまた何かを「はじめたい」ひとのためにー石川輝吉『カント 信じるための哲学』

2010年03月11日 | 生命・環境倫理
「ツイッター 集めて早し 最上川」ーツイッターの流れが速すぎてブログが追いつかない・・・


最近、石川輝吉『カント 信じるための哲学』を読んでけっこう感動したのだが、最近ツイッターのほうが面白くなってきてしまって、ブログ更新のほうが進まなくなってきた。

なかなか十分に整理ができそうにないので、この本や、この本に刺激されて最近、走り読みしているカント、アーレントから気になる言葉をピックアップしたものをあまり整理しないまま、以下に並べておく。

石川輝吉『カント 信じるための哲学』は、現代の「人それぞれ」の世界でどうやって「世界への信頼」を取り戻していくのか、ということについて語っている。そこでカントがヒントになるというのだ。文章は、わかりやすい。

「あとがき」に、

>最初は、わたしの青春物語やサブカルチャーからの引用も交えて、文体もやわらかい方向で書いていた。しかし、わたし自身の力不足もあり、こうした書き方でカントの哲学をあきらめることになった。

とあるのだが、もしそういうサブカルっぽい書き方だったら、私がこの本を読んで感銘を受けることもなかったかもしれないので、「よかった」と思った。この本の文体は、適度にやわらかく、適度にアカデミックで、私にとって「ちょうどよい塩梅」となっている。

カントの道徳的な人間のイメージについて、石川氏はたとえば次のようなわかりやすい比喩を使う。「ドライバー」のたとえ。

>「うれしいとも、悲しいとさえ感じず、ひたすら善いことを意志する人間」
>「むこうから逆走してくる車があるのに左側通行を守りつづけるドライバーのようだ」(145p)

わかりやすいです。


「ひとそれぞれ」「それって君の趣味でしょ」が前提となっている現代でも、もしかしたら「善いこと」「美しいこと」を語り合う価値があるかもしれない。ーカントとアーレントの現代的意義。


この本でもっとも私の関心を引いたのは、カントの『判断力批判』とアーレントの政治哲学との関わりだ。


>アーレントのカント解釈の特徴は、ひとことで言えば、カントの三批判書を意味と価値の原理として読み直している点にある。これは、物自体を不可知のものとしてではなく意味として読み、善や美といった価値の本質を他者関係のなかで深められるものとして置いた画期的な解釈だ。ここには、わたしたちがカントの哲学を現代によく生かすうえでは欠かせない原理が含まれている。(石川輝吉『カント 信じるための哲学』214p)

>アーレントは、カントによる美の道徳への方向づけ、美の善への回収、という文脈を上手にはずし、美は普遍性をめざして論争できる、とするカントの議論を政治の原理にも応用できると考えた。(219p-220p)

>善の普遍性は、あたかも幾何学の問題を解くように、ひとりでじっくり考えれば正しい答えとして見つかるとカントは考えた。ここには議論の必要もない。一方で、カントは美については、その普遍性をめぐって論争が行われるものだと考えた。だが、けっきょくは、その美の普遍性を善の普遍性でもって根拠づけてしまった。

>ようするにこうだ。アーレントは、カントが美を善に回収する一歩手前のところ、この論争ということのみに注目する。美は、善という普遍的なものの象徴だから論争されるのではなく、論争されるから普遍的なのだ。そして、善もまた、論争されることで普遍的となる。

>善と美の普遍性は、それを他者と話し合うことによってのみ確かめられるようなものなのだ。こうした「意味」をめぐって言葉を交わす場面を、アーレントは「社交性」と呼び、次のように説明している。

>>人間の社交性とは、人間は誰も一人では生きられない、という事実であり、人々は単に欲求と世話においてだけではなく、人間社会以外では機能することがない最高の能力である人間精神においても、相互依存的である。-アーレント『カント政治哲学の講義』
(220p-221p)

>まず、自分で普遍的だと思うことを言葉にしてみること。そしてそれを他者と交換してみること。そうすることで、お互いの言葉を鍛え合うこと。こうすること以外、だれも真理の立場に立つことのできない社会では、意味や価値の根拠はない。

>そもそも、社交性とは、たとえば、ジンメルがそう考えているように、自由を手に入れたと同時に孤独も手にした近代の都会に住む人びとのコミュニケーションのあり方の本質だと言える。現代のわたしたちは、〈ひとそれぞれ〉の時代に生きている。だれも真理の場所に立てないこの時代だからこそ、アーレントがカントの読みで示したように、すべてを「わたしたちにとって」、〈ひとそれぞれ〉の主観のあらわれであることを土台にして、そこからなにが普遍的かをお互いに交換しあうことの意味がある。このような言葉の営みにはまた、わたしたちの孤独を解く可能性もあるはずだ。

>そして、言葉を交わすことを通じて、この世界に自分だけでなく多くのひとの納得できる善や美がある、さまざまな価値あるよいものがある、という確信が深まることは、おそらく、この世界を信じられることに通じているはずだ。
(222p)


