ブログ・プチパラ

未来のゴースト達のために

ブログ始めて1年未満。KY(空気読めてない)的なテーマの混淆され具合をお楽しみください。

Google(グーグル)と中国-英語のニュースを読んでみた

2010年01月15日 | 日記
英語の文章を読むちょっとした練習として、最近たまたま目に入った記事を、かなりオオザッパに、自分で訳してみる。

グーグルが中国から撤退するという話題につき、記者は「グーグルが中国内部にとどまっていたほうが、自由のためにもよい」という主張をしている。記事は「孫子」のことばを引用したりしていて、ちょっと面白かったので、英語辞書を引きつつ、以下私訳する。


「グーグルが中国にしかけた戦いは逆効果だ」 (2010年1月14日 Benzinga.com より)


…たとえば、アメリカが中国に最恵国待遇の地位を与えたのは、貿易や相互影響をどんどん増やして、しぜんと中国の経済体制が自由主義諸国に近づいてくるのを期待してのことだった。その見込みはうまくいった。

同じように中国に言論の自由を導入したいのだったら、彼らの法律の枠組みの中でじわじわと、ステップ・バイ・ステップで働きかけていくべきだ。

私はグーグルは注意深く中国の内部にとどまり、大量のユーザーたちにいろいろな技術ツールを与えていったほうがいいと思う。それが政府の検閲制度を自然に侵食する。グーグルのプログラマと政府の検閲官とを比べてみれば、どっちが勝てそうかは一目瞭然じゃないか。

政府からのものと思われるサイバー・アタックというのは確かに困ったことかもしれないけど、グーグルにはそれくらいの攻撃をかわせるくらいのセキュリティ技術があるはずだ。グーグルがアメリカ政府を味方につけようとしているのは、よくない方向だと思う。中国が自分から法律を変えたり廃止したりする可能性は低いのだから、事態を悪化させるだけだ。
巨大な中国市場のことを考えると、お金だってもったいないし。

中国の孫子という人はこんなことを言っていた。「敵を知り己を知らば、百戦殆うからず。」グーグルの今回の行動は、敵を知っていないし、また、自分がどんな力をもつのかもわかっちゃいない。

グーグルが取るべき正しい戦略は、できるだけ中国政府の規制に反しないようにしながら、ユーザーにサービスを提供しつづけること、またオープンネスや自由な議論を奨励しつづけることだ。オープンネスが浸透すれば、中国の国民はいずれかは、政府の検閲なんか要らないと思うようになるだろう。中国政府が作ってる馬鹿げたシステムの中で粛々と動いていさえすれば、インターネットがもつオープンネスが、しぜんと中国に自由をもたらすことになるだろう。いま、一時の興奮によって軽率な行動をとることは、むしろ逆効果で「後退」だと思う。…〈以上)

以下、英語の原文。

Google's War on China Is a Great Leap Backward (Benzinga.com)

Posted on 01/14/10 at 10:42am by John Boyd

From the very beginning when the United States gave China MFN (Most Favored Nation Trade Status) the wager has been that through increased trade and interaction, China would be brought closer into the western world. This bet has worked --some say a little too well.

Similarly, the way to introduce more free speech in China is to do so in small moves within their laws step by step.
I'd rather Google stay in China, be sneaky, get a ton of users and provide those users technology tools to evade government censorship. If I were to take bets on Google programmers versus government censors, who wouldn't wager on Google?
The attacks most likely by internal Chinese agencies are disturbing but it appears as though Google's internal security was able to fend most of this off. If Google tries to get the U.S. government involved it will only make the situation worse and the Chinese are unlikely to back down or modify their laws. This all puts at risk a 20% share in China which aside from it's impact on state control in China, is valuable monetarily.

Sun Tzu said "If you know not the enemy or yourself, you will succumb in every battle". This move strikes me as showing evidence of neither and rather naive.

The right strategy for Google is to continue to offer its services and encourage openness and discussion by skirting around the rules as much as possible. As this openness prevails, the Chinese citizens will demand less censorship over time from their government.
Over time, by working within the ridiculous system that China has set up, the openness that the internet engenders will bring liberty to China. Staging a fit now with little leverage is a big leap backwards.

東浩紀氏の小説『クォンタム・ファミリーズ』はおもしろそうだ

2010年01月14日 | ブログ名の由来
東浩紀氏の小説『クォンタム・ファミリーズ』がおもしろそうだ。

読みたいけれど、私の財布にはつねに空っ風が吹いているので、それも困難か。

えーん。

わたしが自分のブログに「プチパラ」という言葉を入れたのも、もとはといえば、このブログをこしらえようと思ったとき、東浩紀氏が「仮定法過去完了の世界」とか「並行世界」のことを喋っているのを思い出し、連想ゲームで私にも小さな「パラレル・ワールド」が欲しいな、「プチ・パラレル・ワールド」…「プチ・パラソル」…「プチ・パラサイト」、略して「プチ・パラ」でいっか、と思ったことによる。

以前拙ブログでブツブツとつぶやいていた文章の中で、私は次のようなことを書いていた。(ウィンストン・チャーチルは帰還せり 2009年06月20日より…しかし過去の記事は今読むと、冗長すぎて自分でも読みづらいわ!)

