ブログ・プチパラ

未来のゴースト達のために

ブログ始めて1年未満。KY(空気読めてない)的なテーマの混淆され具合をお楽しみください。

新古書店「ブックオフ」の将来と『日本辺境論』

2009年12月26日 | 内田樹
廃棄されるはずだったモノたちが流れ着く場所

内田樹の『日本辺境論』という本を読んで、中古書店ブックオフの社長が「わが社のあり方は、この本で言う日本=辺境のあり方とちょっと似ているかも」という感想を述べている。『週間東洋経済』「2010年新春合併特大号」の「経営者が薦める三冊」のコーナーの中でのことである。

廃棄されるはずだった本たちが流れ着く場所。本の墓場であり、本の再生工場でもあるブックオフ。
時には日本の出版文化を破壊していると非難されることもある、ファスト風土の象徴、あのブックオフが「辺境としての日本」と似ている、なんてこと私は思いつきもしなかったが、それを当のブックオフ社長が述べているのだから、面白いと思った。

『週間東洋経済』の「経営者が薦める三冊」のコーナーで、ブックオフ社長・佐藤弘志氏が本年度のビジネス書「1位」に内田樹『日本辺境論』を挙げて、短いコメントを付している。「自社を見つめ直す」という小見出しで。

このうち「ブックオフは日本にそっくりでもあり、そうでなくもあり。」というところが今回私が注目したところ。

…『<自社を見つめ直す> 著者(内田樹氏)が徹底的に俯瞰して「日本」を語ることと併走して、自分の会社(=ブックオフ)のビッグピクチャーに想いを馳せた。当社は日本にそっくりでもあり、そうでなくもあり。経営者が自社の企業文化・深層構造を見つめ直す際にスケールを広げてくれる、好ガイド。』…

そうなのか。「辺境としての日本」のあり方と、ブックオフのあり方はどこか似ている。もしかすると日本は昔から、国を挙げての「ブックオフ」だったのか。
ここから私の妄想は広がる。

とすると日本で、聖徳太子が『三経義疏』を書いて仏教の普及にこれ努めたのも、明治の元勲たちが必死にフランスの民法なんかを輸入して日本の法制度を整備したのも、MBAの教科書が翻訳されて日本のビジネス書として売りに出されるのも、どれもこれも「ブックオフ」であり、外国から文物を仕入れて、表紙カバーを特殊な洗浄液で洗浄し、手垢で汚れた小口を研磨機で研磨してから、見た目を綺麗にして店頭に出す中古書リサイクル店のアルバイト店員のような作業を、日本はこれまでずっと千年間以上続けてきた、ということなのか。…そこまで大げさなことを佐藤社長が言ってるわけではないが。

内田樹氏の「放談」の効用

しかし実は、まだ私は内田樹の『日本辺境論』は読んだことはないので、ここではひとまず佐藤社長のコメントをネタにして適当なことを想像して楽しんでいるだけである。
『日本辺境論』は、書店でパラパラと開いてはみたが、今の自分には、あまり触手が動かされる本ではなかったので、購入にまでは至らなかった。

私が内田樹氏の著作との出会いで、過去、最も恩恵を受けたと思っているのは、『身体(からだ)の言い分』(2005年)という本との出会いであり、新書の『いきなりはじめる浄土真宗』『はじめたばかりの浄土真宗』(2005年)である。『いきなり浄土』を読んだ時は「ついにこのような本が現われたか」と感動した。

関連記事:「始原の遅れ」-内田樹『いきなりはじめる浄土真宗』より 2010年01月14日

つまり私は内田氏の著作に、宗教論や身体論の分野から入っている。

これに対し憲法問題や、政治や社会制度などについて考える時は、内田樹氏の意見はあまり参考にならない。

内田樹氏への批判者がよく言うように、私も氏の文章を読んでいてあまりに「放談」が過ぎると思うことがよくある。しかし他方に「放談の効用」というのもあると私は思っており、内田氏のような大風呂敷を広げることが好きな人がいると、それを媒介にしていろんな人やモノたちがウジャウジャとつながっていったりすることがあるので、やはり氏の存在が貴重であることには変わりはないとも考えるのである。

ファスト風土という砂漠で水を汲むような所作である

ブックオフの話に戻るが、私は最近、生活費の必要に迫られて、自宅まで取りに来てくれるブックオフの「宅本便」というサービスを利用して、段ボール箱4箱ほどの蔵書やDVDを買い取りしてもらった。買い取り価格は一万円くらいになった。この額でも私にとっては有り難い「つなぎの資金」である。

