ブログ・プチパラ

未来のゴースト達のために

ブログ始めて1年未満。KY(空気読めてない)的なテーマの混淆され具合をお楽しみください。

団地ノ記憶

2009年06月27日 | 思想地図vol.3
『思想地図 vol.3』中の鼎談《「東京から考える」再考》を読む。
あわせて、小さな写真集『団地ノ記憶』も読む。

ニューヨークは錯乱してたのかもしれないが、私の団地の記憶はあまり錯乱してない。
私が小学一年まで住んでいた団地は、今から考えると、かなり落ち着いた雰囲気を持っていたように思う。
横浜の「左近山団地」というところだった。
『地図』中の《鼎談「東京から考える」再考》が、一度だけその名前に触れている。
それで懐かしくなって、いつのまにか、近所の図書館から、長谷聰・照井啓太『団地ノ記憶』(洋泉社2008年)という写真集を借り出してきて、眺めてしまっていた。
この小さな写真集を見ていると、いろいろな細部が記憶に甦ってくる。

確かにあったな。
不思議なオブジェと化した、どうやって遊ぶのかわからない団地の遊具。
私が住んでいた(1982年くらいまで)左近山団地の公園には、地面から突き出た色鉛筆のオブジェがあった。数年前、横浜に行った時、もう一度自分の住んでいた周辺を見に廻ったことがあるのだが、今でもあると思う。
ダストシュート、さびついた牛乳受け、芝生。
たんたんと歩いていける、曲がりくねった小道、公園のオブジェ、ベランダにかかる布団。
春になると周囲に舞う、綿ぼこりのようなもの。
わたしはその綿ぼこりを、日曜日になるとあの「ベランダにかかるせんべい布団」をお母さん達が必死に叩くので撒き散らされるものだと勘違いしていたのだが、あれはおそらく木の実の一種だ。

団地の近くの地面すれすれのところに、小さな鉄格子があって、その奥に、猫がニャアニャア鳴いているのに気づいて、どこから入ったのだろうと中を覗き込んでいたことがあったが、あれはどういう機能を持った構造物だったのだろう。
ほうせんかなどを植えてある、玄関の小さな共同の花壇。
ほうせんかの実を破裂させたりして、よく遊んだ。
オジギソウを触って、おじぎさせたりしていた。
管理していたのは団地の住民だったのだろうが、今思うと所有権はどうなっていたのだろう。
そこの団地の住民の一人に「お習字」を習っていた。
夕方になると芝生で剣道の素振りの練習をしはじめる子供たちがいた。

芝生と道路を分ける線上に、背の低い石の柱が立ち並んでいた。
その柱の根元に沿って「ジグモ」という土の中に潜る蜘蛛がいた。
そのジグモの巣に木の枝をつっこんで、ジグモを吊り上げる遊びが流行っていた。
私もその技を年長の子供から教わった。
その石の柱はメンコを置いて、靴の裏でたたいて飛ばすときにも使った。
公園には大きな時計、大きなプールがあり、ポールに巨大な鯉のぼりが翻っていた。
「大きい」と思えたのはたぶん子供だったからで、久しぶりにその地を訪ねてみると、自分がかつて住んでいた世界が、ミニサイズの箱庭のように「縮小」されていたのに驚いた。
公園には物置きみたいな建造物があって、そこにサーカス一座じゃないけれど、何かの宣伝のためか、時々「デンジマン」のような子供向け戦隊モノの催しが開かれることがあった。

団地の上から見ると、その公園の物置の裏側で、せっせと着替えをするヒーローたちを見ることができたので、そのことを得意そうに私に教えてくれる年長の子供がいた。
原武史氏が「団地が共産主義国の建物に似ている」ことを指摘しているが、『団地ノ記憶』というこの写真集でも、東京都板橋区の「公団高島平団地」について、著者の照井啓太氏(なんと1986年生まれ!)が、「団地に沿って走る都営三田線の車内から巨大住棟群を眺めていると、あたかも共産圏の高層アパート街に迷い込んだような気分になる。」と書いている。

団地とコミュニティ。

写真集で「団地の祭り」の写真もあった。
団地内の商店街で、盆踊りが行われることがあった。
そこでの出し物として、手作りの張りぼての神輿を作ったりした。
同じ棟の子供たちが集まって、ダンボールや紙を使った「ドラえもんみこし」を作ったりしてた。あまりにもヘボい神輿を作ったりすると、別の棟の見知らない子供が「なんだコレ!」と蹴飛ばしたりして、悔しさのあまり頭がぼうっとなったこともある。
「学校つながり」の友人関係ができる前のこうした「同じ棟」(正確に言うと、中央の「芝生」に向き合ったいくつかの棟のかたまり)でつながった子供集団を、私は居心地よいものと感じていた。「別の棟」の子供達は、まったく未知の世界の人間たちだった。
いくつかの棟が向かい合った中央の「芝生」で、幼稚園児から小学六年までが団子になって遊んでいた。

だが、大阪の新興住宅街に引っ越してくると、そこは「同じ学年」の子供としか遊ぶことができない、という空間に変わっていた。
この落差があったので、学生の頃は子供のコミュニティについていろいろと思い出せることを思い出しながら考えていた。

その当時、宮台真司氏の本が面白かったのは、ひとつにはそういう視点が私にもあったからだ。「自分は一体どういうわけで、こうなってしまったのだろう? 社会はどういうわけで、こうなってしまったのだろう?」という疑問を、住んでいた場所や社会とのかかわりで考えてみたくなっていたので、宮台真司氏の「郊外論」などを、当時文学を読むような気持ちで読んでいたことを思い出す。

ほかに子供のコミュニティということで当時参考になったのは、樋口一葉『たけくらべ』や、藤子不二雄の自伝的マンガ(たぶん『まんが道』だろう)、楳図かずおの『漂流教室』などの作品、橋本治の諸著作などだった。

住んでいる場所と、コミュニティの関係という点でいうと、宮台真司が言うような「学校化」した地域社会、どんぐりの背比べ的な微妙な差異に敏感な、窒息するような「教育ママ」的世界に近かったのは、私には横浜の「団地」より、大阪に来てからの「千里ニュータウン」に近いその「新興住宅街」のほうだった。

福嶋亮大氏のブログ『仮想算術の世界』に、原武史氏の『滝山コミューン1974』に自身の「ニュータウンの記憶」が触発された話が載っている。

「原武史さんの『滝山コミューン1974』をさっきまで夢中で読んでいたせいで、ちょっとぼうっとしています。僕は前回も書いたように、京都のニュータウンで小学生時代を過ごしたのですが、それが原氏の描く滝山団地の風景と驚くほどかぶっていて、ちょっと記憶の奔流に呑まれてしまいました(笑)。」(2009年5月24日)
私も学生のときは藤子不二雄の「まんが道」などを読んで「記憶の奔流」に呑まれていたりした。しかしそのあと福嶋氏のように、さらっさらっと気軽な感じで、以下のようないろいろな「考察」を加えることなんてできなかったので、やっぱり福嶋亮大って人は「畏るべき」だなぁ、もしくは最近の若者って凄いよなぁと思った。

