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「社会政策学」vs「労働経済学」の対立はまだある?-濱口桂一郎『労働法政策』を読む③(終)

2010年01月28日 | 労働・福祉
「スパッと経済学」派vs「ねちっこく歴史と法律」派


労働問題や雇用問題を考えるとき、いろいろ読んでみると、切り口として「経済学」でスパッと断ち切るのか、あるいは「歴史」や「労働法」に即してネチネチとした「辛抱強い」分析を続けていくのか、論者によって大きく違うようだ。

最近、濱口桂一郎『労働法政策』を読んでいたら、この本の最初の方で「社会政策学」という言葉が出てきた。一方では「労働経済学」という学問があり、この二つは、どういう関係にあるのだろうかと思った。

別のところで、たまたま『思想地図』という雑誌を読んでいたら、「社会政策学」という言葉が出てきた。後に引用する大澤信亮論文であるが、これによると、どうも昔から、ドイツに出自をもつ「社会政策学」と、イギリスに出自をもつ「労働経済学」という学問とがあって、この二つが対立関係にあったらしく、ドイツの「社会政策学」は、同じ後発国ということもあって昔は日本でも影響力が強かったらしいのだ。もしかするとこの影響は、現代の日本のどこかにも残っているかもしれない。そのような興味がわいてきた。


イギリス由来の「労働経済学」VSドイツ由来の「社会政策学」


濱口桂一郎『労働法政策』の第一章「労働の文明史」。
最初に「社会政策学」と「労働経済学」の対比が示されている箇所がある。
そもそも「労働経済学」は非歴史的な分析なので、この章の分析に採用できない。また「社会政策学」の枠組みはかなり近いが、それも古すぎるので直接採用することはできない、といったことが述べられている。

φ(・・")メモメモ

>本来ならば、こういう労働法政策の前提知識として提供されるべきマクロ社会動学を扱う学問分野は社会政策学と呼ばれる分野である。日本でも、マルクス主義の強い影響を受けながら、大河内一男ら始めとする社会政策学が形成され、展開していったが、ある時期以降労働経済学という名の学問分野に取って代わられてしまった。これはミクロ的かつ非歴史的な分析であって、その限りでは有用ではあるが、マクロ的かつ歴史的観点から労働法政策の座標付けをなしうるような枠組みではない。

>とはいえ、いまさら古めかしい社会政策学の枠組みを持ってきても、本書の主たる対象である20世紀の労働法政策の展開を説明するには観点のずれが大きすぎて、はなはだ据わりが悪い。そこで、やむを得ず、隣接分野の政治学、経済学、社会学等を読み齧ってこしらえた我流の枠組みを代用品として本書の冒頭に置くことにした。したがって、これは労働法政策の序章という位置付けではなく、内容的には独立したエッセイとして読まれるべきものである。(濱口桂一郎『労働法政策』3p)


これとは別に、『思想地図vol.2』に柳田國男を論じている文章があった。
そこからも抜粋。
大澤信亮氏の『私小説的労働と組合-柳田國男の脱「貧困」論』という論文だ。
著者は雑誌『ロスジェネ』『フリーターズフリー』編集委員などを務める。1976年生。(→大澤信亮氏のブログ

農政官僚でもあった柳田國男の「経世済民の学」への態度が説明されている箇所。そこでは、

「先発国イギリス」VS「後発国ドイツ」
「労働経済学」VS「社会政策学」
「グローバル経済」VS「反グローバル経済」

の対立が示され、柳田國男が学んだ農政学は、今風に言えば「グローバリズムへの対抗科学」だったらしいことが説明される。

φ(・・")メモメモ

>(大澤信亮氏)それでは最初に柳田農政学の学問的背景を見ておこう。まず、指摘しておくべきは、柳田が帝大で松崎蔵之助に学んだ農政学が、イギリス型の自由主義経済学に対抗するドイツ型の社会政策学だったということだ。

>「東京帝国大学で主流を占めていた社会政策学はドイツに出自をもち、イギリス自由主義経済学のもつ普遍主義に工業先発国のナショナリズムを感じとり、これに反発して形成された学問である。工業後発国であるドイツの経済発展策を考究すると同時に、工業化が惹起した社会問題に注目し、これを国家の社会政策によって解決するという二重の課題を背負っていた。たとえば労働者の貧困は、自由主義経済では予定調和論によって軽視もしくは無視されるが、社会政策学ではこれを社会問題という形で設定し、経済の資本主義化によって必然的に発生する問題と理解していた。社会問題の存在を軽視する自由放任主義では労働運動の高揚や社会主義革命を惹起するだけであるとして、それを未然に防止するためには社会政策学が必要になるという主張である。既存の経済体制を与件とする社会改良主義の立場にたち、反自由放任主義・反社会主義という政治性をおびていた。」(藤井隆至『柳田國男 経世済民の学』)