『無数のパラレルワールドが存在する、という量子力学の「多世界解釈」があるが、その考えはSF的というより、もっとリアルな生活に即しているようでもあり、「ありえない」話というより、「それって、あるある!」という「あるあるネタ」に分類してほしいと思うことがある。東浩紀氏の「ゲーム的リアリズム」というのも、現代の小説に当てはまる話というだけではなく、普通に生きているだけで「無理に分岐を強いられている」という感覚を抱いてしまう人が現代に多そうだ、という前提で書かれているのだと思う。』

『講談社・ブルーバックスのコリン・ブルース著「量子力学の解釈問題-実験が示唆する多世界の実在」などを読んでいると、これまで物理学で支配的だった考え方、ヤングの「2スリット実験」等に対する解釈として、モヤモヤと広がった確率的な「雲」が、人間が「観測」した瞬間にスルスルッと収束するという摩訶不思議な「コペンハーゲン解釈」よりも、最初から無数の分岐世界があることを思い切って想定してしまう「オックスフォード解釈」の方が、無理のない見方だと思えてくる。』

『時間が流れる限り、後悔は止まず、無数の分岐世界への気掛かりが消えることはないと思う。
しかし戻れないまでも、あみだクジのように「ななめ」にハシゴをかけて、別の分岐に飛び移ることはできないのだろうかと、よせばいいのに、らちもない空想を続けたりする。プチ・パラレルワールドが欲しい。プチ・パラソルみたいなものが欲しい。雨の日に「雨降らなかったかもしれない世界」を傘の下に現出させる「もしもパラソル」が欲しい。プチをつけるところがちょっと弱気で、おれは、ヘタレ・パラレル・症候群にすぎないのかもしれない。』

…このような興味・関心を持っている私からすると、小説『クォンタム・ファミリーズ』は、絶対「当たり」のはずなのだ。

『雑種路線でいこう』2010年1月4日の記事で、『クォンタム・ファミリーズ』の一部が引用されているが、これだけ読んでもおもしろそうだ。

…仮定法の亡霊(ゴースト)!
ああ、ドキドキする。

>ぼくは考えた。ひとの生は、なしとげたこと、これからなしとげられるであろうことだけではなく、決してなしとげられなかったが、しかしなしとげられるはずのことにも満たされている。生きるとは、なしとげられるはずのことの一部をなしとげたことに変え、残りすべてなしとげられるはずのことに押し込める、そんな作業の連続だ。ある職業を選べば別の職業は選べないし、あるひとと結婚すれば別のひととは結婚できない。直接法過去と直接法未来の総和は確実に減少し、仮定法過去の総和がそのぶん増えていく。
>そしてその両者のバランスは、おそらくは三五歳あたりで逆転するのだ。その閾値を超えると、ひとは過去の記憶や未来の夢よりも、むしろ仮定法の亡霊に悩まされるようになる。(東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』p.28より)

…ここで川の中のメダカを釣るように、東浩紀氏のツイッターよりこの小説の趣旨を述べている言葉を掬いだしてみると、

>「量子家族」というタイトルには、「核家族が作れない家族の物語」という意味を込めたつもりなのです。「核家族」は英語だと Nuclear familyだから。核そのものが確率的な存在ということで量子。(東浩紀 2010年1月2日)

>ぼくたちは仮定法の亡霊から自由にならなければいけないのだ。それが『クォンタム・ファミリーズ』のメッセージです。というか、ぼく自身が『クォンタム・ファミリーズ』を書いた動機です。(東浩紀 2010年1月4日)

…そして、東浩紀氏は、ある人のつぶやき「なるほど。ぼくは真逆に、かけがえのないこの人生という呪縛から逃れるために、仮定法の亡霊を召還する話として読んでた。」に対し、

> あ、それは同じことです。

と、答える。

>「かけがえのないこの人生」という強迫観念に捕らわれるのはなぜかといえば、仮定法の亡霊を適切に「悪魔払い」できないから。ちなみに「悪魔払い」とか「亡霊」とか、ぼく的にはデリダの『マルクスの亡霊たち』用語なのだけど、むろんそんなことは知らなくてかまいませんw (東浩紀 2010年1月4日)

…私も、デリダをまともに読んだことはないが、東浩紀氏の「亡霊」という概念にはドキドキしてしまう。

高橋源一郎氏のツイッターで、『クォンタム・ファミリーズ』の書評があるのでそこからも「メダカすくい」しておく。

> 子どもたちを寝かしつけてから、『クォンタム・ファミリーズ』の最後の部分、読了。ひとことでいうと、感動した。すげえ小説だ。『キャラクターズ』でも、(東浩紀の部分に)ぼくは「小説の魂」とでもいうしかないものを感じた。(高橋源一郎 2010年1月2日)