「社交性」と「普遍性」-アーレント『カント政治哲学の講義』より


以上、石川輝吉『カント 信じるための哲学』からの引用だが、次にアーレントの『カント政治哲学の講義』(法政大学出版局)を走り読みしてみた。

拙ブログで以前取り上げた、加藤秀一『個からはじまる生命論』で触れられていた、「多数性」という概念、「開始」という概念も、このへんと関係してくるのかもしれないと思いつつ読んだ。

>「交際は思索者にとって不可欠である」。社交性というこの概念は、『判断力批判』第一部の鍵をなす。(アーレント)

…この「社交性」という概念と関連するものとして、アーレントはカントの『永遠平和のために』の「訪問権」という条項に注目したりする。

>自然の計略や人間の単なる社交性についての従来の関心は、すっかり消え去ってしまったわけではない。しかしこれらの関心はある変化を被る、あるいはむしろ新しい予期しない定式化のもとに現われる。こうして我々は『永遠平和のために』の中に、「訪問権」を定めた奇妙な条項を見出すことになる。訪問権とは、他国を訪問する権利、厚遇の権利、そして「一時的滞在の権利」を意味する。(アーレント)

…以下、他に気になったアーレントの文章をかなり適当に抜き出しておく。

>言論及び思想の自由とは、我々が理解しているように、個人が他者を説得して自分の見解を共有させることができるようにするために、自分自身と自分の意見とを表現するという権利である。(…)この事に対するカントの見解は非常に異なっている。カントは、当の思考能力がその公共的使用に依存すると考える。「自由なかつ公開の吟味という試験」なしには、いかなる思考もいかなる意見形成も不可能である。理性は「自らを孤立させるようにではなく、他者と共同するように」出来ている。

>ヤスパースの言葉の中に、真理とは私が伝達しうるもののことである、というのがある。

>哲学的真理が持たねばならないことは、これはカントが『判断力批判』の中で趣味判断について要求したことであるが、「普遍的伝達可能性」である。「なぜなら自分の考えを相互に伝達し語ることは、とりわけ人間そのものに関わるすべての事柄については、人類の本然の使命だからである」。

>我々は批判的思考の政治的含意について論じ、そして批判的思考が伝達可能性を意味するという見解について論じていた。ところで伝達可能性は明らかに、話しかけられうる人々や、傾聴しており、また傾聴されうる人々の共同体を前提している。「なぜ人間(Man)よりもむしろ複数の人々(men)が存在するのか」という問いに対しては、人々が互いに語り合うために、とカントは答えたであろう。

>カントが語っているのは、いかにして他者を考慮に入れるかということである。活動するためにいかにして他者と結合するか、ということについてはカントは語っていない。

>『人類史の臆測的起源』の中で、「人間のために設けられた究極目的は社交性である」、とカントは述べているが、このことは社交性が文明の行程を通して追求さるべき目的であるかのような印象を与える。しかし我々がここに見出すのは、反対に、社交性は人間の人間性にとって目的ではなく、まさしく起源であるということである。つまりここに見出されるのは、人間がただこの世界に属するかぎり、社交性こそがまさしく人間の本質をなすということである。

>この理論は、人間の相互依存を必要と欠乏のために仲間に依存することであると主張するような、他の一切の理論から根本的に一線を画するものである。カントは、我々の心的能力のひとつである判断力の能力が、少なくとも他者の存在を前提する、ということを強調する。

>我々は他者の立場から思考することができる場合にのみ、自分の考えを伝達することができる。さもなければ、他者に出会うこともなければ、他者が理解する仕方で話すこともないであろう。

>我々は自分の感情や快や、利害を離れた喜びなどを伝達することによって、自分の選択を告げ、自分の仲間を選択する。「私はピュタゴラス主義者たちと共に正しくあろうとするよりは、むしろプラトンと共に間違っていようとするだろう」。結局、我々が伝達することのできる人々の範囲が広ければ広いほど、伝達する対象の価値も大きいのである。


ライプニッツもカントも「昆虫系男子」?ーカント『実践理性批判』より


ついでに、岩波文庫のカント『実践理性批判』からも抜き出しておこう。

カントは「感情」や「経験」抜きで、つまり「理性」で「道徳」や「倫理」のことを考えようとしたらしいのだが、カントを読んでいると、たとえば道徳法則への「畏敬」といったカントの生々しい感情が伝わってくる。

私は道徳や倫理といっても、「模倣」や「感情」が大事になってくると思っている。カントも、素朴で「誠実な人」を見たときの自分の感情を述べている箇所がある。昔の教育でも「感化される」というのは大事なファクターだったと思う。


岩波文庫『実践理性批判』161p-162pより。

>私は更にこう付け加えることができる、「ここにひとりの、社会的にはまことに微々たる身分の人がいる、しかし私はこの人に、私がみずから内に省みて忸怩たるほどの誠実な性格を認めている、するとーたとえば私が欲すると否とに拘らず、また私が自分の身分の優越を彼に見誤らせまいとして、いかに昂然と頭をもたげてみても、私の精神は彼の前に屈する」と。

>いったいこれはなぜだろうか。彼が身をもって示すこの実例は、私の眼前に一個の法則(誠実という)を提示する、そしてこの法則を私の行状と比べ合わせると、私の独りよがりは無残に打ちくだかれ、この法則が実際に遵奉されていること、従ってまたこの法則は実行できるものであることを事実によって証明しているような実例をまざまざと見せつけるからである。

