ブログ・プチパラ

未来のゴースト達のために

ブログ始めて1年未満。KY(空気読めてない)的なテーマの混淆され具合をお楽しみください。

やる夫・浪花節・人形浄瑠璃

2009年05月30日 | 思想地図vol.3
 村上氏が紹介していた「やる夫は未来を信じていないようです」シリーズは、私も見て嗚咽がこみあげてきた。泣いた。こうした体験も、来たるべきゴースト論とかに関係しているのだろうか。

 『(村上裕一「ゼロアカ第五次関門の私記」より)…このシリーズは本当に身につまされる傑作ばかりで、例えば最初期にあたる「やる夫が自分に向き合いきれなかったようです」でやる夫が「マッチ一本分でも意味のあることをしようとしてるやつを……/お前らが笑うな………………」と叫ぶ様子には、最初に読んだときには号泣してしまったし、今見ても目頭が熱くなる。ここにあったのは記号と文字の羅列ではなくて明らかにやる夫の「声」だった。やる夫について書くために開いたサイトで、僕は確かにやる夫に励まされていた。マッチ一本分以上の意味が溢れていた。僕はやる夫について書くことが何かとても美しいことであるかのように錯覚していたのかもしれない。それは本当に「信仰」に似ていた。』
 
 福嶋亮大氏のブログに「怒りに満ちた文章よりも、涙を湛えた文章」が好きだという言葉があった(「仮想算術の世界」2008/8/8)。私は村上氏の『Fate論』などにはそういう「海の底で結晶化されたような涙」のようなものがあったかもしれないと思う。しかしそれはこのやる夫で泣いたというのとは、また別の話になるのだろう。

 私はやる夫の「成長と停滞」の物語(主人公が人格的に成長したかと思ったらご破算になってまた元に戻るという、いわばビルドゥングス&スクラップ・ロマン?)を描いた「2ちゃんねるまとめサイト」を読んで泣きながら、ふと物故された山本夏彦氏のコラムに出てくる岩野泡鳴の話を思い出した。

 明治大正時代の文士・岩野泡鳴が、当時全盛の桃中軒雲右衛門の浪花節を聞いて、思わず落涙して、その落涙したことに自分で腹を立てて、泣きながら拳固で涙をぬぐいながら、この涙はウソだウソだと言い続けてやめなかった、というものだ。
 
 この涙はウソなのだろうか。

 浪花節というのは、たぶん過去数百年の日本人の「泣き」のデータベースから構成された涙腺刺激マシーンとして量産されてきたもので、そのようなワンパターンかつ周到な構成を持った物語に、文学という「不明瞭で崇高なもの」を志すこの自分が、たやすく、オートマティックに反応してしまい涙を流すなんて、そんな不条理なことは許せない、というのが岩野泡鳴の心情だったのだろう。

 同じようなメカニズムがやる夫を読んで泣くこの私にも働かないということは考えられない。
 しかしまた、そのときやる夫のような強い情動を引き起こすキャラクターが、少なくともそこらへんのゴミを漁るカラスなどの動物より、私にとって強い「実在度」を帯び始めるような気がしたのも事実である。やる夫の「中」に入って操作している人間が、もはや気にならない。むしろそっちのほうが操作されているような気がしてくる。人形浄瑠璃で操られる人形のほうが人間よりリアルで垂直的な存在感を持ち始めるというのと、ちょうど同じメカニズムが働いているのかもしれない。

 ふと思ったのは、村上氏のゴースト論や福嶋亮大氏の神話社会学というのが発展した将来、過去の日本の文芸や文化環境にもそれらを適用することができて、「ここは同じだ」とか「ここは違う」「あそこが違う」ということがもっとうまく指摘できるようになり、その結果、現代の文化環境や諸問題が「こんなにも特殊なんだよ」とか「こんなにも通時代的で普遍的なものなんだよ」というのがもっと明瞭に言えるようになるのかもしれない。そのような作業が進むともっと過去と現在の断絶(や接続)がはっきりとなって、「未来のゴースト」や「想像力の未来」について私達が想像力を働かせやすくなるのかもしれないなぁ、と思った。