「京阪神の「郊外」というのは、戦前から存在するわけです。それこそ手塚治虫なんて小林一三のつくったシミュラークル化・スペクタクル化された田園都市文化にどっぷり浸かっていたようなひとなので、その意味では、日本の漫画やサブカルチャーの起源は「郊外」にあると言えなくもない。そういうシミュラークル都市の原型がある一方で、戦後は大阪近辺を中心にニュータウンが全国でもいち早く造成される。で、今やそのニュータウンが、ところによっては人口減と建物の老朽化に苦しみ、一種「廃墟」のようになっている。僕は、後者のニュータウン的な郊外、都市のふつうの消費文化からは明らかに距離のある郊外に住んでいたので、「滝山コミューン」の顛末は何か身体的にグサッとくるんですよね…。」

小林一三氏が作り出したものというのは、私が今住んでいる所では身近にある環境なので、何か自分なりに調べて考えてみようかと思っていたのだが、いま暑さで頭がぼーっとしており、疲れてきたのでこの辺りでやめておくことにした。

ひとつ面白いなと思っているのは、ある風水師が小林一三の「風水技術」をほめていたことで、その人は、勾玉のようにまがっていて風水的にも「閉鎖的」になりやすいこの大阪という土地に、阪急鉄道の「路線」がうまいこと働いて、よい「気」の流れを作り出している、といったことを述べていた。

その人の見立てでは、六甲山脈から箕面までつづく「龍脈」から送られてくる「気」を、小林一三がつくった「擬似龍脈」としての鉄道路線が、大阪中心部に送り出しているという風に見えたらしい。小林一三がいなければ、その後の大阪の発展はなかった、と、こういう見方は、オカルトだけどちょっと面白い。なぜか、いろいろと「思い当たる節がある」気がするのだ。

しかし『思想地図』を読むといいながら、だいぶ自分の好き勝手な記憶の連想を書き連ねることになってしまった。

最近ブログを書き始めてみて、人に読んでもらえるような文章を書くのはやっぱり難しいと感じたが、自分の中ではこまかい変化が起こっているのを感じることができるので、やはりブログ始めてよかったと思う。最近は『思想地図』を手がかりにして、自分の中でいろいろな「計算」や「変換」をやっているみたいな感じになった。読んだり書いたりすることで、自分の「気分」が少しづつ変化していく、その変化を感じることができるのは、わりと「健康にいい」ような気がした。わたしにとって時々むつかしい本、思想や哲学などの本を読むことは、なんとなく「背骨」を整えて、ちょっと体調がよくなるような行為でもある。

【「計算」と「変換」について】

イギリスの物理学者コリン・ブルースは、多世界にまたがって計算を行う量子コンピュータを、「ホテル」の比喩で述べている。
ネタ元がブルーバックスしかないというのは知識が貧弱な気がするけど仕方がない。ブルーバックスの『量子力学の解釈問題』から。
無数のパラレルワールドに相当する小部屋がずらりと並んだホテル。そのホテルの各部屋で、沢山の人間が一生懸命同時に「計算」を行う。その結果膨大な計算量が一瞬で終わってしまう。著者は冗談半分にディルベルト・ホテルと呼んでいる。
そのような「計算」や「変換」が、たとえば私が団地の記憶を思い起こすときにも、円城塔の小説を読むときにも、発生し続けているのだと思う。
このようなブログの文章を自分でこしらえてみた体験を、手がかりとして、福嶋亮大氏がよく使う「計算」や「変換」の意味が私にもだんだんとわかってくるのかなー、とやや期待する。

「ステーヴン・ウォルフラムは A New Kind of Science という本のなかで、森羅万象はセルラー・オートメーションでありコンピューテーションであると言っている。
我々がここでしゃべっていることにせよ、会場の中を空気が流れていることにせよ、ありとあらゆる粒子が勝手に計算して成り立っているというわけです。そこから時として驚くべきパターンが立ち上がってくる、と」(シンポジウム・浅田氏)

「この構想を大胆に敷衍することにより、分子は全て何かの計算に寄与しているのだという夢物語さえ可能となる。宇宙は何かを計算するために生まれたのだという大雑把にすぎる妄想は、SFと物理学者の想像の中では珍しいものとは言い難い」
「ただ闇雲に動き回るものを計算と呼ぶなら、花鳥風月何をでも、好きに計算と呼べば良いというのと何の変わるところもない」(『ガベージコレクション』)

ウィンストン・チャーチルは帰還せり

2009年06月20日 | 思想地図vol.3
『思想地図 vol.3』円城塔の小説「ガベージコレクション」を、他の本を読みながら読む。

ミチオ・カク『サイエンス・インポッシブル』という刺激的なポピュラー・サイエンス本に、物理学者のファインマンの「宇宙は一つの電子から成り立っている」というアイディアが紹介されている。ファインマンは若い頃に没頭した「未来からの先進波」の研究から、たった一つの電子が、無限速度で「行ったり来たり」を繰り返してこの宇宙を作り出している、というイメージを取り出してみせた。

ファインマンはこの理論をいつものように面白おかしく、つまり本気70%、冗談70%、の配合でエネルギーが100から溢れ出してしまうのではないかと思わせるようなあの語り口で語っていたことだろう。

しかし面白いので、しばらくこの理論に寄り添って考えてみると、われわれは、いわば電子を針とした、超高速ミシンが既に縫い取りを終えてしまった世界に住んでいることになる。

「ガベージコレクション」の「蛇を貫き縫いとるように、互いに逆方向へ進む二本の針。針はとうに通過してしまった後であり、その針には速度がない。何故かというに、無限の過去から無限の未来へ、既に縫いとりは終わってしまったあとだから。」という一節から、そのような本気と冗談が混じりあう物理世界のようなものを想像した。

(以下ミチオ・カク『サイエンス・インポッシブル』から引用)
「ファインマンはさらに、この宇宙全体が、時間のなかをジグザグに行き来するたった一個の電子からなるのかもしれないと考えた。ビッグバンの混沌のなかから、電子が一個だけつくられたとしよう。何兆年ものち、この一個の電子はついに世界の終わりの大変動に遭遇するが、そこでUターンして時間をさかのぼり、その過程でガンマ線を放出する。そしてまたビッグバンのときまで戻り、再びUターンする。こうして電子は、ビッグバンと世界の終わりのあいだを何度もジグザグに行き来する。二十一世紀の宇宙は、この電子の旅を時間的に切った断面に過ぎず、そこにわれわれは何兆という電子と反電子、すなわち観測可能な宇宙を目にしている。」

