シンポジウムで東氏が述べている「履歴の保存」「過去ログの保存」という発想がどれほど射程の広いものなのか、なにかすごくいいアイディアのようにも思えるのだけど、私にはまだかなり漠然としたイメージしか持てない。
これは一体どういうことなのだろうか。
『地図』中の藤村龍至論文を参考にすると、建築設計過程における「履歴の保存」というのは、「後戻りしない」「ジャンプしない」「分岐しない」ことを特徴とした、生物の進化プロセスにも似た各段階を模型として記録していくことである。これはこれで面白かった。もっと理解を深めたいと思った。しかし「履歴の保存」ということで私がすぐ連想するような、「後に戻ってやり直す」という話とは、まるで逆のようにも見える。コレとさっきの話(シンポジウムの話)とはどういう関係にあるのだろうか。
社会を設計していくときに「履歴保存」のアイディアを使うというアイディア。
しかし、そこで例えば誰かが死んだら、ヘボ将棋みたいに待ったをかけて、「ごめんごめん、3手だけ戻らせて」なんてことは言えそうもない。「社会の設計について、政策決定のプロセスを全てログとして残したからといって、バージョン3で失敗したからバージョン2から歴史をやり直しましょうというわけにはいかない。」(東氏の発言)
クリントン元・大統領のゴルフのエピソードを思い出した。
ゴルフには「マリガン」という、将棋で「待った!」をかけるのと同じような「卑怯な」戦い方があるらしい。
クリントン元大統領はこの「マリガン」の常習犯で、「ごめん!今のなし!もう一回打たせて!」を何度も繰り返し、スコアのごまかしのようなものをして周囲のものをウンザリさせていたらしい。政治や現実の社会で、このような「大統領特権」で「ごめん!今のなし!」と言われたらたまったものじゃない、といった話。覆水盆に返らず。
でもここにはそんな話だけにはとどまらない「展望」がこめられているのかもしれない。
『地図』中の円城塔の小説「ガベージコレクション」にはチェスの話が出てくる。
それとの連想で、将棋で言う「待った!」や「感想戦」などのイメージを先の「履歴保存」の話に結び付けて考えてみる。
wikipediaで「感想戦」に関して次のように書かれている。
「感想戦(かんそうせん)とは、囲碁、将棋、チェス、麻雀などのゲームにおいて、対局後に開始から終局までを再現し、対局中の着手の善悪や、その局面における最善手などを検討することである。」
「感想戦は双方の対局者の間で行われるが、対局者以外の観戦者も参加することが多い。対局の再現が必要となるため、棋譜を記録するか、記憶しておく必要がある。プロの囲碁・将棋の棋士は、その対局の棋譜をすべて記憶している」、という。
全部覚えているのか。私もNHKで「感想戦」しているところを見るといつもその記憶力に驚くのだが、全ての棋譜を思い出せるプロの棋士と、思い出せない「しろうと」の違いが気になる。履歴を「記録」するのか、「記憶」するのかに、大きな違いがあるような気がする。
『地図』のシンポジウムでの宮台氏の発言を思い出した。
「『メメント』の主人公も「前向性記憶障害」なので全てのログを残します。いたるところにメモを貼り続ける。でもメモを書いた際の文脈を記憶できないので、ログはいっぱい残るんだけど、ログを解読するための解読格子は次々と失われいく。そこには、主体の一貫性を前提にした「ログの蓄積」はないんです。そこで「切断」が意味を持たないのは当然の話です。」
文脈を理解して「記憶」している将棋の棋士と、盲目的に全ての「記録」を取り続けるコンピュータとは、「履歴保存」の意味が変わってしまっている。このあたりのことを考えればわかりやすくなるのかな、と思ったが、どうもまだボンヤリとしている。
さらに wikipedia によると、
「チェスでは感想戦のことを post mortem という。これはラテン語で「死後」を意味し、チェックメイトでキングが「死んだ」あとに感想戦が行われることを比喩的に述べている。」、とのこと。
ふーん、何だか面白い。
でもこれだけじゃやっぱり判然としない。
一体どういうことなんだよ。
アーキテクチャに関りのある「過去ログの保存」というのは、「将来の対戦」のために対戦者が終わった試合をよく分析しておこう、という話なのか、それとも文字通り死んだ「キング」が「生き返り」、分岐した過去の「指さなかった手」が亡霊のように束になって回帰してくるといったミラクルな話なのか、私にはまだその区別がつかないが、「分岐する世界」、パラレルワールドといった話に私は強い魅力を感じる性向があるので、後者だとしたら面白いかも、とあれこれ想像するくらいのことしか、今の私にはできない。
