ブログ・プチパラ

未来のゴースト達のために

ブログ始めて1年未満。KY(空気読めてない)的なテーマの混淆され具合をお楽しみください。

工学的な「尊厳の分配」?-葦船往人氏のブログに疑問がいっぱい

2010年01月28日 | 思想地図vol.4
『クォンタム・ファミリーズ』をついに読み始める。しかしまだ19ページ。


以前の記事、東浩紀氏の小説『クォンタム・ファミリーズ』はおもしろそうだ 2010年01月14日で触れた『クォンタム・ファミリーズ』をついに最近購入し、読み始めた。

しかし現在、私は「物語外1」と題された最初の19ページまでしか読んでいない。残りの部分は自分にまだ「おあずけ」というか、このブログの記事を書き終わった後、また他の自分が読みたい本を読み終えた後に、ちびちび読んでいこうと思っている。


「尊厳の再分配」?-葦船往人のブログ『網状地下室』を読んで疑問に思う


それでももう、いろいろな思いが私の中に巻き起こっている。私はまず、作中人物の葦船往人のブログ『網状地下室』を読んで、すぐに自分の中に「え?」という反発感が出てくるのを感じた。葦船往人が2007年6月8日に書いたという文章である。内容は、現代の労働する若者の「尊厳」を巡ってのものだ。

>ではなぜ彼らは行かないのか。理由は簡単だ。労働では彼らの尊厳が満たされないからである。

>ぼくたちの社会は、一世紀前に較べれば飛躍的に高い生産性を実現している。世界はモノに溢れ、市場は開放され、ぼくたちはある意味できわめて豊かな時代に生きている。実際にこの日本でさえ、若者が餓死するのは容易ではない。それなのに、ぼくたちは恥辱に塗れ、疲弊し、生きる意志を失っている。日本では治安の悪化は失業率の上昇を振り切っている。同じ現象が世界中で起きている。ロンドンでニューヨークで上海でドバイでムンバイで、決して餓死することはないが、しかしそれ以上ではない、生きる意志を奪われた「ムーゼルマン」としての労働者=消費者が増殖している。ぼくたちの世界が荒れているのは財が足りないからではない。

>ひとはパンのみで生きるのではない。いまやもっとも重要な問題は、富の再配分ではなく尊厳の再配分なのだ。希望の再配分と言ってもいい。そこで問題を縁取るもっとも過酷な条件は、世界の富の総量は「クリエイティブ・クラス」の「イノベーション」でいくらでも増やすことができるかもしれないが、世界の尊厳=希望の総量は決して変わりはしないという単純な事実だ。ある個人に尊厳=希望を与えれば、別の個人が必ず尊厳=希望を奪われ地下室に堕ちる。(葦船往人ブログ『網状地下室』2007年6月8日より 16p-17p)

このように葦船往人は語り、この後でその問題を「宗教」で解決しようとする者もいるかもしれないが、私はこの問題を「工学的」に解決したい、というようなことを言っている。一瞬納得してしまいそうな論理だが、5ページの記事によると、葦船往人はこの後、テロリスト容疑で逮捕されたようだ。何を考えていたのだろうか。「工学的」という言葉でこの人物がどんな事態を指しているのかは、わからない。私は、まだこの物語の先を読み進んでいないからだ。

しかし今の時点で私がいぶかしく思うのは、葦船氏の「世界の尊厳=希望の総量は決して変わらない」という言葉である。「尊厳の再分配」? 尊厳や承認というものが、富や財のように「配分」することなど可能だろうか?

「尊厳」という言葉は、「承認」という言葉とほぼ等しいと思う。
そこで「承認の分配」でブログ検索してみると、すぐに『承認は分配できるか(財のように)』「モジモジ君の日記。みたいな。」2007年11月19日という文章が見つかる。作中人物の葦船往人のブログの日付は「2007年6月8日」だったが、この文章の日付は「2007年11月19日」であり、これを見ると実際に2007年ごろ、「尊厳の分配」「承認の分配」という議論がネット界で行われていたことが推測できる。

私も、最近秋葉原事件と承認問題-宮本太郎『生活保障』より 2010年01月16日という記事を書き、この「承認問題」「尊厳問題」について注意を促している。しかし、「個人の尊厳」とは一体なんなのだろう。もしかするとそれは、ヨーロッパでキリスト教を背景として生まれた政治的な概念にしかすぎないのかもしれない。それは本当に必要なのだろうか? 私が問うのは、葦船氏のように「工学的」に必要かどうかではなく、それ以前に「宗教的」に必要か? ということである。

私が考えているのは、「仏教」のことである。仏教に何か可能性はないか。仏教では、「個人の尊厳」というものはどのように解釈できるのだろうか? そんなことを考えながら、私はイギリス人が書いた仏教書『自己牢獄を超えて 仏教心理学入門』を読み直したりしていた。

関連記事:自尊心などなしでやっていける能力-『自己牢獄を超えて 仏教心理学入門』より 2010年01月28日

キリスト教はどうなんだろう?

作中人物の葦船往人は、続けてドストエフスキーやロシア正教との関係について触れている。私は何だか、ドストエフスキーの小説が読みたくなってきた。だから『クォンタム・ファミリーズ』は19ページで読みさしにして、私はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読み始めることにした。久しぶりに面白い小説だ。胸に響くものがあった。しかし恐ろしく長い小説なので、いつになったら『クォンタム・ファミリーズ』に帰ってこれるかわからない。ここ数年、小説なんてほとんど読まなかった私にとって、『カラマーゾフ』は久しぶりに面白い小説になりそうだ。

>ベルジャーエフは、ドストエフスキーの可能性をロシア正教的な感性に見た。「ドストエフスキーは、言葉のもっとも深い意味におけるキリスト教的作家であった」。キリストと真理が対立するのであればキリストの側につく、と『悪霊』のスタブローギンは言う。それは世界文学史においてもっとも感動的な場面のひとつだ。

>しかしぼくは、未来の地下室人は、宗教的にではなく工学的に救われるべきだと考える。それこそがぼくたちの希望だ。
(葦船往人ブログ『網状地下室』より 18p-19p)

関連記事:「遠い者は愛せるのに、近い者は愛せない」―ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』より 2010年01月28日

ドストエフスキーと「因果関係の空しさ」-土井健司『キリスト教を問いなおす』より

2010年01月28日 | 宗教・スピリチュアル
児童虐待がある限り「神」は存在しない―ドストエフスキー


土井健司『キリスト教を問いなおす』(2003年)という本に、神への「祈り」やこの世界の「理不尽さ」について考える際に、ドストエフスキーを引用する箇所がある。

>この問題を考えるために、ここではドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を紹介してみたいと思います。この作品には、イワンという頭の回転の速い、しかしどことなく冷たい印象を与える青年が出てきます。左に掲げるのは、そのイワンが弟であるアリョーシャに向かって、ある小さな女の子の苦悩を語って聞かせた個所です。

