買っててよかった『思想地図』
最近読み直してみて気づいたのですが、『思想地図vol.2』の 天田城介『<ジェネレーション>を思想化する』という論文には、ミシェル・フーコー『社会は防衛しなければならない』と『生政治の誕生』からの引用が多くありました。
やっぱり、買っててよかった『思想地図』。
いろいろと役に立ちます。
『思想地図』周辺の人たちは、すごく抽象的なことを考えているのだが、けっこう現実的なことを考える時のヒントになることがあります。
フーコーに関しては、福嶋亮大氏『仮想算術の世界』「阿久根市長発言と生権力」という記事に少し解説があります。
福嶋氏の文章は、拙ブログでもやや痴愚ハグな文脈ですが、引用しています。→主軸のずれ、「生」の冥さ、「生権力」の増大 2009年12月25日
ここでは、ミシェル・フーコー『生政治の誕生』の1979年2月14日の講義(161p-184p)からいくつか抜き出しておきます。読書メモのようなものです。
最近、「社会企業家」について書かれた記事をいくつか読む機会がありました。
松本孝之氏の『社会起業家の誤った認識』 2009年12月20日や、
堀江貴文氏の『社会起業家とか眠たいこと言ってんじゃねーよとか私は思うけど。』2009年12月20日など。
もしかしてホリエモンと「社会企業家」やNPOというのは、別に水と油の関係にあるものではないんじゃないのかもなー、といったことを考えながら、私はこのあたりのフーコーの文章を読みました。私の頭の中がよく整理されていないので、よけい混乱するような読書の仕方かもしれません。
「新自由主義的統治」にとっては、とにかく「経済成長」が大事、ということも書かれています。「新自由主義的統治」においては、ひとりひとりに「企業」という形式が強要される、みたいなことも。これは他人事ではなくて、今の日本でもやっぱり「経済成長」が大事で、それがなければ元も子もなくなるという事がいっぱいあるんじゃないでしょうか。「社会企業家」だってフーコーが言うホモ・エコノミクスの一種なんじゃないでしょうか。
別に批判したいわけではなくて、私には、それ(ホリエモン)も必然、あれ(社会企業家)も必然、という感じがしてくるのです。
『週間ダイヤモンド』や『週間東洋経済』の記事を読むときに、そうした「不可避性」を気にしつつ読んでみたりします。
フーコーの本は難しいけれども、無理して読めば、この本で言う「新自由主義的統治」というのが、「打倒!小泉・竹中路線!ネオリベ!」といったように、「すぐに倒せる悪者」を設定するような概念ではない、ということだけは、おぼろげながら理解できます。つまりわれわれが今生きており、これからも生きていかなければならない世界について書かれている本のようです。
以下、フーコー『生政治の誕生』(161p-184p)より、今回気になったところ抜粋
…厚生経済学において-ピグーがそのプログラムを与え、次いでケインズ主義経済学者、ニューディール、ベヴァリッジ計画、戦後ヨーロッパの諸計画がそれぞれのやり方で取り上げ直した厚生経済学において-社会政策とはいったい何でしょうか。社会政策とは、おおざっぱに言って、一人ひとりの消費財への接近を相対的に均等化することを自らの目標として定めるような政策です。(175p)
…この社会政策は、…まず、野放しの経済プロセスに対する歯止めとして考えられています。野放しの経済プロセスは、それ自体として社会に不平等をもたらすもの、そして一般的には破壊的諸効果をもたらすものであり、それに対して歯止めが必要である、というわけです。したがって、経済プロセスに対して社会政策はいわば対位法的な本性を持つということです。…あるいは第二の道具として、家族手当のようなタイプの所得の移転もあります。(175p)
…オルド自由主義者たちは次のように言います。…社会政策は、平等を自らの目標として定めることはできないのだ。社会政策は逆に、不平等を作用させておく必要がある。…経済ゲームとは、まさしくそれに伴う不平等の諸効果によっていわば社会を一般的に調整するものであり、…問題は、購買力の維持を保証することでは全くなく、決定的ないし一時的に自分自身の生存を保証できないような人々に対して必要最低限の生活費を保証することだけです。(176p-177p)
