ブログ・プチパラ

未来のゴースト達のために

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ホワイトカラーエグゼンプションの議論について自分なりに整理

2010年01月07日 | 労働・福祉
濱口桂一郎氏の『新しい労働社会』は、私は去年の8月ごろ購入しました。
その直後に「リーマン・ショックだから」という理由で、1年間非正規社員として働いていた会計事務所をクビになり、それ以来私の「枕頭の書」となっています。

「枕頭の書」といっても、私は2回くらい目を通しているだけで、ちゃんと咀嚼できるほど読みこんでいるわけではありません。文字通り、自分の枕元の手の届くところに置いているだけです。おもに読むのは電車の中で、しかし、どうしても集中力がとぎれてしまい、最後まで読み通せないことが多いので、わたしの理解は断片的なものにとどまっていると思います。

最近『EU労働法政策雑記帳』で濱口氏と攝津氏とのやりとり(以下の①②③)を読み、久しぶりに私も『新しい労働社会』を読み直すことになりました。
→①『EU雑記帳』攝津正さんの拙著書評
  ②『EU雑記帳』攝津正さんの書評その3:よくわからない点
  ③『EU雑記帳』攝津正さんの拙著に触発された感想

ちなみに、ついでに攝津正さんのブログを読むと、「生命力が衰弱している」とか「死にたくなった」とか弱音を吐いていて、何だか可哀想です。

そういうときは、頭に血が昇っていることが多いので、「足湯」や「腕湯」をすすめます。風呂場でおけにお湯を張って、足首から先を数分間つけるというのが、「足湯」。「腕湯」は洗面所にお湯を張って、ひじから先だけをお湯につけるというものです。身体の先端だけを温めるようにすれば、全身がホッとした楽な気分になります。冬の寒い日には、ホットコーヒーを買って缶に手を当てて、指の先端を温めるだけで、全身が温かくなるような気持ちがするでしょう。それと同じことです。あるいは、近くのドラッグストアに行って、粉末状の「しょうが湯」を買ってきてそれを飲むのもよろしい。老婆心ながら、とにかく身体を温めろ、と忠告しておきます。

また、攝津さんは三島由紀夫の小説などを読んでいるようですが、橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』には既に目を通しているのでしょうか。
私はこの本を読んで、自分が三島由紀夫のどういう部分が好きなのかが、なんとなくわかったような気がしました。

いけません。脱線してしまいました。
私は今回、②の濱口氏と攝津氏とのやりとりにあった、ホワイトカラーエグゼンプションの議論について、自分なりに頭の中を整理してみたので、それを以下に書いてみます。

残業代ライン、「ワークライフバランス」ライン、過労死ライン。

労働時間規制、残業代規制についての話ですが、まず自分にわかりやすいように、一応の目安として、夕方6時、夜8時、夜10時という三つのラインを引いてみました。ここで数字を振るのは、とにかく三つのラインを示したいから。8時がたとえば7時になっても別に構いません。

んで、とりあえず、夕方6時のラインを「これを超えたら残業代が発生するライン」とします。これが第一のラインです。
第二のラインである夜8時を、「ワーク・ライフ・バランス」達成のためのラインとします。
第三のラインである夜10時を、これを超えたら死んでしまう「過労死」ラインとします。

日本では、夜10時まで働いても、身体の健康を維持することはできる、別に死ぬことはない、だからお前も頑張れ、という感覚を持っている人が多いと感じています。

しかし、ヨーロッパ的なワーク・ライフ・バランスという考え方の背景には、生物学的個体としての人間は死ななくても、文化的・社会的存在としての人間は死んでしまう、という感覚が背景にあります。(てなことを、宮台真司氏がどこかで言ってました。)

だから、第二のライン、夜8時の「ワーク・ライフ・バランス」ラインというのを設定してみることにしました。

第一のラインである夕方6時というのは、朝9時から夕方6時まで働き、これを超えたら経営者側は割増賃金を払わなければならない、というラインです。

よく知りませんが、この第一のラインも、もともとは労働者の健康維持のために出来たラインだったはずです。イギリスの産業革命時の炭鉱労働者みたいなイメージを思い出すと、やっぱり、昔はこれを超えたら死んでしまう、というギリギリのラインだったのかも、と思われます。しかし、現在のホワイトカラー労働者にとっては、そうではありません。ここで便宜上作った三つのラインで言うと、夜10時の「第三のライン」が「過労死」ラインになるので、この第一のラインは、「残業代払うか、払わないか」のラインにしか過ぎません。

第二のラインは、夜8時。
名付けて「ワーク・ライフ・バランス」ライン。
あるいは「社会維持ライン」。
夜8時を超えて「会社」で働いてはいけない。
なぜなら、それを超えると生物個体としての人間が死んでしまうというほどではないが、「社会」が死んでしまう可能性があるから。