>(過剰に)物語ろうとする欲望と、それに相反する(過剰に)批評的であろうとする意志に、引き裂かれそうになりながら、小説は書かれる。だから、『クォンタム・ファミリーズ』は理想的な小説というべきだろう。それにしても、困ったことが(少なくとも)一つある。四月に出るぼくの新作に似てる……。ぼくの『悪と戦う』(という作品)も、「並行世界」の物語で、主人公の「存在しなかった」「××」と「××」が、ある世界に介入して、主人公を救い、世界の破滅を回避させるのだ。でも、偶然の一致ではないような気がする。「歴史」が終わったと感じられた後に書かれる小説はこうなるのかもしれない。(高橋源一郎 2010年1月2日)

>小説から不必要な要素をすべて引き算していって、最後に残るのは「倫理」だとぼくは考えている。そして「倫理」は「時間」に深く関係している。「歴史」がなくなっても、人間が「倫理」を必要とする限り、(小説の中で)「時間」にかかわるなにかを作り出さなければならないのだ。それは、「歴史」ではなく、「時間のゆらぎ」のようなものなのかもしれない。「過去完了」で書けなくなった以上、他にとるべき方途はないのである。久しぶりに、小説読んで、興奮しちゃったぜ。次男が寝ぼけて、書斎に来たので、寝室に連れて行きます。んじゃ。 (高橋源一郎 2010年1月2日)

…ここで高橋源一郎氏が言う、『小説から不必要な要素をすべて引き算していって、最後に残るのは「倫理」だとぼくは考えている。そして「倫理」は「時間」に深く関係している。「歴史」がなくなっても、人間が「倫理」を必要とする限り、(小説の中で)「時間」にかかわるなにかを作り出さなければならないのだ。それは、「歴史」ではなく、「時間のゆらぎ」のようなものなのかもしれない。』、という言葉にも、何だかグッとくるなー。


関連記事:「そうであったかもしれない」世界との関係-小島寛之『確率的発想法』より 2010年01月14日

「そうであったかもしれない」世界との関係-小島寛之『確率的発想法』より

2010年01月14日 | 宗教・スピリチュアル
関連記事:東浩紀氏の小説『クォンタム・ファミリーズ』はおもしろそうだ 2010年01月14日

小島寛之氏は、数学や経済学が専門の人。この本は、確率論の本だが、人間の一見不合理に見える行動-たとえば宗教的な鎮魂とか「供養」とか「回向」とか-のことを考えるとき、あるいは人生の様々な分岐点について思いを巡らすときに、何かヒントになりそうだ。

以下、小島寛之『確率的発想法』(NHKブックス 2004年)の『終章 そうであったかもしれない世界ー過去に向けて放つ確率論』から引用する。


「そうであったかもしれない世界」への責任、「過去の最適化」


> この「そうであったかもしれない」というのは、決して突飛な考えではなく、人間の基本的思考様式の一つです。その証拠に、言語には「仮定法過去完了」という文法形式が存在しています。「あのときもしも鳥だったら、空を飛べたのに」に現われているような、「過去のある時点においてそうではなかった」ことを前提とした表現が、普通の文法として成立しているのです。不確実性下の意思決定を分析するには、「仮定法過去完了」として確率を捉え直すことが肝要だと思えます。(214p)

>人が不確実性下の意思決定において過誤をおかすことを前提として考えるとき、次に問題になるのは、人が過誤に対してどういう始末をつけるのか、ということです。通常の経済理論では、このような過誤の始末は、まったく無視されます。経済理論における人々の欲望の視線は、未来にしか向かわないことになっているからです。経済を営む人々は、生起した事態を観察し、自分の過誤に気がつき、サプライズが起こります。そこでこの経済主体は、過去における自分の決定に誤りがあったことを認めることになります。ところが、従来の経済理論では、終わったことはそれとして、行動のためのデータ構造を修正し、経済主体は再び「これから先の未来の利益を最適化」するだけです。(219p)

>本当にそれでいいのでしょうか。もし経済主体の行為がこのようなものであるとすれば、「経済主体は過去において行動の本質的最適化を図っていなかった」ことになってしまいます。従来の経済理論は、過誤という過去の不始末に対して断罪をしません。つまり、最適だと思った選択が最適でなかったことが判明しても、経済主体が「過去を最適化しようとする」などとは想定しないのです。(219p)

>わたしたちは常に未来にしか視線を送らないでしょうか。あるいは、未来にしか視線を送る「べきではない」のでしょうか。筆者が論じたいのは、他でもない、「人は過去をも最適化したいと思っているし、またそうであるべきだ」という論点なのです。(219p-220p)

>ここでちょっと脇道にそれておきます。社会学者の大澤真幸に「責任論」という論文があります。この中で大澤は、1995年の阪神・淡路大震災で被災した女性のことを取り上げています。彼女は、震災の朝、いつもより10分早く床を離れました。そこには理由はなく、たんなる偶然にすぎません。しかし、それが彼女と夫との運命を分けました。一階で寝ていたご主人は、運悪く瓦礫の下敷きになって死亡し、二階にいた彼女は生き残ることになったのです。それ以来彼女はずっと、自分の「責任」に苦しめられています。それは、「死んだのは自分でもよかったのに、夫のほうが死んでしまった」という責め苦です。(220p)

