ブログ・プチパラ

未来のゴースト達のために

ブログ始めて1年未満。KY(空気読めてない)的なテーマの混淆され具合をお楽しみください。

団地ノ記憶

2009年06月27日 | 思想地図vol.3
『思想地図 vol.3』中の鼎談《「東京から考える」再考》を読む。
あわせて、小さな写真集『団地ノ記憶』も読む。

ニューヨークは錯乱してたのかもしれないが、私の団地の記憶はあまり錯乱してない。
私が小学一年まで住んでいた団地は、今から考えると、かなり落ち着いた雰囲気を持っていたように思う。
横浜の「左近山団地」というところだった。
『地図』中の《鼎談「東京から考える」再考》が、一度だけその名前に触れている。
それで懐かしくなって、いつのまにか、近所の図書館から、長谷聰・照井啓太『団地ノ記憶』(洋泉社2008年)という写真集を借り出してきて、眺めてしまっていた。
この小さな写真集を見ていると、いろいろな細部が記憶に甦ってくる。

確かにあったな。
不思議なオブジェと化した、どうやって遊ぶのかわからない団地の遊具。
私が住んでいた(1982年くらいまで)左近山団地の公園には、地面から突き出た色鉛筆のオブジェがあった。数年前、横浜に行った時、もう一度自分の住んでいた周辺を見に廻ったことがあるのだが、今でもあると思う。
ダストシュート、さびついた牛乳受け、芝生。
たんたんと歩いていける、曲がりくねった小道、公園のオブジェ、ベランダにかかる布団。
春になると周囲に舞う、綿ぼこりのようなもの。
わたしはその綿ぼこりを、日曜日になるとあの「ベランダにかかるせんべい布団」をお母さん達が必死に叩くので撒き散らされるものだと勘違いしていたのだが、あれはおそらく木の実の一種だ。

団地の近くの地面すれすれのところに、小さな鉄格子があって、その奥に、猫がニャアニャア鳴いているのに気づいて、どこから入ったのだろうと中を覗き込んでいたことがあったが、あれはどういう機能を持った構造物だったのだろう。
ほうせんかなどを植えてある、玄関の小さな共同の花壇。
ほうせんかの実を破裂させたりして、よく遊んだ。
オジギソウを触って、おじぎさせたりしていた。
管理していたのは団地の住民だったのだろうが、今思うと所有権はどうなっていたのだろう。
そこの団地の住民の一人に「お習字」を習っていた。
夕方になると芝生で剣道の素振りの練習をしはじめる子供たちがいた。

芝生と道路を分ける線上に、背の低い石の柱が立ち並んでいた。
その柱の根元に沿って「ジグモ」という土の中に潜る蜘蛛がいた。
そのジグモの巣に木の枝をつっこんで、ジグモを吊り上げる遊びが流行っていた。
私もその技を年長の子供から教わった。
その石の柱はメンコを置いて、靴の裏でたたいて飛ばすときにも使った。
公園には大きな時計、大きなプールがあり、ポールに巨大な鯉のぼりが翻っていた。
「大きい」と思えたのはたぶん子供だったからで、久しぶりにその地を訪ねてみると、自分がかつて住んでいた世界が、ミニサイズの箱庭のように「縮小」されていたのに驚いた。
公園には物置きみたいな建造物があって、そこにサーカス一座じゃないけれど、何かの宣伝のためか、時々「デンジマン」のような子供向け戦隊モノの催しが開かれることがあった。

団地の上から見ると、その公園の物置の裏側で、せっせと着替えをするヒーローたちを見ることができたので、そのことを得意そうに私に教えてくれる年長の子供がいた。
原武史氏が「団地が共産主義国の建物に似ている」ことを指摘しているが、『団地ノ記憶』というこの写真集でも、東京都板橋区の「公団高島平団地」について、著者の照井啓太氏(なんと1986年生まれ!)が、「団地に沿って走る都営三田線の車内から巨大住棟群を眺めていると、あたかも共産圏の高層アパート街に迷い込んだような気分になる。」と書いている。