>>このかわいそうな五つの女の子を、教養豊かな両親はありとあらゆる手で痛めつけたんだ。理由なぞ自分でもわからぬまま、殴る、鞭打つ、足蹴にするといった始末で、女の子の全身を痣だらけにしたもんさ。そのうちついに、この上なく念のいった方法に行きついた。真冬の寒い日に、女の子を一晩じゅう便所に閉じ込めたんだよ。それも女の子が夜中にうんちを知らせなかったというだけの理由でね。その罰に顔じゅう洩らしたうんこをなすりつけたり、うんこを食べさせたりするんだ。…一方じゃ、自分がどんな目に会わされているか、まだ意味さえ理解できぬ小さな子どもが、真っ暗な便所の中で、悲しみに張り裂けそうな胸をちっぽけな拳でたたき、…「神さま」に守って下さいと泣いて頼んでいるというのにさ。

>わたしが、さるドストエフスキー研究者に聞いた話では、このエピソードのもとになった事件が実際にあったそうです。両親から虐待を受けた女の子は死んでしまい、父親は裁判にかけられたと言います。ドストエフスキーはこの女の子に対し、強い哀れみの念を抱いた、ということです。(土井健司『キリスト教を問いなおす』179p-180p)

可哀想な女の子の話が、ドストエフスキーの時代に実際にあった事件というところが恐ろしい。しかし、最近の日本でも悲惨な、児童虐待の記事を見かけることがある。子供があんな理不尽な、悲惨な目に遭って死んでしまうような世界が、キリスト教の神様に統治されている世界のはずがない。


なぜ「いい人」が苦しむのか。キリスト教も仏教も、単純な「因果応報」を否定するのは、なぜか。


このエピソードの紹介の後、土井氏は『ヨハネ福音書』を引用しつつ、イエスはおそらく人間の幸不幸の「因果応報」性を否定したのではないか、という解釈を行う。キリスト教の信仰はこうした「因果関係の亀裂」から、この世の理不尽さに直面することから生まれてくる。土井氏によれば「原罪」とはその理不尽さのことである。

>そもそもイエスは、人の不幸を因果応報的に考えることを否定しているのです。病に苦しむ人は、しばしば二重の不幸を味わわなくてはなりません。一つは言うまでもなく、肉体的な苦痛です。もう一つは、そのような苦痛の原因が自らの過去の行いに求められ、自分を責め、また他人からも非難されることによる苦痛です。イエスはこのような解釈を否定し、因果応報的な考え方からの解放を目指したのではないでしょうか。(183p)

>実はそうした考え方を、キリスト教の中に見出すことができます。キリスト教の信仰において神は、こうした因果関係の亀裂を経験しているのです。その経験とは、神であるイエスが十字架にかけられて死ぬ、という出来事にほかなりません。十字架にかけられたときイエスは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫び声を上げました。こうして、イエスは死んでいきます。なぜイエスは死ななければならなかったのでしょうか? それは「人類の罪」ゆえだと言われることがあります。しかし「人類の罪」とは、わたしたち個々人の罪というより、この世の理不尽さを総体として指し示す言葉だと理解できます。まさにイエスは、この理不尽さの中で亡くなったのだと思うのです。そして、理不尽さの中で死んでいくほかなかったイエスの復活こそが、希望なのです。これについては次節で詳しく論じることにしましょう。(184p-185p)

仏教者の宮崎哲弥氏は『新書365冊』(2006年)のこの本に対する書評で「…さらに護教的神義論を超えて、因果関係の否定にまでいたるという土井の釈義を読むともはやキリスト教と仏教との違いすら分明ではなくなってくるような気がする。」と書いている。宮崎氏はこの本の111p-115pで土井氏が『コヘレトの言葉』を引用して「因果関係の空しさ」を説く箇所に「まるで仏教のようなもの」を見たのだと私は思う。

>ここでは『コヘレトの言葉』を取り上げてみましょう。この書物の特徴は、「なぜ?」という質問に対する答えを徹底して拒否している点にあります。知恵文学の「知恵」とは、「因果連関の知識」のことだと考えられます。ですから知恵のある人とは、物事の原因と結果を知っている人のことです。…

>『コヘレトの言葉』は、この因果連関を徹底的に批判するのです。この批判は「空」(ヘベル)と呼ばれます。『コヘレトの言葉』は、「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」という言葉ではじまっており、とても暗くて重々しいのですが、読む者を惹きつける魅力を備えた書物です。ここで語られている「空」とは、虚無感のようなものではなく、因果関係の空しさのことを意味しています。

>>この空しい人生の日々に、わたしはすべてを見極めた。善人がその善のゆえに滅びることもあり、悪人がその悪のゆえに長らえることもある。(七章一五節)

>>この地上には空しいことが起こる。善人でありながら、悪人の業の報いを受ける者がある。これまた空しいとわたしは言う。(八章一四節)
(土井健司『キリスト教を問いなおす』113p-114p)



自尊心などなしでやっていける能力-『自己牢獄を超えて 仏教心理学入門』より

2010年01月28日 | 宗教・スピリチュアル
やや「ニューエイジ」風味か?―『自己牢獄を超えて』


イギリス人が書いた仏教書『自己牢獄を超えて 仏教心理学入門』(2006年、原著は2003年)は、かなり独特な仏教解釈を示す本である。パーリ語仏典に基づいたかなり厳格な教理解釈をすると同時に、癒し系・ニューエイジ系の思想とも共鳴するところがある。たとえば仏教の四諦説の「苦・集・滅・道」のうち「滅」を煩悩を滅ぼすこと、ではなくて、煩悩を抱きしめ、「包容すること」(containment)と解釈したりする。わたしはこういう癒し系の感覚が嫌いではないが、たとえばラディカル・ブッディストを自称する仏教者・宮崎哲弥氏などであれば、この本は肌に合わないだろうし、そこに仏教教理上の問題を指摘することもできるだろう。

しかしやはり素材が仏教なだけあって、時々過激だが、なおかつ深みのあることを言っているところが私は好きだ。今回この本に注目したのは、「人は尊厳なしにやっていけるものなのか? 人は自尊心なしにやっていけるものなのか?」という問いに対する、仏教側の答えのようなものを探してのことである。


The Self-prison: Self as a Defence Structure(防衛構造としての自己)


題名の「自己牢獄」というのは、仏教では「自己」というものを「牢獄」であるとする、という著者らの立場をもっともはっきりと示すことばだ。

この本の「自己という牢獄:防衛構造としての自己(The Self-prison: Self as a Defence Structure)」(39p-41p)という節から引用。

>仏教心理学は(西洋の「自己心理学」に対して)「非自己心理学」と呼ばれることがあります。自己(セルフ)とは、苦悩に対する反応の中に組み込まれている防衛構造(defence structure)です。(39p)

>仏教心理学によれば、自己とは、喪失と無常の現実から来る痛みを経験しないですむように自分を守るために作り出す「城砦」なのです。それはわたしたちが持つ最大の防衛装置なのです。しかしそれは同時に「牢獄」なのです。この城砦をきちんとした状態で維持することが人生をかけた一台プロジェクトとなり、多大なエネルギーがそのために費やされます。(40p)


人間の苦しみこそが、自己という牢獄を打ち砕く「気高い真理」=「苦諦」


そして著者は釈尊の伝記的なエピソードからも、「自己」にたいする仏教の考えについて説明している。ブッダが若い頃住んでいた宮殿を、「自己」と考える。「四門出遊」でブッダが出会うさまざまな人間たちの苦しみを、「自己牢獄」から解き放つ「真理」だと考える。他者の苦しみこそが、自己という牢獄を打ち砕く「気高い真理」(=「苦諦」)なのだと、著者は力説する。この辺りの著者の解釈の仕方、説明の仕方は、独自性のあるものだ。つまりかなり自由自在な説法である。しかし私は読んだ時、何か光を当てられたように感じた。