>私を照らしているよりもいっそう純粋な光のなかへ姿を現しているこの人は、私にとってやはり一個の亀鑑となるのである。尊敬は、我々が欲すると否とに拘らず、他人の功績に対して我々が否応なしに捧げる貢物である。我々は、事と次第によっては尊敬の感情を表に現すことを差し控えるかも知れないが、しかしこれを内心に感じることをついに禁じ得ないのである。

…こういう「模倣」や「感化」というのは、「理性」ではなくて、「経験」や「感情」に根ざしたものだと思う。でも、それさえも「なぜそういう人間を見て感動してしまうのか」ということを考え出すと、カントがいう「先験的」な判断ということになるのかもしれない。

最後に、「こぼれ話」として、『実践理性批判』を走り読みしていて、「ちょっといい話だな」と思ったライプニッツの「昆虫観察」のエピソード。

313p-314pより

>自然を観察する者は、初めは彼の感官にとって嫌らしいと思われた対象でも、そのものの有機的組織のなかにすばらしい合目的性を発見して、彼の理性がかかる考察を楽しむようになると、ついにはこの対象を愛好するようになる。

>それだからライプニッツは、一匹の昆虫を顕微鏡下で丹念に観察し、それが済むとまたこの虫をそっと元の葉の上に返したのである、彼は昆虫を観察することによって教えられたことを知り、この昆虫からいわば恩恵を蒙ったからである。

ライプニッツとかカントも「昆虫系男子」だったのかなぁ…。私見だが、「きたない」に「きれい」を発見するのって、男の子によく見られる能力だと思う。女の子って「きれい」なものを「きれい」とする感受性は強いが、「芸術」や「宗教」や「科学」など、これらは「きたない」に「きれい」を発見する能力とも関係していると思うのだが、そうしたものを自力でこしらえる力が弱かった(ような気がする)。

「生物多様性」の保全の根拠って何?ー「変化するシステム」の保存 と、「おばあちゃんの知恵」の保存。

2010年03月05日 | 生命・環境倫理
2010年に名古屋でCOP10が開かれる、っていうけど、私には「生物多様性の保全」の根拠がサッパリわからない。


今年は名古屋で生物多様性条約COP10が開かれるという。

私は、「生物多様性」を保全することの根拠がよくわからなかったので、自分のツイッターで次のように呟いた。


>生物多様性保全の根拠がわからない。絶滅危惧種を守る、ということの倫理的根拠がよくわからない。(2010年2月28日)

>絶滅寸前のトキを一匹殺すことと、カラスを一匹殺すことと、どちらが倫理的に「より悪」なのだろうか?

>種の多様性の保全、っていう発想、なんか「ノアの箱舟」を思い出す。それぞれの種の「つがい」だけ救い出せば、あとの「その他大勢」の生物たちは海の藻屑となっても構わない、という…


ツイッター上での@Clunioさんからの返答ー「生態学的サービス」が根拠。また「多様性の保全」とは「変化する力」を保存することだ。


この私の呟きに対して、@Clunioさんから次のような返答を頂いた。


>合理的根拠としては人類は直接・間接的に生態系から「生態学的サービス」を受けて生存している、あるいは経済活動も「生態学的サービス」により成立していることによります RT @alsinceke: 生物多様性保全の根拠がわからない。(2010年2月28日)

…「生態学的サービス」または「生態系サービス」については、後でもう少し専門家の言葉を引用しておこう。

>種の多様性は個体群の中の遺伝子多様性によって担保されるのでひとつがいだけ救出しても無意味 RT @alsinceke: 種の多様性の保全、っていう発想、なんか「ノアの箱舟」を思い出す。

>変な話ですが、トキの絶滅は皇室祭祀を危機に陥れます。つまり日本の国家の正統原理に大きな「生態系サービス」を提供している。 RT @alsinceke: 絶滅寸前のトキを一匹殺すことと、カラスを一匹殺すことと、どちらが倫理的に「より悪」なのだろうか?

…この@Clunioさんの「トキの絶滅」「皇室祭祀」という言葉のつながりは、一見奇妙に思えるが、生物多様性の保全の根拠として、私は「共同体主義」的価値観、「保守主義」の価値観を根拠としたものがありうるかもしれない、と思っているので、この見方は、ジグソーパズルの一片として、どこかで回収できるかもしれない。

>厳密には「より多くのつがい」だけでなく、個体に共生している数多くの微生物や親から子に伝えられる「生活の知恵」も保存しないと種の多様性の保全にはなりません 。

…ここに「生活の知恵」という言葉が出てきたが、保守主義的な自然保護思想、という流れを考えれば、こうした言葉もまた合流してくることになるだろう。

…私が最近読んだ、池田清彦氏の『正義で地球は救えない』などの著作では、「生物多様性保全」の思想が批判されている。「生態系とは変化していくもの」ということを前提にすると、たしかに生物多様性保全というのが「何を守ろうとしているのか」が明確ではなくなってくる。私もそこに疑問を持った。たんに、研究者たちが自分達の研究材料を保存したがってるだけじゃないの? という疑念も生まれる。しかし@Clunioさんは、生物多様性の保全とは、「変化していく力」を保全していくことなのだ、と言う。