会社での拘束時間が長すぎると、共同体や家族や、落ち着いた国民の生活から生まれる文化など、人間が生きていくために重要なその他のものが衰弱し、死んでしまう恐れがあります。

だから毎日、夜8時まで働くような働かせ方はいけない。
「社会」が死なないように、という意味でこれは「社会維持ライン」です。

第三のラインは、夜10時。
これを超えたら、生物個体としての人間が健康を損ない、死んでしまう可能性がある。
「過労死」ライン。
だから夜10時を超えて働かせてはいけない。
生物個体としての「人間」が死なないように。

ちなみに『新しい労働社会』で濱口氏が提言している「まずはEU型の休息期間規制を」というのは、私の整理では、この「第三のライン」周辺の話です。日本だと一飛びに「ワークライフバランス」の話には持っていけません。いちばん最初に手をつけるべきは「第三のライン」です。

この三つのラインを拵えておいてから、ホワイトカラーエグゼンプションの議論を自分なりに整理してみます。

ホワイトカラーエグゼンプションの議論

まずアメリカで、「第一のライン」をゆるめよう、という話が出てきました。
これが「ホワイトカラーエグゼンプション」と呼ばれるものです。
第一のラインに関する規制-「夕方6時を超えたら割増賃金を払わなければならない」というのは現代のホワイトカラーの仕事の実態に合わないところがあります。
だから一定の条件のもとで、そのラインの縛りをゆるくしよう、というのがアメリカの話でした。

ちなみに、アメリカでは、第三のライン-「過労死」ラインに関する規制はありません。夜10時を超えたらいけない、という労働時間規制がないようです。
でもアメリカでは、そんな働き方させていたら、「こんな異常な会社アホらしくてやってられるか。辞めたれ」と言って労働者はすぐに転職してしまうから、3つ目のライン、毎日夜10時まで働くという働き方が、常態化することがなかったのです。

そして、わが日本では、経団連が、アメリカのようにわが国でも「第一のライン」をゆるくしようじゃないか、という提案をしました。

「ホワイトカラーエグゼンプション」はあくまでも「第一のライン」についての話で、本来は「第二のライン」や「第三のライン」とは別のはずでした。
しかし、経団連は、生物学的個体として生きるか死ぬかのラインである「第三のライン」に関わる規制もついでに撤廃してしまおう、と合わせて言っているように見えました。だから批判者はこれを、「過労死」や「健康」の問題として論ぜざるを得なくなってしまったのです。

加えて経団連は、これをワーク・ライフ・バランスという「第二のライン」に関わる話とも結びつけたりしたので、さらに混乱が広がることになりました。

濱口氏の『新しい労働社会』で書かれていることを、他の知識と合わせて私なりに咀嚼すると、以上のようになります。
つまり、労働者の立場、という観点から言うと、大事なのは「第一のライン」の死守、ではなくて、「第二のライン」、「第三のライン」のほうだったのではないか、それをゴッチャにしたので話が混乱していったのではないか、ということです。

こうなると、攝津正氏の書評に「労働運動の論理、その常識からいえば、ホワイトカラーエグゼンプションには無条件に反対のはずだが」とあったところは、それは労働運動の常識のほうがちょっとおかしいのではないか、ということになります。

たとえば年収900万円以上のホワイトカラーだったら、「第一のライン」付近の話ならば、基本的には企業と労働者が話し合って決めればいいことです。

まあ現実には企業側の言い分のほうが通るだろうから、年収900万円以上のホワイトカラーの残業代は減ることになり、企業がトクすることになります。

日本の企業としては、アメリカの企業とのコスト面でのアンバランスがなくなって、国際競争力が強くなります(もしくは、そう思い込むことが出来ます)。

でも、重要なのは「第二のライン」「第三のライン」であって、「第一のライン」に「蟻の一穴」ができたらほかのラインもなし崩しになるのではないか、というような不安は、もっと大事な問題を考えるために、むしろ阻害要因になってしまったのではないでしょうか。

だから経団連はこう言うべきだったと思います。

『ホワイトカラーエグゼンプションというのはあくまで年収900万円以上の人の、しかも「第一のライン」の話です。生物学的個体としての人間を維持するための「第三のライン」はぜったいに守りますのでご安心ください。「第二のライン」については、どうでしょう、ゆくゆく考えたいとは思っています。(でももうしばらくは、企業の利益を優先させて頂いて、日本の地域社会や文化や精神的健康がボロボロになっていくことぐらい我慢してください)。みなさん誤解が多いようですけども、先程申し上げました通り、今回は、「第一のライン」付近で、高収入のホワイトカラーと企業側が話し合っていちばんリーズナブルな給与体系を決めよう、と、そういう話でございます。つまり、年収400万円以下の貧乏人どもには初めから、まったく関係のない話でございます。だから貧乏人の皆様は、どうか安心して暮らして頂く様、お願い致します。』