「この理論はへんてこに思えるとしても、「電子はどれも同じ」という量子論の不思議な事実を説明してくれる。物理学においては、個々の電子を区別することはできない。緑色の電子などないし、ジョニ-という名の電子もない。電子に個性はないのである。科学者が研究のために野生動物に「タグ(標識)」をつけることがあるが、電子にはタグはつけられない。ひょっとするとその理由は、この宇宙が一個の電子でできていて、ただそれが時間の中を行ったり来たりしているからなのかもしれないのだ。」

われわれは、一個の電子によって既に縫い尽くされた世界の中に住んでいる。
われわれ自身がその縫い目の一部にすぎない。
物質は周囲にたくさんあり、今でも、それこそ数え切れないくらいの数で存在しているように見える。
しかしそれは錯覚にすぎない。

ミチオ・カクの本によれば、量子論では「電子にタグはつけられない」という。電子には個性がなく、あれとこれとを区別することはできない。だから数えることはできない。そこから実はこの宇宙には、一個の電子しか存在しない、と考えも出てくる。
すでに電子の縫い取りは終わっているのだから、遥かな過去から未来まで時間が流れていくのさえ、本当に流れていると言えるのかどうかさえわからない。

どちらが頭でどちらが尾かも定かではないドラゴンの背骨の上で、われわれは「時間とは何だろう」と考えてみたり、「時間がバラバラになってしまった」と嘆いてみたり、ささやかな高揚を求めて「擬似同期」してみたり、タグのつけられないたった一個の電子が縫い取った世界でグダグダと「タグ戦争」を続けたり分類・選別・ランキングにいそしんだり、テレビを見て本を読んで就寝して起床して再び電車に乗る等、いろいろなことをして時間を過ごす。やり過ごす。kill time する。

しかし時間の前後が区別できないというのは本当だ。われわれもついうっかりしていると、未来がどっちで過去がどっちかわからずボンヤリしてしまうことがあり、少なくともそういう時に、道で見知らぬ人にそのことを聞かれたりしたら、咄嗟に答えられないおそれのほうが大きい。未来に比べて過去がはっきりしているということもなく、両方とも不確かな「おそらく」の霧に包まれているように見えることがある。

「テネシー・ウィリアムズがこう書いている。過去と現在についてはこのとおり。未来については「おそらく」である、と。しかし僕たちが歩んできた暗闇を振り返る時、そこにあるものもやはり不確かな「おそらく」でしかないように思える。」(村上春樹『1973年のピンボール』)

「等エントロピー面の上に横たわる一匹の蛇。蛇の胴の地点に発し、二つに分かれて宙空に踊り、また別の地点で交叉する二本の軌跡。」(ガベージコレクション)

たとえば「泳げ!タイ焼きくん」のような魚がわれわれの人生の時間を表し、そこに横たわっているとして、頭部にアンコがつまっているほうが幸福なのか、尾部にアンコがつまっているほうが幸福なのか、という問いかけがある。
わかりやすくするために、タイ焼きくんの体内に注入しうるアンコ、つまり幸福度を+とし、その他に毒アンコみたいなものがあるとして、その不幸度を-とする。

アンコの総量が+3で変わらないとして、

人生初期 +10 
中間期 +8
晩年 -15

と、

人生初期 +3 
中間期 -9
晩年 +9

のどちらの配合のほうが好ましいかという問題だ。

安藤馨『統治と功利』は「リア王の幸福」を例に挙げ、この問題を論じている。

「リアの若く喜びに満ちた期間の内5年間分をとりさり、リアの悲劇が始まる年を5年早めよう。しかる後に悲劇の後に5年間の喜びに満ちた期間を付け加えよう。この時リアの個人内での厚生の分配パタンは変化していると言えるだろうか?」(『統治と功利』より)

多くの人間には、だんだん幸せになるほうが良い、終わりよければすべてよし、という時間選好がある。安藤馨はそれを「ハッピーエンド選好」と戯れに呼ぶ。
しかしそれは自分の人生の後半期に対して「現在時点」でどのような「予期と愛着のパタン」を持つかにかかっているのであって、必然的なものではない。

基本的に、幸福になる時期の順番を入れ替えるだけでは、全体の幸福量が変化する、ということはない。功利主義の考え方では、個人内においても、個人間においても、これは同じだと言う。

まな板(鉄板)の上にタイ焼きくんが横たわっているというそもそものイメージが間違っているのであって、むしろタイ焼きくんの全身がつながっているかどうかさえ定かではなく、タイ焼きくんの頭部は、そこから遠く離れて霧に包まれている自分の尾部をよく見通すことができない。

仏教などが教えているように、時間軸上に首尾一貫する「人格」などない、と極言してみて、私にそれほど違和感はない。

あるのは現在時点での「予期と愛着のパタン」だけ、という『統治と功利』の極言にも、わたしはああ仏教みたいなものねという納得の仕方をした。

現代では、「一本の線」みたいに自分の人生の時間を想像することのほうが、すごく不自然な感じがして難しくなる人のほうが増えているのかもしれない。

無数のパラレルワールドが存在する、という量子力学の「多世界解釈」があるが、その考えはSF的というより、もっとリアルな生活に即しているようでもあり、「ありえない」話というより、「それって、あるある!」という「あるあるネタ」に分類してほしいと思うことがある。東浩紀氏の「ゲーム的リアリズム」というのも、現代の小説に当てはまる話というだけではなく、普通に生きているだけで「無理に分岐を強いられている」という感覚を抱いてしまう人が現代に多そうだ、という前提で書かれているのだと思う。

講談社・ブルーバックスのコリン・ブルース著『量子力学の解釈問題-実験が示唆する「多世界」の実在』などを読んでいると、これまで物理学で支配的だった考え方、ヤングの「2スリット実験」等に対する解釈として、モヤモヤと広がった確率的な「雲」が、人間が「観測」した瞬間にスルスルッと収束するという摩訶不思議な「コペンハーゲン解釈」よりも、最初から無数の分岐世界があることを思い切って想定してしまう「オックスフォード解釈」の方が、無理のない見方だと思えてくる。

ミチオ・カクの本には、私には「ガベージコレクション」と“チャーチルつながり”だな、と思える話もあった。

葉巻が好きだったサー・ウィンストン・チャーチルは、
「民主主義とは全くひどい政治制度だ。しかし、これまで知られた歴史上の他の制度に比べればいちばんマシだ。」と言ったそうだ。

