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じぶんの無反省な信念体系を揺るがす書物ーピーター・シンガー『動物の解放』

2010年02月06日 | 生命・環境倫理
動物は「苦痛を感じる能力」を持つー功利主義者シンガーの動物解放論。


最近、それほど関心はなかったのだが、環境倫理を考えるための勉強会に出席したことをきっかけとして、私も生命倫理や環境倫理などに関する本を読むようになった。

私にとってこの分野の出発点は、伊勢田哲治『動物からの倫理学入門』であり、まずは、この本で取り上げられている功利主義者ピーター・シンガーの『動物の解放』(原著1975年)から読むことにした。

これは30年以上前の書物だが、かなり打ちのめされた。

動物たちに苦痛を与える工場畜産や動物実験の現状を批判し、功利主義の観点から「動物の解放」を訴えるこの本の主張は、現在でも強力かつインパクトのあるものであり、読後、シンガーが薦める「ベジタリアン」になる決心まではつかなかったものの、「食べる」ことに対する、無反省な自分の信念体系をグラグラと揺るがすのに十分な書物だった。

この本では、動物はそもそも「苦痛を感じる能力」を持つから、道徳的配慮の対象となる、という論理がつらぬかれている。「生命の尊厳」とか「動物の権利」という言葉が、問題になっているのではない。

>動物は苦痛を感じることができる。われわれがすでにみてきたように、動物が感じる苦痛(あるいはよろこび)は人間が感じる同じ量の苦痛(あるいはよろこび)と比べてより重要性がうすいという主張を、道徳的に正当化することはできないのである。(『動物の解放』40p)

伊勢田『動物からの倫理学入門』では、倫理学の分野では、カントの義務論とベンサムの功利主義が対立関係にあることが示されていた。この本でも、シンガーは功利主義者の立場に立ち、カントの言葉とベンサムの言葉を対比している。

>イマヌエル・カントは、倫理学についての講義の中で、依然として学生たちに次のように語っている。「動物に関する限り、われわれは直接的な義務を有していない。動物は自己を意識しておらず、目的に対するたんなる手段として存在する。その目的とは、人間である。」(『人倫の形而上学』参照ー訳者)

>しかし、カントがこの講義を行った同じ年、1780年に、ジェレミー・ベンサムは『道徳及び立法の原理序説』を完成し、その中で、私がすでに本書の第1章で引用した一節の中に、カントに対する決定的な回答を与えている。「問題は、彼らが思考できるか、ということでも、彼らが話せるか、ということでもなくて、彼らは苦しむことができるか、ということである。」(『動物の解放』254p-255p)


ウサギの目に…恐怖の「ドレイズ・テスト」


この本で、動物実験の分野で具体的に批判されているのは、ウサギの目を使って薬品の毒性を調べる「ドレイズ・テスト」である。

現在では、より残酷ではない「代替法」に取って代わられつつあるものの、「ドレイズ・テスト」は現代でも残っている試験法のようである。資生堂に対して反対運動をしている団体がある。→『ウサギを救え!』 資生堂に化粧品の動物実験廃止を求めます!2009年04月24日

ドレイズ・テスト

>化粧品やその他の物質は、眼の障害や皮膚障害についても、テストされる。米国食品医薬品局(FDA)あるいは他の国で行われる標準的な方法は、J・H・ドレイズの名にちなんで名づけられたドレイズ・テストである。このためにいちばんよく使われる動物は、兎である。テストしようとする物質の高濃度の溶液を、兎の眼に滴下するのであるが、ときにはこれが数日間もくり返される。それから、障害を受けた部分の広さ、腫脹と発赤の度合、その他のタイプの障害に応じて、障害の程度をはかるものである。(…)しかし、目を閉じたりひっかいたりすることによって、兎は化学物質を外に出してしまうかもしれない。これを防ぐために今日では動物は通常保定装置に入れて動けないようにされ、この装置から頭だけがつき出されることになる。さらに彼らの目は上下の眼瞼を離したままにする留め金具によって、あいたままにしておくこともある。このようにして動物は、眼に入れられた化学物質の、燃えるような刺激から身を守るすべを、完全に奪われるのである。(『動物の解放』77p)

