ブログ・プチパラ

未来のゴースト達のために

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ウィンストン・チャーチルは帰還せり

2009年06月20日 | 思想地図vol.3
『思想地図 vol.3』円城塔の小説「ガベージコレクション」を、他の本を読みながら読む。

ミチオ・カク『サイエンス・インポッシブル』という刺激的なポピュラー・サイエンス本に、物理学者のファインマンの「宇宙は一つの電子から成り立っている」というアイディアが紹介されている。ファインマンは若い頃に没頭した「未来からの先進波」の研究から、たった一つの電子が、無限速度で「行ったり来たり」を繰り返してこの宇宙を作り出している、というイメージを取り出してみせた。

ファインマンはこの理論をいつものように面白おかしく、つまり本気70%、冗談70%、の配合でエネルギーが100から溢れ出してしまうのではないかと思わせるようなあの語り口で語っていたことだろう。

しかし面白いので、しばらくこの理論に寄り添って考えてみると、われわれは、いわば電子を針とした、超高速ミシンが既に縫い取りを終えてしまった世界に住んでいることになる。

「ガベージコレクション」の「蛇を貫き縫いとるように、互いに逆方向へ進む二本の針。針はとうに通過してしまった後であり、その針には速度がない。何故かというに、無限の過去から無限の未来へ、既に縫いとりは終わってしまったあとだから。」という一節から、そのような本気と冗談が混じりあう物理世界のようなものを想像した。

(以下ミチオ・カク『サイエンス・インポッシブル』から引用)
「ファインマンはさらに、この宇宙全体が、時間のなかをジグザグに行き来するたった一個の電子からなるのかもしれないと考えた。ビッグバンの混沌のなかから、電子が一個だけつくられたとしよう。何兆年ものち、この一個の電子はついに世界の終わりの大変動に遭遇するが、そこでUターンして時間をさかのぼり、その過程でガンマ線を放出する。そしてまたビッグバンのときまで戻り、再びUターンする。こうして電子は、ビッグバンと世界の終わりのあいだを何度もジグザグに行き来する。二十一世紀の宇宙は、この電子の旅を時間的に切った断面に過ぎず、そこにわれわれは何兆という電子と反電子、すなわち観測可能な宇宙を目にしている。」

「この理論はへんてこに思えるとしても、「電子はどれも同じ」という量子論の不思議な事実を説明してくれる。物理学においては、個々の電子を区別することはできない。緑色の電子などないし、ジョニ-という名の電子もない。電子に個性はないのである。科学者が研究のために野生動物に「タグ(標識)」をつけることがあるが、電子にはタグはつけられない。ひょっとするとその理由は、この宇宙が一個の電子でできていて、ただそれが時間の中を行ったり来たりしているからなのかもしれないのだ。」

われわれは、一個の電子によって既に縫い尽くされた世界の中に住んでいる。
われわれ自身がその縫い目の一部にすぎない。
物質は周囲にたくさんあり、今でも、それこそ数え切れないくらいの数で存在しているように見える。
しかしそれは錯覚にすぎない。

ミチオ・カクの本によれば、量子論では「電子にタグはつけられない」という。電子には個性がなく、あれとこれとを区別することはできない。だから数えることはできない。そこから実はこの宇宙には、一個の電子しか存在しない、と考えも出てくる。
すでに電子の縫い取りは終わっているのだから、遥かな過去から未来まで時間が流れていくのさえ、本当に流れていると言えるのかどうかさえわからない。

どちらが頭でどちらが尾かも定かではないドラゴンの背骨の上で、われわれは「時間とは何だろう」と考えてみたり、「時間がバラバラになってしまった」と嘆いてみたり、ささやかな高揚を求めて「擬似同期」してみたり、タグのつけられないたった一個の電子が縫い取った世界でグダグダと「タグ戦争」を続けたり分類・選別・ランキングにいそしんだり、テレビを見て本を読んで就寝して起床して再び電車に乗る等、いろいろなことをして時間を過ごす。やり過ごす。kill time する。