逆に、ブックオフで購入してこれまで私が「掘り出し物かな」と感じたのは、浄土真宗のお経「大無量寿経」や親鸞・蓮如などの文章を集めた法蔵館出版の『真宗聖典』だった。これは1935年から版を重ねているもので、手のひらサイズのコンパクトな聖典。あの騒がしい音楽が流れる店内で、この宗教書を買い求めるときの私の気分には、やや陰惨なものが含まれていた。ファスト風土という砂漠で、あるはずもないオアシスを探しているような気分でこの本を手に取ったことを覚えている。

でも私は、ブックオフでCDやDVDを売ってとりあえずの数千円の金額を得て、「とりあえず間に合った」「救われた」という気分になったことが幾度かある。
だから私はブックオフがあって本当によかったと思う。
佐藤社長の発言によると、ブックオフはこれから、書物以外に衣類などの日用品のリサイクルを始め、家族連れが楽しめるような場所を作りたいと考えているようだ。私もブックオフ自身が、ファスト風土のなかのオアシスのような場所になっていってくれたらいいな、と思う。

「ブックオフ」の変化は、日本の「ファスト風土」の変化でもある。
だから佐藤弘志社長には、会社の「ビッグピクチャー」を存分に描いてもらって、これからも頑張って頂きたいと思う。

*『週間東洋経済』のくだんのビジネス書紹介コーナーで、他に私の目を引いたのは、コンサルタント会社の「リンクアンドモチベーション」社長・小笹芳央氏が「1位」に宮台真司『日本の難点』を挙げていたこと。社会学者の宮台真司氏の著作に注目したのがコンサルタント会社だった、というのはいかにもそれっぽいなーと思った。

関連記事:『思想地図 vol.4』を読む②-クワガタ虫・テレビ・ファスト風土 2009年11月30日
(→後半部分で、宮崎哲哉氏が「ファスト風土も悪くない」と言っている部分を引用しています。ファスト風土は人間工学的にも優しく、これから新しい「故郷」になっていく可能性があります。…『私なんか、ショッピングモールの高い吹抜けの下、ゆったりとしたベンチで本を読んだり、地元の高校生とかお婆ちゃんとかとお喋りしたりしてると、次第に「郷愁」すら感じるようになるもの。それは「ファスト風土」にすぎず、アイデンティティの寄る辺にはならないとする三浦展氏の評価は一面的と言わざるを得ないですね。』(宮崎哲哉氏)…そういえば、私の住んでいる町にある「カルフール」ショッピング街も、訪れてみるとなかなか和やかな雰囲気である。立体的なショッピングモールのはざまに、なぜか「小川」が流れていて、休日になるとそこでは親子が「ザリガニ釣り」を楽しんでいるのを見ることができる。ショッピング・センターで「ザリガニ釣り」を見たときは、ちょっとびっくりした。たしかに擬似自然だけど、悪くはない風景だった。子どもや親にとっては「かけがえのない時間」だからだ。…)

『田辺元・野上弥生子往復書簡』-幸福の胸の星図

2009年11月30日 | 内田樹
桃知利男氏によると、中沢新一『フィロソフィア・ヤポニカ』は田邊元の哲学を扱っているらしい。

浅草・岸和田往復書簡 2007年12月21日「街的という野蛮人。」

私は『フィロソフィア・ヤポニカ』はまだ読んだことがないのだが、いつか読むための準備として、近くの図書館で『田辺元・野上弥生子往復書簡』(岩波書店)というのを見つけたのでこのたび目を通してみた。

この本を読むと、子どものようなワガママ振りを発揮している哲学者・田邊元より、田邊への尊敬をずっと失わず、軽井沢の田邊の元へカステラや魚などを贈り続ける作家・野上弥生子の方が、ずっと偉いんじゃないか、と思われてくる。

『先生はえらい』(内田樹氏)などの師弟論で言われる「仰角の共有」がここには確かにあって、「老いらくの恋」という言葉では表現しきれない繊細な、美しい感情が文面に満ちている。先生よりも、それを仰ぐ弟子の姿のほうが美しく見えることがある。星を仰ぐ人の美しさである。

野上弥生子の手紙に、田邊元を「星」と仰ぐ賛美の詩が付けられていて、68歳くらいの女性とは思えないほどの瑞々しさ、また気恥ずかしさである。これにはちょっと感動した。



