ブログ・プチパラ

未来のゴースト達のために

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年末にフーコーと経済誌を一緒に読むⅢ

2009年12月30日 | 労働・福祉
買っててよかった『思想地図』

最近読み直してみて気づいたのですが、『思想地図vol.2』の 天田城介『<ジェネレーション>を思想化する』という論文には、ミシェル・フーコー『社会は防衛しなければならない』と『生政治の誕生』からの引用が多くありました。

やっぱり、買っててよかった『思想地図』。

いろいろと役に立ちます。

『思想地図』周辺の人たちは、すごく抽象的なことを考えているのだが、けっこう現実的なことを考える時のヒントになることがあります。

フーコーに関しては、福嶋亮大氏『仮想算術の世界』「阿久根市長発言と生権力」という記事に少し解説があります。

福嶋氏の文章は、拙ブログでもやや痴愚ハグな文脈ですが、引用しています。→主軸のずれ、「生」の冥さ、「生権力」の増大 2009年12月25日

ここでは、ミシェル・フーコー『生政治の誕生』の1979年2月14日の講義(161p-184p)からいくつか抜き出しておきます。読書メモのようなものです。

最近、「社会企業家」について書かれた記事をいくつか読む機会がありました。
松本孝之氏の『社会起業家の誤った認識』 2009年12月20日や、
堀江貴文氏の『社会起業家とか眠たいこと言ってんじゃねーよとか私は思うけど。』2009年12月20日など。

もしかしてホリエモンと「社会企業家」やNPOというのは、別に水と油の関係にあるものではないんじゃないのかもなー、といったことを考えながら、私はこのあたりのフーコーの文章を読みました。私の頭の中がよく整理されていないので、よけい混乱するような読書の仕方かもしれません。

「新自由主義的統治」にとっては、とにかく「経済成長」が大事、ということも書かれています。「新自由主義的統治」においては、ひとりひとりに「企業」という形式が強要される、みたいなことも。これは他人事ではなくて、今の日本でもやっぱり「経済成長」が大事で、それがなければ元も子もなくなるという事がいっぱいあるんじゃないでしょうか。「社会企業家」だってフーコーが言うホモ・エコノミクスの一種なんじゃないでしょうか。

別に批判したいわけではなくて、私には、それ(ホリエモン)も必然、あれ(社会企業家)も必然、という感じがしてくるのです。
『週間ダイヤモンド』や『週間東洋経済』の記事を読むときに、そうした「不可避性」を気にしつつ読んでみたりします。

フーコーの本は難しいけれども、無理して読めば、この本で言う「新自由主義的統治」というのが、「打倒!小泉・竹中路線!ネオリベ!」といったように、「すぐに倒せる悪者」を設定するような概念ではない、ということだけは、おぼろげながら理解できます。つまりわれわれが今生きており、これからも生きていかなければならない世界について書かれている本のようです。

以下、フーコー『生政治の誕生』(161p-184p)より、今回気になったところ抜粋

…厚生経済学において-ピグーがそのプログラムを与え、次いでケインズ主義経済学者、ニューディール、ベヴァリッジ計画、戦後ヨーロッパの諸計画がそれぞれのやり方で取り上げ直した厚生経済学において-社会政策とはいったい何でしょうか。社会政策とは、おおざっぱに言って、一人ひとりの消費財への接近を相対的に均等化することを自らの目標として定めるような政策です。(175p)

…この社会政策は、…まず、野放しの経済プロセスに対する歯止めとして考えられています。野放しの経済プロセスは、それ自体として社会に不平等をもたらすもの、そして一般的には破壊的諸効果をもたらすものであり、それに対して歯止めが必要である、というわけです。したがって、経済プロセスに対して社会政策はいわば対位法的な本性を持つということです。…あるいは第二の道具として、家族手当のようなタイプの所得の移転もあります。(175p)

…オルド自由主義者たちは次のように言います。…社会政策は、平等を自らの目標として定めることはできないのだ。社会政策は逆に、不平等を作用させておく必要がある。…経済ゲームとは、まさしくそれに伴う不平等の諸効果によっていわば社会を一般的に調整するものであり、…問題は、購買力の維持を保証することでは全くなく、決定的ないし一時的に自分自身の生存を保証できないような人々に対して必要最低限の生活費を保証することだけです。(176p-177p)

…その社会政策の道具は、消費と所得の社会化ではないということになります。それは逆に、民営化でしかありえません。つまり、社会全体に対して個々人をリスクから守るようにという要求がなされないようになる、ということです。…存在するリスクに対し、老いや死といった生存の宿命に対して、あらゆる個人が自分自身の私的な蓄えから出発して身を守ることができるようにすること。…社会政策の個人化。…要するに問題は、社会保障によって個々人をリスクから守ることではなく、個々人に一種の経済空間を割り当てて、その内部において個々人がリスクを引き受けそれに立ち向かうことができるようにすることなのです。(177p-178p)

…以上は、当然ながら次のような結論へと我々を導きます。すなわち、真の根本的な社会政策はただ一つ、経済成長のみであるということです。…経済成長こそが、それだけで、あらゆる個人が一定レヴェルの所得に達することを可能にし、この所得が個々人に対し個人保険、私的所有への接近、個人的ないし家族的資本化を可能にして、それによって個々人がリスクを解消することができるようにしなければなりません。(178p)

…私は以下の二点を強調しようと思います-第一に、まさにここから出発して、そして社会政策の拒絶から出発して、アメリカの無政府資本主義が発達することになります。そして第二に、これもやはり重要なこととして、少なくともますます新自由主義に従って秩序づけられている国々においては、社会政策がますます以上のすべてに従う傾向にある、ということがあります。(178p-179p)

…新自由主義、新自由主義統治はまた-そしてこれが、新自由主義を、いわゆる厚生政策ないし[1920年代から1960年代にかけて]知られたそれに類するものから区別します-社会に対して市場が及ぼす破壊的諸効果を修正する必要もありません。新自由主義的統治は、社会と経済プロセスとのあいだに、対位法あるいは遮蔽物を構成する必要はありません。新自由主義的統治は、社会そのものの骨組みとその厚みのなかに介入する必要があります。新自由主義的統治は、実のところ…社会に介入し、競争のメカニズムが、いかなる瞬間においてもそして社会の厚みのいかなる地点においても、調整の役割を果たすことができるようにしなければなりません。…それは、経済的統治ではなく、社会の統治です。(179p-180p)

…新自由主義者たちが思い描いているような、市場に従って調整される社会、それは、商品の交換よりもむしろ競争のメカニズムが調整原理を構成しなければならないような社会です。そうした競争のメカニズムが、社会において可能な限りの広がりと厚みとを手に入れ、さらには可能な限りの容積を占めなければなりません。すなわち、獲得が目指されるのは、商品効果に従属した社会ではなく、競争のダイナミズムに従属した社会であるということです。スーパーマーケット社会ではなく、企業社会であるということ。再構成されようとしているホモ・エコノミクス、それは、交換する人間ではなく、消費する人間でもありません。それは、企業と生産の人間です。(181p)

…問題は、その基本単位がまさしく企業の形式を持つような社会の骨組みを構成することです。実際、私的所有とは一つの企業でなくて何でしょうか。独立家屋とは一つの企業でなくて何でしょうか。近隣の小さな共同体の運営とは…、企業の別の形態でなくて何でしょうか。別の言い方をするなら、問題は、「企業」形式を可能な限り伝播させ増殖させつつ一般化することです。「企業」形式とは、国民的ないし国際的規模の大企業という形式、あるいは国家タイプの大企業という形式のもとに集中させられてはならないものです。社会体の内部において、このように「企業」形式を波及させること。これこそが、新自由主義政策に賭けられているものであると私は思います。問題は、市場、競争、したがって企業を、社会に形式を与える力のようなものとすることなのです。(182p-183p)