しかし時間の前後が区別できないというのは本当だ。われわれもついうっかりしていると、未来がどっちで過去がどっちかわからずボンヤリしてしまうことがあり、少なくともそういう時に、道で見知らぬ人にそのことを聞かれたりしたら、咄嗟に答えられないおそれのほうが大きい。未来に比べて過去がはっきりしているということもなく、両方とも不確かな「おそらく」の霧に包まれているように見えることがある。

「テネシー・ウィリアムズがこう書いている。過去と現在についてはこのとおり。未来については「おそらく」である、と。しかし僕たちが歩んできた暗闇を振り返る時、そこにあるものもやはり不確かな「おそらく」でしかないように思える。」(村上春樹『1973年のピンボール』)

「等エントロピー面の上に横たわる一匹の蛇。蛇の胴の地点に発し、二つに分かれて宙空に踊り、また別の地点で交叉する二本の軌跡。」(ガベージコレクション)

たとえば「泳げ!タイ焼きくん」のような魚がわれわれの人生の時間を表し、そこに横たわっているとして、頭部にアンコがつまっているほうが幸福なのか、尾部にアンコがつまっているほうが幸福なのか、という問いかけがある。
わかりやすくするために、タイ焼きくんの体内に注入しうるアンコ、つまり幸福度を+とし、その他に毒アンコみたいなものがあるとして、その不幸度を-とする。

アンコの総量が+3で変わらないとして、

人生初期 +10 
中間期 +8
晩年 -15

と、

人生初期 +3 
中間期 -9
晩年 +9

のどちらの配合のほうが好ましいかという問題だ。

安藤馨『統治と功利』は「リア王の幸福」を例に挙げ、この問題を論じている。

「リアの若く喜びに満ちた期間の内5年間分をとりさり、リアの悲劇が始まる年を5年早めよう。しかる後に悲劇の後に5年間の喜びに満ちた期間を付け加えよう。この時リアの個人内での厚生の分配パタンは変化していると言えるだろうか?」(『統治と功利』より)

多くの人間には、だんだん幸せになるほうが良い、終わりよければすべてよし、という時間選好がある。安藤馨はそれを「ハッピーエンド選好」と戯れに呼ぶ。
しかしそれは自分の人生の後半期に対して「現在時点」でどのような「予期と愛着のパタン」を持つかにかかっているのであって、必然的なものではない。

基本的に、幸福になる時期の順番を入れ替えるだけでは、全体の幸福量が変化する、ということはない。功利主義の考え方では、個人内においても、個人間においても、これは同じだと言う。

まな板(鉄板)の上にタイ焼きくんが横たわっているというそもそものイメージが間違っているのであって、むしろタイ焼きくんの全身がつながっているかどうかさえ定かではなく、タイ焼きくんの頭部は、そこから遠く離れて霧に包まれている自分の尾部をよく見通すことができない。

仏教などが教えているように、時間軸上に首尾一貫する「人格」などない、と極言してみて、私にそれほど違和感はない。

あるのは現在時点での「予期と愛着のパタン」だけ、という『統治と功利』の極言にも、わたしはああ仏教みたいなものねという納得の仕方をした。

現代では、「一本の線」みたいに自分の人生の時間を想像することのほうが、すごく不自然な感じがして難しくなる人のほうが増えているのかもしれない。

無数のパラレルワールドが存在する、という量子力学の「多世界解釈」があるが、その考えはSF的というより、もっとリアルな生活に即しているようでもあり、「ありえない」話というより、「それって、あるある!」という「あるあるネタ」に分類してほしいと思うことがある。東浩紀氏の「ゲーム的リアリズム」というのも、現代の小説に当てはまる話というだけではなく、普通に生きているだけで「無理に分岐を強いられている」という感覚を抱いてしまう人が現代に多そうだ、という前提で書かれているのだと思う。