>変化していく力を持ったシステムそのものを変化していくまま保全していくわけですよ RT @y_mirin: これからも変化していくものを保全してどうするのかな。研究対象の保全?@Clunio RT @alsinceke: 種の多様性の保全

…「変化するシステム」を保存する、という言い方には目を開かれた。内田樹氏がよく使う言葉でいえばこれは「次数が一つ繰り上がる」ということだ。なるほど、と思った。

また、私が生物多様性の保全の「倫理的根拠」という話から始めたので、別の方からCOP10の根拠はそのようなものではない、という指摘も頂いた。

>@wata909: @Keiko_dolphin 倫理的動機から多様性を保全するのではなく,利用可能な資源を保護するための生物多様性保全というとらえ方が主だったように感じました。私もそちらの方が重要だと思います。

倫理学の言葉で言うと、これは「功利主義的な立場」だということになるだろう。そして私は、「環境倫理」と言われるものよりも、むしろそちらのほうが重要だと言いたかった。「倫理」を持ち出して、環境保護思想はアヤシクなってきた、という側面があるからだ。


「おばあちゃんの知恵」のようなものとして「自然」を守る。「共同体主義的・保守主義的」な態度がありうるんじゃないか。


なお、私が最近、時々考えることがある、「共同体主義」の価値観・「保守主義」の価値観を根拠とした「自然保護」というのは、簡単に言えば、「おばあちゃんの知恵」のようなものとして、自然を守ろう、という態度のことだ。

現在の自然保護思想において影響力があるという、レオポルドの「土地倫理」とか、「自然の権利」などのやり方は、私のような素人目に見ても、かなり危なっかしいもので、それとは別のアプローチができないものか、と考えていると、とりあえず、「共同体の倫理」というのに行き着く。(伊勢田哲治『動物からの倫理学入門』に、そのような考え方へのヒントが書かれてあった。)

「保守主義」の感覚ー「おばあちゃんの知恵」みたいなもの、「古いもの」はとりあえず残しておこう、という態度。美術品でもそうだけど、世界には何となく、よくわからないけど「残しておいたほうがいいのかな」と思えるようなものがある。

自然界には「複雑で調和のとれたもの」がある。そういう「複雑で調和のとれたもの」は、それが何かの役に立つのかどうか、どういうシステムで動いているのか、今はまだはっきりわからなくても、とりあえず将来のために残しておこう、という、いわば政治学における「保守主義」のような感覚に基づいて、自然を残しておこうという考え方がありえないかなー、といったことを考えている。

「おばあちゃんの知恵」がホントに賢い言葉なのかどうかは、科学的に「調査」してみても、よくわからない。ただ単に、そのおばあちゃんは実はちょっとボケてて、どこかで聞いた言葉を壊れたレコードのように繰り返しているだけにすぎず、別に「複雑で調和のとれたもの」がそこには全く存在していない可能性だってある。見たい人が勝手に、そこに「奥深い知恵」や「価値あるもの」を見出して喜んでいるだけなのかもしれない。しかし人間の理性では、今の段階ではそれを全くのムダだと判定することはできない。だから、とりあえず「保存」しておこう。


『現代用語の基礎知識 2010』の「生態系サービス」の説明を読むと、ワケワカラナイ。どちらかを選ぶとするなら、やはり『日本の論点 2010』の方を買いましょう。


最後に、@Clunioさんが挙げていた「生態学的サービス」だが、『現代用語の基礎知識 2010』にも「生態系サービス」について記述があったので、勉強のためにも引用しておく。

『現代用語の基礎知識 2010』の巻頭に『「生物多様性」ってなんだろう?』という特集があり、そこで、横浜国立大学・環境情報研究院教授の松田裕之氏という方が、Q&A形式で、生物多様性の保全について説明している。

松田氏によると、多様性といっても3つに分けることができて、「生態系の多様性」、「種の多様性」、「種内の遺伝的多様性」という3つの多様性が大事だという。

3つに分けたからといって、それで多様性保全の「大事さ」の説明になっているのかどうかは、よくわからない。これらをまとめて、@Clunioさんの言うように「変化する力」を保存するのが多様性保全なのだ、という言い方をしたほうが私にはわかりやすい。

以下、引用するが、困ったことに、これも私にはあまり「よい説明」だとは思えない。

「生態系サービス」って何? という質問に対し、松田裕之氏はまず「自然の恵み」と答えている。そして、今度はそれを「3つに分けて」説明し、「調整サービス」「文化サービス」「基盤サービス」という3つの「生態系サービス」があるんだよ、と言っている。なんのこっちゃ。これじゃさっきと同じで、1つの「?」を3つの「???」に分けただけで、ほとんど答えになっていないと思う。

・・・・・・・・

「Q.なぜ生物多様性が大切なのですか?」
「A. 近代文明が発達しても、私たちは多くの生活必需品を生き物から得ています。これを「生態系サービス」または自然の恵みといいます。農林水産物は人手をかけた田畑や森や海だけでなく、周囲の生態系全体の調和が大切なのです。人手をかけた自然との調和が損なわれることになるのです。」


