『クォンタム・ファミリーズ』をついに読み始める。しかしまだ19ページ。
以前の記事、東浩紀氏の小説『クォンタム・ファミリーズ』はおもしろそうだ 2010年01月14日で触れた『クォンタム・ファミリーズ』をついに最近購入し、読み始めた。
しかし現在、私は「物語外1」と題された最初の19ページまでしか読んでいない。残りの部分は自分にまだ「おあずけ」というか、このブログの記事を書き終わった後、また他の自分が読みたい本を読み終えた後に、ちびちび読んでいこうと思っている。
「尊厳の再分配」?-葦船往人のブログ『網状地下室』を読んで疑問に思う
それでももう、いろいろな思いが私の中に巻き起こっている。私はまず、作中人物の葦船往人のブログ『網状地下室』を読んで、すぐに自分の中に「え?」という反発感が出てくるのを感じた。葦船往人が2007年6月8日に書いたという文章である。内容は、現代の労働する若者の「尊厳」を巡ってのものだ。
>ではなぜ彼らは行かないのか。理由は簡単だ。労働では彼らの尊厳が満たされないからである。
>ぼくたちの社会は、一世紀前に較べれば飛躍的に高い生産性を実現している。世界はモノに溢れ、市場は開放され、ぼくたちはある意味できわめて豊かな時代に生きている。実際にこの日本でさえ、若者が餓死するのは容易ではない。それなのに、ぼくたちは恥辱に塗れ、疲弊し、生きる意志を失っている。日本では治安の悪化は失業率の上昇を振り切っている。同じ現象が世界中で起きている。ロンドンでニューヨークで上海でドバイでムンバイで、決して餓死することはないが、しかしそれ以上ではない、生きる意志を奪われた「ムーゼルマン」としての労働者=消費者が増殖している。ぼくたちの世界が荒れているのは財が足りないからではない。
>ひとはパンのみで生きるのではない。いまやもっとも重要な問題は、富の再配分ではなく尊厳の再配分なのだ。希望の再配分と言ってもいい。そこで問題を縁取るもっとも過酷な条件は、世界の富の総量は「クリエイティブ・クラス」の「イノベーション」でいくらでも増やすことができるかもしれないが、世界の尊厳=希望の総量は決して変わりはしないという単純な事実だ。ある個人に尊厳=希望を与えれば、別の個人が必ず尊厳=希望を奪われ地下室に堕ちる。(葦船往人ブログ『網状地下室』2007年6月8日より 16p-17p)
このように葦船往人は語り、この後でその問題を「宗教」で解決しようとする者もいるかもしれないが、私はこの問題を「工学的」に解決したい、というようなことを言っている。一瞬納得してしまいそうな論理だが、5ページの記事によると、葦船往人はこの後、テロリスト容疑で逮捕されたようだ。何を考えていたのだろうか。「工学的」という言葉でこの人物がどんな事態を指しているのかは、わからない。私は、まだこの物語の先を読み進んでいないからだ。
しかし今の時点で私がいぶかしく思うのは、葦船氏の「世界の尊厳=希望の総量は決して変わらない」という言葉である。「尊厳の再分配」? 尊厳や承認というものが、富や財のように「配分」することなど可能だろうか?