>ようするに柳田の農政学はグローバル経済への対抗科学としてあった。(『思想地図vol.2』大澤論文155p-156p)

ふーん。
労働者の貧困を、市場原理主義だけでは解決できない「社会問題」として捉え、アダム・スミス-ハイエク流の「経済学」に抗う。
そういう人たちは昔からいた。
現代でも、そういう構図を描くことはできそうだな、と思った。


…私の今の文脈には関係ないが、大澤氏の論文は、柳田氏が「組合」というものに強い関心を抱いていたこと、柳田の考えには「消費協同組合」の可能性の中心、という柄谷行人ばりの発想が見られたこと(この論文の記述だけでは、かなり強引なような気がするけど)、そして私小説は解体されて「神の言語」へ達するべきこと、などが論じられている。


柳田國男、河合栄治郎、南原繁。戦前の官僚の気概。


ついでに。
柳田國男は「農政官僚」から「民俗学者」へ転身した。
『労働法政策』を読んでいて気づいたことだが、戦前までは、官僚が辞めて学者になって、外から発言力を持つというようなケースが結構あったらしい。

戦前・戦後に言論者として影響力を持った、河合栄治郎という人。
また南原繁。
この二人は、官僚だったが、何か義憤のような感情を抱いていたらしい。

この二人の業績について私は詳しいわけではないが、彼らのちょっとしたエピソードから、戦前のエリートたちの「気概」のようなものを感じる。

φ(・・")メモメモ

>前述のように工場法は1916年にようやく施行された。この時農商務省工事監督補として工場法の施行に当たったのが若き日の河合栄治郎である。しかし、後述のILO問題から農商務省の労働問題に対する消極姿勢が明らかになり、1922年内務省社会局が設置されて工場法も移管された。新設の社会局は意欲満々、早速工場法の改正強化に取りかかった。農商務省は今度は産業界の代弁者として反対に回ったが、社会局側は農商務省の同意を得る必要なしとして、内務大臣の単独稟議で閣議に提出し、1923年成立した。(『労働法政策』31p)

>彼(河合)はILO労働者代表問題をめぐって上層部と対立し、1919年「官を辞するに当たって」を朝日新聞に発表して農商務省を辞職した。わずか3年の官僚生活である。(注釈)

>原内閣の床次内相は当初、企業内の労資協調を図るための組織として労働委員会制度を優先させ、1919年法案を作成したが、ILO問題が焦点になる中で労働組合の法制化に舵を切り替え、1920年臨時産業調査会に労働組合法案を提出した。この時農商務省も労働組合法案を提出し権限争いとなったが、農商務省案が何ら保護規定を持たず労働組合の運営に強い制約を加えていたのに対し内務省案は労働者の組合加入権を保護する規定を持つなど、両案は対照的であった。この時内務省警保局事務官として法案作成に当たったのが若き日の南原繁である。(『労働法政策』31p)

>彼(南原)は「こういう法案が日本で通るにはもっともっと時がかかる」として、ドイツ哲学の研究に転身する。官僚生活約6年であった。(注釈)


『ウィキペディア(Wikipedia)』より一部。

河合栄治郎…1915年東京帝国大学法科大学卒、銀時計受領。在学中に農商務省が刊行した『日本職工事情』を読み、「労働問題は人間の問題である」と感奮し、労働問題に生涯を捧げる決意をもって農商務省に入省する。…その改革案は容れられず辞職した。この間の経緯を『朝日新聞』紙上に「官を辞するに際して」として連載し、自己の所信を論じて世上の話題となった。…

南原繁… 明治43年(1910年) - 東京帝国大学法学部政治学科に入学する。入学後、内村鑑三の弟子となり、生涯を通じて無教会主義キリスト教の熱心な信者であった。一高に入学したときの校長は新渡戸稲造であり、影響を受けた。… 大正3年(1914年) - 東京帝国大学法学部政治学科卒業後内務省入省。… 内務省警保局事務官に任じられる。労働組合法の草案作成などを手がける。…

柳田國男…農商務省農務局農政課に勤務。以後、全国の農山村を歩く。早稲田大学で「農政学」を講義する… 1919年(大正8年) 貴族院書記官長を辞任…