あたらしい星図

あなたをなにと呼びましょう
師よ
友よ
親しいひとよ。
いっそ一度に呼びませう
わたしの
あたらしい
三つの星と。

みんなあなたのかづけものです。
救ひと
花と
幸福の胸の星図 

(田辺宛1953.11.11) 


「私は死ぬまで女学生でゐるつもりでございます。おわらひにならないで下さいまし。」(田辺宛1954.11.10)


「先生の生活を例にとつて見ましても、知らないものゝよそ目には、いかにも寂寞としづかに生きてゐなさるごとく見えませうが、いつも火焔のやうに燃えたぎつてゐられるではございませんか。いつも申あげてをります通り、私は先生によつてはじめて学ぶことに憑れた人といふものを知つたわけでございます。また私にほんとうに考へるといふ事を教へ導き下さるのも先生でございます。いまの私は先生なしには精神的に生きえないものになつてをります事は、改めて申あげますまでもなく御分かり下さつてゐられますかと存じます。ただ私の無知識と非才が折角の賜物を無にいたし過ぎますことが多々であるのが嘆かれます。しかし学ぶことは死ぬまでの事業と存じてをりますから、絶望いたさずいつまでも先生のあとに従つて参り度く存じます。」(田辺宛1955.10.8)

「先生はクリストに倣ふことをつねに申されます。私はせめて先生に御倣ひ申すことを忘れず生き度いと存じます。これは大それた望みと申すべきである事は存じてをります。しかしそこに達することはとても不可能にせよ、空の一つの星を遠く仰いで生きるのは牧人の幼童にも許されてよろしいのではございますまいか。」(田辺宛1956.1.18)


田邊元という「学ぶことに憑れた人」に出会い、「遠方への憧れ」に感染する野上弥生子。「空の一つの星を遠く仰いで生きるのは牧人の幼童にも許されてよろしいのではございますまいか。」という言葉は、こっちの胸までフルフルと震えさせる。

関連記事:『田辺元・野上弥生子往復書簡』-死の哲学の構想 2009年11月30日
関連記事:岡潔の伝記を読む-「天上の歌 岡潔の生涯」 2009年11月15日


『下流志向』を読む⑥-吉田兼好の「遅く負ける」方法

2009年11月24日 | 内田樹
リスク・ヘッジという用語を、この本で内田樹はかなり拡大解釈して使っているように思う。

ビジネス・タームでものを考えるから日本人はおかしくなったという話の流れの中で、
内田樹氏自身が「リスク・ヘッジを忘れたから」という言い方を多用するので、こんぐらかって話の趣旨が取りにくくなる。

しかし、リスク・ヘッジという言葉で内田氏が想起させようとしているのは、過去にあったと想像される繊細な日本人の共同体的な感覚や、「リスク」や「デインジャー」への独特な感受性のことなのだ。

大岡越前の「三方一両損」や「丸く納める」話から、果ては阿佐田哲也の『麻雀放浪記』の博打打ちの心得みたいな話までが持ち出され、長い時間をかけて共同体の中で培われた独特の知恵や工夫への想起を読者に促している。

『「間違ったら死ぬ」という条件が与えられたときには、人間は「正解を当てるためにはどうするか」ではなく、「間違わないためにはどうするか」ということを優先的に考えるものです。』(内田樹)

三回くらいこの本を読んでも、私には何が言いたいのかわからなくなることも多いのだが、それでも、不利益を最小限にするということ、勝ち負けの微妙な関係、破産・破滅にならないようにする工夫、ということについて「思い出してみろよ」と促しているということだけはわかるので、自分もひとつ、気になるエピソードを引っ張り出しておきたい。

連想して思い出しただけなので、内田樹氏の話とどれくらい関連性があるかどうかはわからないが、日本のブロガ-の元祖とでも言うべき吉田兼好が書いた『徒然草』に「遅く負ける」という話がある。

『徒然草』110段
双六の上手といひし人に、そのてだてを問ひ侍りしかば、「勝たむと打つべからず。負けじと打つべきなり。いづれの手かとく負けぬべきと案じて、その手をつかはずして、一めなりとも、おそく負くべき手につくべし」といふ。道を知れる教、身を治め、国を保たむ道も、またしかなり。


訳:「双六の上手と言われる人に、その秘訣を尋ねてみると、「勝とうとして打ってはいけない。負けまいとして打つべきである。何が早く負けてしまう手なのかをよく考えて、その手を使わないようにして、一目でもよいから、遅く負けることのできる手につくべきである」と言う。道に通じた教えだと思う。身を修め、国を保つ道も、その通りだと思う。」