…一九三〇年代頃にオルド自由主義者たちによってそのプログラムを作成された統治術、今や資本主義の国々において大部分の統治のプログラムとなったその統治術は、そのようなタイプの社会を構成しようとするものでは決してありません。問題は、商品や商品の画一性にもとづく社会を得ることではなく、逆に、企業の多数多様性とその差異化にもとづく社会を得ることなのです。(183p-184p)

年末にフーコーと経済誌を一緒に読むⅡ

2009年12月30日 | 労働・福祉
フーコーの本を読むのは疲れたので、気になる民主党の雇用政策・成長戦略に関し、『週間東洋経済』(2010年新春合併特大号)と『週間ダイヤモンド』(2010年新年合併特大号)とを拾い読みしてみる。

八代尚宏氏のほうにやや分があり?

『ダイヤモンド』では、雇用政策に関し、八代尚宏氏と湯浅誠氏の主張が、見開きページで左右にある。
読んでいると、どちらも言っていることが正しいように見える。

しかし、湯浅誠氏は、セーフティネットがまだ整備されていないから、仕方なく派遣労働を禁止する、という言い方をされていて、それが「緊急避難的」なものだったら、外に方法はないのか、産業界に多大な影響を及ぼすような、恒久的な法律で禁止してしまうという方法でいいのか、という気がしてくる。

八代尚宏氏は、「意味のある政策は、派遣雇用の禁止ではなく、派遣条件や待遇を改善する派遣労働者保護の強化だ」と言っている。こっちの方向で何かできそうな気がする。

でも、菅直人氏は、『東洋経済』のインタビューで、湯浅誠氏の方向で法律を変えるんだ、と言い張っている。

「介護というのは需要がありながら担い手がいないから需要が満たされないわけで、この分野は逆に言うと、雇用イコール需要になる。」と菅氏は言っているのだが、この「雇用イコール需要」という言葉が、私には意味がよくわからなかった。私は不安になった。

大丈夫なのか。

菅直人氏だけで大丈夫なのか、大丈夫ではないだろう

『ダイヤモンド』の榊原英資氏インタビューでは、現政権に「経済全体を見て方向性を打ち出せる人がいない」ことが話題になっている。

菅直人氏が「国家戦略」を立てるトップにいるというトホホさ。

榊原英資氏は「国家戦略局にマクロ経済専門のスタッフが十分にいない。エコノミストを集めて、マクロ経済をモニターすべきです。」と言っている。

菅直人氏は、竹中平蔵氏とは違うんだぞ、ということを強調したいがために、エコノミストの知恵を借りることを拒んでいるようだ。

城繁幸氏の若々しさ-『完全自爆マニュアル』

以前、『東洋経済』誌上で、雇用政策に関し、湯浅誠氏と城繁幸氏との対談があって、その対談では、濱口桂一郎氏がブログで書いておられたように、湯浅誠氏のほうがまともに見えた。
EU労働法政策雑記帳「湯浅誠氏が示す保守と中庸の感覚」

今回の『ダイヤモンド』でも、くだんの城繁幸氏は、全部ぶっこわれちまえばいいんだ! クラッシュすれば国民も目が覚める、という見事な書きっぷりだった。
今の時代に希望はゼロだ。そして「救いは、雇用政策で民主党政権が完全に行き詰まること」と城氏は言う。
「『格差拡大は構造改革のせい!』を旗印に政権奪取した政党が盛大に自爆することで、国民の目も覚めるのではないか。」と政治の盛大なクラッシュを期待する。
「君側の奸を討つ!」とか「完全自殺マニュアル!」とか、「希望は、戦争!」みたいな、いかにも辛抱が足りない日本の若者的発言である。

鳩山由紀夫は徳川慶喜なのかもしれない

『東洋経済』で舛添要一氏は、私は派遣労働者の労働状況について民主党より厳しい見方をしているかもしれない、と述べている。
舛添要一氏は、製造業派遣にも登録型派遣にも反対の立場である。
「国民の生活の安定がないと社会は成り立たない。いつクビになるかわからず、半年先もわからないようでは、子どもなど育てられない。」と言う。

『東洋経済』で堺屋太一氏は、政権交代は、彼らが自称するような明治維新ではなく、鳩山政権はこのままいくと「最後の将軍」徳川慶喜になるかもしれない、と言っている。おもしろい。

そういえば、私の兄貴も、数日前、テレビを見ながら同じようなことを言っていたのを思い出した。「鳩山って、明治維新じゃなくて、徳川慶喜なんとちゃう?」と。

安倍、福田、麻生、鳩山、-考えて見れば、最近ずーっと世襲の人が続いている。
明治維新じゃなくて、鳩山政権は徳川慶喜。
今は、徳川幕藩体制の末期。
世襲は続くよどこまでも。
官僚体制。記者クラブ。権力のあり方は、あまり変わっていない。
ムダではないと思うけど。
おそらく徳川慶喜は、頑張っていると思う。


以下、『週間ダイヤモンド』(2010年新年合併特大号)より

八代尚宏氏

…派遣労働を禁止することには反対だ。
…規制によって、企業に正社員の雇用を強要できると考えるのはナンセンスである。かつて終身雇用や年功賃金などの日本的雇用慣行が醸成され、正社員雇用が一般的だったのは、雇用規制があったためではない。過去の高い経済成長期において、熟練労働者の希少性が高く、自社で囲い込む必要性があったからだ。
…より現実的で、意味のある政策は、派遣雇用の禁止ではなく、派遣条件や待遇を改善する派遣労働者保護の強化だ。二〇〇八年以降の派遣切りの問題は、契約期間中にもかかわらず、補償もなく切られたことにある。今後は、雇用保険の適用拡大と、派遣先が契約期間中に契約を解消することへの補償を義務付けるべきだ。
…欧州では、整理解雇の場合に金銭賠償が認められている。日本でも、正社員の解雇時の金銭賠償ルールを法律で定めれば、裁判に訴える資力のない中小企業の労働者には明らかに大きなメリットとなる。

湯浅誠氏

…派遣労働の規制に賛成だ。
…雇用の流動化ということについて、私は必ずしも反対ではない。しかし、実態として派遣切りがこれだけ社会問題化し、多くの貧困を生じさせ、それを解消する手立てもない以上、製造業派遣も禁止すべきとしてか言いようがない。
…派遣労働禁止を批判する論者の主張に、「製造業では派遣が禁止されても期間工や請負にシフトするだけ」というものがある。だが、期間工は有期契約ではあるものの直接雇用なので、労働者にとっては歓迎すべきシフトだ。
…セーフティネットが厚く、失業が怖くない社会であれば、雇用の流動化も派遣もいい。

榊原英資氏インタビュー

…(記者の質問)現政権には、経済全体を見て方向性を打ち出せる人がいないのではないですか。
…それは国家戦略局の菅直人さんの仕事でしょうが、担当分野が多いですからね。自民党時代は経済財政担当大臣がいましたが、その役目が菅さんの仕事の一つに入って、重要なポストとしてまだきちんと機能していない。
…政権交代してまだ四ヶ月しかたっていないので仕方ないともいえるが、国家戦略局にマクロ経済専門のスタッフが十分にいないことも事実。エコノミストを集めて、マクロ経済をモニターすべきです。