講談社・ブルーバックスのコリン・ブルース著『量子力学の解釈問題-実験が示唆する「多世界」の実在』などを読んでいると、これまで物理学で支配的だった考え方、ヤングの「2スリット実験」等に対する解釈として、モヤモヤと広がった確率的な「雲」が、人間が「観測」した瞬間にスルスルッと収束するという摩訶不思議な「コペンハーゲン解釈」よりも、最初から無数の分岐世界があることを思い切って想定してしまう「オックスフォード解釈」の方が、無理のない見方だと思えてくる。

ミチオ・カクの本には、私には「ガベージコレクション」と“チャーチルつながり”だな、と思える話もあった。

葉巻が好きだったサー・ウィンストン・チャーチルは、
「民主主義とは全くひどい政治制度だ。しかし、これまで知られた歴史上の他の制度に比べればいちばんマシだ。」と言ったそうだ。

似たような言い方で、ノーベル賞受賞者のワインバーグが量子力学の多世界解釈に関して、「多世界解釈はひどいアイディアだーほかに比べるものがなければだが」
などと洒落てみせたという。

まあ多世界解釈のほうは置いておくとして、私も、後悔のない人生が送れたらいいなと思う。
しかし後悔のない人生、それは時間がないということではないか。「今がいちばん」という根拠のない確信で最後までつっぱしってやろうというのは、もし過去や未来の自分が見ていたとしたら、倫理的にどうなのか。

時間が流れる限り、後悔は止まず、無数の分岐世界への気掛かりが消えることはないと思う。
しかし戻れないまでも、あみだクジのように「ななめ」にハシゴをかけて、別の分岐に飛び移ることはできないのだろうかと、よせばいいのに、らちもない空想を続けたりする。プチ・パラレルワールドが欲しい。プチ・パラソルみたいなものが欲しい。雨の日に「雨降らなかったかもしれない世界」を傘の下に現出させる「もしもパラソル」が欲しい。プチをつけるところがちょっと弱気で、おれは、ヘタレ・パラレル・症候群にすぎないのかもしれない。

『地図』中のシンポジウムで取り上げられていた、建築家のコールハースの『錯乱のニューヨーク』という本をパラパラとめくっていたら、第5部の表題が「死シテノチ(ポストモルテム)」となっているのを見かけた。

チェスの感想戦をポストモルテム(キングが詰んだ後、キングが死んだ後、という意味で、「後の祭り」というニュアンスを感じる)というらしいが、その用語と関連はあるのだろうか。
コールハ-スというまだ私のよく知らないこのオランダ人には、ニューヨークの歴史を調べているうちに、マンハッタンのグリッド構造がチェス盤のように見えてきたのだろうか。

「ガベージ・コレクション」の「詰ませて、消えた」というのは、「後の祭り」と「祭りの前」が接近してきてチェス盤の上で交錯するということなのだろうか。

感想戦というのは、「起こったこと」を忠実に思い出すという作業なので、「あの時ああしてたらこんな世界になってたかもしれないのに」と仮定法過去完了で後悔するのとはだいぶ違っている。
だとしたら、並行世界への気掛かり、分岐世界への後悔、パラレルワールドへの航海 という、私が関心を持っている話とはあまり関係がなくなってくる。

最後に以下、一応サービスのつもりで、安藤馨『統治と功利』からかなり多めに抜き出しておく。誰かの関心を刺激するきっかけになれば幸いだ。

リア王の幸福について。

≪安藤馨『統治と功利』≫

(p230-232「加法可能性に対するあり得る批判と反論」という辺りから引用)

「これに対して我々は次のような反論を予想することができる。「個人内における厚生の加法可能性を個人間に及ぼすことはできない。なぜなら個人内においても厚生の集計は純粋に加法的ではないからだ。」」

「センはここで『リア王』における悲劇の主人公リアを持ち出してくる。」

「この議論が説得的であるかどうかはかなり疑わしいといって良い。」

「当のリア自身にとってその人生が悲劇的だったのは人生の最後のごく短い期間に過ぎない。若きリアに聞くならば、彼は自分の境遇を悲劇的であるなどとは思っていないはずである。リアを構成する意識主体の集合の内で自分の人生を悲劇的だと考えている意識主体は極く小さな部分集合に過ぎない。死ぬ間際のリアが自分の人生を悲劇的だと考えるからといって、若き日のリアが人生を楽しんだことが遡及的に取り消されたりはしないのである。」