似たような言い方で、ノーベル賞受賞者のワインバーグが量子力学の多世界解釈に関して、「多世界解釈はひどいアイディアだーほかに比べるものがなければだが」
などと洒落てみせたという。

まあ多世界解釈のほうは置いておくとして、私も、後悔のない人生が送れたらいいなと思う。
しかし後悔のない人生、それは時間がないということではないか。「今がいちばん」という根拠のない確信で最後までつっぱしってやろうというのは、もし過去や未来の自分が見ていたとしたら、倫理的にどうなのか。

時間が流れる限り、後悔は止まず、無数の分岐世界への気掛かりが消えることはないと思う。
しかし戻れないまでも、あみだクジのように「ななめ」にハシゴをかけて、別の分岐に飛び移ることはできないのだろうかと、よせばいいのに、らちもない空想を続けたりする。プチ・パラレルワールドが欲しい。プチ・パラソルみたいなものが欲しい。雨の日に「雨降らなかったかもしれない世界」を傘の下に現出させる「もしもパラソル」が欲しい。プチをつけるところがちょっと弱気で、おれは、ヘタレ・パラレル・症候群にすぎないのかもしれない。

『地図』中のシンポジウムで取り上げられていた、建築家のコールハースの『錯乱のニューヨーク』という本をパラパラとめくっていたら、第5部の表題が「死シテノチ(ポストモルテム)」となっているのを見かけた。

チェスの感想戦をポストモルテム(キングが詰んだ後、キングが死んだ後、という意味で、「後の祭り」というニュアンスを感じる)というらしいが、その用語と関連はあるのだろうか。
コールハ-スというまだ私のよく知らないこのオランダ人には、ニューヨークの歴史を調べているうちに、マンハッタンのグリッド構造がチェス盤のように見えてきたのだろうか。

「ガベージ・コレクション」の「詰ませて、消えた」というのは、「後の祭り」と「祭りの前」が接近してきてチェス盤の上で交錯するということなのだろうか。

感想戦というのは、「起こったこと」を忠実に思い出すという作業なので、「あの時ああしてたらこんな世界になってたかもしれないのに」と仮定法過去完了で後悔するのとはだいぶ違っている。
だとしたら、並行世界への気掛かり、分岐世界への後悔、パラレルワールドへの航海 という、私が関心を持っている話とはあまり関係がなくなってくる。

最後に以下、一応サービスのつもりで、安藤馨『統治と功利』からかなり多めに抜き出しておく。誰かの関心を刺激するきっかけになれば幸いだ。

リア王の幸福について。

≪安藤馨『統治と功利』≫

(p230-232「加法可能性に対するあり得る批判と反論」という辺りから引用)

「これに対して我々は次のような反論を予想することができる。「個人内における厚生の加法可能性を個人間に及ぼすことはできない。なぜなら個人内においても厚生の集計は純粋に加法的ではないからだ。」」

「センはここで『リア王』における悲劇の主人公リアを持ち出してくる。」

「この議論が説得的であるかどうかはかなり疑わしいといって良い。」

「当のリア自身にとってその人生が悲劇的だったのは人生の最後のごく短い期間に過ぎない。若きリアに聞くならば、彼は自分の境遇を悲劇的であるなどとは思っていないはずである。リアを構成する意識主体の集合の内で自分の人生を悲劇的だと考えている意識主体は極く小さな部分集合に過ぎない。死ぬ間際のリアが自分の人生を悲劇的だと考えるからといって、若き日のリアが人生を楽しんだことが遡及的に取り消されたりはしないのである。」

「我々は常にある時点での意識主体であってその瞬間の経験を得るのみであり、決して「人生」という意識主体の集合全体を一気に把握する立場になど立つことができない。それが可能なのは「物語」が終わるときであり、まさにその時「私」は死によって舞台から退場しているのだ。ここから生じがちな過ちは、リアの「人生」が悲劇的だったというとき「人生」がそれ自体としては意識主体の集合という以上の意味を持たないにもかかわらず、意識主体間に「時間の流れ」を付与してしまうことで自分自身の「時間選好」を投影してしまうというものである。」

「リアの若く喜びに満ちた期間の内5年間分をとりさり、リアの悲劇が始まる年を5年早めよう。しかる後に悲劇の後に5年間の喜びに満ちた期間を付け加えよう。この時リアの個人内での厚生の分配パタンは変化していると言えるだろうか?」

「端的に言えば、我々のこうした評価の背景にあるのは「終わりよければすべてよし・終わり悪しければすべて悪し」という単純なバイアスである。我々はこれを「ハッピーエンド選好」とでも呼んでおこう。」

p235「身近なところでは仏教哲学の刹那滅論を考えてみればよいだろう。その説く所に従えば、あらゆる(瞬間的な断片としての)実在にとって持続して同一性を保つことは原理的に不可能である」


ついでに、時間論や人格論が「統治』の仕方に関係してくるという話も面白かったので引用。人格と被統治単位の細粒化について。

≪安藤馨『統治と功利』から≫

p269
「長期の予期を持った統治主体の眼前には、空間軸と時間軸に沿った被治対象たる諸意識主体の広大な畑が広がっている。如何にしてこれらを功利主義的に統治すればよいだろうか。古来からの政治的格言「分割して統治せよ」こそがこうした統治主体に与えうる最良の指南であろう。」

「既に論じたように、未来に対する功利主義的配慮を現在の意識主体に持たせることが統治効率の面から要請され、この配慮の単位である意識集合こそ「人格」であった。
統治者の限られた能力からすれば、被治諸意識を一定のパタンに沿って分割しその各パタン単位に対して定型的な統治を行うしかまともに統治を遂行する方法はないだろう。
幸いにして「人格」はそうした分割パタンを我々に提供しているではないか。」

「この議論で統治者の統治遂行能力が本質的な役割を果たしていることに注意しよう。
もし統治者の能力が低ければ、精細な分割単位に基づいた統治は不可能である。統治者の統治能力の不足を分割単位内の諸意識間の配慮によって補おうとしているのだから、能力が低ければ低いほど分割単位は大きくならざるを得ない。少なくとも統治者が功利主義的に振舞おうとしていたわけではないにしろ、かつての家族単位での社会構造はこの実例を示しているだろう。家長のみを直接の統治参照点とし家族内部は家族内部に任せることで、諸個人に直接に統治を及ぼすだけのリソースを持たない統治主体は統治を行うことになる。統治能力と分割単位の細粒度が連動するというこの事実は後に極めて重要な含意を持つことになるだろう。」