城繁幸氏

…正社員、非正社員共に、希望のない数年間が始まる。せめてもの救いは、雇用政策で民主党政権が完全に行き詰まることくらいだ。「格差拡大は構造改革のせい!」を旗印に政権奪取した政党が盛大に自爆することで、国民の目も覚めるのではないか。

以下、『週間東洋経済』(2010年新春合併特大号)より

菅直人氏インタビュー

…(土建国家のやり方でもなく小泉・竹中路線でもない)第3の道というのは、そのどちらでもない、雇用が生産を生む、需要を生む分野を徹底的に深耕していこうという考えのことだ。
…介護というのは需要がありながら担い手がいないから需要が満たされないわけで、この分野は逆に言うと、雇用イコール需要になる。
…村長を務めた湯浅誠氏にも政府に入ってもらい、今度は政府も積極的にかかわる形で、派遣村がなくても対応できる年末対策を急いでいる。
…いつでもクビを切れるうえ、住まいも失うような派遣労働は望ましくないとして、不安定な登録型派遣、製造業派遣は原則的に禁止するという法案を連立与党できちんと成立させる。

舛添要一氏インタビュー

…民主党の政策に関して言えば、まず母子加算の復活は今でも絶対反対だ。母子家庭でも歯を食い縛って生活保護をもらわないで働いている人よりも、優遇されるのはいかがなものか。私も母子家庭で苦労をよく知っているだけにそう思う。
…労働問題で言うと、労働者派遣法の改正が論議されているが、厚労相を務めていたときから一部の専門職を除き登録型派遣や製造業派遣は基本的におかしいと思っていた。
…もちろん国際競争を行う企業側の論理もわかるが、それでも国民の生活の安定がないと社会は成り立たない。いつクビになるかわからず、半年先もわからないようでは、子どもなど育てられない。恒産なくして恒心なし。やはりこういう制度が社会の不安定さを増していると思う。民主党よりも私のほうが厳しい見方をしているかもしれない。

堺屋太一氏インタビュー

…民主党は「最後の将軍」慶喜になるおそれがあります。官僚主導型の世の中で、政権担当者が替わっただけではないかと。
…徳川幕府の末期、二つの政変がありました。一つは紀州派の14代将軍家茂が死んで、一橋派の慶喜が15代将軍になり、税制や兵制などの大改革を行ったものです。
…しかし、この改革は成功しませんでした。徳川幕藩体制の根源は、武士の身分の者だけが公職に就く身分制度です。「最後の将軍」徳川慶喜は、それが変えられなかった。ところが、明治維新は版籍奉還で武士の身分を廃止しました。

関連記事:八代尚宏氏と湯浅誠氏―『EU労働法政策雑記帳』より 2010年01月07日
(→『EU雑記帳』で当エントリへの言及があり、湯浅氏・八代氏の対比の説明を頂きました。)
関連記事:You tubeで首相から失業者対策メッセージを-湯浅誠氏の提案 2009年12月24日
(→濱口桂一郎氏の意見を参考にしながら、湯浅誠氏は「サヨク」の人か、それとも現実にふわりと着地する「無翼の人」か、ということについて考えています。)

年末にフーコーと経済誌を一緒に読むⅠ

2009年12月30日 | 労働・福祉
年末、ミシェル・フーコーの『生政治の誕生』と経済誌『週間東洋経済』と『週間ダイヤモンド』を代わる代わる読む。

ミシェル・フーコーの『生政治の誕生』は、今から30年前、1979年に行われた講義を集めたものなのに、無理して読んでいると、そのまんま「現代」のことを語っているような錯覚に陥ってしまう箇所がいくつもある。

テーマの一つが「経済学」だから、ということもあるのだろう。

私は、最近「経済」のことを少し勉強しようと思って、年末に『週間東洋経済』(新春特大号)と『週間ダイヤモンド』(新年特大号)を購入して、今ちびちびと読み始めているところである。この二つの経済誌を読みながら、ミシェル・フーコーの『生政治の誕生』も読みすすめてみる。

もちろん、フーコーの本は難しいので、その内容・文脈をちゃんと咀嚼できる能力が私にあるわけではない。でも、ところどころ理解できそうな、自分にも新しい見方を示唆してくれるような箇所がある。

読んでいると、抽象度の違いはもちろんあるが、フーコーが読み解こうとしていた問題のいくつかが、そのまま今の経済問題として引き継がれており、『東洋経済』や『ダイヤモンド』の記事に拡散しているような気分になってくることがあるのだ。

鳩山不況とフーコー/「政治」にダメ出しする「市場」とか

たとえば、『生政治の誕生』を読みはじめてみると、最初の方でまず、「真理陳述の場所」としての「市場」が「統治実践」にたいし「それは正しい」「それは間違っている」という判断を下すようになる、という記述にぶつかる。

私はここを読んでいる時、最近よく言われる「鳩山不況」という言葉を思い出していた。現代は、政治の善し悪しが「市場の反応」によってジャッジされる機会が多いと思う。株価が下がったからこの政権の判断は間違っている、とか、経済成長率が下がったからあの政権の政策は間違っていた、とかいう理由で「統治」の正しさが判断される。これはフーコーがいう「新自由主義的統治テクノロジー」が全般化した世界に、今もわれわれが生きているから?
そんなことをアレコレ考えながら読む。

この本の大きなテーマは、「新自由主義的統治術」であり「政治経済学」であり「生政治」というものであるらしい。
でも、フーコーは、「ネオリベ」が悪い、「市場」が悪い、「政府」が悪い、とかいう単純な話は一切しない。
それがややこしく、また魅力的でもある。

…『生政治の誕生』(40p-41p)…
…このとき統治実践において、そしてそれと同時にそうした統治実践に関する反省的考察において発見されること、それは、価格が市場の自然的メカニズムに対して適合的である限りにおいて、その価格は真理の一つの基準を構成し、それによって統治実践のうちに間違いのない実践と間違った実践とを識別できるようになるということです。…市場は、それが交換を通じて生産、供給、需要、価値、価格などを結びつける限りにおいて、真理陳述の場所を構成するということ。つまり市場は、統治実践を真であるとしたり偽であるとしたりする場所を構成するということです。よい統治とはただ単に正義にもとづいて機能する統治のことではない、という事実をもたらすのは、したがって、市場です。よい統治とはただ単に公正な統治のことではない、という事実をもたらすのは、市場です。…


「給付金付き税額控除」とか「負の所得税」とか

また、「負の所得税」についても記述がある。
これは最近だと、「給付金付き税額控除」とか、ベーシック・インカムについての話題に関係してくると思う。
私はそのようなことを想像しながら読んだ。

たとえば「給付金付き税額控除」では、高所得者と低所得者がはっきりと線引きされてしまう。そこでは低所得者がどんな理由で貧困に陥ってしまうのか、その背景を政府が知る必要はない。統計的に人口の何人かが、最低ラインに落ちて死んでしまわないように調整するのが政府の仕事。個人の事情なんて知らない。フーコーの言う「新自由主義的統治術」の一環としての「負の所得税」の考え方というのが、「給付金付き税額控除」にも幾分かは適用できそう。そういえば、ベーシック・インカムの考え方も、これとどこか似たところがあるしなー。