>彼女を苦しめたこの咎めの意識のことを、大澤はヤスパースのことばを借りて「形而上の責任」と呼んでいます。(220p)

>大澤のあげた例ではありませんが、同じメンタリティが、妊婦のときに水俣病に罹患した患者からもうかがえます。有機水銀による中毒症は、胎児性という残酷な特徴を備えていました。体内の有機水銀が、胎児に集中してしまうのです。したがって、生まれたきた子供が中毒死したり深刻な障害を負ったりするのに比べ、母親はそれほど重体にはならない事例が見られました。しかしこのことが逆に母親に、強い罪責感を植えつけてしまいました。自分が重い障害を得るよりもずっと深刻な心の障害をもたらしたのです。「本当に死ぬべきだったのは自分のほうだったのに、子供が代わりになってそれを引き受けてしまった」。母親はこのような罪悪感を一生背負って生きていくことになったのです。(221p)

>以上のような「形而上の罪」の意識は、わたしたちに何を教えてくれるでしょうか。それは、「人間はときとして、終わってしまった過去でさえも、もっと良くしたいと思う」、そういうことです。(222p)

>経済理論の原則は、「現在から将来にわたる利益を最適化する」ことだと繰り返してきました。けれどもこれは、人間行動の真実の姿を描写していない、と思えるのです。人は、「終わってしまった過去をも最適化したいと望むことがある」のではないでしょうか。「形而上の罪」は、その一つの有力な証拠です。(222p)

>不確実性下の意思決定では、「過去には可能性として存在していた事態」を結果の判断に加えなければ、選択行動を正しく描写できないことを前に述べました。「形而上の罪」に苦しむ人々は明らかに、「そうであったかもしれない世界」に自分を置き、そこを変えることのできない苦しみを背負って生きているといえます。もしも、経済理論が想定するように、人々がいつでも未来だけを最適化するなら、このような人々の感性や善悪判断は不合理だということになるでしょう。しかし人々の内面には、過去を最適化することへの欲求が厳然と存在しています。あるいは存在することを認めざるをえません。ならば経済理論は、それを組み込んだ形に理論を修正すべき責務をもっているといえます。(222p)


「偶然」=「過誤」に対する支払い、ロールズの「格差原理」へ


>以前、ある棋士から次のようなことばを聞いたことがあります。「ホームレスの方々を見ると、ときどきこんなことを思う。あのとき、銀を左下ではなく右下に引いていたら、今自分はこの人だったかもしれない」。この棋士はたぶん、残り少ないもち時間に追われながら、銀の駒をどちらに引くべきか最終的に読みきることができなかったのでしょう。そうして、ほとんどたんなる偶然で銀の駒を左下に引いたのでしょう。それは結果的に正解でした。しかし、このあとこの棋士には、「銀を右下に引いたことで生じたかもしれない世界」がつきまとうことになりました。(224p)

>このとき、この棋士の現在の名声や所得は、 100%この棋士に帰属するといえるでしょうか。単純な見積もりをすれば、決断の時点で左下が右下に対して確たる優位性がなく、あとになって左下が論理的な正解だとわかったのだとしたら、「半分確率の正しいほうをたまたま、しかも意識的な攪乱戦略としてではなく選んだにすぎない」ということになります。このとき、この棋士の現在の所得の半分は自分のものではない、といっても過言ではありません。この棋士の発言には、そういう「居心地の悪さ」が表れているといえます。(225p)

>このように、人々が自分の判断の過誤を見つけ、自分の地位や所得のいくばくかは事前の最適化の産物ではないと知ったなら、その居心地の悪さを解消するためにその人は、「過去を最適化」すべきでしょう。それは過誤に対する支払い、あるいは「そうであったかもしれない自分」に対する支払いと呼ぶべきものです。よく麻雀ゲームで、テンホウやチュウレンポウトウなどをあがったプレーヤーが、他のプレーヤーたちに食事をおごったりします。これは、「祝いごとのふるまい」という意味もありますが、それよりも、自分に自分の実力を超える幸運が働いたことに対するばつの悪さを解消するためのふるまいだと考えるほうが正しいでしょう。(225p)

>このように考えるとき、「過誤に対する支払いによる再最適化」を是とするならば、ジョン・ロールズが主張しているマックスミン原理に別の根拠を与えることが可能だと筆者には思えます。「もっとも不遇な人たちの利益が最大になるように社会を設計する」、ということは成功者からの富の移転を前提としています。この富の移転は何を意味するのでしょうか。それは決して慈悲やほどこしではなく、「自分がそのもっとも不遇な人であったかもしれない世界」、「現在そういう不遇な立場にないのは、全部が自分の推測の正しさやそれに応じた備えや努力の産物であるわけではなく、一部はある種の過誤の帰結であること」、そういうことへの支払いだと考えたらどうでしょうか。(226p)