『下流志向』で紹介されていた、阿佐田哲也の『麻雀放浪記』のエピソードにも、「ねばりこんで負けが来るのを長引かせる」という麻雀打ちの言葉がある。この両者にある「遅く負ける」という考え方が、「時間」や「リスク」というものを、単純な「勝ち負け」以外の領域で扱っているように私には見えて、面白い。

『下流志向』を読む⑤-「等価交換モデル」とペラギウス主義

2009年11月23日 | 内田樹
『霊的な感覚というのは、無時間モデルのちょうど正反対の、いわば「最大時間モデル」と言ってよいのかと思います。』(内田樹『下流志向』)

『下流志向』の本の最後のほうで内田氏は「日本人はゆっくりと宗教的な成熟に向かってゆくだろう」という予測を立てています。

『これはやはり時間の感覚のことですけれど、宇宙には起源があり、終末がある。時の始まりがあり、終わりがある。その悠久の流れの中にこの一瞬、という時間のとらえ方ができる人間のことを「宗教的な人間」あるいは「霊的な人間」と呼んでよいと思います。』(内田樹)

教育や労働を巡る「時間」に対する考察が一通り終わった後で、このように「霊性」や「宗教性」への言及がありました。

この「最大時間モデル」としての「霊的な感覚」の正反対にあるのが、「無時間的」「ビジネス・モデル」の極限で、そこでは人間が人間として生きていく余地がなくなってしまうことが危惧されています。

『無時間ビジネス・モデルの極限のかたちはプレイヤーに「おまえは誰であってもよい」と告げ、最後には「おまえは存在する必要がない」と告げることになるでしょう。』(内田樹)

ここに、次のような対比が作れます。

無時間モデル-ビジネス ⇔ 最大時間モデル-霊性・宗教

私は、この右側の項をもうちょっと考えてみたいと思いました。
過去の宗教的伝統の中に、どういう時間モデルが組み込まれていたのか。

内田氏がこの本で示す「等価交換モデル」や「無時間モデル」という概念を、宗教や霊性を考えるときにも使ってみたい。

キリスト教の長い伝統の中で議論されてきたことのひとつに、「救済」において人間は神とどのような関係を取り結ぶのか、という問題があります。

5世紀ごろアウグスティヌスという人が、ペラギウスという人と論争しました。

ペラギウスという人の考え方を単純化すると、人間が努力すれば、その功績に報いるように救いがもたらされる、というものでした。ここには、人間の救いに関しあたかも神との取引が行われているかのような関係があります。つまり、ペラギウス主義は神との関係に「等価交換の原理」を持ち込んでいるように見えるわけです。

アウグスティヌスは、そうしたペラギウス主義の「等価交換モデル」を批判して、人間側の功績とは対応しない「神の恵み」により救いがもたらされると考えました。
結果的には、アウグスティヌスの考え方が勝利し、これが中世のキリスト教の伝統となりました。

16世紀の宗教改革の時代に、マルティン・ルターは当時の教会が発行していた「贖宥状」に対し「それはペラギウス主義的ではないか」という危惧を抱きました。
「贖宥状」というのは「免罪符」とも通称されるもので、もともとは神への「報恩感謝」を示すための「寄付金」のようなものだったらしいのですが、ルターの目にはそれが、堕落した教会が「天国への切符」を民衆に売りさばいているように見えました。
「これを買えば天国へ行ける」というのはまことにペラギウス主義的で、ルターはそこにひそむ「等価交換モデル」に強い嫌悪感を持ったようです。

アウグスティヌスから中世までのキリスト教の伝統では、救いというのは神の恩恵によりもたらされるもので、そこにはおそらく「等価交換原理」ではなく「贈与原理」が働いていたのだと思います。

「時間」については、「恵みによる救い」や「聖霊による魂の刷新・成長」を重んじていた中世のキリスト教徒の生活は、かなり悠長な時間感覚に浸されていたものだったと想像できます。

ここで「無時間モデル」と「悠長時間モデル」との対比を無理やり作っておくと、中世では、信徒の間では、神の恵みを少しづつ頂きながら、善行をしたりしなかったり、または寝たり食ったりしながら生活のうちで何だか知らないうちに救われている、という悠長な時間モデルが採用されていた、と仮定することができそうです。

ペラギウス主義 - 「功績」と「恩恵」との「対応」   等価交換原理  
            「功績による救い」        無時間モデル
 
 中世の伝統   - 「功績」と「恩恵」との「非対応」  贈与原理
            「恵みによる救い」        悠久時間モデル

 ルター     - 「功績」と「恩恵」との「非対応」  贈与原理
            「信仰による義認」-法廷的義認  無時間モデル?