…『生政治の誕生』(252p-253p)…
…負の所得税は、貧困のしかじかの原因を変容させることを目標とするような行動たろうとしているのでは決してないということです。負の所得税は、決して貧困の原因のレヴェルにおいてではなく、ただ単にその諸効果のレヴェルにおいてのみ作用するであろうということ。・・したがって、極端な言い方をするなら、よい貧者と悪い貧者、意図的に労働しない人々と意図的ならざる理由によって労働しない人々とのあいだに、西欧の統治性がかくも長いあいだ打ち立てようとしてきたあの区別など、重要ではないということです。結局のところそんなことはどうでもよい。ある人物がなぜ社会ゲームのレヴェルから転落するのかなどということを気にしてはならない。彼が麻薬中毒者であろうと、意図的な失業者であろうと、そんなことは全くどうでもよい。唯一の問題、それはその理由がいかなるものであるにせよ、彼が閾の上方にいるのかそれとも下方にいるのかを知ることである。唯一重要なのは、その個人が一定のレヴェルから転落したということであり、そのときには、さらなる調査を行うことなしに、したがって官僚的、警察的、糾問主義的ないかなる調査も行う必要なしに、彼に援助金を付与すべきである。そして、彼に[援助金を]付与するこのメカニズムが、彼に対し、閾のレヴェルを越えようという気を起こさせるようにすること、そして彼が、援助を受けることによって、なお閾の上方に戻ることを欲するために十分動機づけられるようにすることである。しかし、もし彼がそれを欲しなければ、結局のところそれはどうでもよいことであり、彼は援助を受け続けるであろう。…


「ホリエモン」とか「社会企業家」とか「NPO」とか

ホリエモンみたいな時価総額至上主義者みたいなイメージを持っている経営者と、最近注目されている、NPOや「社会企業家」みたいな人たちとは、立場が正反対と考えてしまう人もいるみたいだ。でも、フーコーはこの本で『「市民社会」は「新自由主義的な統治術」の相関物なのだ』と言ったりする。

たとえばネオリベ的なものと、NPO的なもの、きみたちは何でも二つに分けたがるけど、それらはそう単純に敵対するものじゃないよ、ということか?

この言葉を読んだりすると、その意味をはっきりと理解できる自信は私にはないのだが、わからないなりに、ホリエモンと「社会企業家」の存在が、そう単純に区別できるものではないということがわかってくる。どちらも「何か」の効果の現れ、のように見えてくる。

…『生政治の誕生』(364p-365p)…
…市民社会、それは…、一つの統治テクノロジーの相関物です。… ホモ・エコノミクスと市民社会は同じ総体の一部をなすということ。つまりそれらは自由主義的統治テクノロジーの総体の一部をなすということです。…



東京ダイナマイト-「コント」と「漫才」の形式の差?

2009年12月29日 | M-1・お笑い
M-1で負けた「東京ダイナマイト」はやっぱり面白いと思うのだが、それはコントでの話で、漫才になると途端に面白くなくなる。You tube で再生回数の多い順に3つほど見れば、「東京ダイナマイト」のコントの面白さはわかると思う。

「東京ダイナマイト」の「漫才」と「コント」を見比べると、背広着て、ピシッとした格好で喋る「漫才」というのは、思ったより「しばり」のきつい形式なのだ、ということに気づかされる。

「コント」って、あんなふうに服装を少し変え、ちょっとした小道具を使うだけで、「世界の設定」がものすごく容易になる装置なんだな、と思う。
「東京ダイナマイト」はそこでこそ発揮される笑いのセンスを持っているのに、「漫才」となるとどうも自分たちの世界への「引き込み力」が弱くなっている。

「漫才」は実は、すごく形式のしばりがきつい芸で、だからM-1の審査員も、あれだけ年齢層が高いの人たちであるにもかかわらず、若手芸人を的確に批評することができたのだな、と今になって思う。

関連記事:M-1頑張ってくれ、東京ダイナマイト 2009年12月19日
(→M-1前、私は東京ダイナマイトに期待していました。)

関連記事:M-1優勝者決定-中田カウスのコメントはいつも的確だ 2009年12月20日
(→M-1後、私は審査員の的確なコメントに感心していました。)

中沢新一氏のレヴィ=ストロース追悼文

2009年12月29日 | 中沢新一
中沢新一氏のレヴィ=ストロース追悼文の一部。 読売新聞2009年11月5日より。

…鷲のように鋭い目をした彼は、大鷲さながらに、人間たちの頭上はるか上空を舞いながら、人類の来し方と行く末を正確に見つめていた。またその鋭い目は、地上を動くどんな小さな生き物の動きも見逃すことがなく、現代人が無価値なものと打ち捨てて顧みない、ささやかな事象の中に、人間精神の秘密を解き明かす可憐な花を探し当て、その美しさと賢さを賞賛した。

…私はレヴィ=ストロースの中に、人類の心のもっとも美しい発現を見てきた。音楽を称えながら、レヴィ=ストロースは「神のごときワグナー」と書いたが、私にとっては、じつに彼の精神こそが神なのであった。

…その頃の彼はさまざまな場所でめざましい発現を続けていたが、その中でもっとも私を驚かせたのは、自分は新石器時代人と同じように思考しているのにすぎない、という発言だった。

…私が思考しているのではない、私をつうじて、人類の心が本性にしたがって思考しているのだ、と語るのだった。なんとすさまじい謙虚さではないか。

…その魂が、いま静かにその歩みを止めた。私たちにその欠を埋めることなどはできない。私たちはただ、悠然たる羽ばたきをもって天空高く去っていく大鷲の、だんだん小さくなっていく姿を、無量の悲しみをこめて見送る。


関連記事:『悲しき熱帯』を読む-カドゥヴェオ族と馬頭観音と子ども 2009年11月15日
(→レヴィ・ストロースと柳田邦男の片言隻句を取り上げて、強引に「日本人ははんぶん原始人だ」と主張しようとしている文章です。)
関連記事:レヴィ・ストロース『悲しき熱帯』とみうらじゅん『アウトドア般若心経』2009年11月15日
(→レヴィ・ストロースの野生の思考は、日本で言ったらみうらじゅん氏の思考法に似ている。逆に、みうらじゅん氏の情熱は、民俗学者や人類学者の情熱に似ている。そんなことを指摘しようとしている文章のようです。)
関連記事:宮台真司とレヴィナス-〈世界〉の奇跡性、〈社会〉の奇跡性。2009年12月29日
(→宮台真司氏が、レヴィ・ストロースの『野生の思考』の「奇跡へと開かれた感受性」を参照しつつ、自身の考える「世界」へと開かれた感受性について述べているくだりがあります。)

宮台真司とレヴィナス-〈世界〉の奇跡性、〈社会〉の奇跡性。

2009年12月29日 | 宗教・スピリチュアル
社会学者の宮台真司氏の「世界」と「社会」を巡る思索は、
人間の宗教性や霊性について考える上でも参考になる。

宮台氏は問う。「脱社会的存在」である者が、人を殺したりせず、自殺もせずに生きていけるのはなぜか。
暫定的な解答-世界という「奇跡へと開かれた感受性」があるから。

作家の田口ランディ氏との対談で、宮台氏はレヴィ・ストロースの『野生の思考』を引き合いに出し、三色スミレの花を見ていてその構造の「ありそうもなさ」に貫かれること、そのような感受性が「脱社会的存在」をこの世に押しとどめるのではないか、と言う。