関連記事:ロールズの「格差原理」と聖書の「迷い羊」のたとえ 2010年01月14日
(→ロールズの格差原理の考え方の背景に、キリスト教の影響あるかも。)

ロールズの「格差原理」と聖書の「迷い羊」のたとえ

2010年01月14日 | 宗教・スピリチュアル
ジョン・ロールズのマックスミン原理「もっとも不遇な人たちの利益が最大になるように社会を設計する」という考え方にちょっとだけ似ている、新約聖書の羊のエピソード。

(マタイの福音書18・12-14より)

>あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。

>そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。

>このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。

関連記事:政治の目的は「不幸の最小化」-管直人氏 2010年01月14日

政治の目的は「不幸の最小化」-管直人氏

2010年01月14日 | 政治・民主党
仏教者の宮崎哲哉氏が以前、民主党の管直人氏がいう政治の目的は「不幸の最小化」という考え方はよい、と述べていたことがあった。

管直人氏の公式ウェブサイト 2003年10月2日にも、その言葉はある。

<最小不幸社会>昨日の予算委員会で私の政治哲学として「最小不幸社会」という考え方を披露した。政治の目標は人々の不幸を最小化する事という意味。私がこの言葉を使い始めたのは20代の学生時代から。今回の民主党マニフェストでも使う予定。 (管直人氏の公式ウェブサイト 2003年10月2日より)

不幸の最小化。仏教の「抜苦与楽」の考え方に似ているのかなぁ。
まず火を吹き消す、毒矢を抜く。
ロールズの「格差原理」という考え方にも似ている。


関連記事:子どもが泣き止まない-ハローワークにて 2009年12月08日
(→NPOライフリンク代表の清水康之氏が政府の活動に参加している。政府が積極的に「自殺対策」に関るというのは、管直人氏の「不幸の最小化」という考え方の具体化例のひとつだろう。)
関連記事:南直哉×宮崎哲哉の動画にコメント 2009年11月14日
(→宮崎哲哉氏が「座右の銘」にしているという南氏の「生きる意味より死なない工夫」という言葉を引用している箇所があります。)
関連記事:次の総理大臣は菅直人氏? 2010年01月09日

みうらじゅんが説く「般若心経」の教え-「ギャーテー、ギャーテー」は「フレー!フレー!」である

2010年01月14日 | 宗教・スピリチュアル
私はみうらじゅん氏を尊敬しており、所詮私の思い込みだろうが、みうら氏のことが、まるで現代の聖者の一人のように見えてきて、困ってしまうことがある。

今日は、みうらじゅん対談集『正論。』(2009年)から、拙ブログに関係がありそうな所を抜き出しておこう。

ちなみにこの本は、およそ400ページにも渡って、みうらじゅんと、各界著名人の方たちとが対談を繰り広げているものである。

その論じられている内容とは、80パーセントくらいは「エロ話」のことであるといってよいだろう。
そして残りの19パーセントくらいは「下ネタ」である。

しかし、最後の1パーセントくらいのところで、仏教や仏像の話が出てくるので、ここに抜粋しておく。「小見出し」は私がつけている。


般若心経の「ギャーテー、ギャーテー」は「フレー!フレー!」である

<10p-11pより>
峯田和伸 般若心経はいつも持ち歩いているんですか?
みうら 文字が小さい上に老眼でよく読めないんだけどさ。あ、この最後のところ、ギャーテー、ギャーテー、ハーラーギャーテー(羯諦、羯諦、波羅羯諦)ってあるでしょ?

峯田 ギャーテーは聞いたことありますね。ギャーテーズとかいいますもんね。
みうら このギャーテーの部分が、訳してはいけないとされてたんですよ。ここだけは。

峯田 どういう意味なんですかね?
みうら どうやら「フレー! フレー!」ということみたいなんだ。…何も無い。肉体も無い。生きてることも滅することも汚いことも綺麗なことも無い。増えることも減ることも無い。全部無い無いですよ。でも修行を積む者だけには「フレー! フレー! 彼岸に行く者達よ!」って応援するんですよ。

峯田 彼岸ってお彼岸の…?
みうら そう。現世のことを此岸って呼び、あっちは彼岸。彼岸って死ぬことじゃなくて到達するというのかなあ。だから修行を積み重ねる人達だけには、「フレー! フレー!」って言うんですよ。これ僕の訳なんだけどね。(笑)

峯田 (笑)。「ギャーテー! ギャーテー!」と。
みうら 般若心経って、今風にいうと応援歌っぽい感じがするんですよ。最初はマイナスと取れることばっかり言っておいて、それじゃ救われないんじゃないか? って思わせといて、後半「でもね」を言い出す。あの『イマジン』と同じやり口ですよ。ジョン・レノンは多分これに影響を受けたんだと思うよ。


駐車場で説かれる仏の教え

<13pより>
みうら よく、駐車場のところに「空あり」って書いてあるでしょ。
峯田 見かけますね。

みうら 「空なし」ともあるんですよ。あるけど無いんだよね。無いけどあるように。
峯田 町中で説かれているんですよね。

みうら 釈迦が悟った「空」の思想は全ての問いに答えられることなんですよ。あの方はもう全て分かっちゃったんですよ、ボブ・ディランは「答えは風に吹かれている」と表現しましたが。
峯田 はーなるほど!