このように図式化してみると、ルターやその周辺の者たちが「恵みによる救い」よりも「信仰による義認」を強調したというのは、時間モデルで考えたら、どちらかと言えば「せっかち」な感じがするというのが私の印象です。

人は行い(功績)によってではなく、信仰(内面)によって救われる、というのは完璧にペラギウス主義を否定した考え方で、ルターにとってはアウグスティヌス以来の伝統を確認したものにすぎないのでしょうが、信徒が救われる過程での「聖霊による魂の刷新」を強調していた中世のカトリック教会がもつ悠長な時間感覚と比べると、どうしても急迫されている感じがします。

ルター派には、義は宣告される、という考え方があります。

神さまが、法廷や市場のようなフェアな場所で、それぞれの人間に「義」の宣告を下します。
それは人間にとってどうこうできるものではなく、ただ信ずるしかないようなものである。
「法廷的義認」と呼ばれるこの考え方は、後のカルヴァン派の「予定説」とも似ていて、とても「静的な」印象を受けます。ここではもちろん神様との等価交換的な「取引」は否定されているのですが、なんとなく「無時間モデル」への偏りを感じます。神様から恩恵をもらって、とろとろと少しづつそこから養分を得ていく、というのが中世の伝統だとすると、ルターやカルヴァンの考え方には「無時間モデル」に近づく危険がある、ようにも思えます。

  ルターの「信仰のみ」・カルヴァンの「予定説」
 … 神と取引できない but,時間による変化を認めない点で「無時間モデル」に近づいてしまう?

 マックス・ウェーバーが言うように、資本主義とプロテスタンティズムに何らかの関係があるのだとすると、こうしたルターやカルヴァンの時間感覚が、現代のビジネス・教育・労働に影響を与えていることもあるかもしれません。

以上、A.E.マクグラス『キリスト教神学入門』という本を、内田樹『下流志向』の概念をあてはめて読んでみたことの結果です。(終わり)


参考:カトリックの「恵みによる救い」⇔プロテスタントの「信仰による義認」

『十六世紀のプロテスタント宗教改革の間、救済の言語における根本的な変化が起こり始めた。アウグスティヌスのような初期のキリスト教神学者たちは「恵みによる救い」という言語を用いる新約聖書の箇所を優先させていた。しかしながら、どのようにして神は罪人を受容し得るのかという問題との格闘によって、マルティン・ルターはパウロが主に「信仰による義認」について語っている箇所に焦点を合わせるようになった。どちらの文章においても要点は根本的に同じであると言う事もできるが、その要点を表現するのに用いられる言葉は違っているのである。宗教改革の最も重要な影響の一つは、「恵みによる救い」という言葉を「信仰による義認」という言葉に置き換えたということにある。』(A.E.マクグラス『キリスト教神学入門』より)







『下流志向』を読む④-「インフォームド・コンセント」の治癒効果

2009年11月22日 | 内田樹
『なるほどね、と僕は思いました。彼の場合は、治療法を自己決定したということがもたらすセルフ・エスティームがあきらかに心身のパフォーマンスを向上させている。ですから、彼が仮にベストではない治療法を選択した場合でも、「決定を下したのは私である」という自尊感情がそのマイナスを補って、おつりがくる。』(内田樹『下流志向』)

内田樹氏は以上のように、「インフォームド・コンセント」が有効に働いたアメリカ人の友人のエピソードを例に出し、アメリカでは自己決定したことによる「自尊感情」自体が、治療の効果を高めることがあるのではないかと推測しています。

『つねに正しい選択肢を選ぶことができるから自己決定が推奨されるのではない。「私は私の運命の支配者である」という自尊感情のもたらす高揚感が、間違った選択肢のもたらす心身のダメージをカバーできる限り、自己決定は有用である。』

しかしそれに次いで、日本ではそもそも自己決定を推奨する文化ではないのだから、そこでアメリカと同じようなことをやってうまくいく保証がないと言われます。たしかに、アメリカと日本の文化の違いにより、「インフォームド・コンセント」の有効度の差が現れるという見方は面白い。私もおおむね納得します。

けれども、この本は徹頭徹尾「アメリカ流なんてダメだ」を主張する本なのですが、日本にいると、隣の芝生であるアメリカっていいなあとうらやましく感じることは多く、日本人でも「アメリカ」への憧れが強い人ほど、「インフォームド・コンセント」や自己決定による治癒効果は高まる、ということだってあるかもしれません。