「Q.生態系サービスとは?」
「A. 食料、木材、繊維などの供給サービス、洪水、水質汚濁、疫病などを制御する調整サービス、観光資源、祭儀などの文化サービス、これらを支える光合成などの基盤サービスに分けられます。半世紀前には世界第4位の広さを誇る湖だったアラル海は、綿花栽培の大量の灌漑用水のために枯渇し、現在では27%に縮まりました。湖の漁業は痛手を受け、広域の塩害を招きました。不適切な土地利用は湖や地形をも激変させ、結果的に調整サービスを損なったのです。」

・・・・・・・・・

(以上、『現代用語の基礎知識 2010』より。松田裕之氏の説明)


どうだろうか。あなたはこの説明で納得できただろうか。

追記:この記事を書いた後、@silasdorさんのツイッターで知った平川浩文氏の論文「歴史的価値としての生物多様性の保全」を読み始めた。まだ読んでいる途中だが、この論文に「生物多様性の保全を支える価値観は、歴史的価値観である」という言葉がある。参考になりそうな論文だ。

「障害者」という言葉についてーもともとは「身体的条件の異なる無数の人々」がいるだけ。

2010年03月05日 | 生命・環境倫理
鳩山首相の提案ー「障害者」より「チャレンジド」という言葉を使った方がいい。


鳩山首相が「障害者」という呼称に代えて、「チャレンジド」を使うようにしたらどうか、と提案しているらしい。→(「障害者」から「チャレンジド」へ 首相ご推薦の新呼称は定着するの?(サイゾー)2010年2月23日

「障害者」とは変な言い方だと、私も前から思っていたが、「チャレンジド」もどうかと思う人は多いだろう。

そもそも政策上「援助を受けるべき人」を定義するためには、人間の「線引き」は避けられそうもないので、どう言い換えたとしても、このような「変な言葉」が出てくるのは仕方のないことなのかもしれない。


私がふと思いついた「障害者」の定義ー「身体的条件の異なる無数の人々のうち、現在の経済的・社会的条件の下で、以後、経済的・社会的に不利な生活を強いられる可能性が高いことが推測される人たちのこと。」


それでは、仮に「障害者」を定義するとしたら、どう定義したらよいのだろうか。

人間はみな、それぞれの肉体的条件を負っている。

つまり、人間は「健常者」と「障害者」にスパッと分けられるわけではなく、世界には、ただ、「肉体的条件の異なる無数の人たち」が存在するだけなのだ。

しかし、時代によって「その範囲」は変化すると思われるが、そこから国の政策上、「障害者」としてくくり出される人たちがいることも事実だ。

このようなことを考え合わせてとりあえず、次のような定義になるのかなと思った。

「障害者とは、身体的条件の異なる無数の人々のうち、現在の経済的・社会的条件の下で、以後、経済的・社会的に不利な生活を強いられる可能性が高いことが、現在の医学的診断の結果等を根拠として推測される人たちのことである。」

この定義がどういうところで役に立つのかはよくわからない。

でも「障害者」という「線引き」が、いくつもの「条件」を重ね合わせた「暫定的なもの」にすぎない、という感覚を強調しているつもりだ。

「苦しいです。サンタマリア」を思い出すー北村嘉蔵『神の痛みの神学』

2010年02月27日 | 宗教・スピリチュアル
一体、どんな人たちが読んできたのだろう。・・・北森嘉蔵『神の痛みの神学』


近所の市立図書館の「書庫」から、日本のキリスト教神学者の著作、北森嘉蔵『神の痛みの神学』(1981年、初版1946年)という本を借り出した。

走り読みにすぎなかったが、一応目を通した。

この本は、1981年出版の本で、最後のページに、今のシステムではもうない「図書館カード」の記録が残っていた。

図書館カードの「本の返却期日」にハンコが押してある。

昭和57年12月23日
昭和58年1月27日
昭和59年3月22日
昭和61年1月12日
昭和61年3月9日
昭和61年5月10日
昭和61年5月24日
昭和61年6月7日
昭和61年9月27日
昭和63年11月17日

この時期に、こんなキリスト教神学の「辛気臭い」本を借り出していたのは、一体どういう人たちなのだろうか。

1986年(昭和61年)に「6回」借り出されているのだが、翌年には「0回」、翌々年には「1回」となって、それ以来借り出しが少なくなったので、「書庫」にしまわれることになったのだろうか。

なんとなくこの本のそういう「歴史」を想像してしまう。


「神の痛み」。ー日本人の人間関係の「つらさ」。ー「オツベルと象」。


私が北森嘉蔵という名前を知ったのは、マクグラスの『キリスト教神学入門』で、『神の痛みの神学』は、欧米のキリスト教会にもかなり影響を与えた本らしい。

20世紀後半の神学では、伝統的な神の「不可受苦性」への懐疑が生まれ、「苦しむ神」という概念への注目が集まった。「神の痛みの神学」も、その流れの一つであったらしい。

マクグラスは、

>「苦しむ神」の神学的意義についての議論に貢献したものの中で、次の二つが特に重要である。

として、

1.ユルゲン・モルトマン『十字架につけられた神』(1974年)
2.北村嘉蔵『神の痛みの神学』(1946年)