それに答えて田口ランディ氏は、「世界」というより、人間が作る「社会」のありそうもなさに触れるという感受性があることに言及する。「それは透明な層のようにお互いに浸透しあっている」ので区別できない、と言う。

田口ランディ氏の「人間の社会が成立していること自体の奇跡性」への目の開かれ、のようなものについて、レヴィナスの『全体性と無限』の文章が参考になるかもしれない。レヴィナスの文章の「無限なものが社会性の端緒となる」「神とのあいだの社会性」「安息日における生活の可能性」といった表現は、社会性というものが宗教性とほとんどイコールになるような地点で紡がれる言葉が存在することを示唆している。

田口ランディ氏と宮台真司氏の対談「〈世界〉を経由して〈社会〉に戻る」 -田口ランディ『生きる意味を教えてください』(2008年)より

宮台真司 殺したいと思えば殺せるし、犯そうと思えば犯せるのに、それはしたくないと思う「脱社会的存在」がいるのは、なぜか。…連載では暫定的に答えを出しました。「奇跡へと開かれた感受性」です。レヴィ・ストロースが『野生の思考』(原題:三色スミレ)の中で、寝ころがって三色スミレの花を見ていて構造の「ありそうもなさ」に貫かれるくだりがあります。…彼は花に奇跡を見たけど、人やその営みに奇跡を見出す感受性が「脱社会的存在」を押し留めるんじゃないか。…
…よく言う話だけど、百の偶然、千の偶然が重なって、僕が今ここにいる。今ここに僕がいるのは不思議です。…生まれてからも、事故や事件を含めて、何度も首の皮一枚でつながってきたという不思議もあります。その意味では〈社会〉の中に〈世界〉を見ることもできます。あるいは〈社会〉を〈世界〉として-レヴィ・ストロース的まなざしで-眺めることもできます。

田口ランディ 作品ではあえて〈世界〉と〈社会〉を使い分けていて、〈世界〉について語っているものが比較的多いんです。超越系だからなんでしょうけどね(笑)。でも、やっぱり自分のなかではすごく〈社会〉に触れることによってしか得られない〈世界〉の手触りみたいなものを感じてるんですよね。〈社会〉をぶっとばして〈世界〉を触れないんです。それは透明な層のようにお互いに浸透しあっているものだから。


「社会性」と「宗教性」について-レヴィナス『全体性と無限』 熊野純彦 訳より 

「最後に、幸福と渇望を分離する隔たりによって、政治と宗教が分割される。政治は相互承認を目ざし、言い換えれば平等を目ざす。政治が保証しようとするのは幸福である。政治の法がそれを完了させ、聖化するものは、承認のための闘争である。宗教はこれに対して、〈渇望〉であって、承認のための闘争などではいささかもない。宗教とは、平等な者たちが形成する社会において可能な剰余である。栄えある卑小さ、責任と犠牲という剰余なのであって、それこそが平等そのものの条件なのである。」(上111p)

「〈無限なもの〉が生起するのは、分離された存在に場所を残す一箇の収縮において、全体性への侵入が放棄される場合である。…分離された存在に場所を残すような一箇の無限なものは、神的なもののように存在する。全体性を超えて、無限なものが社会性の端緒となるのである。」

「分離された存在と〈無限なもの〉とのあいだで設立される関係によって、〈無限なもの〉による創造的な収縮にあって存在した減少があがなわれる。人間が創造をあがなうのである。神とのあいだの社会性は、神になにかをつけくわえるものではなく、神を被造物から分け隔てる間隔がその社会性によって消失するわけでもない。全体化との対立において、その社会性は宗教となづけられた。創造者としての〈無限なもの〉が制限されること、したがって多元的なものが存在することは、〈無限なもの〉の完全性と両立する。」

「全体性を超えて、無限なものが社会性の端緒となるのである。」

「全体化との対立において、その社会性は宗教と名づけられた。」

「無限なものは〈善さ〉の秩序をみずからに開く。」

「〈渇望〉の秩序-たがいにたがいを欠いているわけではない、異邦人のあいだの関係の秩序―…そのとき、…安息日における生活の可能性が創設される。安息日において存在は、生活の必要と必然性をいっとき宙づりにするのである。」(上200p~204p)

「他者との社会性が、あるという無意味なざわめきのおわりをしるすのであって…。」(下180p)

関連記事:『思想地図 vol.4』を読む⑤-内田樹と握手できそうな所を探す 2009年11月30日
(→私が宮台氏の「宗教的感受性」について関心を持っていることに触れている箇所があります。…そういえば、宮台氏の過去の著作でわたしが一番傑作だと思ったのは、『サイファ覚醒せよ』だった。桜を見て脱魂状態になってしまうという宮台氏のトランス体質には大いに共感したものだ。『日本の難点』は小説や随筆でも読むような気持ちで読んだが、いちばん印象に残ったのは娘の話とシュタイナー教育の話を語っているところで、ほかの政治的な話についてはほとんど記憶に残っていないのだ。…)

関連記事:安息日のためのベーシック・インカム 2009年12月13日
(→ちょっとだけ、レヴィナスからの引用があります。…内省したり祈る時間としての「安息日」のために、ベーッシック・インカムが必要なのだ、という主張はどこかに存在しないのだろうか。…「安息日において存在は、生活の必要と必然性をいっとき宙づりにするのである。」(レヴィナス『全体性と無限』)…いずれにせよ、「生活の必要と必然性をいっとき宙づりにする」時間は、人類にとって必要な時間なのではないか。…)

ピアニスト・辻井伸行氏の『川のささやき』をテレビで聴いて

2009年12月26日 | 日記
ビートたけしの「ニュースキャスター」という番組で、ピアニストの辻井伸行氏が自作曲「川のささやき」を演奏しているのを見た。

いい曲じゃないか。

私は好きである。

演奏前、辻井氏が、たけしに僕に映画音楽を作らせてほしい、と持ちかけると、たけしも「ぜひ」と答えていた。クラシックの人は「気難しい」曲を作りがちだと思っていたのだが、辻井氏の曲は固苦しさがなく、むしろ童謡的な「幼な心」を感じさせる親しみやすいメロディーで、たぶん、たけしの映画にも使えそうな曲だと思った。

この世界はむしろ、たけしがよく使う久石譲の音楽(ポップス=多くの人の心に通うもの)のほうに近いと思った。

辻井氏は、たんにショパンの難しい曲が弾けるピアニスト、というだけではなく、映画やアニメに音楽を提供するようなポピュラーな作曲家としてもいける人なんじゃないか、と思った。

新古書店「ブックオフ」の将来と『日本辺境論』

2009年12月26日 | 内田樹
廃棄されるはずだったモノたちが流れ着く場所

内田樹の『日本辺境論』という本を読んで、中古書店ブックオフの社長が「わが社のあり方は、この本で言う日本=辺境のあり方とちょっと似ているかも」という感想を述べている。『週間東洋経済』「2010年新春合併特大号」の「経営者が薦める三冊」のコーナーの中でのことである。

廃棄されるはずだった本たちが流れ着く場所。本の墓場であり、本の再生工場でもあるブックオフ。
時には日本の出版文化を破壊していると非難されることもある、ファスト風土の象徴、あのブックオフが「辺境としての日本」と似ている、なんてこと私は思いつきもしなかったが、それを当のブックオフ社長が述べているのだから、面白いと思った。

『週間東洋経済』の「経営者が薦める三冊」のコーナーで、ブックオフ社長・佐藤弘志氏が本年度のビジネス書「1位」に内田樹『日本辺境論』を挙げて、短いコメントを付している。「自社を見つめ直す」という小見出しで。