この本の立場からするとおそらく「仮想敵」の位置に該当していると想像される竹中平蔵氏が、『竹中式 マトリクス勉強法』という本を書きました。私が、その本に紹介されていたエピソードでちょっといいなと思ったのは、「You can do it !」(君ならできるよ)といって他人ががんばるのを始終励ましているというアメリカ人の習慣でした。普段から私は、もちろんテレビや映画からの情報でつくられたイメージでしかありませんが、アメリカ人が人を励ましたり、誉めたりするのがすごく上手なことにいつも驚きます。

努力や労力をかけて、自分で治療法を検討し、それを選択する行為が、身体のパフォーマンスを向上させ、治療に良影響を与えるということが、アメリカ人にだけあてはまって、日本人にはあてはまらないという「文化的差異」に基づいた分析が、どこまで有効なのかはまだ検討する余地があると思います。両者共通の要素だってあるはずです。

内田樹は、治療効果という結果と、「正しい選択」という原因とに明確な関連性がなくても、人は治ることがある、ということを強調されているのですが、医療行為以外でも、人間の行為とその結果に関して、「意識しうる因果関係」以外に多くの要素が関っていることは、日常生活においてもよくあることです。

たとえば、自分でお金を出して本を買った場合、自分はその本をわりと「高く評価」しているような気がします。
内田樹のこの『下流志向』という本も勿論自分で買ったので、私の中での評価はかなり高めです。
他にも、自分でお金を出して買ったCDの音楽を聴くと、感動が大きい。
自分でお金を出して食べた料理は、おいしく感じられる。

私がこんなことを言い出すのは、認知科学者の下條信輔氏の『サブリミナル・インパクト』という本に、脳科学の見地から、「高いワインを買った人の快感神経は、そうでない人よりも活性化する」という実験が紹介されていて、面白いと思ったことがあるからです。

『この高級感が商品の質の評価まで押し上げるという興味深いデータを、最近私のカルテックの共同研究者たちが示しています(H.パスマンら、2008年)。彼らは高値のついたワインを敢えて買うという行為が、その味を経験する快の神経メカニズム(眼窩前頭皮質)を活性化し、味を実際によくするということを示したのです。』(下條信輔『サブリミナル・インパクト』p.173)

それを手に入れるために費やしたお金、または労力が、手に入れたものの価値評価を高めることがある。
自腹を切って買ったワインは、そうでないワインより、味覚神経の満足度を高めている。

内田樹が例に挙げていた「インフォームド・コンセント」の治療効果に関しても、案外同じような事情が関っているのかもしれません。

「文化的差異」がそこで関ってくるのは確かでしょうが、それ以上に認知科学的・脳科学的に裏付けられる事実として、上記のような「自分がなしていることのほんとうの原因を知らない」人間の特性というものが、いろいろなところで我々に見えない効果を及ぼしているように思えるのです。

「私は私の運命の支配者である、という自尊感情のもたらす高揚感が、間違った選択肢のもたらす心身のダメージをカバーできる限り、自己決定は有用であるが、日本の文化はそのような高揚感をもたらすことはできないから、自己決定の推奨は有用ではない」という論じ方に対し、もうちょっと普遍的な、別の考え方をすることはできないかな、と思い以上のような認知科学的知見を『下流志向』の文章に差しはさんでみました。

『下流志向』を読む③-「封印の文章」と「呼び水的な文章」

2009年11月18日 | 内田樹
私にとっては、内田樹だけではなく、おそらく橋本治でも中沢新一でもそうなのだが、読んでいると自分の中から収拾がつかなくなるくらいのいろいろな記憶や連想が湧いてきて、それらを(たぶん「水面下」で)追いかけ回すだけで結構自分の思考の労力を使っているような気になる文章がある。

そのような心地よい痺れをもたらすような文章と、何か面白そうなことが書かれているはずなのに、読むとなんだか「息が詰まる」ように感じられる文章がある。これには「相性」というのもあると思う。

以上のことを『イチの牛耳り方 2.0』というブログの方が、もっとうまい文章で表現してくれているのを見つけたので以下引用する。

「その文章を読むと自分でもびっくりするくらい次々と言葉が溢れ出てきて言葉のインフレーションが起こる呼び水的な文章というのがある一方で、読んだが最後、与えられる分には追走し続けられるが、自らの内からはどんな一言も生まれてこなくなる「封印の文章」というのがある。」『イチの牛耳り方 2.0』-悪の対話術より)