これだったら、経団連の「第二のライン」への鈍感さなどは置いておくとして、あまり議論は混乱することもなかったのだと思います。


ちなみに、経団連の『ホワイトカラーエグゼンプションに関する提言』(2005年6月21日)では、以下のように最初から「労働時間の概念を、賃金計算の基礎となる時間と健康確保のための在社時間や拘束時間とで分けて考えること」の必要性が表明されていました。経団連もそんな滅茶苦茶なことを言っていたわけではないのです。

…ホワイトカラーの労働時間について考える場合には、まず労働時間の概念について整理する必要がある。これまで、労働時間については、「使用者の指揮命令下に置かれている時間」、「賃金計算の基礎となる時間」、「健康確保措置の対象とすべき時間」などと、その整理が十分になされないまま、さまざまな議論が行われてきた。ブルーカラーとは異なり、「労働時間」と「非労働時間」の境界が曖昧なホワイトカラーの場合、賃金計算の基礎となる労働時間については、出社時刻から退社時刻までの時間から休憩時間を除いたすべての時間を単純に労働時間とするような考え方を採ることは適切ではない。「業務を中断している時間」というのも当然考えられるわけであるが、賃金を支払う側にとってこうした業務の中断時間を厳密に把握し、事後的に証明することは、事実上不可能といえるからである。他方、労働者の健康確保の面からは、睡眠不足に由来する疲労の蓄積を防止するなどの観点から、在社時間や拘束時間を基準として適切な措置を講ずることとしてもさほど大きな問題はないといえる。このように、労働時間の概念を、賃金計算の基礎となる時間と健康確保のための在社時間や拘束時間とで分けて考えることが、ホワイトカラーに真に適した労働時間制度を構築するためには、その第一歩となると考える。…(経団連『ホワイトカラーエグゼンプションに関する提言』より)


拙ブログ内関連記事:フランスの子育て-その前に「雇用の流動性」についてちょっと考える 2009年12月24日
(→フランスの子育てってうらやましいなぁ、という話の後、日本の雇用の流動性が低い事が問題なのではないか(「何だか世の中不公平だ」)と思い至り、「湯浅誠氏はたのもしいが、湯浅誠氏に頼った雇用政策だけだと、何だかマズイことになりそうだ。」と懸念しています。今思うと、「雇用の柔軟化」の前にもまだ考えることはあって、たとえばこういうこと(↑)を考える必要があったわけです。)

八代尚宏氏と湯浅誠氏- 『EU労働法政策雑記帳』より

2010年01月07日 | 労働・福祉
わっ。

濱口桂一郎氏のブログを読んでいたら、拙ブログへの言及があったので、目茶びっくりした。

EU労働法政策雑記帳-『プレジデント』誌のフレクシキュリティ(2009年12月30日)

>「ブログ・プチパラ」さんのエントリで、週刊ダイヤモンド最新号における八代尚宏先生と湯浅誠氏の談話が引用されていますが、
これを読めば、八代先生も湯浅氏も「ちゃんとわかっている」側にいるのであって、両者の対立点は現状認識というか、あるタイムスパンにおける現状の可変性に対する認識の違いにあることがわかります。

なるほどー。こうなると『ダイヤモンド』の八代尚宏氏と湯浅誠氏の文章を読み比べて、私が「ちゃんと相撲になっている」と判断したのも、まあ間違いではなかったことになる。とりあえず、よかった。
八代氏と湯浅氏、「両者の対立点は現状認識というか、あるタイムスパンにおける現状の可変性に対する認識の違いにある」という明快な説明。なるほど。

>こういう「ちゃんとわかっている」人同士の対比は、ものごとを深く考えるのに役立ちます。ところが、よくあるミスキャストは、「ちゃんとわかっている」人と「全然わかっていない」人とを、単に目先の対策論で一致しているとか対立しているとかいうような単細胞的な判断基準で対論させてしまうことです。

つまり、城繁幸氏 VS.湯浅誠氏のような組み合わせは、ハナから「相撲にならない」と。

hamachan 先生のブログの文章は、「知らない人」へ向けられる「親切さ」と、「知ったかぶり」へと向けられる「意地悪さ」の絶妙な同居があり、こういうところにスパイスが効いてきます。

>そういうことをすると、それは「ちゃんとわかっている」人と「全然わかっていない」人の対比にしかなりません。

>湯浅誠氏とまともに対比させていいのは八代尚宏先生のような「ちゃんとわかっている人」なのです。

なるほどー。勉強になった。適切な解説をして下さって、感謝します。

関連記事:年末にフーコーと経済誌を一緒に読むⅡ 2009年12月30日