を挙げている。

今回、私の目に留まったのは、「神の痛み」と日本人の「人間関係」における「つらさ」との関連が述べられている箇所だった。

北森は、日本の文芸上、悲劇の特徴は「人間関係の悲劇」だった、と言う。それが日本人の心にある「つらさ」であり、それは「神の痛み」と言うときの「痛み」と対応している、と言う。

「苦しみ」でも「哀しみ」でもなく、「つらさ」なのだ。

>日本の悲劇は他の国の悲劇と著しく相違せる性格をもっている。他の国の悲劇が多くの場合事件の悲劇や性格の悲劇であるに対して、日本の悲劇はいわば人間関係の悲劇とも称すべきものである。

>この人間関係はつらさという日本特有の言葉によって表現される如きものである。(辛さは苦しさでもなく悲しさでもない)。日本的人間の深さはこの「つらさ」において極まる。日本的にいって深さのある人間、「もののわかる」人間は、このつらさのわかる人間である。つらさのわからぬ人間は、浅い人間であり、「味気ない」人間であり、要するに日本人らしくない人間である。そして市井の民の方が上層の人間よりかえってこの点において感覚が鋭敏である。

>日本のこころは日本の庶民の心に代表され、庶民の心は日本の悲劇文学の中に芸術表現を見、日本悲劇の根本性格は「つらさ」において極まる。さてこの「つらさ」を今少しく一般的な言葉にいい直すならば、痛みという言葉が選ばれるであろう。そしてここに確言し得ることは、日本悲劇の唯一の関心事たる痛みこそ、我々の主題たる神の痛みに最も深く呼応するということである。(北村嘉蔵『神の痛みの神学』より)

これを読んだ私には、なぜだか宮沢賢治の「オツベルと象」が思い出された。

中学校の頃だったか、国語の教科書に載っていた文章である。

それ以来、私の中で「つらい」という言葉は、「苦しいです、サンタマリア」という「オツベルと象」に出てくるあの言葉と結びついてしまうのだ。
それが「助けて、サンタマリヤ」という言葉に変形されていることもある。

ある晩、象は象小屋で、三把の藁をたべながら、十日の月を仰ぎ見て、
「苦しいです。サンタマリア。」と云ったということだ。
こいつを聞いたオツベルは、ことごと象につらくした。
ある晩、象は象小屋で、ふらふら倒れて地べたに座り、藁もたべずに、十一日の月を見て、
「もう、さようなら、サンタマリア。」と斯う言った。
「おや、何だって? さよならだ?」月が俄かに象に訊く。
「ええ、さよならです。サンタマリア。」
・・・・・・・・・・・・・

関連記事:カラマーゾフの叫びは「唯一の真剣な無神論」―マクグラス『キリスト教神学入門』より 2010年01月28日
(→20世紀後半の「神の不可受苦性」から「苦しむ神」への転換について。)

東浩紀氏・司会『朝までニコニコ生激論』ーベーシック・インカムについて⑥(終わり)

2010年02月24日 | 労働・福祉
2010年2月20日(土)24時30分~(約3時間)
【番組名】「朝までニコニコ生激論」
テーマ『ベーシック・インカム(キリッ』
司会・進行:東浩紀、講師:山森亮、パネラー:堀江貴文、雨宮処凛、白田秀彰、城繁幸、鈴木健、濱野智史、小飼弾

を見ながら走り書きしたメモを見て、自分の推測をまじえたままの、まとめの意味のメモ書き。

番組は、鈴木健氏の「官僚ゴールデンパラシュート論」など、BIと関係のない提言のほうが刺激的だったところもある。

しかし、この番組は何も「BI」だけがテーマではなく、司会の東浩紀氏が最後のほうに述べていた、「この国のかたち」について議論することこそが「政治」なのだ、という言葉の上にも成り立っており、「もしかしたら、このように変えられるかもしれない」という世界への意思、つまり「可能世界」への想像力が刺激される番組となっている。

出演者のほとんどがBI支持派で、その中ではただ一人、城繁幸氏だけが「私は労働の価値を信じる」と明言していた。
拙ブログでは、過去に城繁幸氏への悪口を書いたこともあったが、これを見て私はかなり見直したぜジョー。

鈴木健氏

ベーシック・インカムに基本賛成。

その理由は、

1.この200年での生産性の向上は人類を養うのに十分である。
2.コミュニケーション産業(情報産業と情動産業)が今後主要産業となる。
3.労働とゲーム(遊び)が今後100年間で次第に融合していくため基本所得の上での自由な労働(あるいはゲーム)が可能になるから。

「潜在限界税率」というものを調べると、働いてある所得を超えると、手取りの所得が下がるポイントがある。
そのグラフを見るとどのような所得補償をすればいいのかがわかる。
アメリカにはそのデータがあるのに、日本にはまだない。

BI導入のために、「官僚制の壁」と「国民世論の壁」という二つの壁がある。

「官僚制の壁」に対しては、次のような解決策がある。

民主党の公務員改革が成功すればそれでいいのだが、もしそれが失敗したら、奥の手として「官僚から国家を買い取る」という「官僚のゴールデンパラシュート」をやればよい。

「官僚のゴールデンパラシュート」とは、官僚の退職金を釣り上げることによって天下りを防ぎ、「官僚から国家を買い戻す」というアイディアである。

例えば、次のような計算になる。

・国家一種官僚退職時に本人の選択で、2億円給付し、その代わりに公職も民間も含む一切の職につかせないようにする。国家一種600人×2億円(毎年1,200億円×30年=3,6兆円)。
・効果は毎年10兆円×100年=1,000兆円。