そうそう。こういう風にかっこよく書いてくれると納得しやすい。

たとえば福田和也の『悪の対話術』の文章はイチさんにとって「封印の文章」だと感じられたようだが、これは私にもよくわかるような気がする。

わたしも、福田和也が「週刊新潮」に連載していた「闘う時評」というコラムを読むと、何だか毎回「息が詰まる」ような感じがしたものである。落語や小説や映画の話など、連想が拡がっていきそうな「面白い」話題を取り上げているにも関わらず、その文章は何だか息苦しかったのである。こっちにフリーハンドを与えてくれない。このイチさんの文章を読んでよくわかったのだが、私にとってそれらは、「続けて言葉を紡ぐ」ことに貢献する文章ではなかったし「言葉を誘ってくれる文章」ではなかった。つまりは「封印の文章」だったのである。

内田樹の『下流志向』はそれと対照的に、私にとっては「呼び水」的な本である。もちろんこれには「タイミング」というものが大きく関わっている。今の私にとって、ということだ。

『下流志向』を読む②-「独演会」を聞くおもしろさ

2009年11月18日 | 内田樹
内田樹『下流志向』は、話の「枕」になる部分の描写がうまい。

たとえば、

「公立の中高の生徒たちの授業に対する「興味がない」という意思表示の激しさにいつも驚かされます。」

私にも身の覚えのあることだが、中高生の身体は「ダルそうな感じ」を出すために結構「努力」している。
「まじめ」だと誤解されるような振る舞いをしないように、細心の注意を払っている。
その様子を内田樹は次のように描写する。

「「起立、礼、着席」という挨拶を相変わらずやっているのですが、この号令をかける学級委員が教師に促されてのろのろ立ち上がり、気のない声で号令をかけると、生徒たち全員が、これ以上だらけた姿勢を取ることは人間工学的に不可能ではないかと思われるほどだらけた姿勢で立ち上がり、いやいや礼をし、のろのろ着席する。僕はこの精密な身体技法にほとんど感動してしまいました。「きちんとした動作をしたせいで、うっかり教師に敬意を示していると誤解される余地がないように」この生徒たちは全力を尽くしている。ただ怠惰であるだけだったら、人間はこれほど緩慢には動けません。必要以上に緩慢に動く方がもちろん筋肉や骨格への負担は大きい。ですから、これを生徒たちが生理的に弛緩していると解釈してはならない。これは明確な意図をもって行われている記号的な身体運用なんです。」

こういうところが見事なので、ついつい読み進めてしまうのだ。

『下流志向』を読む①-消費主体としての子供、「ヨイトマケの唄」

2009年11月17日 | 内田樹
内田樹『下流志向』(文庫版)をバスの中で読み始める。

私はいちいちその語られる内容に納得するというより、読んでいると、いろいろなことが思い出されて仕方がなかった。
内田樹の語り口に刺激されて、私の頭の中で、いろいろな記憶の断片や連想が浮かび上がってきて、それらが数珠つなぎになったり、くっついたり離れたりし始めるという感じなのだ。
まだ読み終える前なのだが、そのようにして浮かんだ連想のいくつかを以下に書きとめておく。

まず、「消費主体」としての子供。

というこの本のキーワードになるような概念について、私が思い出したのは、数年前に見たある光景だ。

私はそのとき駅前のバス停でバスを待っていた。その列に塾帰りの小学生も何人かワラワラといた。見るとその側に、塾の教師らしき大人がいて、何やら生徒と会話をしていた。それは夜の7時か8時ごろの時間帯だったので、子供たちの安全を守る意味で、バス停まで大人が「見送り」のためについてきているのだろう。親たちがそういうことに神経質になっている当今、その光景は理解できないことではなかった。

しかし、先生というより折り目正しい「会社員」のようなたたずまいを感じる、その「塾の教師らしき人」が、小学生たちに丁寧な敬語を使って話しているのを聴いていると、ちょっと気持ち悪かった。驚いたのは、バスが発車する段になってわいわいと騒ぎながらバスに乗り込む子供達の背中に向かってその大人が姿勢を正して「どうも、お疲れ様でした!」と言って深々とお辞儀したのを見たときだ。まるで目上の人に「敬礼」しているみたいだった。「ここまで来たか」と私は驚いた。子供達が、「授業料を出して頂いているお客様」として、丁寧に扱われている光景だったのだ。

もうひとつ何となく思い出しているのは、永山則夫の「無知の涙」ということばと、美輪明宏の「ヨイトマケの唄」である。

なぜ、その子どもは「勉強しよう」と思ったのか? これは学習へと至る「動機」や「衝迫」の問題と言えるかもしれない。

『下流志向』の主題は、「どうして現代の子供たちは学びや労働から逃走するのか」という問いかけであった。

しかし、なぜいまどきの子供が勉強しないかという質問を裏へ返すと、「どうして昔の人はあんなにも一生懸命勉強したのか、働いたのか」という問いかけにもなる。こちらのほうが不思議にも見える。

昔の日本人はどういう「感情」を抱いて勉強していたか?