関連記事:スプーンの先に天使が何人止まれるか? 2009年06月13日
(→『思想地図 vol.3』安藤馨論文「アーキテクチュアと自由」を読んだ感想が書いてあります。)
関連記事:じぶんの無反省な信念体系を揺るがす書物ーピーター・シンガー『動物の解放』 2010年02月06日
(→安藤馨氏の本は、私には難しすぎたので、2010年になってから、功利主義について勉強し直しています。)
関連記事:初心者のための「功利主義」の説明ー伊勢田他『生命倫理学と功利主義』より 2010年02月06日
(→「功利主義」に関心があって、安藤馨『統治と功利』が難しすぎると感じている方は、こちらをご覧になるとよいと思います。)

鈴木謙介氏の論文と優しいパブロフの犬

2009年06月13日 | 思想地図vol.3
『思想地図 vol.3』鈴木謙介論文「設計される意欲ー自発性を引き出すアーキテクチャ」を読む。

鈴木論文によると、最近、アーキテクチャという用語は「人々に不自由感を与えることなく、設計者の思い通りに人々を操作する統治技術」という意味で用いられることが多くなったという。どちらかというと「悪い」イメージをもたれている。

しかし「誰か」が「悪い意図」を持って「設計」してる、という考え方は、見えるものまで見えなくするので捨てたほうがよい。

当たり前の話で、「意図」がいつも「思い通り」実現する、という事はあり得ない。
マクドナルドの椅子の固さが、客の回転率を上げるという話にしても、
そんな簡単に人の行動を調節できるものか、と私も前から思っていた。
たとえば痔になるほど椅子が固ければ、客が離れてしまう。
また、もしマクド(関西圏ではマックではなくマクドと略称する)の椅子が、ふかふかで柔らいものだったりすると、それはそれで落ち着かないので店に入りにくい感じがする。

あるいは椅子にトゲトゲをつけて、客はみんな「空気椅子」の状態で耐えなければならないとなったら、絶対に客が集まらないと普通予想されるが、やってみたら、その予想に反して、「健康に良い」とか「体を鍛えられる」とかの理由で、「空気椅子」マクドが一時的に大ブームになるかもしれない。で、そのデータを利用して、他のファストフード店やレストランが真似してみたら、大失敗して、その失敗の原因が、調べてみると「椅子の固さ」ではなく何か別の要因に帰せられるものであることが判明したりする。とにかく現実は、アーキテクチャといっても、いろいろな要因が絡み合って一筋縄ではいかないはず。
まあ考えてみれば当たり前の話。

鈴木謙介氏は、次のような「常識的」な見方から出発することを提案する。

(鈴木氏論文より引用)
「アーキテクチャによって促される人々の自発的行為は、設計者による人々への「洗脳」などではなく、設計者と利用者の間の相互作用と、両者を取り巻く多くの変数-先ほどの例で言えば店の立地やコーヒーの味、店員の制服などーとの相関から生み出された結果と見なすべきなのである」

現代のアーキテクチャは、無理に人を統制するようなものではない。
むしろ自発性を生み出す仕掛けのようなものとして現れる。
この仕掛けをうまく利用できる可能性はないのか、というのがこの論文の主眼。

(鈴木氏論文より引用)
「アーキテクチャとは、制御しようとする環境の内にある人々の動きを事前に予測しながら、人々が自由に選択することと、そのシステムにとって望ましい状態を維持することを両立させるための、絶え間ないプロセス」

「人々が自由に振舞うことを前提にして、諸変数との関わりの中で設計を不断にアップデートするという発想」

ビジネスでいう Plan-Do-See サイクル込みで、アーキテクチャの時空間を考えないといけない。
うまくいくと、ビジネスや教育の現場でも「いい方向」で活用できるかもしれない。
でも、そういう「仕組み」を作って、これを従業員の自己啓発に利用するというのは、「やりがいの搾取」(本田由紀氏)になる可能性がある。

本田由紀氏は、職場の「サークル・カルト性」というのが、従業員のやる気を引き出し、それが、若者の低賃金長時間労働を可能にする「やりがいの搾取」になっている、と論じているらしい。

鈴木氏は、それを受けて、でもそれを全否定していては駄目で、そういうのを「うまくコントロール」できる方法を考えないと、みたいな話をする。

私としては、本田由紀氏が感じているような「気持ち悪さ」もよくわかるし、今の若者が「お金」ではなくむしろ「自己実現系の魅力」にひかれて、仕事にのめりこんでしまう傾向がある、というのも事実で、確かにそれを全否定しているだけでは駄目だとも思う。

私自身も、時々そういう「もやもやとした気持ち悪さ」を周囲の人間、および自分に感じることはあるのだ。
若者が、「仕事」に自己の物語をそこに重ね合わせることのできる有意味感みたいなものを求めていて、なんとなくそういう目的をもって集まってくる人たちがいて、、やけにテンションの高い喋り方で「自分語り」をしていて、ちょっと「サークル」とか「カルト」みたいな雰囲気を漂わしている、というのは実際に私の近くで見聞きしたりすることがある。

また、私は1976年生まれだが、自分だって「意味への飢え」は昔から強烈に感じていて、そういうカルト的・サークル的な空間に惹かれたり反発したりというのを繰り返してきたという歴史がある。

だからそういう「やりがいの搾取」にハマってしまう若者達の「気持ち」と、同時に「気持ち悪さ」もわかる、という感じがある。

そういう私からは、鈴木氏もそういうアンビバレント(と言うのか)なモヤモヤっとした感情を持って、本田由紀氏の「やりがいの搾取」論を読み解いているように見えた。

やたらと従業員に配慮するマネジメント手法は、一部の人には「気持ち悪く」見えるかもしれないけど、ある意味そういう流れが出てくるのは仕方がないと私は思う。いろんなことをしないと、現代の状況では、労働者からモチベーションがなかなか引き出せない。
で、そういうきめ細やかな「配慮」をしているうち、職場が学校に似てくる、と鈴木氏は言う。

19世紀イギリスの教育を分析した論文を引用して、子供達を遊ばしておいて、その性格や気質をよくわかった上で、つまり内面にも踏み込んで、優しく、きめ細やかに、監視・統制をより精緻にしていこうという、「牧人=司祭型権力」、そういう概念を紹介する。

毛細血管のように行き渡る権力だ。

これも「怖い」感じはするけど、でもこれもまた先の職場の「やりがいの搾取」の話と同じで、それが「いい」か「悪い」かは程度問題、バランスの問題になるんだろう、と私は思う。「思いやり」がなさすぎる学校や職場が、いいものだとは思えないので。

私が今働いている場所、大阪の小さな会計事務所なのだが、自分のこれまでの経験や見聞きしたことを考え合わせても、あまりにも大雑把に労働者を働かせている職場が多い気がしていて、鈴木氏がこの論文で紹介しているような、従業員の細かい分類をして「配慮」してくれる「牧人司祭型権力」が浸透するような経営手法はちょっと魅力的で、「うらやましい。もっと大阪の中小企業も見習えよ」と思うくらいである。