このうち「ブックオフは日本にそっくりでもあり、そうでなくもあり。」というところが今回私が注目したところ。

…『<自社を見つめ直す> 著者(内田樹氏)が徹底的に俯瞰して「日本」を語ることと併走して、自分の会社(=ブックオフ)のビッグピクチャーに想いを馳せた。当社は日本にそっくりでもあり、そうでなくもあり。経営者が自社の企業文化・深層構造を見つめ直す際にスケールを広げてくれる、好ガイド。』…

そうなのか。「辺境としての日本」のあり方と、ブックオフのあり方はどこか似ている。もしかすると日本は昔から、国を挙げての「ブックオフ」だったのか。
ここから私の妄想は広がる。

とすると日本で、聖徳太子が『三経義疏』を書いて仏教の普及にこれ努めたのも、明治の元勲たちが必死にフランスの民法なんかを輸入して日本の法制度を整備したのも、MBAの教科書が翻訳されて日本のビジネス書として売りに出されるのも、どれもこれも「ブックオフ」であり、外国から文物を仕入れて、表紙カバーを特殊な洗浄液で洗浄し、手垢で汚れた小口を研磨機で研磨してから、見た目を綺麗にして店頭に出す中古書リサイクル店のアルバイト店員のような作業を、日本はこれまでずっと千年間以上続けてきた、ということなのか。…そこまで大げさなことを佐藤社長が言ってるわけではないが。

内田樹氏の「放談」の効用

しかし実は、まだ私は内田樹の『日本辺境論』は読んだことはないので、ここではひとまず佐藤社長のコメントをネタにして適当なことを想像して楽しんでいるだけである。
『日本辺境論』は、書店でパラパラと開いてはみたが、今の自分には、あまり触手が動かされる本ではなかったので、購入にまでは至らなかった。

私が内田樹氏の著作との出会いで、過去、最も恩恵を受けたと思っているのは、『身体(からだ)の言い分』(2005年)という本との出会いであり、新書の『いきなりはじめる浄土真宗』『はじめたばかりの浄土真宗』(2005年)である。『いきなり浄土』を読んだ時は「ついにこのような本が現われたか」と感動した。

関連記事:「始原の遅れ」-内田樹『いきなりはじめる浄土真宗』より 2010年01月14日

つまり私は内田氏の著作に、宗教論や身体論の分野から入っている。

これに対し憲法問題や、政治や社会制度などについて考える時は、内田樹氏の意見はあまり参考にならない。

内田樹氏への批判者がよく言うように、私も氏の文章を読んでいてあまりに「放談」が過ぎると思うことがよくある。しかし他方に「放談の効用」というのもあると私は思っており、内田氏のような大風呂敷を広げることが好きな人がいると、それを媒介にしていろんな人やモノたちがウジャウジャとつながっていったりすることがあるので、やはり氏の存在が貴重であることには変わりはないとも考えるのである。

ファスト風土という砂漠で水を汲むような所作である

ブックオフの話に戻るが、私は最近、生活費の必要に迫られて、自宅まで取りに来てくれるブックオフの「宅本便」というサービスを利用して、段ボール箱4箱ほどの蔵書やDVDを買い取りしてもらった。買い取り価格は一万円くらいになった。この額でも私にとっては有り難い「つなぎの資金」である。

逆に、ブックオフで購入してこれまで私が「掘り出し物かな」と感じたのは、浄土真宗のお経「大無量寿経」や親鸞・蓮如などの文章を集めた法蔵館出版の『真宗聖典』だった。これは1935年から版を重ねているもので、手のひらサイズのコンパクトな聖典。あの騒がしい音楽が流れる店内で、この宗教書を買い求めるときの私の気分には、やや陰惨なものが含まれていた。ファスト風土という砂漠で、あるはずもないオアシスを探しているような気分でこの本を手に取ったことを覚えている。

でも私は、ブックオフでCDやDVDを売ってとりあえずの数千円の金額を得て、「とりあえず間に合った」「救われた」という気分になったことが幾度かある。
だから私はブックオフがあって本当によかったと思う。
佐藤社長の発言によると、ブックオフはこれから、書物以外に衣類などの日用品のリサイクルを始め、家族連れが楽しめるような場所を作りたいと考えているようだ。私もブックオフ自身が、ファスト風土のなかのオアシスのような場所になっていってくれたらいいな、と思う。

「ブックオフ」の変化は、日本の「ファスト風土」の変化でもある。
だから佐藤弘志社長には、会社の「ビッグピクチャー」を存分に描いてもらって、これからも頑張って頂きたいと思う。

*『週間東洋経済』のくだんのビジネス書紹介コーナーで、他に私の目を引いたのは、コンサルタント会社の「リンクアンドモチベーション」社長・小笹芳央氏が「1位」に宮台真司『日本の難点』を挙げていたこと。社会学者の宮台真司氏の著作に注目したのがコンサルタント会社だった、というのはいかにもそれっぽいなーと思った。

関連記事:『思想地図 vol.4』を読む②-クワガタ虫・テレビ・ファスト風土 2009年11月30日
(→後半部分で、宮崎哲哉氏が「ファスト風土も悪くない」と言っている部分を引用しています。ファスト風土は人間工学的にも優しく、これから新しい「故郷」になっていく可能性があります。…『私なんか、ショッピングモールの高い吹抜けの下、ゆったりとしたベンチで本を読んだり、地元の高校生とかお婆ちゃんとかとお喋りしたりしてると、次第に「郷愁」すら感じるようになるもの。それは「ファスト風土」にすぎず、アイデンティティの寄る辺にはならないとする三浦展氏の評価は一面的と言わざるを得ないですね。』(宮崎哲哉氏)…そういえば、私の住んでいる町にある「カルフール」ショッピング街も、訪れてみるとなかなか和やかな雰囲気である。立体的なショッピングモールのはざまに、なぜか「小川」が流れていて、休日になるとそこでは親子が「ザリガニ釣り」を楽しんでいるのを見ることができる。ショッピング・センターで「ザリガニ釣り」を見たときは、ちょっとびっくりした。たしかに擬似自然だけど、悪くはない風景だった。子どもや親にとっては「かけがえのない時間」だからだ。…)

主軸のずれ、「生」の冥さ、「生権力」の増大

2009年12月25日 | 日記
「(おんぼう)」と「納棺師」

2009年12月18日(金)の読売新聞で、松岡正剛氏が「死生観」についてインタビューを受けていました。

「編集工学」という氏のライフワークも、松岡氏の父親の死がきっかけとなったことなどを述べておられます。父親の死後、福島県・奥会津の寒村に滞在し「(おんぼう)」と呼ばれる遺体焼却炉で働く人たちと共に生活し、そこから日本の「主軸のずれ」について考えていたともおっしゃっている。「」への興味というのは、今なら『おくりびと』の納棺師でしょう。私はその映画をまだ見ていませんが、「死」やその「周辺」への関心と、日本の社会の軸がどこかズレているんじゃないかという感覚とは、昔も今も、底流でつながっているのだろうと思います。