「我々は常にある時点での意識主体であってその瞬間の経験を得るのみであり、決して「人生」という意識主体の集合全体を一気に把握する立場になど立つことができない。それが可能なのは「物語」が終わるときであり、まさにその時「私」は死によって舞台から退場しているのだ。ここから生じがちな過ちは、リアの「人生」が悲劇的だったというとき「人生」がそれ自体としては意識主体の集合という以上の意味を持たないにもかかわらず、意識主体間に「時間の流れ」を付与してしまうことで自分自身の「時間選好」を投影してしまうというものである。」

「リアの若く喜びに満ちた期間の内5年間分をとりさり、リアの悲劇が始まる年を5年早めよう。しかる後に悲劇の後に5年間の喜びに満ちた期間を付け加えよう。この時リアの個人内での厚生の分配パタンは変化していると言えるだろうか?」

「端的に言えば、我々のこうした評価の背景にあるのは「終わりよければすべてよし・終わり悪しければすべて悪し」という単純なバイアスである。我々はこれを「ハッピーエンド選好」とでも呼んでおこう。」

p235「身近なところでは仏教哲学の刹那滅論を考えてみればよいだろう。その説く所に従えば、あらゆる(瞬間的な断片としての)実在にとって持続して同一性を保つことは原理的に不可能である」


ついでに、時間論や人格論が「統治』の仕方に関係してくるという話も面白かったので引用。人格と被統治単位の細粒化について。

≪安藤馨『統治と功利』から≫

p269
「長期の予期を持った統治主体の眼前には、空間軸と時間軸に沿った被治対象たる諸意識主体の広大な畑が広がっている。如何にしてこれらを功利主義的に統治すればよいだろうか。古来からの政治的格言「分割して統治せよ」こそがこうした統治主体に与えうる最良の指南であろう。」

「既に論じたように、未来に対する功利主義的配慮を現在の意識主体に持たせることが統治効率の面から要請され、この配慮の単位である意識集合こそ「人格」であった。
統治者の限られた能力からすれば、被治諸意識を一定のパタンに沿って分割しその各パタン単位に対して定型的な統治を行うしかまともに統治を遂行する方法はないだろう。
幸いにして「人格」はそうした分割パタンを我々に提供しているではないか。」

「この議論で統治者の統治遂行能力が本質的な役割を果たしていることに注意しよう。
もし統治者の能力が低ければ、精細な分割単位に基づいた統治は不可能である。統治者の統治能力の不足を分割単位内の諸意識間の配慮によって補おうとしているのだから、能力が低ければ低いほど分割単位は大きくならざるを得ない。少なくとも統治者が功利主義的に振舞おうとしていたわけではないにしろ、かつての家族単位での社会構造はこの実例を示しているだろう。家長のみを直接の統治参照点とし家族内部は家族内部に任せることで、諸個人に直接に統治を及ぼすだけのリソースを持たない統治主体は統治を行うことになる。統治能力と分割単位の細粒度が連動するというこの事実は後に極めて重要な含意を持つことになるだろう。」


関連記事:スプーンの先に天使が何人止まれるか? 2009年06月13日
(→『思想地図 vol.3』安藤馨論文「アーキテクチュアと自由」を読んだ感想が書いてあります。)
関連記事:じぶんの無反省な信念体系を揺るがす書物ーピーター・シンガー『動物の解放』 2010年02月06日
(→安藤馨氏の本は、私には難しすぎたので、2010年になってから、功利主義について勉強し直しています。)
関連記事:初心者のための「功利主義」の説明ー伊勢田他『生命倫理学と功利主義』より 2010年02月06日
(→「功利主義」に関心があって、安藤馨『統治と功利』が難しすぎると感じている方は、こちらをご覧になるとよいと思います。)