村上裕一氏の代理的想像力

2009年05月30日 | 思想地図vol.3
 村上裕一氏の『Fate論』は、エロゲーを知らないこの私にも、心に食い込んでくるような迫力ある、いわば実存に触れてくる文章だった。文学や哲学や批評の言葉を読みはじめて、何だかわからないドキドキ感が持続して、ついつい最後まで読み進めてしまった、なんてことは私の場合は学生時代以降、めったにない体験となってしまったが、久しぶりにそのような感覚が甦ってきた。
 ネットで、「ゼロアカ第五次関門の私記」というねっちりと書かれた村上氏の長文の報告を読んでみると、この人が自らとは違ったあり方をしている人間への想像力も併せ持っているらしいことに気づき、彼がこれから行う「ゴースト論」などへの期待や信頼感が、私はそれによって高まった気がした。

 例えば私はゼロアカ関係の動画で「三ツ野君」のたたずまいを見ていると、なんとなく過去の在る時期の自分や、周りにいたかもしれない誰かのことが想起されて、血圧を測る時に腕にまきつけるゴムが押し付けるくらいの圧力で、かるくQと胸がしめつけられるのを感じた。それは、彼のようなあり方にたいする、無視や憫笑的な反応がある程度予測できるという意味でもQだった。つまり三ツ野氏の書くものの独特の「弱さ」や「青さ」がそうなのだが、その「たたずまい」も多分、一般的に理解や受容の面で困難にぶつかるだろう(ぶつかってきただろう)、と思った。(キャラ的に「ユーモアある人」としての「受容」ならありそうだが、ここではそうではなくもう少し「真面目」に「理解」されるということ)

 だから私は村上氏が、三ツ野氏を「在る一つのコミュニケーションの方法」として評価しているのを見てびっくりした。そういう風に「理解」する人がいるのは意外だった。
 「在る一つのコミュニケーションの方法」を、村上氏は「自分の中にあるフラジャイルなものを基点にした内省によって外部と接触していこうとするような態度」と表現している。こんなことをまるでテキトーな日記を書くみたいにやすやすと書いてしまうのだから凄い。
 観察すること、感受すること、思考すること、文章を書くことが、この人にとってはホントに空気を吸ったり吐いたりするくらい自然にラクにできる事なんだろうなー、すごいなーと私に思わせた箇所だ。

 『(村上裕一「ゼロアカ第五次関門の私記」より)…三ツ野さんの発表の特徴はその等身大的なところにあって、強さよりも「弱さ」にスポットしたものである。だから僕が考えるにその発表は彼自身の喋り方とか態度とかいったもの、つまり共感性みたいなものと非常に密接な関係があって、その点からいえば非常に正しい喋り方をしていたように感じる。それは叩きつけるような荒々しさや、傷つけるような鋭さを排除し、あくまでも自分の中にあるフラジャイルなものを基点にした内省によって外部と接触していこうとするような態度で、撮影された動画の時点からもそうだったけれど、穏やかで、好感を覚えるものだったように思う。』

 こう言う村上氏のたたずまいは別に「フラジャイル」なものではない。
 文章を読んでも、むしろ「力量ある書き手」という感じがしてちっとも弱くない。
 なのに、こういうような想像力を働かせることができる。
 私は、こういうことを書いたり言ったりする奴には、こういうことは理解できないだろうという偏見・先入観があったみたいで、だから私には村上氏の文章には意外性があったのだが、他の人にはそうでもないのかもしれない。 
 変なイメージだが私には「想像的にのび太にもなれるジャイアン」みたいな「あり得ない感」があったのだ。

 こうした村上氏の代理的想像力というか、「自分ではない自分」を基点としてあれこれ考えることができるという能力、そこにいたかもしれない自分・ここにいるかもしれない他人・未来かもしれない自分等をシャッフルさせるような想像力は、ゴーストとかネットとかゲームとかそういう「無機的な」批評の文章を書くときにもどこかで生きてくるような気がした。(だからもっと読んでみたいと思った)

このブログを始めたきっかけ

2009年05月26日 | 思想地図vol.3
 最近、東浩紀のゼロアカ道場やその周辺にたまたま興味を持って、ニコニコ動画の映像を見たり、ネット上で行われる彼らの言論を漠然と眺めたりしていた。
 すると自分でも思いがけないことに、村上裕一氏、福嶋亮大氏あたりの文章を読んでいるうち、何だか胸がザワザワとしてきた。
 「今さら他人の文章に心を動かされるとは、なんか変だな」と思ったが、これから自分で何か考え始めようとするのに、もしかして今が一番いい機会なのかもしれない、と思い直し、ここにブログを作って今日からぽつぽつと書きはじめることにします。