以下「釈尊の物語における自己牢獄の喩え(The Metaphor of the Self-prison in the Buddha's Story)」(42p-44p)という節より。

>(若きシッダールタが住んでいた)宮殿のまわりには、その向こう側にあるいろいろな問題が渦巻く世界に対抗するための強固な壁がありました。防御のための自己というイメージと同じく、それは内側にばかり眼を向け、自分のことばかりを考えるために作られています。そういう壁の内側で、シッダールタは普通の人々が味わう苦しみについて無知のまま生きていました。彼はまさにアヴィディヤー(「無明」)の状態にあったと言えるでしょう。彼が自由になるためには、宮殿の外にあるドゥッカ(「苦」)との衝撃的な出会いが必要だったのです。(43p)

>釈尊は宮殿を去り、苦しみという現実に直面することによって、そういう状態から脱しました。彼は四つの光景、つまり無常がもたらすあらゆる苦痛の象徴を自分の目で見ました。自分を欺くあらゆる壮大さを備えた宮殿を後にし、スピリチュアルな生き方を求める旅に出たのです。彼を解放したのはドゥッカ(「苦」)でした。ドゥッカに出会うことを通して城砦を築くのだとすれば、そこからわたしたちを解放するのもまたそのドゥッカなのです。こういう理由から、ドゥッカを気高いものであると見なすことができるのです。(43p)


「自尊心」(self-esteem)なしでやっていける能力ー自己を解放する「縁起」の思想


仏教的「非自己のパラダイム」で考えれば、「個人の尊厳」や「承認を巡る闘争」や「尊厳の再分配」といった問題も、その意味内容が変わって来るのではないか? 「東洋と西洋の比較(Comparing East with West)」(179p-181p)という節で、「非自己のパラダイム」についての説明がある。

>自己というものがアテにならないものであり、何かを材料にして構成されたものであり、基本的には防衛のためのものであるという仏教の理解は、ほとんどの西洋的アプローチとは非常に異なったパラダイムに基づいた心理学へのアプローチを生み出します。それを「非自己のパラダイム」と呼ぶことができるでしょう。

>「非自己のパラダイム」は、一般的な西洋的思考の見地から見れば相当に異質な意味合いを含んでいます。わたしたちが仏教的な見方のほうを選び取り、もはや西洋的な思考のモード(様式)に後戻りすることがないようにするためには、この両者の相違についてよく理解し、それをきちんと見据えておく必要があります。しかし同時に、自己の観点から組み立てられている西洋心理学が提供すべき価値あるものまで放棄してしまわないように、よく注意しなくてはなりません。西洋のモデルにおいて自己を高揚させるものとして述べられているものすべてが仏教的思考と相容れないというわけではありません。もしそのように主張するとすれば、たくさんの有益な実践を失う結果になるでしょう。

>西洋において自己は肯定的なイメージで受け取られてきましたから、そこで有用でポジティブであるとされている考えや実践は、仏教心理学においては理論上、自己を組み立てたり、アイデンティティ形成を助けることに加担しているものとして理解されます。しかし、そのように理解されるもののすべてが、これまでわたしたちが探求してきた仏教的モデルにおいて述べられている自己という形成物を作り上げる手段として常に機能しているわけではありません。勇気、性格の強靭さ、決意、自信、探求を続けるエネルギーといったさまざまな特質(西洋の文脈では自分は自分であるという強烈な感覚を持つことに連関している)は、仏教的訓練においても同じように大切であるとされています。しかし、それらの特質は西洋心理学においてのように自尊心(self-esteem)を作り上げるものとしてではなく、自尊心などなくともやっていける能力をもたらすものとして考えられているのです。

>同様に、非自己の教えは殉教者のような自己犠牲的立場のことを言っているのではありません。仏教的パラダイムにおいては、そういった行動は否定的アイデンティティと否定的な世界観を作り出してしまうだけだとされます。したがって自分本位の感覚的快楽への惑溺がそうであるように、それもまたやはり習癖エネルギーと執着の産物なのです。仏教的アプローチは自己を作り上げるものでもなく、またそれを壊すものでもありません。そのどちらでもなく、世界との関係においてわれわれの実存が置かれている位置(ポジション)の現実(リアリティ)をはっきりと認識することなのです。わたしたちはさまざまな条件、とりわけ物理的環境に依存して存在しています。自分が誰であるかは住んでいる文脈に依存しています。われわれは条件によって発生し(「縁起」)、出来事や状況に条件づけられつつ存在しています。非自己の教えは複雑な存在者としての人が、複雑な世界において機能しながら存在していることを否定するものではありません。「非自己」説は人が他の人や環境とダイナミックに出会いながら存在していると考えます。そして常に新しく展開し続ける社会過程と、人々がお互いにとっての条件となり合うあり方に注目します。

>釈尊は人などというものは存在しないとする抽象的な「非自己」説を説いたのではありません。そうではなく、世界に対して自分の「思惑・もくろみ」を押し付けることで、誤った世界の見方を作り上げてしまうことについての実際的な理解を教えているのです。このことはサンユッタ・ニカーヤの次の一節を読めば明らかです。そこでは釈尊がヴァッチャゴッタと次のような会話をしています。

ヴァッチャゴッタ:ゴータマ先生、自己は有ですか?
釈尊は黙ったままだった。
ヴァッチャゴッタ:ゴータマ先生、自己は無ですか?
釈尊は黙ったままだった。
ヴァッチャゴッタは去っていった。
アナンダ:釈尊よ、 ヴァッチャゴッタの問いに答えなかったのはどういう訳なのですか?
釈尊:もしわたしが「自己は有である」と答えたなら、彼はわたしが常住論者に組していると受け取っただろう、もしわたしが「自己は無である」と答えたなら、虚無論者に組していると受け取っただろう。真実は、すべてのサンスカーラは無常であるという、ただそれだけのことなのだが、わたしがヴァッチャゴッタになんと答えようと、彼の混乱を余計に増すだけだろう。

>初めのうち、非自己の教えは多くの西洋人にとって心地よくないものとして感じられます。わたしたちの社会は個性と個人的自由という理想に大きな重みを置いているからです。非自己についての考え方は社会の基盤を脅かし、わたしたちの足元でその土台を切り崩すかのように思えるのです。しかし、実際には、非自己の教えは深遠な解放をもたらしてくれるものなのです。(『自己牢獄を超えて 仏教心理学入門』179p-181p)






カラマーゾフの叫びは「唯一の真剣な無神論」―マクグラス『キリスト教神学入門』より

2010年01月28日 | 宗教・スピリチュアル
マクグラス『キリスト教神学入門』(378p)より、ドストエフスキーがキリスト教界に与えたインパクトについて。「神の不可受苦性」から「苦しむ神」へ。