…その社会政策の道具は、消費と所得の社会化ではないということになります。それは逆に、民営化でしかありえません。つまり、社会全体に対して個々人をリスクから守るようにという要求がなされないようになる、ということです。…存在するリスクに対し、老いや死といった生存の宿命に対して、あらゆる個人が自分自身の私的な蓄えから出発して身を守ることができるようにすること。…社会政策の個人化。…要するに問題は、社会保障によって個々人をリスクから守ることではなく、個々人に一種の経済空間を割り当てて、その内部において個々人がリスクを引き受けそれに立ち向かうことができるようにすることなのです。(177p-178p)
…以上は、当然ながら次のような結論へと我々を導きます。すなわち、真の根本的な社会政策はただ一つ、経済成長のみであるということです。…経済成長こそが、それだけで、あらゆる個人が一定レヴェルの所得に達することを可能にし、この所得が個々人に対し個人保険、私的所有への接近、個人的ないし家族的資本化を可能にして、それによって個々人がリスクを解消することができるようにしなければなりません。(178p)
…私は以下の二点を強調しようと思います-第一に、まさにここから出発して、そして社会政策の拒絶から出発して、アメリカの無政府資本主義が発達することになります。そして第二に、これもやはり重要なこととして、少なくともますます新自由主義に従って秩序づけられている国々においては、社会政策がますます以上のすべてに従う傾向にある、ということがあります。(178p-179p)
…新自由主義、新自由主義統治はまた-そしてこれが、新自由主義を、いわゆる厚生政策ないし[1920年代から1960年代にかけて]知られたそれに類するものから区別します-社会に対して市場が及ぼす破壊的諸効果を修正する必要もありません。新自由主義的統治は、社会と経済プロセスとのあいだに、対位法あるいは遮蔽物を構成する必要はありません。新自由主義的統治は、社会そのものの骨組みとその厚みのなかに介入する必要があります。新自由主義的統治は、実のところ…社会に介入し、競争のメカニズムが、いかなる瞬間においてもそして社会の厚みのいかなる地点においても、調整の役割を果たすことができるようにしなければなりません。…それは、経済的統治ではなく、社会の統治です。(179p-180p)
…新自由主義者たちが思い描いているような、市場に従って調整される社会、それは、商品の交換よりもむしろ競争のメカニズムが調整原理を構成しなければならないような社会です。そうした競争のメカニズムが、社会において可能な限りの広がりと厚みとを手に入れ、さらには可能な限りの容積を占めなければなりません。すなわち、獲得が目指されるのは、商品効果に従属した社会ではなく、競争のダイナミズムに従属した社会であるということです。スーパーマーケット社会ではなく、企業社会であるということ。再構成されようとしているホモ・エコノミクス、それは、交換する人間ではなく、消費する人間でもありません。それは、企業と生産の人間です。(181p)
…問題は、その基本単位がまさしく企業の形式を持つような社会の骨組みを構成することです。実際、私的所有とは一つの企業でなくて何でしょうか。独立家屋とは一つの企業でなくて何でしょうか。近隣の小さな共同体の運営とは…、企業の別の形態でなくて何でしょうか。別の言い方をするなら、問題は、「企業」形式を可能な限り伝播させ増殖させつつ一般化することです。「企業」形式とは、国民的ないし国際的規模の大企業という形式、あるいは国家タイプの大企業という形式のもとに集中させられてはならないものです。社会体の内部において、このように「企業」形式を波及させること。これこそが、新自由主義政策に賭けられているものであると私は思います。問題は、市場、競争、したがって企業を、社会に形式を与える力のようなものとすることなのです。(182p-183p)
…一九三〇年代頃にオルド自由主義者たちによってそのプログラムを作成された統治術、今や資本主義の国々において大部分の統治のプログラムとなったその統治術は、そのようなタイプの社会を構成しようとするものでは決してありません。問題は、商品や商品の画一性にもとづく社会を得ることではなく、逆に、企業の多数多様性とその差異化にもとづく社会を得ることなのです。(183p-184p)