ちなみに、漫画・施川ユウキ『サナギさん6巻』所収の「特別読み切り 森のくまさん」にも、ネタとして「ドレイズ・テスト」が使われていた。私がはじめて知ったのは多分、ここからだった。


19世紀イギリスにおける「児童虐待」と「動物虐待」への関心の高まり


この本によると歴史的には、「児童虐待」反対と「動物虐待」反対に、密接な関係があったようだ。「工場法」と「動物愛護法」とのあいだには情緒的・歴史的関係がある。

>児童虐待に反対する闘いを始めたという名誉も動物福祉運動に帰せられるものである。アメリカの動物福祉運動の草分けであるヘンリー・バーグは、1874年に、小さな動物が残酷にぶたれているから何かやってくれと言われた。その小さな動物とは人間の子どもであることがわかった。それにもかかわらずバーグは、彼が起草して議会に圧力をかけて通過させたニューヨーク動物保護条例のもとで、その子どもの保護者を動物虐待のかどで告発することに成功したのである。そのときさらに別の事件がもちあがり、ニューヨーク児童虐待防止協会が設立された。そのニュースがイギリスにとどいたとき、RSPCA(王立動物虐待防止協会)はイギリスにおいてこれに相当する団体、すなわち児童虐待防止国民協会を設立したのである。シャフテスベリー卿はこのグループの創設者の一人であった。指導的な社会改革者であり、児童労働と一日14時間労働に終止符を打った工場法の起草者であり、適切に管理されていない実験やその他の形態の動物虐待に反対する有名なキャンペーンの組織者であったシャフテスベリー卿の生涯は、その他の多くの人道主義者の生涯と同様に、ヒト以外の動物のことを気づかう人は人間のことを気づかわないとか、ある主張のために献身すると他の仕事のことまで手が回らないものだといった主張に対して、明らかな反証となっているのである。(『動物の解放』280p- 281p)


植物は痛みを感じない


この本で展開されている、功利主義に基づく動物解放論が、他の自然保護思想とちがうのは、生き物の「快苦」を基準にしているからで、たとえば「植物」には、「苦痛を感じる能力」がない。だから動物とは異なり、直接的な道徳的配慮の対象とはならないとされる。

>本書の第一章で私は、ヒト以外の動物が苦痛を感じることができると信ずるに足りる三つの互いに独立した根拠を提示した。すなわち行動、かれらの神経系のしくみ、そして苦痛の進化史における有用性である。この三つの判断基準のうちいずれに照らしても、植物が苦痛を感じると信ずべき理由は見当たらない。科学的に信頼できる実験データが欠けており、苦痛を示唆する観察可能な行動は見あたらない。中枢神経系に似たものは植物には見いだされていない。また苦痛の源泉から遠ざかったり死を避けるために苦痛の知覚を利用することのできない種が苦痛を感じる能力を進化させただなどと想像することはむずかしい。(『動物の解放』298p)

(…私は「植物」というのは人間にとって精神的に、また「霊的」に重要な意味をもつ、と考えることがあるのだが、まあそれはここでは後回しにしていい問題だろう。それも功利主義の「利益」に含めることができそうだ。→関連記事:植物への愛と「沈潜」感覚-ルソー『孤独な散歩者の夢想』より 2010年01月21日


「快苦」、「権利」、「尊厳」ー道徳的配慮は何に基づくべきか


この本ではそれほど多くはないが、「権利」という考え方に対しても批判が加えられている。

>平等についての最近の哲学的議論ー「権利」という用語で論じているーにおいてきわだっているもう一人の哲学者は、カリフォルニア大学ロサンジェルス校の哲学及び法学の教授であるリチャード・ワッサーストロームである。その論文「権利、人権および人種差別」において、ワッサーストロームは「人権」を、人間は持っているが人間以外の動物は持っていない諸権利として定義している。そして彼は、人間は福祉と自由に対する権利をもっていると論じている。人間の福祉への権利という考えを擁護するにあたって、ワッサーストロームは、ある人から激しい肉体的苦痛から解放される権利を奪うことは、その人が充実した、満足感を与える生涯を送ることをできなくすることを意味する、とのべている。彼はさらに次のように続ける。「ほんとうの意味において、これらの利益を享受することは、人間を人間以外の動物から区別するものである」。しかし、この言明は信じがたい。というのは、「これらの利益」という表現が具体的に何をさしているかをさがしてみると、われわれが与えられている唯一の例は激しい肉体的苦痛からの解放であるーたしかに、人間以外の動物も人間と同様に苦痛を感じる能力をもっているーということに気づくのである。(『動物の解放』302p)