>二十世紀の後半に、苦しむ神について語ることは「新しい正統信仰」となった。ユルゲン・モルトマンの『十字架につけられた神』(1974年)は、この思想を説き明かした最も重要で影響力のある書物と広く見做された。激しい議論の的にもなった。苦しむ神という思想の再発見へと導いたものは、一体、何であったのであろうか。三つのことが挙げられるが、そのどれもが第一次世界大戦直後の時代にかかわっている。これら三つの要因が集まって、神の不可受苦性に関する伝統的な観念に対する懐疑を広く呼び起こしたのである。

>(1)抗議する無神論の登場。第一次世界大戦の非常な恐怖は、西方の神学的考察に深い影響を与えた。時代の苦難によって広く認められるようになったのは、自由主義プロテスタンティズムが人間の本性についての楽観的な見解によって致命的な妥協をしていたということであった。こうして受けた傷の余波の中で弁証法神学が台頭したのは、偶然ではない。もう1つの重要な応答は「抗議する無神論」として知られる運動である。これは、神への信仰に対する深刻な道徳的抗議をするものであった。世界におけるあのような苦難・苦痛を超えている神など、どうして信じることが出来ようか、というのである。

>こうした思想の跡は、19世紀のフョードル・ドストエフスキーの小説『カラマーゾフの兄弟』に見出される。それは20世紀になってより十全に発展させられたが、しばしばドストエフスキーの生み出したイワン・カラマーゾフがモデルとして用いられた。カラマーゾフの神(あるいは、もっと正確に言えば、神の「観念」)に対する反抗は、無垢の子供の苦難が正当化され得るということの拒否から始まっている。アルベール・カミュは、そうした思想を『反抗的人間』において展開しているが、そこではカラマーゾフの抗議を「形而上学的反抗」という視点から表現している。ユルゲン・モルトマンなどの思想家は、「弱くない神」に対するこの反抗に、「唯一の真剣な無神論」を認めた。この非常に道徳的な形態の無神論は信頼出来る神学的応答を要求した。それが、苦しむ神の神学である。(378p)

関連記事:「遠い者は愛せるのに、近い者は愛せない」―ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』より 2010年01月28日
関連記事:ドストエフスキーと「因果関係の空しさ」-土井健司『キリスト教を問いなおす』より 2010年01月28日
関連記事:「神無月」に「神様を意識する少年」―施川ユウキの漫画より 2010年01月28日

「神無月」に「神様を意識する少年」―施川ユウキの漫画より

2010年01月28日 | 施川ユウキ
ドストエフスキーではないが、「いない」ということで意識される神の存在というのがあるらしい。

施川ユウキ『12月生まれの少年』という漫画の第①巻で、「神様を意識する少年」というのが出てくる。16ページの「神無月」と題された四コマまんがだ。
「神無月」は、「神がいなくなってしまった月」と読める。しかしその「いなくなったこと」さえ、ほとんどの人が意識していないということに、少年はある日気がついた。
しかしそのことを意識してしまった少年は、ほんの少しだけ、「神の存在」というものを意識せざるをえない。

「神無月」のネームだけ引用。
1コマ目>10月は旧暦で「神無月」と呼ばれる 10月は神様のいない月だ。
2コマ目>でもそのコトを意識してる人はあまりいない …少年のセリフ「元々 存在感 無いんだな…神!」
3コマ目>(空の下で一瞬、無言で考え込んでいる少年)
4コマ目>「うそ! ゴメンなさい!」 …少しだけ 神様の存在を意識した

関連記事:カラマーゾフの叫びは「唯一の真剣な無神論」―マクグラス『キリスト教神学入門』より 2010年01月28日 |

「遠い者は愛せるのに、近い者は愛せない」―ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』より

2010年01月28日 | 日記
「ドストエフスキーなう。『カラマーゾフの兄弟』読書中。」

ひょんなことから、ふとドストエフスキーが読みたくなって、かなり以前に読みかけのまま放っておいた新潮文庫の『カラマーゾフの兄弟』(上・中・下)を取り出し、あらためて読み始めた。とてもおもしろい。

私が最近はじめたツイッターにも、

>ドストエフスキーなう。『カラマーゾフの兄弟』読書中。ゾシマ長老の遺体が異臭を放ってみんなが困ってるなう。

>ドストエフスキーなう。『カラマーゾフ』読書中。アリョーシャが変な目つきをして教会を出ていったなう。どんな心境の変化があったのか心配。

などとつぶやいてみながら、読み進み、現在「中巻」まで読了した。
胸に響いてきた箇所を抜粋する。

(上巻)では、アリョーシャと、次男イワンとの会話が印象深かった。

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「俺の考えだと、まさに身近な者こそ愛することは不可能なので、愛しうるのは遠い者だけだ。」

イワン「俺はね、どうすれば身近な者を愛することができるのか、どうしても理解できなかったんだよ。俺の考えだと、まさに身近な者こそ愛することは不可能なので、愛しうるのは遠い者だけだ。」(新潮文庫『カラマーゾフの兄弟』(上)454p)

「抽象的になら、まだ身近な者を愛することはできるし、ときには遠くからでさえ愛せるものだけれど、近くにいられたんじゃほとんど絶対にだめと言っていい。もしすべてがバレエの舞台かなんぞのように行われ、乞食が絹のぼろや破れたレースをまとって登場して、優雅に踊りながら、施しを乞うのだったら、その場合はまだ見とれてもいられるさ。」((上)456p)

「俺にとっちゃ、春先に萌え出る若葉が貴重なんだ。青い空が貴重なんだよ。」

「かりに俺が人生を信じないで、愛する女性にも幻滅し、世の中の秩序に幻滅し、それどころか、すべては無秩序な呪わしい、おそらくは悪魔的な混沌なのだと確信して、たとえ人間的な幻滅のあらゆる恐ろしさに打ちのめされたとしても、それでもやはり生きていたいし、いったんこの大杯に口をつけた以上、すっかり飲み干すまでは口を離すものか!」

「こういう人生への渇望を、往々にしてそこらの肺病やみで洟ったらしのモラリストたちは、卑しいものと名づけている。特に詩人なんて連中がな。こいつはある意味でカラマーゾフ的な一面なんだよ、それは確かだ。この人生への渇望ってやつはな。だれが何と言おうと、そいつはお前の内部にも必ず巣食っているにちがいないんだ。しかし、なぜそれが卑しいものなんだい? このわれわれの惑星の上には、求心力はまだまだ恐ろしくたくさんあるんだものな、アリョーシャ。生きていたいよ、だから俺は論理に反してでも生きているのさ。たとえこの世の秩序を信じないにせよ、俺にとっちゃ、《春先に萌え出る粘っこい若葉》(プーシキン)が貴重なんだ。青い空が貴重なんだよ。そうなんだ、ときにはどこがいいのかわからずに好きになってしまう、そんな相手が大切なんだよ。ことによると、とうの昔にそんなものは信じなくなっているのに、それでもやはり昔からの記憶どおりに感情で敬っているような、人類の偉業が貴重なんだ。」(441p-442p)