みうら ボブ・ディランは、結局答えは風に吹かれているだけで、あるかも知れないし、無いかも知れないって。

仏像も見た目が9割?

<318pより>
はな みうらさんの般若心経の本(『アウトドア般若心経』)。あれは凄かったね。
みうら ありがとうございます。実は般若心経って昔から凄くジョン・レノンの『イマジン』に似てるなって思ってた。

はな え? そうなの?
みうら 『イマジン』は「国境は無い、天国も無い」って言うでしょ? 般若心経も「無い、無い」だから。「色も無い、形も無い」っていうことだから。多分ジョンが釈迦の教えをパクッったとみたね。

はな パクリ? 『イマジン』パクリだったんだ。そっか。みうらさんって阿修羅像の置物持ってますよね? 結構大きいの。
みうら あれは奈良の土産物屋さんで買ったの。パクッてないよ(笑)。

はな ええー!
みうら そろそろ仏像教ってのを作らないとね。

はな いいね!
みうら それを「イマ寺院」って呼ぼうかな。今度はジョン・レノンの『イマジン』をパクッて。


・・・以上!


関連記事:山崎隆之『一度は拝したい奈良の仏像』-阿修羅と金鼓の響き 2009年11月27日
(→すまない。阿修羅の記事だが、みうらじゅん・いとうせいこうの『見仏記』のような面白さはない。)

「始原の遅れ」-内田樹『いきなりはじめる浄土真宗』より

2010年01月14日 | 宗教・スピリチュアル
以下、内田樹『いきなりはじめる浄土真宗』より

『もちろん、すべての生物は世界の創造に遅れて到来したわけですが、同じ遅れて到来したものたちの中にあって、おそらく人間だけが、「自分たちは世界に遅れて到来した」ということを自覚しています。』

『この「遅れ」の感覚を基礎として、おそらく「人間的な時間意識」というものは発生してきたのでしょう。というのは、「私たちの生に絶対的に先行しているもの」に対して私たちは焼け付くような欲望を抱きますが、そのような欲望は動物にはありえないからです。』

『このときに、「私には分からないけれどもこのゲームを始めたものがあり、そうである以上、このゲームにはルールがあるはずだ」というふうに推論する人間の思考の趨向性を私は「宗教性」と呼びたいと思います。』

『レヴィナスはこの「私には知れないルール」のことを端的に「善」と名づけています。』
『ですから、レヴィナスにおいて、「被造物である」とは、「贈り物をすでに受け取ってしまった」という「贈与についての絶対的遅れ」を意味しています。』
『ですから、信仰とはこの「決して完済しえない被贈与感」のことであり・・』



・・・先日、佐藤優氏のキリスト教神学入門があまり良くないなぁ、という感想を書いた。
仏教の入門書になると、何があるかなぁ、と考えると、

やっぱり、評論家でブッディストの宮崎哲哉氏が薦めているものを中心にして読むのがよいと思う。
わたしはそうだったから。
値段も手ごろで読みやすいと思われるのは、

『老師と少年』
『えてこでもわかる 笑い飯哲夫訳 般若心経』
『アウトドア般若心経』
『いきなりはじめる浄土真宗』

などになる。

・・・なお、「笑い飯」という漫才師は、去年のM-1決勝戦で、あろうことか、自爆的に「チンポジ」というギャグをかまして優勝を逃した二人組だ。
年末のM-1効果で、哲夫の『般若心経』の本はアマゾンで結構売れてたみたいだ。数週間前に、アマゾンランキングの「宗教」部門を見ると、「1位」になっていた。
1月14日現在は「4位」。おそるべし、「チンポジ」効果。

関連記事:『老師と少年』-なつかしい痛みとは何か 2009年11月27日
関連記事:M-1優勝者決定-中田カウスのコメントはいつも的確だ 2009年12月20日

子ども龍馬可愛い! しかし『氷川清話』。または敗北者たちのことが。

2010年01月13日 | 日記
NHKの大河ドラマで、福山雅治の『龍馬伝』がやっている。
子役がかわいかった。
しかし、坂本龍馬は司馬遼太郎以前、どれくらい日本人に人気があったのだろう。
最近ひまつぶしに、勝海舟の『氷川清話』(講談社学術文庫)を読んでいると、竜馬の名前が出てくるのは一度だけ。

