ブログ・プチパラ

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スプーンの先に天使が何人止まれるか?

2009年06月13日 | 思想地図vol.3
関連記事:初心者のための「功利主義」の説明ー伊勢田他『生命倫理学と功利主義』より 2010年02月06日
(→「功利主義」に関心があって、安藤馨『統治と功利』が難しすぎると感じている方は、下の文章を読むより、先にこちらをご覧になるとよいかもしれません。)

『思想地図 vol.3』安藤馨論文「アーキテクチュアと自由」を読む。

今回の『地図』の中でいちばん難しそうな論文だったので、ついつい後回しにしていたら、結局最後に読むことになった。読むと意外とわかりやすいというか、「読みがい」があって面白かった。

福嶋氏や円城氏の文章は読みやすいが、難しい。一体何を話しているのかわからなくなってくるような所があった。鈴木謙介氏の論文はポイントの当て方が的確な感じがするが、なんとなく繰り返しや重複が多い気がする。左翼的な一面的な見方への再考を促すための議論が長すぎるような気がした。

私の場合、『地図 vol.3』をもっと楽しく読めるようにと、安藤馨の『統治と功利』という本も既に入手しており、精緻に入り組んだその本を「ひええ」と冷や汗を垂らしながら並行して読み進めていたのだが、それもよい準備運動になった。

安藤馨論文はまず、自由を論ずるに当たって注意すべきことがあるという。

それは「自由」という言葉が強い情動的磁力を帯びているので、冷静に論ずるのが難しくなるということだ。
例に挙がっているのは「詩」という言葉で、「詩」という言葉のもつ情動的磁力に引っ張られて、人は「それはほんとの詩じゃない!」「詩とはこういうものだ!」とぶつかり合って、いつのまにか何を論じているかがわからなくなってしまう。

たとえば「愛」とか「ロック」とか何でもいいが、他の言葉と入れ替えてみたらこのあたりの事情はわかりやすいだろう。

「それはほんとの愛じゃない!」「そんなクズ音楽はロックの名に値しない!」
「そんなことする奴は人間じゃねぇ!」

といった応酬は、議論を混乱したものにしてしまう。
少し勘違いしているような気もするが、私は大体そういう風に読んだ。

つまり、ロック、詩、自由、といった情動的磁力を持った言葉は、
いくらでも述語を自分の好きなように付け替えて論じることができてしまう。
論ずる人は、注意しましょうねということ。

で、この論文は、なんと、「同じ時空間に物質が重なって存在することはできない」という身も蓋もないこの世界の物理法則から「自由」を考えはじめる。
誰かがそこにいれば、同じ時空間に別の人が重なって存在することはできない。
当たり前の話だ。
しかし、こういう所から考えると、社会の中で自由が増えるとか自由が失われるとかいう時、それはどういった事態を指しているのか。

論文によると、「物理的な自由」を視点にして慎重に考えてみれば、「自由の保存則」みたいなものがあって自由の総量は常に一定、ゼロサムなんだ、という考えがあるらしいのだが、それも暴論とは思われなくなる。

誰かの自由を束縛することは、必ず別の誰かの自由を増すことになっている。
どこかで自由が拡大すれば、必ずどこかで自由が減少する。

この両方を見て全体のアーキテクチャを分析していかないと、自由について論ずることが空回りになる。そういうことを論文は言っているみたいだ。

中世ヨーロッパの神学者たちは「スプーンの先に天使が何人止まれるか」といったスコラ的議論に耽ったと言われている。(もちろん安藤論文にこんな比喩は出てこないけど)

天使じゃない人間は重なって存在することができないのだから、同じ時間・同じ場所には一人しか存在できない。

こんなところから議論を出発させて、しかもかなり広い範囲に新しい視点をもたらすような扇形の展開がある。

私も、この論文を読むことで新しい発見がいくつかあった。
たとえば「事前規制」と「事後規制」の区別にからめた、「監視カメラ」に対する考え方。

どこかで読んだような気もするし、私もつい、そう考えていたのだが、法律で処罰するのは「事後規制」で、監視カメラは「予防的」観点であり、「事前規制」の発想だ、という考え方がある。私も、メタボやタバコを撲滅するといった現代の病気への予防的観点の増加に、ちょっと息苦しいような「事前規制」の流れを感じていて、監視カメラもその流れにある「現代の権力の特徴」なんだろう、くらいに考えていた。

そういう事前規制の流れは怖いよ、という人がいることは知っていた。法律というのは「事後規制」の理念で動いている。実際に犯罪を犯した人だけを罰するのが近代国家の理念。
犯罪をやってもいないのに挙動不審というだけで誰かを拘束するとか、保安処分とか、そういうのは怖い。現代の権力は、人権や自由にとって危険な徴候を見せ始めている。監視カメラもその流れだ、と。

でも安藤論文は、そうでもないという。

法律はそもそも「事前規制」にコミットしている。現代は、その統治技術が高まっただけ、というのだ。

(安藤論文より引用)
「アーキテクチュアによる統治は統治技術の発達に過ぎない。
法は最初から事前規制にコミットしているが、統治者の統治能力の限界がそれを低い限度へと妨げていただけであり、いまやアーキテクチュアによる統治がそれを高度に効率的に可能にしたというだけのことである。」

例えばちょっと人とは違う、異常という理由だけで監禁・隔離したりする社会は、私もこわいと思う。
「事前規制」の怖さというのはそういう所。
アーキテクチュアによる統治も、そんなふうにこわがられるだろう。

しかし安藤によると、事態は逆である。


(安藤論文より引用)
「仮に監視の発達によって未遂段階での行政警察的制止が効率よく可能になるならば、未遂にすら至っていない段階での行為規制である保安処分・社会からの隔離は必要がなくなるはずである。」

なるほど!そんな風にも考えられるのか! という驚きがあった。

現代の日本では、なんか不安だから隔離して閉じ込めておこう、という発想で、障害者を刑務所に閉じ込めることもあるらしいが、監視技術がもっと発達しさえすれば、そうした曖昧さは少なくなる。むしろ自由は増える。

(安藤論文より引用)
「日本の刑務所が実質的に軽度の知的障害によるものを含む傾向性犯罪者ー旧派的建前である責任主義からすればむしろ刑罰を免れ得べき人々ーに対する新派的保安処分の様相を呈しているという実態を考えれば、監視は彼らの自由をむしろ大幅に回復することを可能にするだろう」(この文章に、障害者の福祉の問題などもっと考えるべきことは多いが、という注釈もついている)

「監視」技術の発達は、じつは「厳罰化」ではなく「緩罰化」を可能にする側面がある。
これは驚きだ。しかし言われてみれば、その通りだなとも思う。

関連記事:じぶんの無反省な信念体系を揺るがす書物ーピーター・シンガー『動物の解放』2010年02月06日
(→上の記事を書いた時、安藤馨の『統治と功利』は私には難しすぎたので、後になって、伊勢田哲治氏の本などを読み「功利主義」について勉強しなおしています。「功利主義」について関心がある方はご覧ください。)