「わかりやすぎるほどですよ、兄さん。本心から、腹の底から愛したいなんて、実にすばらしい言葉じゃありませんか。兄さんがそれほど生きていたいと思うなんて、僕はとても嬉しいな」アリョーシャは叫んだ。「この世のだれもが、何よりもまず人生を愛すべきだと、僕は思いますよ」
「人生の意味より、人生そのものを愛せ、というわけか?」
「絶対そうですよ。兄さんの言うとおり、論理より先に愛することです。絶対に論理より先でなけりゃ。そうしてこそはじめて、僕は意味も理解できるでしょうね。僕はもうずっと以前からそういう気がしてならないんですよ。兄さんの仕事の半分はできあがって、自分のものになっているんです。だって、兄さんは生きることを愛しているんですもの。今度は後半のことを努力しなけりゃ。そうすれば兄さんは救われますよ」((上)442p-443p)


…長男のドミートリイが「中巻」では、父親殺しの嫌疑をかけられて、検事に取調べを受けた。疲れて眠ってしまったときに見た夢の中でドミートリイ(=ミーチャ)が叫ぶ言葉も心に残る。…

「教えてくれよ。なぜなんだ?」

「いや、そのことじゃないんだ」ミーチャはそれでもまだ納得できぬかのようだ。「教えてくれよ。なぜ焼けだされた母親たちがああして立っているんだい。なぜあの人たちは貧乏なんだ。なぜ童はあんなにかわいそうなんだ。なぜこんな裸の荒野があるんだ。どうしてあの女たちは抱き合って接吻を交わさないんだ。なぜ喜びの歌をうたわないんだ。なぜ不幸な災難のために、あんなにどすぐろくなってしまったんだ。なぜ童に乳をやらないんだ?」((中)458p)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ドストエフスキーの小説は、それ以後のキリスト教神学にもインパクトを与えた。ユルゲン・モルトマンなどの神学者たちは、カラマーゾフの叫びに「唯一の真剣な無神論」を見たように思ったのだ。

関連記事:カラマーゾフの叫びは「唯一の真剣な無神論」―マクグラス『キリスト教神学入門』より 2010年01月28日
関連記事:工学的な「尊厳の分配」?-葦船往人氏のブログに疑問がいっぱい 2010年01月28日

「社会政策学」vs「労働経済学」の対立はまだある?-濱口桂一郎『労働法政策』を読む③(終)

2010年01月28日 | 労働・福祉
「スパッと経済学」派vs「ねちっこく歴史と法律」派


労働問題や雇用問題を考えるとき、いろいろ読んでみると、切り口として「経済学」でスパッと断ち切るのか、あるいは「歴史」や「労働法」に即してネチネチとした「辛抱強い」分析を続けていくのか、論者によって大きく違うようだ。

最近、濱口桂一郎『労働法政策』を読んでいたら、この本の最初の方で「社会政策学」という言葉が出てきた。一方では「労働経済学」という学問があり、この二つは、どういう関係にあるのだろうかと思った。

別のところで、たまたま『思想地図』という雑誌を読んでいたら、「社会政策学」という言葉が出てきた。後に引用する大澤信亮論文であるが、これによると、どうも昔から、ドイツに出自をもつ「社会政策学」と、イギリスに出自をもつ「労働経済学」という学問とがあって、この二つが対立関係にあったらしく、ドイツの「社会政策学」は、同じ後発国ということもあって昔は日本でも影響力が強かったらしいのだ。もしかするとこの影響は、現代の日本のどこかにも残っているかもしれない。そのような興味がわいてきた。


イギリス由来の「労働経済学」VSドイツ由来の「社会政策学」


濱口桂一郎『労働法政策』の第一章「労働の文明史」。
最初に「社会政策学」と「労働経済学」の対比が示されている箇所がある。
そもそも「労働経済学」は非歴史的な分析なので、この章の分析に採用できない。また「社会政策学」の枠組みはかなり近いが、それも古すぎるので直接採用することはできない、といったことが述べられている。

φ(・・")メモメモ

>本来ならば、こういう労働法政策の前提知識として提供されるべきマクロ社会動学を扱う学問分野は社会政策学と呼ばれる分野である。日本でも、マルクス主義の強い影響を受けながら、大河内一男ら始めとする社会政策学が形成され、展開していったが、ある時期以降労働経済学という名の学問分野に取って代わられてしまった。これはミクロ的かつ非歴史的な分析であって、その限りでは有用ではあるが、マクロ的かつ歴史的観点から労働法政策の座標付けをなしうるような枠組みではない。

>とはいえ、いまさら古めかしい社会政策学の枠組みを持ってきても、本書の主たる対象である20世紀の労働法政策の展開を説明するには観点のずれが大きすぎて、はなはだ据わりが悪い。そこで、やむを得ず、隣接分野の政治学、経済学、社会学等を読み齧ってこしらえた我流の枠組みを代用品として本書の冒頭に置くことにした。したがって、これは労働法政策の序章という位置付けではなく、内容的には独立したエッセイとして読まれるべきものである。(濱口桂一郎『労働法政策』3p)


これとは別に、『思想地図vol.2』に柳田國男を論じている文章があった。
そこからも抜粋。
大澤信亮氏の『私小説的労働と組合-柳田國男の脱「貧困」論』という論文だ。
著者は雑誌『ロスジェネ』『フリーターズフリー』編集委員などを務める。1976年生。(→大澤信亮氏のブログ

農政官僚でもあった柳田國男の「経世済民の学」への態度が説明されている箇所。そこでは、

「先発国イギリス」VS「後発国ドイツ」
「労働経済学」VS「社会政策学」
「グローバル経済」VS「反グローバル経済」

の対立が示され、柳田國男が学んだ農政学は、今風に言えば「グローバリズムへの対抗科学」だったらしいことが説明される。

φ(・・")メモメモ

>(大澤信亮氏)それでは最初に柳田農政学の学問的背景を見ておこう。まず、指摘しておくべきは、柳田が帝大で松崎蔵之助に学んだ農政学が、イギリス型の自由主義経済学に対抗するドイツ型の社会政策学だったということだ。

>「東京帝国大学で主流を占めていた社会政策学はドイツに出自をもち、イギリス自由主義経済学のもつ普遍主義に工業先発国のナショナリズムを感じとり、これに反発して形成された学問である。工業後発国であるドイツの経済発展策を考究すると同時に、工業化が惹起した社会問題に注目し、これを国家の社会政策によって解決するという二重の課題を背負っていた。たとえば労働者の貧困は、自由主義経済では予定調和論によって軽視もしくは無視されるが、社会政策学ではこれを社会問題という形で設定し、経済の資本主義化によって必然的に発生する問題と理解していた。社会問題の存在を軽視する自由放任主義では労働運動の高揚や社会主義革命を惹起するだけであるとして、それを未然に防止するためには社会政策学が必要になるという主張である。既存の経済体制を与件とする社会改良主義の立場にたち、反自由放任主義・反社会主義という政治性をおびていた。」(藤井隆至『柳田國男 経世済民の学』)

>ようするに柳田の農政学はグローバル経済への対抗科学としてあった。(『思想地図vol.2』大澤論文155p-156p)

ふーん。
労働者の貧困を、市場原理主義だけでは解決できない「社会問題」として捉え、アダム・スミス-ハイエク流の「経済学」に抗う。
そういう人たちは昔からいた。
現代でも、そういう構図を描くことはできそうだな、と思った。