「尊厳」という言葉は、「承認」という言葉とほぼ等しいと思う。
そこで「承認の分配」でブログ検索してみると、すぐに『承認は分配できるか(財のように)』「モジモジ君の日記。みたいな。」2007年11月19日という文章が見つかる。作中人物の葦船往人のブログの日付は「2007年6月8日」だったが、この文章の日付は「2007年11月19日」であり、これを見ると実際に2007年ごろ、「尊厳の分配」「承認の分配」という議論がネット界で行われていたことが推測できる。
私も、最近秋葉原事件と承認問題-宮本太郎『生活保障』より 2010年01月16日という記事を書き、この「承認問題」「尊厳問題」について注意を促している。しかし、「個人の尊厳」とは一体なんなのだろう。もしかするとそれは、ヨーロッパでキリスト教を背景として生まれた政治的な概念にしかすぎないのかもしれない。それは本当に必要なのだろうか? 私が問うのは、葦船氏のように「工学的」に必要かどうかではなく、それ以前に「宗教的」に必要か? ということである。
私が考えているのは、「仏教」のことである。仏教に何か可能性はないか。仏教では、「個人の尊厳」というものはどのように解釈できるのだろうか? そんなことを考えながら、私はイギリス人が書いた仏教書『自己牢獄を超えて 仏教心理学入門』を読み直したりしていた。
関連記事:自尊心などなしでやっていける能力-『自己牢獄を超えて 仏教心理学入門』より 2010年01月28日
キリスト教はどうなんだろう?
作中人物の葦船往人は、続けてドストエフスキーやロシア正教との関係について触れている。私は何だか、ドストエフスキーの小説が読みたくなってきた。だから『クォンタム・ファミリーズ』は19ページで読みさしにして、私はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読み始めることにした。久しぶりに面白い小説だ。胸に響くものがあった。しかし恐ろしく長い小説なので、いつになったら『クォンタム・ファミリーズ』に帰ってこれるかわからない。ここ数年、小説なんてほとんど読まなかった私にとって、『カラマーゾフ』は久しぶりに面白い小説になりそうだ。
>ベルジャーエフは、ドストエフスキーの可能性をロシア正教的な感性に見た。「ドストエフスキーは、言葉のもっとも深い意味におけるキリスト教的作家であった」。キリストと真理が対立するのであればキリストの側につく、と『悪霊』のスタブローギンは言う。それは世界文学史においてもっとも感動的な場面のひとつだ。
>しかしぼくは、未来の地下室人は、宗教的にではなく工学的に救われるべきだと考える。それこそがぼくたちの希望だ。
(葦船往人ブログ『網状地下室』より 18p-19p)
関連記事:「遠い者は愛せるのに、近い者は愛せない」―ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』より 2010年01月28日
以前の記事、東浩紀氏の小説『クォンタム・ファミリーズ』はおもしろそうだ 2010年01月14日で触れた『クォンタム・ファミリーズ』をついに最近購入し、読み始めた。
しかし現在、私は「物語外1」と題された最初の19ページまでしか読んでいない。残りの部分は自分にまだ「おあずけ」というか、このブログの記事を書き終わった後、また他の自分が読みたい本を読み終えた後に、ちびちび読んでいこうと思っている。
「尊厳の再分配」?-葦船往人のブログ『網状地下室』を読んで疑問に思う
それでももう、いろいろな思いが私の中に巻き起こっている。私はまず、作中人物の葦船往人のブログ『網状地下室』を読んで、すぐに自分の中に「え?」という反発感が出てくるのを感じた。葦船往人が2007年6月8日に書いたという文章である。内容は、現代の労働する若者の「尊厳」を巡ってのものだ。
>ではなぜ彼らは行かないのか。理由は簡単だ。労働では彼らの尊厳が満たされないからである。
>ぼくたちの社会は、一世紀前に較べれば飛躍的に高い生産性を実現している。世界はモノに溢れ、市場は開放され、ぼくたちはある意味できわめて豊かな時代に生きている。実際にこの日本でさえ、若者が餓死するのは容易ではない。それなのに、ぼくたちは恥辱に塗れ、疲弊し、生きる意志を失っている。日本では治安の悪化は失業率の上昇を振り切っている。同じ現象が世界中で起きている。ロンドンでニューヨークで上海でドバイでムンバイで、決して餓死することはないが、しかしそれ以上ではない、生きる意志を奪われた「ムーゼルマン」としての労働者=消費者が増殖している。ぼくたちの世界が荒れているのは財が足りないからではない。