鈴木氏は実は、その次の「牧人司祭」がいなくなる世界のことを論じているのだから、私のいる場所からすると「もっと先の話」になるのかもしれない。

鈴木氏によると、環境管理型権力が浸透すると言われる現代のような状況で、誰かリーダー、司祭がいるわけでもなく、いわば牧人なき羊の群れが自発的に組織をなして動く、という状況が理想とされるようになってきている。そうした側面を分析することに力点を置いたほうが、現代社会への理解が高まるはずだ、ということを言っている。

しかし、あまり具体的な話にはつながらないようだ。

私は、教育や職場とアーキテクチャの作動の話をするのだったら、スキナーの行動主義心理学の応用の話と結びつけたら、もう少し具体的になって面白いかもしれないな、と思った。

人間を動物として、つまり「反応の束」として見て、その行動の意味や制御方法を考えるスキナーの行動主義心理学は、今ではかなり発展していて、教育や経営などいろいろなところに応用されているらしい。「アーキテクチャによる人間=動物の管理」というテーマにぴったり当てはまるような動向と思えるのだが、『思想地図』では触れられていない。

アマゾンで調べたらいろいろと関連本を見つけることができる。

私がたまたま手元に持っているのは、

山本淳一・池田聡子著『できる!をのばす行動と学習の支援―応用行動分析によるポジティブ思考の特別支援教育』日本標準(2007/04/20)

という、行動主義心理学を応用する教育法を紹介した本だ。

生徒たちの適切な行為を増やして、不適切な行為を減らすためには、行動と環境の相互作用に着目して、そこに介入すればよい。
行動原理というのは、ごくごく単純なものである。
複雑に見える行動も、単純な原理で分析できるのだから、「先行刺激」(A)「行動」(B)「後続刺激」(C)の前後関係をよく分析して、適切な環境を設定し、行動をうまい方向へシェイピングすればよい。(ABC教育法)

悪名高き「スキナー・ボックス」で鳩がエサの出るボタンをつついたり、ベルを鳴らすとパブロフの犬が涎を流したりする実験から、いつまにかこんな実践的で「生徒に優しい」教育法が生まれていたりするのだ。やっていることは、犬のしつけやイルカのトレーニングの原理と基本的に変わらないはずだが、なんとなく優しい。

問題行動があったとして、個人の心の奥、内面などに問題点を探したりせず、環境と個人の相互作用に着目して、適切な行動に「強化刺激」を与えたり、不適切な行動に、例えばわざと刺激を与えず自然と「消去」されるのを待ったりする。私はこの教育法に好感を持った。なんか合理的で「いい」と思う。
(スキナーの行動原理は、たとえば人をからかって喜ぶクソガキに対しては、叱るより無視するほうが効果的、といった経験とも合致)

たとえば、内気で無口な生徒のコミュニケーション・スキルを高めるなんていう目的にも、この方法が使えるという。

スキナーの行動主義は、ある意味人間に優しい。
それは「行動」への無理のない誘導方法を開発しているからだろう。
鈴木論文での関心範囲と通ずる部分もあるのではないかと思った。

「若者達」へ向ける鈴木謙介氏の眼差しには「優しさ」が含まれているのを感じるが、ある意味、パブロフの犬も優しかった。パブロフの犬は涎を垂れ流しながら、人間の「仕方のなさ」について思いを巡らしていたのだと思う。


関連記事:じぶんの無反省な信念体系を揺るがす書物ーピーター・シンガー『動物の解放』2010年02月06日
(→『思想地図vol.1 特集・日本』で東浩紀氏が触れていた功利主義者ピーター・シンガーを取り上げています。「動物の管理」ということで、ちょっとだけ関係してくるかもしれません。)

関連記事:「社会政策学」vs「労働経済学」の対立はまだある?-濱口桂一郎『労働法政策』を読む③(終)2010年01月28日
(→少しだけ『思想地図vol.2』の大澤信亮氏の『私小説的労働と組合-柳田國男の脱「貧困」論』という論文からの引用があります。鈴木謙介氏と大澤氏は共に1976年生まれで、どちらも若者の労働問題に関係ある話なので、ここで「関連記事」にしました。)

スプーンの先に天使が何人止まれるか?

2009年06月13日 | 思想地図vol.3
関連記事:初心者のための「功利主義」の説明ー伊勢田他『生命倫理学と功利主義』より 2010年02月06日
(→「功利主義」に関心があって、安藤馨『統治と功利』が難しすぎると感じている方は、下の文章を読むより、先にこちらをご覧になるとよいかもしれません。)

『思想地図 vol.3』安藤馨論文「アーキテクチュアと自由」を読む。

今回の『地図』の中でいちばん難しそうな論文だったので、ついつい後回しにしていたら、結局最後に読むことになった。読むと意外とわかりやすいというか、「読みがい」があって面白かった。

福嶋氏や円城氏の文章は読みやすいが、難しい。一体何を話しているのかわからなくなってくるような所があった。鈴木謙介氏の論文はポイントの当て方が的確な感じがするが、なんとなく繰り返しや重複が多い気がする。左翼的な一面的な見方への再考を促すための議論が長すぎるような気がした。

私の場合、『地図 vol.3』をもっと楽しく読めるようにと、安藤馨の『統治と功利』という本も既に入手しており、精緻に入り組んだその本を「ひええ」と冷や汗を垂らしながら並行して読み進めていたのだが、それもよい準備運動になった。

安藤馨論文はまず、自由を論ずるに当たって注意すべきことがあるという。

それは「自由」という言葉が強い情動的磁力を帯びているので、冷静に論ずるのが難しくなるということだ。
例に挙がっているのは「詩」という言葉で、「詩」という言葉のもつ情動的磁力に引っ張られて、人は「それはほんとの詩じゃない!」「詩とはこういうものだ!」とぶつかり合って、いつのまにか何を論じているかがわからなくなってしまう。

たとえば「愛」とか「ロック」とか何でもいいが、他の言葉と入れ替えてみたらこのあたりの事情はわかりやすいだろう。

「それはほんとの愛じゃない!」「そんなクズ音楽はロックの名に値しない!」
「そんなことする奴は人間じゃねぇ!」

といった応酬は、議論を混乱したものにしてしまう。
少し勘違いしているような気もするが、私は大体そういう風に読んだ。

つまり、ロック、詩、自由、といった情動的磁力を持った言葉は、
いくらでも述語を自分の好きなように付け替えて論じることができてしまう。
論ずる人は、注意しましょうねということ。