…私の今の文脈には関係ないが、大澤氏の論文は、柳田氏が「組合」というものに強い関心を抱いていたこと、柳田の考えには「消費協同組合」の可能性の中心、という柄谷行人ばりの発想が見られたこと(この論文の記述だけでは、かなり強引なような気がするけど)、そして私小説は解体されて「神の言語」へ達するべきこと、などが論じられている。


柳田國男、河合栄治郎、南原繁。戦前の官僚の気概。


ついでに。
柳田國男は「農政官僚」から「民俗学者」へ転身した。
『労働法政策』を読んでいて気づいたことだが、戦前までは、官僚が辞めて学者になって、外から発言力を持つというようなケースが結構あったらしい。

戦前・戦後に言論者として影響力を持った、河合栄治郎という人。
また南原繁。
この二人は、官僚だったが、何か義憤のような感情を抱いていたらしい。

この二人の業績について私は詳しいわけではないが、彼らのちょっとしたエピソードから、戦前のエリートたちの「気概」のようなものを感じる。

φ(・・")メモメモ

>前述のように工場法は1916年にようやく施行された。この時農商務省工事監督補として工場法の施行に当たったのが若き日の河合栄治郎である。しかし、後述のILO問題から農商務省の労働問題に対する消極姿勢が明らかになり、1922年内務省社会局が設置されて工場法も移管された。新設の社会局は意欲満々、早速工場法の改正強化に取りかかった。農商務省は今度は産業界の代弁者として反対に回ったが、社会局側は農商務省の同意を得る必要なしとして、内務大臣の単独稟議で閣議に提出し、1923年成立した。(『労働法政策』31p)

>彼(河合)はILO労働者代表問題をめぐって上層部と対立し、1919年「官を辞するに当たって」を朝日新聞に発表して農商務省を辞職した。わずか3年の官僚生活である。(注釈)

>原内閣の床次内相は当初、企業内の労資協調を図るための組織として労働委員会制度を優先させ、1919年法案を作成したが、ILO問題が焦点になる中で労働組合の法制化に舵を切り替え、1920年臨時産業調査会に労働組合法案を提出した。この時農商務省も労働組合法案を提出し権限争いとなったが、農商務省案が何ら保護規定を持たず労働組合の運営に強い制約を加えていたのに対し内務省案は労働者の組合加入権を保護する規定を持つなど、両案は対照的であった。この時内務省警保局事務官として法案作成に当たったのが若き日の南原繁である。(『労働法政策』31p)

>彼(南原)は「こういう法案が日本で通るにはもっともっと時がかかる」として、ドイツ哲学の研究に転身する。官僚生活約6年であった。(注釈)


『ウィキペディア(Wikipedia)』より一部。

河合栄治郎…1915年東京帝国大学法科大学卒、銀時計受領。在学中に農商務省が刊行した『日本職工事情』を読み、「労働問題は人間の問題である」と感奮し、労働問題に生涯を捧げる決意をもって農商務省に入省する。…その改革案は容れられず辞職した。この間の経緯を『朝日新聞』紙上に「官を辞するに際して」として連載し、自己の所信を論じて世上の話題となった。…

南原繁… 明治43年(1910年) - 東京帝国大学法学部政治学科に入学する。入学後、内村鑑三の弟子となり、生涯を通じて無教会主義キリスト教の熱心な信者であった。一高に入学したときの校長は新渡戸稲造であり、影響を受けた。… 大正3年(1914年) - 東京帝国大学法学部政治学科卒業後内務省入省。… 内務省警保局事務官に任じられる。労働組合法の草案作成などを手がける。…

柳田國男…農商務省農務局農政課に勤務。以後、全国の農山村を歩く。早稲田大学で「農政学」を講義する… 1919年(大正8年) 貴族院書記官長を辞任…

雇用保険と生活保護のあいだにポッカリ開いた大きな穴-濱口桂一郎『労働法政策』を読む②

2010年01月26日 | 労働・福祉
労働法の歴史を描いた濱口桂一郎『労働法政策』(2004年)から、自分がいま興味を持てそうなところを、適当にピックアップしておく。

私が気になっているのは、たとえば「生活保護」と「雇用保険」のあいだにポッカリと開いた大きな穴、のことだ。
それと関係して、ハローワークと福祉事務所がもっとうまく連携できないかということ。

このことは濱口氏の『新しい労働社会』で、「雇用保険と生活保護の間の断層」(166p)ということばで表現されている。この問題にたいし『新しい労働社会』は「生活保護の部分的第二失業給付化」というアイディアを提案している。ここらへんの話に関係している。

>この断層を埋めるには、生活保護制度自体を抜本的に見直し、少なくとも就労可能者に対しては、補足性要件を緩和してある程度の資産を有したままでも受給を幅広く認める代わりに、失業給付と同様の求職活動を義務づけることが必要でしょう。いわば、生活保護の部分的第二失業給付化です。(『新しい労働社会』167p-168p)


「内部労働市場」重視か、「外部労働市場」重視か


「断層」を埋めていくことが必要だ。
なぜ必要なのか。
このことはたぶん、現在の日本の経済の変化とも関係している。
終身雇用が維持できなくなり、失業者がボロボロ出るような世の中になってきて、セーフティネットの張り替えの必要が出てきた。
したがって終身雇用の維持-「内部労働市場」に期待するのではなく、「外部」労働市場の整備が必要になってくる。
1990年代以降、労働法政策の分野でも、「内部労働市場」重視の政策から「外部労働市場」重視への、政策の転換の流れがあったらしい。

もっと長いタイムスパンで見ると、日本でも1973年のオイルショック以前と、オイルショック以後とで、労働法政策の考え方が変わっている。

おもしろいのは、1980年代になると日本は「内部労働市場」重視になったけど、1973年のオイルショック以前は、むしろ「外部労働市場」重視の考え方がけっこう強かったということだ。考え方はぐるぐると回っている。「外部労働市場」→「内部労働市場」→「外部労働市場」というふうに。

この本で、1967年3月に策定された「雇用対策基本計画」について述べている箇所があり、そこでまるで「現代」のような不安定雇用の問題につき、「外部労働市場」の観点から考えている部分があるらしい。そのあたりを著者は「当時の労働行政は70年代以後と違って雇用問題を内部労働市場から見るのではなく、もっぱら外部労働市場の観点から考えており…今日の問題意識からは逆に新鮮に見える面もある。」と述べている。

>なお、計画で1項目割いて臨時雇用、社外工、季節出稼ぎ労働者等の不安定雇用の改善に触れており、今後10年程度の政策目標として、不安定雇用がかなり減っていることとともに、常用雇用形態の労働者に比べて賃金等の処遇で差別がなく、その就職経路が正常化している状態の達成を目標としている。当時の労働行政は70年代以後と違って雇用問題を内部労働市場から見るのではなく、もっぱら外部労働市場の観点から考えており、それゆえにこういった政策スタンスが自然にとられたのであろう。このスタンスはその後、雇用政策が内部労働市場中心になっていくにつれて次第に薄れていくことになるが、今日の問題意識からは逆に新鮮に見える面もある。(『労働法政策』132p-133p)