>ひとはパンのみで生きるのではない。いまやもっとも重要な問題は、富の再配分ではなく尊厳の再配分なのだ。希望の再配分と言ってもいい。そこで問題を縁取るもっとも過酷な条件は、世界の富の総量は「クリエイティブ・クラス」の「イノベーション」でいくらでも増やすことができるかもしれないが、世界の尊厳=希望の総量は決して変わりはしないという単純な事実だ。ある個人に尊厳=希望を与えれば、別の個人が必ず尊厳=希望を奪われ地下室に堕ちる。(葦船往人ブログ『網状地下室』2007年6月8日より 16p-17p)
このように葦船往人は語り、この後でその問題を「宗教」で解決しようとする者もいるかもしれないが、私はこの問題を「工学的」に解決したい、というようなことを言っている。一瞬納得してしまいそうな論理だが、5ページの記事によると、葦船往人はこの後、テロリスト容疑で逮捕されたようだ。何を考えていたのだろうか。「工学的」という言葉でこの人物がどんな事態を指しているのかは、わからない。私は、まだこの物語の先を読み進んでいないからだ。
しかし今の時点で私がいぶかしく思うのは、葦船氏の「世界の尊厳=希望の総量は決して変わらない」という言葉である。「尊厳の再分配」? 尊厳や承認というものが、富や財のように「配分」することなど可能だろうか?
「尊厳」という言葉は、「承認」という言葉とほぼ等しいと思う。
そこで「承認の分配」でブログ検索してみると、すぐに『承認は分配できるか(財のように)』「モジモジ君の日記。みたいな。」2007年11月19日という文章が見つかる。作中人物の葦船往人のブログの日付は「2007年6月8日」だったが、この文章の日付は「2007年11月19日」であり、これを見ると実際に2007年ごろ、「尊厳の分配」「承認の分配」という議論がネット界で行われていたことが推測できる。
私も、最近秋葉原事件と承認問題-宮本太郎『生活保障』より 2010年01月16日という記事を書き、この「承認問題」「尊厳問題」について注意を促している。しかし、「個人の尊厳」とは一体なんなのだろう。もしかするとそれは、ヨーロッパでキリスト教を背景として生まれた政治的な概念にしかすぎないのかもしれない。それは本当に必要なのだろうか? 私が問うのは、葦船氏のように「工学的」に必要かどうかではなく、それ以前に「宗教的」に必要か? ということである。
私が考えているのは、「仏教」のことである。仏教に何か可能性はないか。仏教では、「個人の尊厳」というものはどのように解釈できるのだろうか? そんなことを考えながら、私はイギリス人が書いた仏教書『自己牢獄を超えて 仏教心理学入門』を読み直したりしていた。
関連記事:自尊心などなしでやっていける能力-『自己牢獄を超えて 仏教心理学入門』より 2010年01月28日
キリスト教はどうなんだろう?
作中人物の葦船往人は、続けてドストエフスキーやロシア正教との関係について触れている。私は何だか、ドストエフスキーの小説が読みたくなってきた。だから『クォンタム・ファミリーズ』は19ページで読みさしにして、私はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読み始めることにした。久しぶりに面白い小説だ。胸に響くものがあった。しかし恐ろしく長い小説なので、いつになったら『クォンタム・ファミリーズ』に帰ってこれるかわからない。ここ数年、小説なんてほとんど読まなかった私にとって、『カラマーゾフ』は久しぶりに面白い小説になりそうだ。
>ベルジャーエフは、ドストエフスキーの可能性をロシア正教的な感性に見た。「ドストエフスキーは、言葉のもっとも深い意味におけるキリスト教的作家であった」。キリストと真理が対立するのであればキリストの側につく、と『悪霊』のスタブローギンは言う。それは世界文学史においてもっとも感動的な場面のひとつだ。
>しかしぼくは、未来の地下室人は、宗教的にではなく工学的に救われるべきだと考える。それこそがぼくたちの希望だ。
(葦船往人ブログ『網状地下室』より 18p-19p)
関連記事:「遠い者は愛せるのに、近い者は愛せない」―ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』より 2010年01月28日