[以下、2009年12月18日(金)読売新聞 長寿革命第4部「死生観」総集編-松岡正剛氏インタビューより]
…葬儀の「お経」も、本来はオバマ米大統領の演説などよりずっと大切なメッセージをこめたものだったはずですが、いまの葬儀ではそれも伝わらない。
…私は1960年代、病院での父の死に立ち合い、社会の「主軸のずれ」を感じました。胆道がんで全身状態が悪化し、死の間際になると、あろうことか看護婦さんらが私たち家族を強制的に病室の外に追い出し、代わりに飛び込んできた医師は、通電ショックで少しでも延命させようとした。家族を驚かせない配慮かもしれませんが、結局、一番大切な時間を看取ることができなかった。家族の思いと医療が並び立たない状況に愕然とし、社会がおかしな方向に「ずれ」始めていると感じました。
…そこで「死」の現場を知ろうと、福島県・奥会津の寒村に滞在。「(おんぼう)」と呼ばれる遺体焼却炉で働く人たちと共に生活し、社会の辺境から「ずれ」の原因を考えた。それが、多領域を結びつけながら社会や世界の成り立ちを解き明かそうとする私のライフワーク「編集工学」の出発点でした。
[引用以上]

「通夜ぶるまい」の席でリアル・伊丹十三『お葬式』を見聞してみたり…

わたしは葬儀場でアルバイトしていたことがあります。
通夜や告別式などの合間に、親族や弔問客が集まって食事をする場面が何回かあります。
「通夜振る舞い」というのもその一つなのですが、私はそこでお寿司等を給仕する仕事を一年ほどしていました。

またその前は、ある有料老人ホームでの皿洗いのバイトをしていましたので、私は20代の頃「老いていくこと」や「死んでいくこと」を横目でチラチラ見ながら過ごしていた時期があることになります。仏教の「生老病死」の教えや、現代の社会から排除されていくもの、といった問題に関して、そのような自分の経験や観察を参考にしつつアレコレ考えたり感じたりしていました。

中学生の頃、私のおじいちゃんが体中にチューブをさしこまれながら、病院のベッドで死んでいく痛ましい姿を脇で見ていて、子どもながらに「医学ってなんなんだろう」「死生観(宗教)ってなんなんだろう」といったことについてぼんやりと考えていたことを思い出します。

現代の社会は、一方で「死」というものが見えなくされ、隠されていく社会であるわけですが、他方で「生」というものが「医療」などの手段によって、過剰に「透明化」され、パッケージ化され、陰翳のない「明るい」ものになっていくような感じを私は持っています。

「死」の隠蔽。「生」の透明化。「生権力」の暴走。

弘法大師は「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し」という言葉を残していますが、人間の生死は、始めと終わりが暗いだけでなく、その中間の「生きている」というところでも「冥さ」を抱えているように思われます。が、その「冥さ」をないことにしているのが現代のような気がします。それが生の「透明化」ということで私が言おうとしていることです。

私は喫煙者なので余計そう感じるのかもしれませんが、時々「医療」というものがわれわれの生き方まで「指図」しているような感覚を持つことがあります。

関連記事:わたしは「煙」に巻かれたい-タバコ税について 2009年11月22日
(→タバコ税増税にやや被害妄想気味に、喫煙の習慣を撲滅したいのだったら、その代わりになるものをくれ! と痴愚ハグな要求をしている文章です。)

メタボ検診を強制するという話でも単純に「やだ」と思うのでもしかすると私の被害妄想なのかもしれませんが、大げさに考えるとフーコーの「生権力」というのはこういうことか、と思ったりもします。

福嶋亮大氏-「生権力の暴走に対して人間的なものをどこに新たに担保するか?」という視点の必要性

最近久しぶりに更新してくれた批評家・福嶋亮大氏のブログ『仮想算術の世界』で、「阿久根市長発言と生権力」2009年12月23日という記事がありました。

阿久根市長が障害者差別発言をしたとかいうニュースに関し、福嶋氏はその報道のし方を、フーコーのいう「死なせる権力」「生きさせる権力」とからめて批判しています。

それを読ませていただいて私が思ったのは、(おもいきり阿久根市長の発言を短絡化してみた表現でいうと)「障害者は生まれてこないほうがいい」という考え方はおかしいと思うけれど、その辺りのことを「考えてはいけない」という日本はかなり異常だということです。
なんといったらいいか、グレーなところはグレーなところとしてゆっくりと考える必要があり(人間の生につきまとう「冥さ」を追い払うことはできない)、また、私には、医療ごときにわれわれの「生の配慮」が全部引きずられていくような感じがして気持ち悪いです(「生権力」の暴走)。本来なら個人や共同体や宗教やらが引き受けるべきだった場所が、今医療現場とか葬儀会社とかに押し込まれすぎている。じゃあどうすればよいのかというといい答えも見つからないわけですが。

このあたりのことは考え始めると頭の中がグルグルとなってしまいますが、ときどき立ち戻ってくるべき問題だと自分では思ってます。


[以下、福嶋亮大氏のブログ『仮想算術の世界』「阿久根市長発言と生権力」2009年12月23日より引用]

…阿久根市長の竹原信一の発言は非常に重要です。「高度医療が障害者を生き残らせている」という発言が実はきわめて正確であることは、フーコーを読んだ人ならわかるはずです。フーコーは、およそ二つのタイプの権力を分けています。一つは生殺与奪の権限を握った古典的な権力、つまり「死なせる権力」です。もう一つは、この世界に出生した生命を最大化する権力、つまり「生きさせる権力=生権力」です。高度医療にせよ、社会福祉にせよ、近代の制度的デザインというのは前者から後者への移行として捉えられる。要するに、人間の生にダメージが加えられたときにそれを修復するとか、予測不可能なアクシデントが発生したときにそれをカバーする保障制度をつくるとか、そういうメカニズムが非常に発達する、それが生権力の時代です。

…その点では、阿久根市長が「権力者だ」と言われるのは、二つの権力を混同しているところに由来する。一方から見れば、阿久根市長は、血も涙もない古典的権力者に見える。しかし、他方から見れば、彼はむしろ高度医療そのものが生権力の源泉になっており、「生命を最大化する」ことのもたらす弊害が無視できなくなっていることに着眼している。このズレは深刻です。

…裏返せば、生権力の時代には「死」がタブーになり、また今回のようにスキャンダルになる。だから、積極的に「死」を選択することに対しては、それこそ強い圧力(権力)がかかります。その点では、安楽死をテーマにしたドゥニ・アルカンの『みなさん、さようなら』(原題は『蛮族の侵入』)や、納棺師を主人公にした滝田洋二郎の『おくりびと』みたいに、死(あるいは死体)にじかに触れるような映画が出てきたのは、単純にいいことでしょう。そもそも、高齢者がどんどん増える社会で、安楽死や尊厳死の制度がちゃんと整備されていないというのは非常にリスキーなことです。かく言う僕も、肉親のこと、そして自分自身のことを考えると、「生きさせる」権力の肥大化は他人事ではないと感じる。まぁ『みなさん、さようなら』や『おくりびと』っていうのもちょっとやり方は古典的で、見てもらえばわかりますが、要は古い「死の儀礼化」をもう一回やり直しているわけです(それはそれで感動的なので構わないのですが)。しかし、本当に必要なのは、儀礼ではなく、もっと手続き的に死を選べるように、制度を考えるということではないか。

…ついでにいうと、これは(『思想地図』的に言えば)「切断が機能しない」社会の特徴でもあります。『思想地図』三号では、物理的世界では切断が機能するが、データの世界では切断が機能しない(だから、延々とコミュニケーションが続く)と言われていた。ところが、阿久根市長発言が示すのは、むしろ物理的世界でも切断(つまり死なせること)が機能しない場面があって、それが問題になっているということです。