で、この論文は、なんと、「同じ時空間に物質が重なって存在することはできない」という身も蓋もないこの世界の物理法則から「自由」を考えはじめる。
誰かがそこにいれば、同じ時空間に別の人が重なって存在することはできない。
当たり前の話だ。
しかし、こういう所から考えると、社会の中で自由が増えるとか自由が失われるとかいう時、それはどういった事態を指しているのか。

論文によると、「物理的な自由」を視点にして慎重に考えてみれば、「自由の保存則」みたいなものがあって自由の総量は常に一定、ゼロサムなんだ、という考えがあるらしいのだが、それも暴論とは思われなくなる。

誰かの自由を束縛することは、必ず別の誰かの自由を増すことになっている。
どこかで自由が拡大すれば、必ずどこかで自由が減少する。

この両方を見て全体のアーキテクチャを分析していかないと、自由について論ずることが空回りになる。そういうことを論文は言っているみたいだ。

中世ヨーロッパの神学者たちは「スプーンの先に天使が何人止まれるか」といったスコラ的議論に耽ったと言われている。(もちろん安藤論文にこんな比喩は出てこないけど)

天使じゃない人間は重なって存在することができないのだから、同じ時間・同じ場所には一人しか存在できない。

こんなところから議論を出発させて、しかもかなり広い範囲に新しい視点をもたらすような扇形の展開がある。

私も、この論文を読むことで新しい発見がいくつかあった。
たとえば「事前規制」と「事後規制」の区別にからめた、「監視カメラ」に対する考え方。

どこかで読んだような気もするし、私もつい、そう考えていたのだが、法律で処罰するのは「事後規制」で、監視カメラは「予防的」観点であり、「事前規制」の発想だ、という考え方がある。私も、メタボやタバコを撲滅するといった現代の病気への予防的観点の増加に、ちょっと息苦しいような「事前規制」の流れを感じていて、監視カメラもその流れにある「現代の権力の特徴」なんだろう、くらいに考えていた。

そういう事前規制の流れは怖いよ、という人がいることは知っていた。法律というのは「事後規制」の理念で動いている。実際に犯罪を犯した人だけを罰するのが近代国家の理念。
犯罪をやってもいないのに挙動不審というだけで誰かを拘束するとか、保安処分とか、そういうのは怖い。現代の権力は、人権や自由にとって危険な徴候を見せ始めている。監視カメラもその流れだ、と。

でも安藤論文は、そうでもないという。

法律はそもそも「事前規制」にコミットしている。現代は、その統治技術が高まっただけ、というのだ。

(安藤論文より引用)
「アーキテクチュアによる統治は統治技術の発達に過ぎない。
法は最初から事前規制にコミットしているが、統治者の統治能力の限界がそれを低い限度へと妨げていただけであり、いまやアーキテクチュアによる統治がそれを高度に効率的に可能にしたというだけのことである。」

例えばちょっと人とは違う、異常という理由だけで監禁・隔離したりする社会は、私もこわいと思う。
「事前規制」の怖さというのはそういう所。
アーキテクチュアによる統治も、そんなふうにこわがられるだろう。

しかし安藤によると、事態は逆である。


(安藤論文より引用)
「仮に監視の発達によって未遂段階での行政警察的制止が効率よく可能になるならば、未遂にすら至っていない段階での行為規制である保安処分・社会からの隔離は必要がなくなるはずである。」

なるほど!そんな風にも考えられるのか! という驚きがあった。

現代の日本では、なんか不安だから隔離して閉じ込めておこう、という発想で、障害者を刑務所に閉じ込めることもあるらしいが、監視技術がもっと発達しさえすれば、そうした曖昧さは少なくなる。むしろ自由は増える。

(安藤論文より引用)
「日本の刑務所が実質的に軽度の知的障害によるものを含む傾向性犯罪者ー旧派的建前である責任主義からすればむしろ刑罰を免れ得べき人々ーに対する新派的保安処分の様相を呈しているという実態を考えれば、監視は彼らの自由をむしろ大幅に回復することを可能にするだろう」(この文章に、障害者の福祉の問題などもっと考えるべきことは多いが、という注釈もついている)

「監視」技術の発達は、じつは「厳罰化」ではなく「緩罰化」を可能にする側面がある。
これは驚きだ。しかし言われてみれば、その通りだなとも思う。

関連記事:じぶんの無反省な信念体系を揺るがす書物ーピーター・シンガー『動物の解放』2010年02月06日
(→上の記事を書いた時、安藤馨の『統治と功利』は私には難しすぎたので、後になって、伊勢田哲治氏の本などを読み「功利主義」について勉強しなおしています。「功利主義」について関心がある方はご覧ください。)

『思想地図 vol.3』 マリガン・感想戦・パラレルワールド

2009年06月13日 | 思想地図vol.3
シンポジウムで東氏が述べている「履歴の保存」「過去ログの保存」という発想がどれほど射程の広いものなのか、なにかすごくいいアイディアのようにも思えるのだけど、私にはまだかなり漠然としたイメージしか持てない。

これは一体どういうことなのだろうか。

『地図』中の藤村龍至論文を参考にすると、建築設計過程における「履歴の保存」というのは、「後戻りしない」「ジャンプしない」「分岐しない」ことを特徴とした、生物の進化プロセスにも似た各段階を模型として記録していくことである。これはこれで面白かった。もっと理解を深めたいと思った。しかし「履歴の保存」ということで私がすぐ連想するような、「後に戻ってやり直す」という話とは、まるで逆のようにも見える。コレとさっきの話(シンポジウムの話)とはどういう関係にあるのだろうか。

社会を設計していくときに「履歴保存」のアイディアを使うというアイディア。
しかし、そこで例えば誰かが死んだら、ヘボ将棋みたいに待ったをかけて、「ごめんごめん、3手だけ戻らせて」なんてことは言えそうもない。「社会の設計について、政策決定のプロセスを全てログとして残したからといって、バージョン3で失敗したからバージョン2から歴史をやり直しましょうというわけにはいかない。」(東氏の発言)

クリントン元・大統領のゴルフのエピソードを思い出した。

ゴルフには「マリガン」という、将棋で「待った!」をかけるのと同じような「卑怯な」戦い方があるらしい。
クリントン元大統領はこの「マリガン」の常習犯で、「ごめん!今のなし!もう一回打たせて!」を何度も繰り返し、スコアのごまかしのようなものをして周囲のものをウンザリさせていたらしい。政治や現実の社会で、このような「大統領特権」で「ごめん!今のなし!」と言われたらたまったものじゃない、といった話。覆水盆に返らず。

