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『EU労働法政策雑記帳』よりーベーシック・インカムについて③

2010年02月24日 | 労働・福祉
『EU雑記帳』より -「ネオリベとBIとの共犯関係」- 労働中心ではない連帯は可能なのか? - BIが言う普遍的って一体どこまで普遍的なのか・・・「同胞意識とBI」


濱口桂一郎氏のブログ『EU労働法政策雑記帳』から、ベーシック・インカムについて触れている記事をいくつか取り出しておこう。

前記事に書いたように、『日本の論点』所収の論文を読むことにより、どうやら濱口氏が「ネオリベとBIの共犯関係」に警戒心を抱いているらしいことがわかった。

ベーシックインカムと失業 2006年9月15日

では2006年の段階で既に、「もろ福祉原理主義的な、あるいはネオリベ的なBI論には違和感を禁じ得ない」という言葉が見られる。

『週刊金曜日』のベーシックインカム礼賛 2009年3月6日

でも、「ベーシックインカムという発想こそが、新自由主義と親和的なんじゃないのか?という反省はないのですかね。」という言葉があり、ベーシック・インカムを礼賛する『週刊金曜日』が、自分達の主張がミルトン・フリードマンらのネオリベ的な思潮と親和性があることに気づいていないというその鈍感さを批判している。

「金曜日な皆様は、法人税廃止、公的年金廃止、職業免許廃止、教育バウチャーとか主張するたぐいのとってもフリードマンな人と共闘するつもりか知らん。」

労働中心ではない連帯? 2007年11月20日

では、『日本の論点 2010』で濱口氏と共に、ベーシック・インカムに関する論文を執筆していた田村哲樹氏の別の文章が紹介され、それに対する濱口氏の立場が述べられている。

田村哲樹氏の「『労働』を連帯の旗印に掲げるのことは、むしろ、分断と排除をもたらしかねないのである。」という言葉に対し、濱口氏は、「労働による社会参加を軸とした連帯しかないだろう」と反論している。

(濱口氏)「私はここは断固として否定したい。フルタイム男性労働者をモデルとした連帯がもはや通用しがたいというのはその通りでしょう。しかし、様々な働き方の中に、働いて社会に参加しているという共通性を連帯の中核として確立することが不可能とは思えない。というか、それを捨ててはほかに連帯の核となるものはないと思います。」

ナショナリティにも労働にも立脚しない普遍的な福祉なんてあるのか 2008年3月17日

には、私には不明瞭と思われた、『日本の論点 2010』の論文にあった「血の論理」と「ベーシック・インカム」の関係について、参考になりそうな箇所があった。

(濱口氏)「ベーシックインカムを軽々しく持ち出す人々に対して、私がどうしても拭いきれない疑問は、それが究極的には「同胞」意識にしか立脚できないにもかかわらず、なんだかそれを離れた空中楼閣の如きものとしてそれを描き出している点です。日本人だけでなく、地球人類すべてに等しくベーシックインカムを保障するつもりがあるのかどうか(誰が?)、そのための負担を、そう「高負担」を背負うつもりがあるのか、そこまで言わないと、ナショナリティを排除したなんて軽々しく言わないで欲しいのです。」

なるほど、ベーシック・インカムが、現実には「同胞」意識など乗り越えていないのにもかかわらず、なんとなく「全部、乗り越えた」的な、いつものように左翼的な「上から目線」で物を語るあの感じがオカシイ、ということだろうか。

(濱口氏)「私は、福祉の根拠としてナショナリティを否定することはできないと思っていますが、しかしそれを過度に強調することは望ましくないと思っています。だから、労働を根拠に据える必要性があるのです。様々な事情に基づいて「いったん労働市場から退出することの保障」も含めたものとして、しかしながら永続的に労働市場の外部に居続けることを保障することのないものとして。」


「ツベコベ言わずに働け!」と「自由と不自由」の複雑な絡み合いについて。


最後に、『EU労働法政策雑記帳』の希望の社会保障改革 2009年3月2日より。

ここには、駒村康平+菊池馨実 編『希望の社会保障改革』という本からの、大変興味深い、ベーシック・インカム論の引用がある。

ベーシック・インカムは一見「自由」をもたらすように見えて、実は「不自由」をもたらすことになるのではないか、という危惧である。

我々の生きる社会で、「働くこと」は半ば強制的なものとなっており、そこで「なんで働かなくちゃいけないの?」という子どもっぽい問いを立てることはほぼ禁止されている。「ツベコベ言わずに働け!」と。

しかし、そのような「有無を言わさぬ力」が、決して「自由」を生み出すことがない、とまでは言えないと私は思う。人間の世界はそんな単純なものではない。何とかかんとか自分を「ごまかして」、「労働」に必死についていく、その中で「自由らしきもの」が生まれる可能性もあるのであり、「ベーシック・インカム」論には、そのような「自由と不自由の複雑な絡み合い」に対する深い観察が抜け落ちているように私は感じることがある。

そのような視点でみると、以下のようなBI批判が貴重である。あくまで「ディーセントな労働の保障」こそを目指すべきなのだ、と。今のところ、私はこれに賛成だ。

(『希望の社会保障改革』よりの引用)「しかし、ベーシック・インカムに対するもっとも強い違和感は、ベーシック・インカムにより、人々は「真に自由」になり、「やりたい仕事」をするようになるという理想的な労働観、すなわち、自分自身の適性や「やりたい仕事」を人々ははじめから知っているという前提である。しかし、逆にベーシック・インカムにより、人は、さまざまな職業を経験する機会がなくなるのではないか。さまざまな職業との出会いと挫折、技能の蓄積・修練に伴うさまざまな試練の意義について、ベーシック・インカムを支持する論者は、楽観的な労働者像をもっているのではないか。むしろ我々は、ディーセントな労働の保障により、人々が社会と関わり、さまざまな経験をすることにより、社会連帯が強くなると考えている。」