最近読み直してみて気づいたのですが、『思想地図vol.2』の 天田城介『<ジェネレーション>を思想化する』という論文には、ミシェル・フーコー『社会は防衛しなければならない』と『生政治の誕生』からの引用が多くありました。
やっぱり、買っててよかった『思想地図』。
いろいろと役に立ちます。
『思想地図』周辺の人たちは、すごく抽象的なことを考えているのだが、けっこう現実的なことを考える時のヒントになることがあります。
フーコーに関しては、福嶋亮大氏『仮想算術の世界』「阿久根市長発言と生権力」という記事に少し解説があります。
福嶋氏の文章は、拙ブログでもやや痴愚ハグな文脈ですが、引用しています。→主軸のずれ、「生」の冥さ、「生権力」の増大 2009年12月25日
ここでは、ミシェル・フーコー『生政治の誕生』の1979年2月14日の講義(161p-184p)からいくつか抜き出しておきます。読書メモのようなものです。
最近、「社会企業家」について書かれた記事をいくつか読む機会がありました。
松本孝之氏の『社会起業家の誤った認識』 2009年12月20日や、
堀江貴文氏の『社会起業家とか眠たいこと言ってんじゃねーよとか私は思うけど。』2009年12月20日など。
もしかしてホリエモンと「社会企業家」やNPOというのは、別に水と油の関係にあるものではないんじゃないのかもなー、といったことを考えながら、私はこのあたりのフーコーの文章を読みました。私の頭の中がよく整理されていないので、よけい混乱するような読書の仕方かもしれません。
「新自由主義的統治」にとっては、とにかく「経済成長」が大事、ということも書かれています。「新自由主義的統治」においては、ひとりひとりに「企業」という形式が強要される、みたいなことも。これは他人事ではなくて、今の日本でもやっぱり「経済成長」が大事で、それがなければ元も子もなくなるという事がいっぱいあるんじゃないでしょうか。「社会企業家」だってフーコーが言うホモ・エコノミクスの一種なんじゃないでしょうか。
別に批判したいわけではなくて、私には、それ(ホリエモン)も必然、あれ(社会企業家)も必然、という感じがしてくるのです。
『週間ダイヤモンド』や『週間東洋経済』の記事を読むときに、そうした「不可避性」を気にしつつ読んでみたりします。
フーコーの本は難しいけれども、無理して読めば、この本で言う「新自由主義的統治」というのが、「打倒!小泉・竹中路線!ネオリベ!」といったように、「すぐに倒せる悪者」を設定するような概念ではない、ということだけは、おぼろげながら理解できます。つまりわれわれが今生きており、これからも生きていかなければならない世界について書かれている本のようです。
以下、フーコー『生政治の誕生』(161p-184p)より、今回気になったところ抜粋
…厚生経済学において-ピグーがそのプログラムを与え、次いでケインズ主義経済学者、ニューディール、ベヴァリッジ計画、戦後ヨーロッパの諸計画がそれぞれのやり方で取り上げ直した厚生経済学において-社会政策とはいったい何でしょうか。社会政策とは、おおざっぱに言って、一人ひとりの消費財への接近を相対的に均等化することを自らの目標として定めるような政策です。(175p)
…この社会政策は、…まず、野放しの経済プロセスに対する歯止めとして考えられています。野放しの経済プロセスは、それ自体として社会に不平等をもたらすもの、そして一般的には破壊的諸効果をもたらすものであり、それに対して歯止めが必要である、というわけです。したがって、経済プロセスに対して社会政策はいわば対位法的な本性を持つということです。…あるいは第二の道具として、家族手当のようなタイプの所得の移転もあります。(175p)
…オルド自由主義者たちは次のように言います。…社会政策は、平等を自らの目標として定めることはできないのだ。社会政策は逆に、不平等を作用させておく必要がある。…経済ゲームとは、まさしくそれに伴う不平等の諸効果によっていわば社会を一般的に調整するものであり、…問題は、購買力の維持を保証することでは全くなく、決定的ないし一時的に自分自身の生存を保証できないような人々に対して必要最低限の生活費を保証することだけです。(176p-177p)