団地とコミュニティ。

写真集で「団地の祭り」の写真もあった。
団地内の商店街で、盆踊りが行われることがあった。
そこでの出し物として、手作りの張りぼての神輿を作ったりした。
同じ棟の子供たちが集まって、ダンボールや紙を使った「ドラえもんみこし」を作ったりしてた。あまりにもヘボい神輿を作ったりすると、別の棟の見知らない子供が「なんだコレ!」と蹴飛ばしたりして、悔しさのあまり頭がぼうっとなったこともある。
「学校つながり」の友人関係ができる前のこうした「同じ棟」(正確に言うと、中央の「芝生」に向き合ったいくつかの棟のかたまり)でつながった子供集団を、私は居心地よいものと感じていた。「別の棟」の子供達は、まったく未知の世界の人間たちだった。
いくつかの棟が向かい合った中央の「芝生」で、幼稚園児から小学六年までが団子になって遊んでいた。

だが、大阪の新興住宅街に引っ越してくると、そこは「同じ学年」の子供としか遊ぶことができない、という空間に変わっていた。
この落差があったので、学生の頃は子供のコミュニティについていろいろと思い出せることを思い出しながら考えていた。

その当時、宮台真司氏の本が面白かったのは、ひとつにはそういう視点が私にもあったからだ。「自分は一体どういうわけで、こうなってしまったのだろう? 社会はどういうわけで、こうなってしまったのだろう?」という疑問を、住んでいた場所や社会とのかかわりで考えてみたくなっていたので、宮台真司氏の「郊外論」などを、当時文学を読むような気持ちで読んでいたことを思い出す。

ほかに子供のコミュニティということで当時参考になったのは、樋口一葉『たけくらべ』や、藤子不二雄の自伝的マンガ(たぶん『まんが道』だろう)、楳図かずおの『漂流教室』などの作品、橋本治の諸著作などだった。

住んでいる場所と、コミュニティの関係という点でいうと、宮台真司が言うような「学校化」した地域社会、どんぐりの背比べ的な微妙な差異に敏感な、窒息するような「教育ママ」的世界に近かったのは、私には横浜の「団地」より、大阪に来てからの「千里ニュータウン」に近いその「新興住宅街」のほうだった。

福嶋亮大氏のブログ『仮想算術の世界』に、原武史氏の『滝山コミューン1974』に自身の「ニュータウンの記憶」が触発された話が載っている。

「原武史さんの『滝山コミューン1974』をさっきまで夢中で読んでいたせいで、ちょっとぼうっとしています。僕は前回も書いたように、京都のニュータウンで小学生時代を過ごしたのですが、それが原氏の描く滝山団地の風景と驚くほどかぶっていて、ちょっと記憶の奔流に呑まれてしまいました(笑)。」(2009年5月24日)
私も学生のときは藤子不二雄の「まんが道」などを読んで「記憶の奔流」に呑まれていたりした。しかしそのあと福嶋氏のように、さらっさらっと気軽な感じで、以下のようないろいろな「考察」を加えることなんてできなかったので、やっぱり福嶋亮大って人は「畏るべき」だなぁ、もしくは最近の若者って凄いよなぁと思った。

「京阪神の「郊外」というのは、戦前から存在するわけです。それこそ手塚治虫なんて小林一三のつくったシミュラークル化・スペクタクル化された田園都市文化にどっぷり浸かっていたようなひとなので、その意味では、日本の漫画やサブカルチャーの起源は「郊外」にあると言えなくもない。そういうシミュラークル都市の原型がある一方で、戦後は大阪近辺を中心にニュータウンが全国でもいち早く造成される。で、今やそのニュータウンが、ところによっては人口減と建物の老朽化に苦しみ、一種「廃墟」のようになっている。僕は、後者のニュータウン的な郊外、都市のふつうの消費文化からは明らかに距離のある郊外に住んでいたので、「滝山コミューン」の顛末は何か身体的にグサッとくるんですよね…。」