『氷川清話』(講談社学術文庫)の「人物評論」86pで「土州では、坂本と岩崎弥太郎」とし、
勝は、龍馬について、

「坂本龍馬。あれは、おれを殺しに来た奴だが、なかなか人物さ。その時おれは笑って受けたが、落ち着いていてな、なんとなく冒しがたい威権があって、よい男だったよ。」

と、これだけしか言ってない。

『氷川清話』で勝海舟が誉めているのは、西郷隆盛。
昔は、「維新の三傑」」という言い方があって、西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通の三人のことを言っていたかと思う。

「おれが逢ったものの中で変わるやうな事のないのは西郷だ。大久保も精神家でこれも変ぜぬ男だった。木戸がまたその次さネー。だがこれはすっかり下がる。」(『氷川清話』278p)  

日本人の間で、長らく一番人気あったのは西郷どんのはずだったのだ。
いつから龍馬になったのか。

『アジア主義』の感覚
が日本人の間で弱くなっていったことと歩調を合わせて、「西郷<龍馬」になったのではないか、と私は推測している。アジアの連帯も、「敗北の美学」も、日本から消えていった。

わたしは、幕末の志士の中では、橋本左内と吉田松陰が好きである。
とくに橋本左内が14歳のころに書いた『啓発録』という文章を、私は中学2年くらいのとき、つまり14歳くらいのときに読んで、驚いてひっくりかえりそうになったことがある。「稚心を去れ」。14歳の紅顔の美少年がすさまじい文章を書く。最後は獄中で死ぬ。吉田松陰もそうである。

司馬遼太郎の小説より、私が好きだったのは山田風太郎の歴史小説で、わたしは20代のころ、風太郎の小説を読んで何度も嗚咽がこみ上げてきた。

佐藤優氏の神学入門-『はじめての宗教論 右巻』はやや残念だった

2010年01月13日 | 宗教・スピリチュアル
佐藤優『はじめての宗教論 右巻』(NHK生活人新書)を私の兄が購入していたので、兄貴から借りて少し読ませてもらった。
結論として、キリスト教神学への入門書として、あまりいい本だとは思えなかった。
わたしは佐藤優氏の著作で、もっともよかったのは、『獄中記』だと思う。
『獄中記』でわたしのキリスト教神学への興味も強くなったからだ。

著者は、この本『はじめての宗教論 右巻』の導入部分、オバマ大統領と鳩山首相の話をしながら、これからの国際政治を理解するためには「見えない世界」のことを理解しなければならない、そのためには神学を学ばなければならない、と説く。

日本人の国際政治に対するコンプレックスをくすぐり、「だからキリスト教を勉強しないと時代に遅れるよ」、と脅しているように見えて、あまりいい心持ちはしなかった。

「宗教」が大事だと言うのなら、「国際政治のことなど、どーでもエエやんけ」、と私は思う。

佐藤優氏が、金日成の英雄神話と、キリストの伝説が似ていると言って、だからキリスト教はこれからも復活し続ける、という話の振り方をするところなど、「本気なのかな?」といぶかしく思った。

北朝鮮の金日成の神話とキリストの伝説に似ているところがあるとしても、それは単純に両者が同じ「物語の類型」を採用しているからだ、と考えることはできないのだろうか。

この本では、お勧めの神学入門書として、マクグラスの『キリスト教神学入門』を挙げている。

私もこの本はいい本だと思っているので、この機会にこの本の一部、今回はC・S・ルイスについて書かれているところを引用しておく。

C・S・ルイスの言葉―『それは、私たちが見出すことのなかった花の香りであり、耳にすることのなかった楽の音谺であり、一度も訪れたことなどない国からのたよりなのです。』
マクグラスの解説―『ルイスによれば、人間の内部には深くて強い憧れの感情がある。この感情は地上のどのようなものも経験も満たすことが出来ない。ルイスはこの感情を「喜び」と名付ける。彼によれば、喜びは、その起源と目的である神を指し示しているのである。』

C・S・ルイスは、イギリスの神学者であると同時に、最近はディズニー映画にもなった『ナルニア国物語』という傑作ファンタジーの生みの親でもある。

キリスト教神学への入門書としては、佐藤優氏のようにいきなり「金日成」の話とキリスト教と結びつけるより、マクグラスのようにC・S・ルイスの言葉を持ち出したほうが、一般の読者への受けがよくなるのではないか、と思う。

佐藤氏はこの本で、「存在の類比」というトマス・アクィナスの概念を説明する際に、マクグラスの『キリスト教神学入門』から多く引用している。

そういえば「存在の類比」については、熊野純彦氏の『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波新書)にも記述があった。

私は、キリスト教神学への入門書として、佐藤氏の本よりむしろ熊野氏のこの本を、お勧めしたいと思う。

そこでは、アウグスティヌス、ボエティウス、トマス・アクィナスなどの中世の神学者の考え方や伝記的エピソードが手際よく紹介されている。何よりも、キリスト教神学の「香り高さ」を伝えてくれる本だ。

というより、わたしは、佐藤優氏の『獄中記』と、この岩波新書の熊野純彦氏の文章を読んで、「何か、キリスト教神学ってよさげだなー。」と思って、マクグラスの入門書に興味を持った、という順番だったのだ。

今回、佐藤優氏の本を読んだのがきっかけで、マクグラスの入門書に興味を持つ人も多くなるのだろう。

しかし、マクグラスの『キリスト教神学入門』は、現在アマゾンで買えるものの、あまりに値段が高すぎる。(なんと7,875円!)