…その社会政策の道具は、消費と所得の社会化ではないということになります。それは逆に、民営化でしかありえません。つまり、社会全体に対して個々人をリスクから守るようにという要求がなされないようになる、ということです。…存在するリスクに対し、老いや死といった生存の宿命に対して、あらゆる個人が自分自身の私的な蓄えから出発して身を守ることができるようにすること。…社会政策の個人化。…要するに問題は、社会保障によって個々人をリスクから守ることではなく、個々人に一種の経済空間を割り当てて、その内部において個々人がリスクを引き受けそれに立ち向かうことができるようにすることなのです。(177p-178p)
…以上は、当然ながら次のような結論へと我々を導きます。すなわち、真の根本的な社会政策はただ一つ、経済成長のみであるということです。…経済成長こそが、それだけで、あらゆる個人が一定レヴェルの所得に達することを可能にし、この所得が個々人に対し個人保険、私的所有への接近、個人的ないし家族的資本化を可能にして、それによって個々人がリスクを解消することができるようにしなければなりません。(178p)
…私は以下の二点を強調しようと思います-第一に、まさにここから出発して、そして社会政策の拒絶から出発して、アメリカの無政府資本主義が発達することになります。そして第二に、これもやはり重要なこととして、少なくともますます新自由主義に従って秩序づけられている国々においては、社会政策がますます以上のすべてに従う傾向にある、ということがあります。(178p-179p)
…新自由主義、新自由主義統治はまた-そしてこれが、新自由主義を、いわゆる厚生政策ないし[1920年代から1960年代にかけて]知られたそれに類するものから区別します-社会に対して市場が及ぼす破壊的諸効果を修正する必要もありません。新自由主義的統治は、社会と経済プロセスとのあいだに、対位法あるいは遮蔽物を構成する必要はありません。新自由主義的統治は、社会そのものの骨組みとその厚みのなかに介入する必要があります。新自由主義的統治は、実のところ…社会に介入し、競争のメカニズムが、いかなる瞬間においてもそして社会の厚みのいかなる地点においても、調整の役割を果たすことができるようにしなければなりません。…それは、経済的統治ではなく、社会の統治です。(179p-180p)
…新自由主義者たちが思い描いているような、市場に従って調整される社会、それは、商品の交換よりもむしろ競争のメカニズムが調整原理を構成しなければならないような社会です。そうした競争のメカニズムが、社会において可能な限りの広がりと厚みとを手に入れ、さらには可能な限りの容積を占めなければなりません。すなわち、獲得が目指されるのは、商品効果に従属した社会ではなく、競争のダイナミズムに従属した社会であるということです。スーパーマーケット社会ではなく、企業社会であるということ。再構成されようとしているホモ・エコノミクス、それは、交換する人間ではなく、消費する人間でもありません。それは、企業と生産の人間です。(181p)
…問題は、その基本単位がまさしく企業の形式を持つような社会の骨組みを構成することです。実際、私的所有とは一つの企業でなくて何でしょうか。独立家屋とは一つの企業でなくて何でしょうか。近隣の小さな共同体の運営とは…、企業の別の形態でなくて何でしょうか。別の言い方をするなら、問題は、「企業」形式を可能な限り伝播させ増殖させつつ一般化することです。「企業」形式とは、国民的ないし国際的規模の大企業という形式、あるいは国家タイプの大企業という形式のもとに集中させられてはならないものです。社会体の内部において、このように「企業」形式を波及させること。これこそが、新自由主義政策に賭けられているものであると私は思います。問題は、市場、競争、したがって企業を、社会に形式を与える力のようなものとすることなのです。(182p-183p)
…一九三〇年代頃にオルド自由主義者たちによってそのプログラムを作成された統治術、今や資本主義の国々において大部分の統治のプログラムとなったその統治術は、そのようなタイプの社会を構成しようとするものでは決してありません。問題は、商品や商品の画一性にもとづく社会を得ることではなく、逆に、企業の多数多様性とその差異化にもとづく社会を得ることなのです。(183p-184p)