でもここにはそんな話だけにはとどまらない「展望」がこめられているのかもしれない。

『地図』中の円城塔の小説「ガベージコレクション」にはチェスの話が出てくる。
それとの連想で、将棋で言う「待った!」や「感想戦」などのイメージを先の「履歴保存」の話に結び付けて考えてみる。

wikipediaで「感想戦」に関して次のように書かれている。

「感想戦(かんそうせん)とは、囲碁、将棋、チェス、麻雀などのゲームにおいて、対局後に開始から終局までを再現し、対局中の着手の善悪や、その局面における最善手などを検討することである。」

「感想戦は双方の対局者の間で行われるが、対局者以外の観戦者も参加することが多い。対局の再現が必要となるため、棋譜を記録するか、記憶しておく必要がある。プロの囲碁・将棋の棋士は、その対局の棋譜をすべて記憶している」、という。

 全部覚えているのか。私もNHKで「感想戦」しているところを見るといつもその記憶力に驚くのだが、全ての棋譜を思い出せるプロの棋士と、思い出せない「しろうと」の違いが気になる。履歴を「記録」するのか、「記憶」するのかに、大きな違いがあるような気がする。

『地図』のシンポジウムでの宮台氏の発言を思い出した。

「『メメント』の主人公も「前向性記憶障害」なので全てのログを残します。いたるところにメモを貼り続ける。でもメモを書いた際の文脈を記憶できないので、ログはいっぱい残るんだけど、ログを解読するための解読格子は次々と失われいく。そこには、主体の一貫性を前提にした「ログの蓄積」はないんです。そこで「切断」が意味を持たないのは当然の話です。」

文脈を理解して「記憶」している将棋の棋士と、盲目的に全ての「記録」を取り続けるコンピュータとは、「履歴保存」の意味が変わってしまっている。このあたりのことを考えればわかりやすくなるのかな、と思ったが、どうもまだボンヤリとしている。

さらに wikipedia によると、

「チェスでは感想戦のことを post mortem という。これはラテン語で「死後」を意味し、チェックメイトでキングが「死んだ」あとに感想戦が行われることを比喩的に述べている。」、とのこと。

ふーん、何だか面白い。

でもこれだけじゃやっぱり判然としない。

一体どういうことなんだよ。

アーキテクチャに関りのある「過去ログの保存」というのは、「将来の対戦」のために対戦者が終わった試合をよく分析しておこう、という話なのか、それとも文字通り死んだ「キング」が「生き返り」、分岐した過去の「指さなかった手」が亡霊のように束になって回帰してくるといったミラクルな話なのか、私にはまだその区別がつかないが、「分岐する世界」、パラレルワールドといった話に私は強い魅力を感じる性向があるので、後者だとしたら面白いかも、とあれこれ想像するくらいのことしか、今の私にはできない。

『思想地図 vol.3』の特集名と装丁について

2009年06月13日 | 思想地図vol.3
『思想地図 vol.3 特集アーキテクチャ』を読む。

題の「アーキテクチャ」という言葉で、私は、高校時代、architecture という単語を覚えたての頃の「語呂合わせ」を思い出した。
私はあまり利用しなかったのだが、当時巷には「語呂合わせで覚える英単語」みたいな本があって、私も手にとってパラパラと見たことがある。中には印象深い駄洒落もあり、今でもよく覚えているのがこのアーキテクチャという英単語だ。
 
 architecture : 建築

そこには挿し絵として、「怪獣が都市を破壊する場面」がマンガチックに描かれてあって、

「怪獣が来て、あー!来てクチャ-!と建築がつぶされる…」

と覚えよ、と指南されていた。

高校時代の私は、メチャクチャに建築が破壊されるところを想像して初めて、この冷たいイメージを持つ「建築」という言葉をスルスルと呑み込むように覚えることができた。
もしかすると、建築や都市というと、すぐにゴジラが破壊しに来てくれることを想像してしまうのは私だけではなく、むしろ日本人的と言っていいような想像力なのかもしれない。

しかし私のこのような連想もまったく役に立たないわけではなく、『地図』中の磯崎新氏、浅田彰氏、藤村龍至氏らの話に興味を持つ「取っ掛かり」くらいにはなった。

次に表紙の色だが、
ブルーの装丁、これは素晴らしい。
発売が決定されて、この青色の表紙をネットで見たときから、すごくいいと思っていた。
何かすごく憧れの気持ちを掻きたてる色だった。(結果的に私の財布からお金も引き出した)
アマゾンで注文して家に届くまで、文字通り「早く来ないかな」と首を長くして待った。
雑誌の発売をこんなにもわくわくして待ったのは、中学1年の時、『週刊少年ジャンプ』の発売を毎週楽しみに待っていた時以来のことかもしれない。

青は空や海の色であり、沈思黙考の色でもある。

青とは憧れの色だ、とゲーテやシュタイナーの色彩論は述べている。

確かにゲーテが言うように、木々の緑色も、遠くにあれば、不思議なことに、人間の憧れを掻きたてるような「青色」に変わる。

古臭い例で恐縮だが、戦後の日本でヒットした『青い山脈』という歌謡曲も、古いものとの訣別と共に、そうした遠くへの憧れ、を歌って人気が出たのだろう。

「若くあかるい 歌声に 雪崩は消える 花も咲く 青い山脈 雪割桜」
「古い上衣よ さようなら さみしい夢よ さようなら」
「父も夢見た 母も見た 旅路のはての その涯の 青い山脈 みどりの谷へ 旅をゆく 若いわれらに 鐘が鳴る ...」

既に平成時代に入った現在、『思想地図』は、そこまで楽天的に「若者の未来への希望」に寄り添っているわけではないけれども、執筆者達の意図とは関係なく、時には真剣に未来のことを考えたい人たちに向けて、ちょっとした希望を与えることもあるだろう。少なくとも私は、そういう期待を持って購入した。

しかし例えば、『地図vol.3』中の"鼎談-「東京から考える」再考-"では、北田暁大氏が、「アーキテクチャの分析は過去に向かうのが普通」と指摘している。つまりアーキテクチャだ未来の都市だ新しい人間だワーイ!といっても、まずは過去の分析に向かうしかないので、すぐに現在や未来と関りを持つような話ではない、とフワフワした期待に釘をさすようなことも言っている。

まあそうなんだろうけどさ。

『思想地図』次号の特集は、「想像力の未来」だそうで、こっちのほうがもしかすると、ゲーテ=シュタイナー的な「青色」に近い主題、遠くのほうからやってくるイメージに胸ときめかせる、未来憧憬的な雑誌になるのかもしれない。
が、今回はアーキテクチャ・建築というのは、私にとってはかなり「お固い」話題なので、自分の好きな色である「身に沁みるようなブルー」で程よく中和された、といった感じだ。