…いずれにせよ、生権力への移行ということを押さえておかないと、阿久根市長を権力者だと言って批判している側こそが、最悪の生権力に操られているということになりかねない。別に大手新聞の記者も、高度医療が抱えている無数の問題を知らないはずはないと思いますが、要は空気を読んでいるだけですね。今の報道姿勢は最悪です。

…むかしユリウス・ハッケタール(患者を安楽死させたことでスキャンダルになったドイツの医者)の『最後まで人間らしく』(未来社)という本を読んで感銘を受けたことがあるのですが、やっぱりヨーロッパだと「人間的なもの」をめぐる再帰的なコミュニケーションが発達してるから「生権力の時代において、では人間的なものをどこに新たに担保するか?」という問いがちゃんと成り立つ。つまり、生権力の暴走に対して「いや、そうは言っても人間らしい生ってあるでしょ?」というコミュニケーションができる。しかし、日本だと、そんなコミュニケーションは到底できそうにないということが今回白日のもとに曝されたわけで、とりあえず一市民として不安でなりません。

[引用以上]

フランスの子育て-その前に「雇用の流動性」についてちょっと考える

2009年12月24日 | 労働・福祉
フランスの子育てうらやましい

最近、横田増生『フランスの子育てが、日本よりも10倍楽な理由』(2009年)という本を読んで、政府の手厚い家族支援によって出生率の高い社会を実現したフランスがちょっと「うらやましく」なり、これからの日本にとっても参考モデルの一つになると思った。(著者の横田増生氏は、数年前話題になった『アマゾン・ドット・コムの光と影』という本を書いた人である。)

しかしこれはあくまでも「参考」なのであって、この本にも出てくるフランスの「デモ文化」に対応するようなものが、日本にはさっぱりないということだけを見ても、そのまま制度を導入するのは無理っぽい。社会的コンセンサスが得られないからだ。

最近、日テレNEWS24の『闘論』#026「日本に未来はあるか?経済再生への提言」という番組で民主党のブレーンの一人である榊原英資氏が「民主党ははっきりと日本をこれからヨーロッパ型の福祉社会にする、と言わなきゃダメだ。消費税もぐんと上げると言わなくちゃ」という旨の発言をしていた。これに対し、内閣府副大臣の民主党・大塚耕平氏は「でも、どうやって社会的コンセンサスを得たらいいのかという問題があります、これからの課題です」といった答え方をしていた。

フランスと日本とでは、社会の「でき方」やこれまでの「履歴」が違いすぎるから、「隣の芝生」と似たものを自分達の庭で作ろうとしたら、いろいろと無理が出てきそうだ。

この本を読んだ後、"国家公務員一般労働組合の仲間のブログ"『すくらむ』にあった「子育てしたくなるフランス社会、子育てが困難な日本社会」2009年12月20日という記事が目に留まった。

この記事で紹介されている以下のデータだけ見ても、思わず「フランスってうらやましいなぁ」と思ってしまう。

…男性労働者の帰宅時間を日本・フランス・スウェーデンで比較すると、午後6時までに帰宅する男性労働者は、日本6.8%、フランス33.9%、スウェーデン70.9%です。午後6時までに帰宅する男性労働者は、日本では例外的で、フランスは3人に1人で、これを午後7時までにするとフランスは50%を超えます。午後7時までに帰宅できれば家族で夕食をともにできますが、日本の場合、午後7時までに帰宅する男性は22%しかいません。日本は午後8時以降が61.4%でそのうち午後10時以降が30%もいるのです。また年次有給休暇の取得日数は、日本は8.5日、フランスは25 日となっています。…

この記事に対し「安易なフランス賛美はもうやめてください」というコメントもいくつかついている。しかしいくら何でも日本の「幸せ度」って低すぎるだろ。諸外国のこと知ってうらやましくなるのは仕方がないと思う。

私はそれよりも、日本の雇用の流動性が低いことを問題視しているジャッカルさんのこの記事へのコメントが興味深かった。

…これも全て雇用に流動性がないことが問題なんですよ。
…結局、解雇規制がこのままだと、労働者は会社に隷属する形になるし、会社側はリスクを恐れて社員を新規に雇えない。
…諸外国は会社と労働者とが対等な契約関係であるからこそ、真っ当な労働環境を提供できるわけで。
…日本は力関係が完全に会社>労働者でしょう。
…解雇規制は緩めるな、しかしワークライフバランスは実現しろって、それは無理な相談ですよ。
 <ジャッカル 2009-12-20 17:08:39>

そうなんだよなぁ。

雇用の柔軟化をどう実現していくのかが今の日本の大きな課題のはず。
でも今の政府は、製造業派遣を禁止する、とかどちらかといえば「緊急避難的」な意味合いの強い政策に一生懸命で将来の経済の全体のバランスがどうなるかをちゃんと考えているようには見えない。
大丈夫なのか。
湯浅誠氏はたのもしいが、湯浅誠氏に頼った雇用政策「だけ」だと、何だかマズイことになりそうだ。

といったことを、『週間東洋経済』2009年11月7日号「特集:崩れる既得権、膨張する利権」で記者が次のように指摘しているのを見て、思った。

『週間東洋経済』の主張-もっと雇用の柔軟化を

[以下、『週間東洋経済』より引用]

…民主党が進めようとしている既得権の打破。旧弊のリセットはもちろん必要だが、民主党がさほど関心を寄せない分野もある。本誌が指摘しておきたいのは、経済成長のための既得権打破である。その一つが「公平で柔軟な労働市場の創設」だ。
…終身雇用が崩れつつあるとはいえ、労働流動化のための条件は十分ではない。成長産業への人材移動を容易にして新しい産業を生み出しやすくする。そのための方策を検討すべき時期に日本は来ている。
…具体的には「非正社員の待遇」「非正社員に比べ保護が手厚い正社員」「セーフティネットの構築」について議論が必要だ。
…雇用環境が厳しいため正社員になりたくてもなれない若者を中心に、「正社員こそが既得権益」という見方が出ている。社会対立や世代対立をあおるつもりはないが、若い世代からこうした意見が出てくること自体が、労働市場がうまく社会に適応できていないことを意味する。
…民主党は今のところ労働者派遣法の改正論議のみに終始し、労働市場のあり方全体については議論を避けている。民主党の強力な支持基盤である労働組合(連合)との関係もあって、議論が難しいのは理解できるが躊躇すべきではない。

[以上]

また、『週間東洋経済』のこの文章の上に掲げられている図表には、民主党政権下において「崩れない」と予想される既得権の一つとして「労働組合 正社員」という吹き出しがあり、その枠内には「民主党が支持母体である労働組合の嫌う政策を打ち出すことはないはず。正社員の過剰保護にメスが入る可能性は極めて低い。雇用問題は、派遣規制とセーフティネット整備が焦点に。」というコメントが入っている。

このあたりのことも視野に入れて、雇用政策のこと考えなくちゃいけないんだろうと思った。年末に「派遣村」を作らせない、という目標だけでは、政府の政策としては狭すぎるのだ。

関連記事:年末にフーコーと経済誌を一緒に読むⅡ 2009年12月30日
(→「雇用の流動化」に関し、八代尚宏氏と湯浅誠氏の文章が対比して引用されています。)
関連記事:ホワイトカラーエグゼンプションの議論について自分なりに整理 2010年01月07日
(→「雇用の流動化」について考える前に、ワークライフバランスや過労死問題について考えなければならないと思い直しました。)