できれば全国の市立図書館に、マクグラスを一冊ずつ置いてもらいたい。

関連記事:三位一体のシンデレラ-キリスト教の「聖霊」って何?2009年12月22日
(→佐藤優氏の『獄中記』より引用-『ハーバーマスが「コミュニケーション」と名づけているものは、古代、中世のキリスト教神学が「聖霊」と呼んだものに近いのではないかという仮説を私は立てています。』。マクグラスの入門書より引用-『聖霊は長いこと三位一体のシンデレラであった。他の二人の姉妹は神学の舞踏会へと行くのに、聖霊はいつも取り残されてきたのである。』)
関連記事:『下流志向』を読む⑤-「等価交換モデル」とペラギウス主義 2009年11月23日
(→マクグラスの入門書より引用-『十六世紀のプロテスタント宗教改革の間、救済の言語における根本的な変化が起こり始めた。アウグスティヌスのような初期のキリスト教神学者たちは「恵みによる救い」という言語を用いる新約聖書の箇所を優先させていた。しかしながら、どのようにして神は罪人を受容し得るのかという問題との格闘によって、マルティン・ルターはパウロが主に「信仰による義認」について語っている箇所に焦点を合わせるようになった。どちらの文章においても要点は根本的に同じであると言う事もできるが、その要点を表現するのに用いられる言葉は違っているのである。宗教改革の最も重要な影響の一つは、「恵みによる救い」という言葉を「信仰による義認」という言葉に置き換えたということにある。』)

ナルニア国への「憧れ」-マクグラス『キリスト教神学入門』より

2010年01月13日 | 宗教・スピリチュアル
関連記事:佐藤優氏の神学入門-『はじめての宗教論 右巻』はやや残念だった2010年01月13日

マクグラス『キリスト教神学入門』(269p-270p)より、C・S・ルイスの「憧れ」論を引用。

…アウグスティヌスの最近の最も優れた弁証法学的解釈者の一人が、二十世紀のオックスフォードの文芸批評家・神学者であったC・S・ルイスである。ルイスの著作の最も独創的な面の一つは、おそらく彼が常に、また力強く宗教的な想像力に訴えようとしたところにあるのではなかろうか。そのようにして彼はアウグスティヌスの格言、「憧れが心を深くする」を展開したのである。アウグスティヌスのようにルイスも、我々の実存の時間と空間を越えた次元を指し示しているある深い人間の感情に気づいていた。ルイスによれば、人間の内部には深くて強い憧れの感情がある。この感情は地上のどのようなものも経験も満たすことが出来ない。ルイスはこの感情を「喜び」と名付ける。彼によれば、喜びは、その起源と目的である神を指し示しているのである(そこから彼の有名な自伝の題、『不意なる歓び』が由来している)。ルイスによれば、喜びとは「それ自体が他のいかなる満足よりも望ましい、満たされることのない欲求である。…それを一度、経験した者は、必ずまたそれを欲しがる」。
…ルイスはこの問題をさらに「栄光の重み」と題した説教において論じている。これはオックスフォード大学で一九四一年の六月八日になされたもので、ルイスは「どのような自然の幸福も満足させることの出来ない欲求」、「なおも彷徨い、その対象についても不確かな欲求、その対象が本当に存在する方向に、まだほとんど見ることが出来ないでいる欲求」について語っている。人間の欲求には何か自滅的なものがある。というのも、欲求の対象が適えられると、満たされない欲求が残されるように思われるからである。ルイスは明らかにアウグスティヌスを思い出させる表現を用いて、古くからの美の探究を例に取り上げる。
…(以下、ルイスの文章)…そこに美がところを得ていると私たちが考えた書物や音楽は、それをあてにしようものなら、私たちを裏切ることでしょう。美はそういうもののなかにはなく、それはただそういうものを通じて現われたのであって、そういうものを通じて現われたものは憧れであったからです。美とか、自分自身の過去の追憶とか、こういうものは、私たちが真に願い求めるもののよき心象ですが、もしそれを物自体だと間違えたら、それはもの言えぬ偶像になり変わって崇拝者たちの胸を打ち砕くのです。物自体ではないからです。それは、私たちが見出すことのなかった花の香りであり、耳にすることのなかった楽の音谺であり、一度も訪れたことなどない国からのたよりなのです。(以上)
…強調されている基本的な点は徹底的にアウグスティヌス的である。つまり、被造世界は創造主に対する憧れの感情を作り出すのだが、それは自分では満たすことの出来ないものなのである。このようにして、本質的にアウグスティヌス的な枠組みが人間の一般的な経験に適用されて、巧みな神学的解釈を与えているわけである。