小林一三氏が作り出したものというのは、私が今住んでいる所では身近にある環境なので、何か自分なりに調べて考えてみようかと思っていたのだが、いま暑さで頭がぼーっとしており、疲れてきたのでこの辺りでやめておくことにした。

ひとつ面白いなと思っているのは、ある風水師が小林一三の「風水技術」をほめていたことで、その人は、勾玉のようにまがっていて風水的にも「閉鎖的」になりやすいこの大阪という土地に、阪急鉄道の「路線」がうまいこと働いて、よい「気」の流れを作り出している、といったことを述べていた。

その人の見立てでは、六甲山脈から箕面までつづく「龍脈」から送られてくる「気」を、小林一三がつくった「擬似龍脈」としての鉄道路線が、大阪中心部に送り出しているという風に見えたらしい。小林一三がいなければ、その後の大阪の発展はなかった、と、こういう見方は、オカルトだけどちょっと面白い。なぜか、いろいろと「思い当たる節がある」気がするのだ。

しかし『思想地図』を読むといいながら、だいぶ自分の好き勝手な記憶の連想を書き連ねることになってしまった。

最近ブログを書き始めてみて、人に読んでもらえるような文章を書くのはやっぱり難しいと感じたが、自分の中ではこまかい変化が起こっているのを感じることができるので、やはりブログ始めてよかったと思う。最近は『思想地図』を手がかりにして、自分の中でいろいろな「計算」や「変換」をやっているみたいな感じになった。読んだり書いたりすることで、自分の「気分」が少しづつ変化していく、その変化を感じることができるのは、わりと「健康にいい」ような気がした。わたしにとって時々むつかしい本、思想や哲学などの本を読むことは、なんとなく「背骨」を整えて、ちょっと体調がよくなるような行為でもある。

【「計算」と「変換」について】

イギリスの物理学者コリン・ブルースは、多世界にまたがって計算を行う量子コンピュータを、「ホテル」の比喩で述べている。
ネタ元がブルーバックスしかないというのは知識が貧弱な気がするけど仕方がない。ブルーバックスの『量子力学の解釈問題』から。
無数のパラレルワールドに相当する小部屋がずらりと並んだホテル。そのホテルの各部屋で、沢山の人間が一生懸命同時に「計算」を行う。その結果膨大な計算量が一瞬で終わってしまう。著者は冗談半分にディルベルト・ホテルと呼んでいる。
そのような「計算」や「変換」が、たとえば私が団地の記憶を思い起こすときにも、円城塔の小説を読むときにも、発生し続けているのだと思う。
このようなブログの文章を自分でこしらえてみた体験を、手がかりとして、福嶋亮大氏がよく使う「計算」や「変換」の意味が私にもだんだんとわかってくるのかなー、とやや期待する。

「ステーヴン・ウォルフラムは A New Kind of Science という本のなかで、森羅万象はセルラー・オートメーションでありコンピューテーションであると言っている。
我々がここでしゃべっていることにせよ、会場の中を空気が流れていることにせよ、ありとあらゆる粒子が勝手に計算して成り立っているというわけです。そこから時として驚くべきパターンが立ち上がってくる、と」(シンポジウム・浅田氏)

「この構想を大胆に敷衍することにより、分子は全て何かの計算に寄与しているのだという夢物語さえ可能となる。宇宙は何かを計算するために生まれたのだという大雑把にすぎる妄想は、SFと物理学者の想像の中では珍しいものとは言い難い」
「ただ闇雲に動き回るものを計算と呼ぶなら、花鳥風月何をでも、好きに計算と呼べば良いというのと何の変わるところもない」(『ガベージコレクション』)