これは一体どういうことなのだろうか。
『地図』中の藤村龍至論文を参考にすると、建築設計過程における「履歴の保存」というのは、「後戻りしない」「ジャンプしない」「分岐しない」ことを特徴とした、生物の進化プロセスにも似た各段階を模型として記録していくことである。これはこれで面白かった。もっと理解を深めたいと思った。しかし「履歴の保存」ということで私がすぐ連想するような、「後に戻ってやり直す」という話とは、まるで逆のようにも見える。コレとさっきの話(シンポジウムの話)とはどういう関係にあるのだろうか。
社会を設計していくときに「履歴保存」のアイディアを使うというアイディア。
しかし、そこで例えば誰かが死んだら、ヘボ将棋みたいに待ったをかけて、「ごめんごめん、3手だけ戻らせて」なんてことは言えそうもない。「社会の設計について、政策決定のプロセスを全てログとして残したからといって、バージョン3で失敗したからバージョン2から歴史をやり直しましょうというわけにはいかない。」(東氏の発言)
クリントン元・大統領のゴルフのエピソードを思い出した。
ゴルフには「マリガン」という、将棋で「待った!」をかけるのと同じような「卑怯な」戦い方があるらしい。
クリントン元大統領はこの「マリガン」の常習犯で、「ごめん!今のなし!もう一回打たせて!」を何度も繰り返し、スコアのごまかしのようなものをして周囲のものをウンザリさせていたらしい。政治や現実の社会で、このような「大統領特権」で「ごめん!今のなし!」と言われたらたまったものじゃない、といった話。覆水盆に返らず。
でもここにはそんな話だけにはとどまらない「展望」がこめられているのかもしれない。
『地図』中の円城塔の小説「ガベージコレクション」にはチェスの話が出てくる。
それとの連想で、将棋で言う「待った!」や「感想戦」などのイメージを先の「履歴保存」の話に結び付けて考えてみる。
wikipediaで「感想戦」に関して次のように書かれている。
「感想戦(かんそうせん)とは、囲碁、将棋、チェス、麻雀などのゲームにおいて、対局後に開始から終局までを再現し、対局中の着手の善悪や、その局面における最善手などを検討することである。」
「感想戦は双方の対局者の間で行われるが、対局者以外の観戦者も参加することが多い。対局の再現が必要となるため、棋譜を記録するか、記憶しておく必要がある。プロの囲碁・将棋の棋士は、その対局の棋譜をすべて記憶している」、という。
全部覚えているのか。私もNHKで「感想戦」しているところを見るといつもその記憶力に驚くのだが、全ての棋譜を思い出せるプロの棋士と、思い出せない「しろうと」の違いが気になる。履歴を「記録」するのか、「記憶」するのかに、大きな違いがあるような気がする。
『地図』のシンポジウムでの宮台氏の発言を思い出した。
「『メメント』の主人公も「前向性記憶障害」なので全てのログを残します。いたるところにメモを貼り続ける。でもメモを書いた際の文脈を記憶できないので、ログはいっぱい残るんだけど、ログを解読するための解読格子は次々と失われいく。そこには、主体の一貫性を前提にした「ログの蓄積」はないんです。そこで「切断」が意味を持たないのは当然の話です。」
文脈を理解して「記憶」している将棋の棋士と、盲目的に全ての「記録」を取り続けるコンピュータとは、「履歴保存」の意味が変わってしまっている。このあたりのことを考えればわかりやすくなるのかな、と思ったが、どうもまだボンヤリとしている。
さらに wikipedia によると、
「チェスでは感想戦のことを post mortem という。これはラテン語で「死後」を意味し、チェックメイトでキングが「死んだ」あとに感想戦が行われることを比喩的に述べている。」、とのこと。
ふーん、何だか面白い。
でもこれだけじゃやっぱり判然としない。
一体どういうことなんだよ。
アーキテクチャに関りのある「過去ログの保存」というのは、「将来の対戦」のために対戦者が終わった試合をよく分析しておこう、という話なのか、それとも文字通り死んだ「キング」が「生き返り」、分岐した過去の「指さなかった手」が亡霊のように束になって回帰してくるといったミラクルな話なのか、私にはまだその区別がつかないが、「分岐する世界」、パラレルワールドといった話に私は強い魅力を感じる性向があるので、後者だとしたら面白いかも、とあれこれ想像するくらいのことしか、今の私にはできない。