「国民世論の壁」に対しては、「可能世界」への想像力を活性化させていくしかない。

例えば、複数の個人を利益集団ごとに分断するのではなく、個人を複数の利益集団に分断させる作戦として、次のようなものがある。

・多重職業(同時に2つ以上の職業につくこと)にインセンティブを与える。
・税率に乱数(さいころ)を入れて、他の所得の人の気分を想像できるようにする「さいころ税」の導入。
・divicracy によるビジュアルグラフ投票で限界税率のグラフを直接投票させる。
・個々人の過去、現在、未来の税金と見返りをリアルタイムで把握できる高度なシミュレーションツールを用意

これらにより、国民の他者への想像力と可能世界への想像力を活性化させる。

BIは「ナショナル・ミニマム」を達成するための一つの手段である。

また、ミーンズ・テスト(資力調査)が差別的になることがある。

たとえば夜中に突然生活保護受給者の家に入っていって、「同棲している男」がいないかどうか調べたりする。

「ガバメント2.0」を議論しようという動きがアメリカにはある。
政府は「stupid」でよい。データをいっぱい出して、それらを使って国民がテクノロジーを使って判断を下すことができるようなシステムを作ることが出来る、というものだ。

ハンガリー、スウェーデンなどは、そのような「民主主義2.0」のような直接民主主義のスタイルを実現するために、実際に候補者を擁立する動きがある。

地方政府に立候補者を出して、支持者たちの議論で「政策」ごとに反対や賛成が決まっていく仕組み。(小飼弾氏が言う。「おもしろい。党是を持たない政党、ということか。「メタ党是」しかない政党だね。」)

堀江貴文氏

コンビニなんて自動化したらよい。

ドアマンと自動ドアとどちらが必要か、現代の社会は、働く人を維持するために、無理矢理仕事を作っているようなところがある。

現在のテクノロジーを使えば今あるかなりの仕事がなくなるはずだ。

だからBIが必要なのだ。

前田氏の言うような直接民主主義的な仕組みは、日本だと「地方首長」の選挙でやったら面白いかもしれない。

城繁幸氏 

BIについては、留保つき賛成である。

給付付き税額控除など、働いていることを前提とした給付ならよいが、私は「労働の価値」を信じる者として、すべての人が生活を保証されれば働かなくなることを懸念する。

BIは「労働の価値」を否定しているように見える。

年収300万円くらいの人たちが、一生懸命働いてきたからこそ、現在の先進国の繁栄がある。

BIを渡したらその人たちが働くことをやめてしまう。みんなの頑張りがなくなってしまう。

BI導入に反対するのは、家族もいて家のローンもあって、働いているサラリーマンだろう。
 
そういう人たちの負担が多くなる。

最低時給を撤廃し、時給300円の仕事も可能にするが、働いている人たちには金銭補助する、という形がよい。

そうすれば、中国よりも日本のほうが安全だから工場を作ろう、という動きも出てくるはず。

BIは、与えられたお金だけで満足してね、ということだろうが、それだけでは満足できないからこそ、旧ソ連も崩壊したのではないか。

不景気な時、貧しい時に共産主義への憧れが生じたように、今はBIへの憧れが生じている。

BIは「競争」を排除するのではないか。
そうだとしたら、旧ソ連、社会主義諸国がやったことと同じことをやることであり、結果は目に見えている。

いろいろな産業があって、IT企業のように一人の天才が生まれることで産業が成り立つような所ばかりではない。

年収300万円くらいの人たちが、仕事を辞めずに一生懸命働いたことが、今の社会の発展をもたらした。

山森亮氏の解説

ミルトン・フリードマンは、BI導入したほうが、現在の福祉国家よりも労働意欲を高め、賃金労働に従事する人も現在より増えるだろう、と論じている。BI導入は、われわれの直観に反し、「働かない人が増える」政策ではない。

BIのことを聞くと「フリーライダー」をどうするのかという話になるが、そもそも社会は現在でも無数の「アンペイド・ワーク」で回っているのではないか。フリーライダーとは誰のことなのか?

もしかすると「忙しいビジネスマン」が、障害者の補助、介護や家族のことを他の人たちに任せきりにしているのだとしたら、その人たちこそが「フリーライダー」なのだと言えるかもしれない。

現在の社会保障制度は機能不全に陥っている。

完全雇用(探せば仕事はある、仕事があれば食べられる)はもはや神話、ないし「都市伝説」と言ってもよい。

技術革新によって生活可能な賃金を取得可能な労働が減少している。

社会保険という命綱の機能不全が起こっている。

失業保険給付を受給できている失業者はたった23%だ。(2009年に公表されたILOの調査による。ドイツは87%)