ハローワークと福祉事務所の連携の可能性


2003年ごろの日本の話になって、「長期失業者への対応策と公的扶助との関係」(110p-113p)という節で、モラルハザードを防ぎつつ、どうやって失業者を助けつつ、「働くことが得になる社会」を作る制度設計をしていくか、またハローワークと福祉事務所がどうやって連携していくか、という話になっていく。「ウェルフェア・トゥ・ワーク」。「就労促進」を進めつつ、雇用保険を管轄するハローワークと生活保護を管轄する福祉事務所をどう一体化させていくか、というイメージ。

>近年の失業動向の特徴は単に失業率が高水準で推移しているだけでなく、失業期間1年以上の長期失業者が激増していることにある。2003年第4半期でみると、…

>長期失業者の増大という現象はヨーロッパ型労働市場に近づいてきたということもできるが、ヨーロッパ諸国では従来から失業保険の受給期間がかなり長く設定されていたことに加え、保険原理に基づく失業保険制度とは別に、国庫負担による補足的な失業扶助制度を有してきたため、日本のように3ヶ月-1年弱で失業給付が切れたら直ちに収入がなくなるということはあまりない。しかしながら、逆に雇用政策の観点からは、そのような過度に寛大な失業保険・失業扶助制度がかえって就労意欲を低め、給付に依存する形で人為的に長期失業者を増大させてきたのではないかとの批判が高まり、受給者の就労促進に向けた制度の見直しが進みつつある。

>さらに、先進国は労働法政策の外部にほぼ共通に公的扶助制度を有しているが、近年ヨーロッパ諸国では失業保険・失業扶助の受給者も公的扶助の受給者も、働けるのに働かないのであれば社会経済的に損失であるという考え方が有力となり、労働政策と福祉政策の枠を超えて、公的扶助受給者の就労促進が重要な政策課題として浮かび上がってきている。いわゆる「ウェルフェア・トゥ・ワーク」の政策である。そして、これら各種制度を就労促進の観点から再編成しようという動きも進んでいる。例えばドイツでは、公共職業安定所と福祉事務所を統合してジョブセンターを創設するとともに、失業扶助と公的扶助を整理統合し、これによって100万人に上る就労可能な公的扶助受給者を連邦雇用庁の所管に移すことが予定されている。

>こういった流れの中で見ると、日本の雇用保険制度は所定給付日数がかなり短く設定されているために、従来のヨーロッパのように制度的要因による長期失業者を生み出すという悪弊は免れていたが、逆に労働市場の状況が給付日数を超えた長期失業者を大量に生み出すようになっても、制度のセーフティネットが及ばないという事態を招いているといえる。しかしながら、ここで単純に従来のヨーロッパ諸国を見習って失業給付の所定給付日数を延長したり、あるいは国庫負担による失業扶助制度を導入するという政策対応をとるならば、ヨーロッパ諸国が脱却しようとしている長期失業の罠に陥ってしまうことになる。

>むしろ、近年のヨーロッパ諸国の動きの中で見習うべきは、労働法政策の外部にあった公的扶助制度についてもその受給者の就労促進を図ろうとする政策であろう。近年日本においても生活保護受給者は増加しているが、2002年度末に被保護者129万人、保護率も10パーミルに止まっており、多くの長期失業者が雇用保険制度と生活保護制度のはざまで無収入状態に陥っていることを考えると、生活保護制度についても労働法政策上に明確に位置づけ、失業給付受給終了後の失業者に対する所得保障として積極的に活用するとともに、従来からの生活保護受給者も含めて、その就労促進を制度の中核的要素として組み込んでいくことが考えられる。(『労働法政策』110p-111p)


そもそも「ハローワーク」って必要なの? 公務員の「IQ指数」ならぬ「愛嬌指数」の低さ? ー別に低くてもいいじゃん。


また、「公共職業安定機関の将来と課題」(95p-96p)という節でも、ハローワークと福祉行政との連携の可能性について以上のようなことと、似たようなことが書いてある。話は2003年の「総合規制改革会議」からはじまる。小泉首相の時代の「官から民へ」の流れの中で、著者はハローワークの機能強化を唱える。そもそもハローワークなんて要らないという人がいる。また、仮に公的にまかなうとしても、「国」がやるのか「地方」の裁量に任すのかで、また意見が分かれてくるだろう。

私としては、これまでの経験上、労働市場も「市場」の問題だから民間の職業紹介事業がありさえすればよい、という考え方にはちょっと反対で、やっぱり公的サービスであるハローワークがあったほうがいいと思っている。

なぜかと考えてみると、もしかすると、これは好みの問題も入ってるかもしれない。印象として、民間の職業紹介会社はバリバリとやってて元気があっていいけど時々私をイライラさせることが多く、公的機関のあの愛想のない「冴えない」感じが懐かしく思えることがあるのだ。ちょっとくらい待たされたり、職員に愛嬌がないことくらい、我慢したまえよ。やつらのビジネス・スマイルはほとんど異常。と思えることだってあるのだから。

(うまくまとめ切れてないけど、これで私の文章は終わり)(以下、全部引用)


>総合規制改革会議は2003年7月、「規制改革推進のためのアクション・プラン、12の重点検討事項に関する答申」を公表し、その中で「職業紹介事業の地方公共団体・民間事業者への開放促進」という項目が挙げられた。そこでは「民間委託のさらなる拡大に加え、公設民営方式などの導入、独立行政法人化、地方公共団体への業務移管など、その組織・業務の抜本的な見直しについて、検討を進める必要がある」とされている。

>しかし、公開されている議事録からすると、この表現は内部の過激な意見を相当に抑えた表現であり、委員の中には「国が公共安定所をもつこと自体がもう不必要」という意見もあり、それを「民間の職業紹介への規制緩和を進めるためにも、無料の公的職業紹介はセーフティネットとして不可欠」という良識的な意見が何とか抑えている状況のようである。

>一方、国際的な動向からすれば、公共職業安定機関の現下の課題は職業紹介と失業給付をより密接に連携させていくことにある。前述のように 1970年代から1980年代にかけて、イギリスでも日本でも両者の機能を分離する方向に走ったが、1990年代のOECDの雇用戦略で両者の連携が打ち出され、世界的にその方向に進んでいる。公的職業紹介を廃止して給付行政のみを残すような発想が政府の中心部で「改革」の名の下に論じられている現状は、日本の特異性を示している。

>しかしながら、公的職業紹介の将来の課題は単に失業給付との連携にとどまらず、むしろ福祉行政との連携にあると思われる。これは雇用保険制度の将来の課題として長期失業者への対応策と公的扶助との関係が問題となってきているのと揆を一にしているが、今や先進諸国では雇用政策の対象が狭義の失業者のみから福祉給付などで生活している非就業者に拡大しつつあり、彼らを労働市場に引き出してくること(「福祉から雇用へ」)が雇用政策の大きな目標となるにいたっている。EUの雇用戦略では2000年から就業率を雇用政策の指標として挙げている。

>このような流れの中で、これまで(障害者対策など一部を除けば)比較的没交渉であった公的職業安定機関と福祉行政との連携が重要な課題となってくる。そして、この点では地方公共団体との関係について、再度制度設計の根幹から検討し直してみる必要があるかもしれない。いうまでもなく、福祉行政は地方公共団体の所管であり、その行政水準もさまざまである。生活保護と職業紹介を連携させるといっても、現行組織のままでは容易ではない。現在の福祉事務所に職業紹介を行わせて成果が期待できるわけではないし、生活保護受給者に公共職業安定所への出頭を義務づけてみても形式だけに終わる可能性が高い。ここは恐らくかつての地方事務官制度に匹敵するような組織的イノベーションが必要な領域であろう。

