今回、私が『思想地図 vol.4』を読んで得た収穫というのは、全然「水と油」、今まで関係ないと思っていた内田樹氏や中沢新一氏の言論と、東浩紀氏らの「思想地図」周辺の言論とが、自分の中で「うっすらリンク」として結びつくところがあったことだ。
すでにtwitter上で、仲正昌樹氏の論文と、内田樹の『日本辺境論』との関連を指摘している方がいた。
「内田さんの『日本辺境論』と、「思想地図」4号の仲正さんの論文は、「建国=創設」の想像力という同じ論題を扱っていて面白い。」(@saitoshokai: 2009.11.24)「思想地図ニュース」
私は、村上隆らとの座談会での東氏の発言が、内田樹氏の『日本辺境論』と関係してくるのではないか、と想像した。
「僕は最近考えているのですが、「日本」とは独自のコンテンツの発信地というより、むしろ、ものの見方の名称として捉えるべきではないかと。…
『スーパーフラット』は、特定の作品や潮流の名称ではなく、その視線の名称であるべきなんです。そもそも日本はユーラシア大陸の東端に存在し、世界中の文物が流れ込む塵溜めのような場所なのです。世界中の文物が文脈なしに等価に見えるというのは、遣唐使以来のこの国の伝統でしょう。」(東浩紀氏)
よくある見方かもしれないけど、似たような見方では、レヴィ・ストロースも「日本はまず出会いと混和の場所」だったと指摘して、
「旧大陸の東端というその地理的位置や、何度も繰り返された孤立のために、日本はまた一種のフィルターの役割も果たしたのです。別の言い方をするなら、蒸留装置ランビキのようなもので、歴史の流れに運ばれて来た様々な物質を蒸留して、少量の貴重なエッセンスだけを取り出すことができたのです。借用と総合、シンクレティズム(混合)とオリジナリティ(独創)のこの反復交替が、世界における日本文化の位置と役割を規定するのにもっともふさわしいものと私は考えます。」(レヴィ・ストロース)
と言っているみたいだし、
岡倉天心も、似たようなことを言っているようだ。
「かくて、日本はアジアの文明の博物館である。いや、たんに博物館には止まらない。というのは、日本民族の特異な天分は、古さを失うことなく、新しきものを歓び迎える、あの生ける不二一元論の精神によって、過去の理想のあらゆる局面を余さず維持しようと努める。神道は、仏教以前の祖先崇拝の儀式を今なお守り抜き、仏教徒自身も、その自然の順序に従って日本の国土を豊かにしてきた。宗教的発展のさまざまな宗派のすべてに執着を示している。」(岡倉天心)
これらの話、とくに岡倉天心の見方は、内田樹氏が『いきなり始める浄土真宗』などの著作で語っている「シンクレティスト的な、節操の無い宗教的感性」というのと関ってくるので、私には興味深い。
内田氏の感覚では、出口王仁三郎、カトリック、ユダヤ教、仏教、西行、すべての宗教的感覚がシンクレティックに混在しており、ブリコラージュ的に組み合わさっているらしい。そういうごった煮は、私も同じ日本人として共感しやすい所だ。東浩紀方面の言葉で言うと、たしかに日本はスーパーフラットな鏡のような場所なのかもしれない。
このようにして、風が吹けば桶屋がもうかる式にだが、東浩紀の言論と内田樹の言論がわたしの中でようやく微妙にリンクを作り始めた。
宮崎哲弥氏らとの座談会で東浩紀氏が言っている「近くの他者への寛容」とか「スルー力」というのも、なんか、これと似たようなことを内田氏が何度も語っておられたような気がするな…と思ったし。
また、これはかなり強引なリンクだけど、宮台真司氏が対談で「俺は犬に好かれる、犬と同じ目線で話してしまう体質がある」と言っているのは、まるで中沢新一の「対称性の思考」ではないか。(笑)
そういえば、宮台氏の過去の著作でわたしが一番傑作だと思ったのは、『サイファ覚醒せよ』だった。桜を見て脱魂状態になってしまうという宮台氏のトランス体質には大いに共感したものだ。『日本の難点』は小説や随筆でも読むような気持ちで読んだが、いちばん印象に残ったのは娘の話とシュタイナー教育の話を語っているところで、ほかの政治的な話についてはほとんど記憶に残っていないのだ。
関連記事:『下流志向』を読む⑤-「等価交換モデル」とペラギウス主義 2009年11月23日
関連記事:『悲しき熱帯』を読む-カドゥヴェオ族と馬頭観音と子ども 2009年11月15日