生活保護というセーフティネットは穴だらけ。生活保護基準以下で生活している人のうち、実際に生活保護を受給できている人の割合(捕捉率)は2割以下である。

白田秀彰氏 

BIは社会保障制度を運用していくために現在発生している膨大な「取引費用」を大幅に削減できる有効な方法だ。

現在は生活保護の資力テストにしろ、「各人がどのような生を送るか」という生の価値を評価するために多大なコストをかけている。

生の価値という「計算不可能」なものを無理矢理「計算」しようと努力しているので無駄が多い。

学生達の就職活動を見ていると、ほとんど「精神的な奴隷状態」で、雇ってもらうためにあれほど多大なコストをかけているのはクレイジーだと思う。

憲法に「就労の義務」があるからといって、国は仕事を作るために公共事業などを行い、多大な自然環境の破壊や資源の浪費を行っている。

直接、お金を配る方がよいのではないか。

また経済学については素人だが、BI給付がインフレ傾向をもたらすとしたら、今のデフレ対策にもよいことにはならないか。

企業にとってのメリットは、膨大な「企業年金」のコストがなくなることで、BIは企業側にもトクになる。

保守の立場からBIを支持することができる。たとえば地域の祭りや寺社の維持・管理を行う人たちは、BI導入により存続が可能になる。近代においては、曲がりなりにも地域に貢献してきた博徒のような人たちが、お金が入らないために暴力団化していった、という歴史がある。

家族のほころび、たとえばドメスティック・バイオレンスの問題も、経済的な理由で家族から「逃げられない」という構図があり、BIによりその経済的条件をクリアすれば、ふたたび「愛情によって結合する家族」を再構築することができる。

国際労働力の移動や、搾取の問題は、もっとも複雑な問題なので、これはもうちょっと考えなければいけない。

とりあえず、「国籍要件」とBIの話は切り離しておこう。

濱野智史氏

「クリエイティブ・ニート」を増やすことを提唱する。

ニコニコ動画でちょっと面白いものを見れた、というささやかな幸福のためだけにも、ヒマなニート諸君の生活を保障することが有効だと思う。

私もたしかに、日本人だけBI導入という形でよいのか? と思うことはある。

小飼弾氏

労働は尊い、という価値について。

人間は、「ブドウ糖」を作るといった、「負のエントロピー」を増やすという本来の労働を行うことはできない。「本当の労働」というのは、人間以外のものが行っている。人ができるのは労働ではなく、「再分配」のみである。

BIの財源は、死んだ人から配ればよい。たとえば相続税100%にすれば十分まかなえる。

毎年、日本で遺産承継されている額は84兆円。それを配ればよい。

BIは、「他人の足を引っ張るインセンティブ」を完全になくす制度なのだ。

BIは温情主義ではなく、「自助」は必要で、お金を渡してそれで「救ったということにする」という制度。

IT分野だけではなく、今ではたとえば農業でも「天才一人」が残りの人たちを養うような構図がある。

「アイダホポテト」を作っている人は600人くらいしかいない。それで全世界の「アイダホポテト」をまかなっている。

雨宮処凛氏

BIは、「明日が見えない」現在の底辺労働者たちの悲惨な状況を救うために有効だろう。

格差が拡大すること、金持ちが好きなようにお金を使うことは、私は全然反対ではない。

したがってBI導入により、もっと過酷な競争が行われ、格差が拡大するとしても、「貧しくて死んでしまう」ような人を救えるならそれでよい。

それだけが私の目的である。

BIによって貧困による犯罪が減るなら、それはいいことだ。

私が関わっている厚生労働省の「ナショナルミニマム研究会」で論じられいてる「ナショナル・ミニマム」というのは、BIよりも広い範囲のことを扱っており、たとえば「保育所の面積をどうするか」という問題も含まれる。

東浩紀氏

BIはまったくの無条件ではなく、トレーサブルな電子マネーとして発行したらどうか。

政府はその運営のために、BIをもらう人のライフログの情報を集めることが出来る。

もらったBIをたとえばパチンコで全部すったときに、それだけで罰則を与えるわけではないが、ライフログの履歴として残す。

ライフログといった「ただ生きていることの情報」がこれから政治的にも経済的にも重要になってくるのだから、そのようなプライバシー情報と交換でBIを給付するような仕組みを作る。(小飼弾氏が言う。「「匿名のお金」と「顕名のお金」の二層化だね、素っ裸にはされるが、石は投げられない仕組み?」)

時々介入されることはある。

生活の保証はされないが、まったく自由な空間と、生活の保証はされるがプライバシーが捕捉され、介入される可能性があるという空間に、二層化される。

「国民が納得しやすい土壌」を作るためにもそういうBIの「条件性」は必要になってくる。

つまり国がBIを給付するということは、ライフログ、「生きていることのデータ」を国民から買うことに等しい。

BIは格差を解消するのではなく、最底辺を保証することで、今よりも格差が拡大する、苛酷な競争社会になる。

BIは「強い人の論理」であるという批判があるだろう。

お金を渡せばそれで終わり、というのは「判断能力」のない人、お金をもらうだけでは満足できない、という人たちを救うことにはならない、という批判がありうる。

BIは温情主義ではない。

最近小沢問題など、政治とカネの問題ばかりが「政治論議」だと思われている。

この番組のように「国のかたち」を考えることこそが政治なのである、ということが言いたくて、今回の番組を企画した。