>今後国レベルの雇用政策と地域レベルの福祉ニーズとをリンクさせるような日本型「福祉から雇用へ」政策を、どういう組織メカニズムで実行していくのか、これからの最大の課題であることは間違いがない。(『労働法政策』95p-96p)


関連記事:「雇用問題」への読者の間口が広くなる!-大久保幸夫『日本の雇用』はオススメです。2010年02月10日
(→濱口氏の本がチョイと難しすぎるという人は、講談社現代新書の大久保幸夫『日本の雇用』がオススメです! これを読めば、日本の雇用問題のことが大体つかめます。)

雇用保険のいろいろな仕組みは結構最近にできたみたい-濱口桂一郎『労働法政策』を読む①

2010年01月26日 | 労働・福祉
岩波新書の『新しい労働社会』の「あとがき」で、「もっと詳しく知りたい方は、こちらをどうぞ」といって挙げられていた、濱口桂一郎氏の『労働法政策』(2004年)という本。

私は「どんなもんだろう」と思って図書館から借りて来て、頑張って読んでみた。
とりあえず、今のところ半分以上には目を通せた。

日本の労働法の歴史がその内容。
とにかく、すげーヴォリューム! ちっちゃい字がギッシリと詰まってて、なんと500ページ以上もある!

その「目方」を見て気持ちは臆したが、雇用関係、労働法周辺の用語にこの際、「いちど慣れてみよう」と思って、むりやり目を通すことにした。


雇用保険のいろいろな仕組みはいつできたか


ハローワークに行って失業保険をもらう手続きをしたことのある人ならわかるかと思うのだが、「雇用保険ご利用のしおり」というものが手渡される。

それを読むと「どういった要件で雇用保険の手当てがもらえるようになるのか」ということについて、いろいろと説明してくれている。

まあ細かい話は自分には関係のない話なので、読み飛ばしていた。
しかし時々、雇用保険って、なんでこういう風な仕組みになっているのかな?
と気になることはある。

『労働法政策』で雇用保険の歴史について読んでいると、「あ、この仕組みって、1984年ごろに、できたんだな。それと、モラルハザードを防ぐとか、そういう趣旨・目的があったんだな」ということを知ることができる。

以下にメモ代わりに抜粋しておくのは、雇用保険法の「1984年改正」「2002年改正」「2002年の運用改善」「2003年改正」-それぞれについての『労働法政策』の文章の一節。

「へー」という感じで読めた。自分が雇用保険の手当てをもらうときには、「昔からそうなんだろう」「当たり前だろう」と思っていた制度が、結構「出来立てのホヤホヤ」の制度だったらしいことを知ることが出来た。


「1984年改正」から「2003年改正」まで


(…失業手当が失業以後、何ヶ月もらえるかは、その人がそのとき何歳か、またそれまで雇用保険に入ってた期間が何年だったか、という二つの要素によって決まる。私の場合、3ヶ月なのだが、この不況期に3ヶ月しかもらえないって、何か短すぎくない? と不安に思ったりするのだが、これもモラルハザードを防ぐためにギリギリのラインだった模様。…)

「1984年改正」

>これにより、所定給付日数は、再就職の難易度に応じて定めるという原則を維持しつつも、被保険者であった期間をも要素として決定する仕組みとなった。これにより、1-5年、5-10年、10年以上という3段階制とされた。これと従来の年齢階層別及び就職困難者が組み合わさってマトリックスとなったのである。また、65歳以上の高齢者については一時金として高年齢者求職者給付金(算定期間に応じて50日分-150日分)を支給することにした。

>また、正当な理由なく自己都合で退職した場合に基本手当を支給しないこととする給付制限期間をそれまでの1ヶ月から原則として 3ヶ月とし、安易な離職を防止しようとするとともに、受給者の再就職意欲を喚起し、失業者の滞留を防ぐため、所定給付日数を2分の1以上残して再就職した者に再就職手当(30日分から120日分)を支給することとした。ただし、かつての就職支度金制度の濫用の弊に鑑み、1年を超えて雇用されることが見込まれるような安定した職業に就職先を限定した。

>こういった改正は、失業給付制度をめぐるモラルハザードが、あちらを解消しようとすればこちらで増大するというなかなかに困難な性質があることを示している。被保険者期間で差を付ければ就職の容易な長期勤続者にモラルハザードが発生し、年齢で差を付ければ短期勤続の高齢者にモラルハザードが発生する。早期就職者に褒美を付ければ就職の容易な者にモラルハザードが発生し、付けなければ満額受給するまで居座るという形でモラルハザードが発生する。すべてに対応しようとすれば制度は限りなく複雑化してゆくことになる。(『労働法政策』106p-107p)


(…失業手当が何ヶ月もらえるかを決めるのに、自分で辞めるのと、クビにされるのとでは事情が違うわけだが、その区分ができたのが「2002年改正」によるものだった。ビックリ。それまではどうしてたんだろう?…)

「2002年改正」

>この改正によって、所定給付日数のマトリックスは被保険者期間と年齢に加え、倒産・解雇による離職者か自己都合等による離職者かという区分が設けられた。(『労働法政策』108p)


(…また、毎月の失業保険の更新の日に、その日までの就職活動実績をハローワークで報告することになっているのだが、この仕組みができたのが、なんと「2002年の運用改善」だという。それまでは何もしなくても失業手当がもらえたらしい…)

「2002年の運用改善」

>(厚生労働省の)通達「失業認定のあり方の見直し及び雇用保険受給資格者の早期再就職の促進について」(職発第0902001号)は、認定日の間の期間に求職活動実績が原則2回以上あることを確認して失業認定を行うとし、単なる職業紹介機関への登録、知人への依頼、新聞・インターネット等での求人情報の閲覧だけでは求職活動に該当しないとし、1%程度のサンプリングで問い合わせを行い、申告が虚偽であれば不正受給として処理するとしている。また、安定所に紹介されたのに事業所の面接で故意に不採用になるような言動をした等の場合にも紹介拒否と解して給付制限を行うとしている。(『労働法政策』109p)

(…そして最後。「2003年改正」は、雇用の流動化に伴い、雇用保険政策でも、「内部労働市場」重視から「外部労働市場」重視の方向への流れが見出せるという。この「内部労働市場」-「外部労働市場」というのは重要なところで、時代の変化への対応。私はこの本のキーワードの一つと思へり。…)

「2003年改正」

>このうち就業促進手当については、1984年改正で導入された再就職手当が1年以上の雇用が見込まれる安定した雇用に就職先を限定していたのを、常用就職以外の形態で就職した場合にも対象を広げており、雇用就業形態の多様化に対応した形となっている。別の角度から見れば、雇用保険法以来の内部労働市場重視政策から、外部労働市場志向の労働力流動化政策に回帰しつつある姿を示していると見ることもできる。(『労働法政策』110p)


関連記事:ホワイトカラーエグゼンプションの議論について自分なりに整理 2010年01月07日
(→濱口桂一郎氏の『新しい労働社会』について触れています。)