私は時々そういうことを想像してみるのだが、時代状況が違いすぎてなかなか実感するのが難しい。

しかし、最近私は、たまたま美輪明宏のコンサートに行って「ヨイトマケの唄」を聴いて感動したことがあって、もしかしたらこの歌に込められている感情が何かヒントになるのではないか、と思った。

ちなみに「無知の涙」というのは、連続射殺魔の永山則夫が1971年に書いた本の題名だ。「無知の悲惨」というのはつらいものだ。時代は隔たっても、全然永山とは違う状況下にある私でも、「オレってほんと何にも知らなかった。愚かだったな」と後悔して涙を流したことは何度かある。無知の涙を流したことのない人は、何か自分より大きな知識や学問に対して渇望を抱くことも少ないのではないか。

美輪明宏が作詞作曲した1966年の曲「ヨイトマケの唄」は「働く土方の歌」であるが、その歌詞の中で、学校でいじめられて泣きながら帰ってくる子供が、働く母親の姿を見てしまい、ハッと胸を衝かれるシーンがある。

「慰(なぐさ)めてもらおう抱いてもらおうと 
 息をはずませ帰ってはきたが
 母ちゃんの姿見たときに
 泣いた涙も忘れはて
 帰って行ったよ学校へ
 勉強するよと云いながら
 勉強するよと云いながら」

このときの「勉強するよ」という子供の気持ちって何なんだろう。
それは「学習の動機付け」という言葉で呼ぶのをためらわれるような、滲みこむような、せつないことばである。この気持ちは、たぶん日本の高度経済成長と深く関わりがあるような気がする。私には今これくらいしか言えないけれど、現代で「学習の動機付け」が失われているというのなら、それは一つに「せつない」が足りないからなのだ、と答えることもできそうな気がする。

ヨイトマケの唄には、日本の土地から立ち昇ってくる「湯気」のような感情が感じられる。
誰かが言っているように、この歌を「君が代」に続く「第二の国歌」にして、学校や式典なんかで歌えばいいのかもしれない。
もちろん「君が代」を歌うときにもみんな起立だし、「ヨイトマケ」歌うときも全員起立だ。
そうすれば日本人の「何か」が正常化していくような気もする。

You tube 画像の、サザンオールスターズの桑田佳祐がカバーする「ヨイトマケの唄」や、米良美一が女子刑務所で歌う「ヨイトマケの唄」はよい。
美輪明宏のコンサートでこの曲を初めて聴いたときは泣かなかった私も、帰ってきて改めて桑田や米良のこの熱唱を聴いているうち、号泣してしまった。

以下、『ヨイトマケの唄』の歌詞

「今も聞こえるヨイトマケの唄
今も聞こえるあの子守唄
工事現場のひるやすみ
たばこふかして目を閉じりゃ
聞こえてくるよあの唄が
働く土方のあの唄が
貧しい土方のあの唄が

子供の頃に小学校で
ヨイトマケの子供きたない子供と
いじめぬかれてはやされて
くやし涙にくれながら
泣いて帰った道すがら
母(かあ)ちゃんの働くとこを見た
母(かあ)ちゃんの働くとこを見た

姉(あね)さんかむりで泥にまみれて
日に灼(や)けながら汗を流して
男にまじって網を引き
天にむかって声をあげて
力の限りにうたってた
母(かあ)ちゃんの働くとこを見た
母(かあ)ちゃんの働くとこを見た

慰(なぐさ)めてもらおう抱いてもらおうと
息をはずませ帰ってはきたが
母ちゃんの姿見たときに
泣いた涙も忘れはて
帰って行ったよ学校へ
勉強するよと云いながら
勉強するよと云いながら

あれから何年たった事だろ
高校も出たし大学も出た
今じゃ機械の世の中で
おまけに僕はエンジニア
苦労苦労で死んでった
母ちゃん見てくれこの姿
母ちゃん見てくれこの姿」