関連記事:『思想地図 vol.3』の特集名と装丁について 2009年06月13日
すでにtwitter上で、仲正昌樹氏の論文と、内田樹の『日本辺境論』との関連を指摘している方がいた。
「内田さんの『日本辺境論』と、「思想地図」4号の仲正さんの論文は、「建国=創設」の想像力という同じ論題を扱っていて面白い。」(@saitoshokai: 2009.11.24)「思想地図ニュース」
私は、村上隆らとの座談会での東氏の発言が、内田樹氏の『日本辺境論』と関係してくるのではないか、と想像した。
「僕は最近考えているのですが、「日本」とは独自のコンテンツの発信地というより、むしろ、ものの見方の名称として捉えるべきではないかと。…
『スーパーフラット』は、特定の作品や潮流の名称ではなく、その視線の名称であるべきなんです。そもそも日本はユーラシア大陸の東端に存在し、世界中の文物が流れ込む塵溜めのような場所なのです。世界中の文物が文脈なしに等価に見えるというのは、遣唐使以来のこの国の伝統でしょう。」(東浩紀氏)
よくある見方かもしれないけど、似たような見方では、レヴィ・ストロースも「日本はまず出会いと混和の場所」だったと指摘して、
「旧大陸の東端というその地理的位置や、何度も繰り返された孤立のために、日本はまた一種のフィルターの役割も果たしたのです。別の言い方をするなら、蒸留装置ランビキのようなもので、歴史の流れに運ばれて来た様々な物質を蒸留して、少量の貴重なエッセンスだけを取り出すことができたのです。借用と総合、シンクレティズム(混合)とオリジナリティ(独創)のこの反復交替が、世界における日本文化の位置と役割を規定するのにもっともふさわしいものと私は考えます。」(レヴィ・ストロース)
と言っているみたいだし、
岡倉天心も、似たようなことを言っているようだ。
「かくて、日本はアジアの文明の博物館である。いや、たんに博物館には止まらない。というのは、日本民族の特異な天分は、古さを失うことなく、新しきものを歓び迎える、あの生ける不二一元論の精神によって、過去の理想のあらゆる局面を余さず維持しようと努める。神道は、仏教以前の祖先崇拝の儀式を今なお守り抜き、仏教徒自身も、その自然の順序に従って日本の国土を豊かにしてきた。宗教的発展のさまざまな宗派のすべてに執着を示している。」(岡倉天心)
これらの話、とくに岡倉天心の見方は、内田樹氏が『いきなり始める浄土真宗』などの著作で語っている「シンクレティスト的な、節操の無い宗教的感性」というのと関ってくるので、私には興味深い。
内田氏の感覚では、出口王仁三郎、カトリック、ユダヤ教、仏教、西行、すべての宗教的感覚がシンクレティックに混在しており、ブリコラージュ的に組み合わさっているらしい。そういうごった煮は、私も同じ日本人として共感しやすい所だ。東浩紀方面の言葉で言うと、たしかに日本はスーパーフラットな鏡のような場所なのかもしれない。
このようにして、風が吹けば桶屋がもうかる式にだが、東浩紀の言論と内田樹の言論がわたしの中でようやく微妙にリンクを作り始めた。
宮崎哲弥氏らとの座談会で東浩紀氏が言っている「近くの他者への寛容」とか「スルー力」というのも、なんか、これと似たようなことを内田氏が何度も語っておられたような気がするな…と思ったし。
また、これはかなり強引なリンクだけど、宮台真司氏が対談で「俺は犬に好かれる、犬と同じ目線で話してしまう体質がある」と言っているのは、まるで中沢新一の「対称性の思考」ではないか。(笑)
そういえば、宮台氏の過去の著作でわたしが一番傑作だと思ったのは、『サイファ覚醒せよ』だった。桜を見て脱魂状態になってしまうという宮台氏のトランス体質には大いに共感したものだ。『日本の難点』は小説や随筆でも読むような気持ちで読んだが、いちばん印象に残ったのは娘の話とシュタイナー教育の話を語っているところで、ほかの政治的な話についてはほとんど記憶に残っていないのだ。
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関連記事:『悲しき熱帯』を読む-カドゥヴェオ族と馬頭観音と子ども 2009年11月15日
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