また、「人間の尊厳」という言葉に対しても批判が加えられている。

>彼らは「人間個人の固有の尊厳」といったようなひびきのいい表現に訴えようとする。彼らはあたかも人間がほかの生きものがもたない何らかの価値をもっているかのように「あらゆる人間の固有の価値」について語るか、あるいは、人間だけが「それ自体目的」であるのに対して、「人間(パーソン)以外のあらゆる存在は人間の目的を実現するための手段としての価値のみをもっている」などという。(『動物の解放』303p)

>われわれが前の章でみてきたように、「人間特有の尊厳と価値」という考え方には、長い歴史がある。現代の哲学者たちは、この考え方が当初もっていた形而上学的および宗教的な足かせを投げすててしまって、そもそも十分な根拠を示す必要さえ感じずに「人間の尊厳」という考え方に安易に頼るのである。(『動物の解放』303p)


わたしの中では「動物」つながりー『動物化するポストモダン』から『動物からの倫理学入門』・『動物の解放』へ


功利主義に関しては、わたしは、前掲『動物からの倫理学入門』からその考え方を学んでいるところだ。

以前、功利主義に関する本として、安藤馨『統治と功利』を購入していたのだが、今でも難しすぎる!

『統治と功利』は、『動物からの倫理学入門』の巻末の文献案内でも紹介されており、著者の伊勢田氏は、「現在日本語で読めるもっとも行き届いた論考であるが初心者にはすすめられない」と書いている。

それを早く言ってくれよ。

私は去年、安藤馨『統治と功利』を読んで拙ブログでも引用しているが、全然読みこなせていないのでなかなか悲惨なことになっていた。→ウィンストン・チャーチルは帰還せり 2009年06月20日

功利主義者としてのシンガーという人に私がうっすらと興味を持ちだしたのは、『思想地図vol.1 特集・日本』での共同討議を読んでからのことだった。

すなわち、『思想地図vol.1 特集・日本』の「共同討議 国家・暴力・ナショナリズム」で、『動物化するポストモダン』の著者・東浩紀氏が、「誰が社会の成員で誰が成員ではないのか」という「メンバーシップ」の問題を迂回した社会哲学は構想できないものか、という話の流れの中でピーター・シンガーの名前に触れている。東氏の「動物化」とシンガーの「動物の解放」はまったく別の概念だが、私の中では「動物」つながりで連鎖してしまっている。

>(東浩紀氏)…生命倫理の議論で有名なオーストラリアの倫理学者、ピーター・シンガーがいますね。彼は功利主義者で、つまりインテレスト=利益・関心だけを基礎に倫理の再構築を考えている。
>よく知られているように、彼の思想は優生学的だと批判されている。たとえば彼は、胎児はほとんどインテレストをもっていない、だから堕胎は罪ではないと主張する。あるいは、霊長類のほうが胎児よりむしろインテレストをもっているから、部分的な人権を認めるべきだと主張する。僕自身は、必ずしもその意見に賛成ではありません。しかし、そのようないっけん過激な主張の背後に、じつに筋の通った一貫性があることは疑いようがない。彼のインテレスト原理主義は、誰を国民として考えるか、誰を人間として考えるかといったメンバーシップの問題を無意味にしています。たとえば彼は、重要なのは地球全体のインテレストの増大なのだから、先進国はいますぐ富の何分の一かを発展途上国に移転しろ、なんて提案をしている。荒唐無稽だと思われるかもしれませんが、そういう思考実験をバカ話だと思ってしまうこと自体が、僕たちの想像力の狭さを意味していると思うんです。(『思想地図vol.1』43p)

なお、シンガーの『動物の解放』には巻末に、ベジタリアンのための「レシピ集」まで付録でついている!

それは「あなたが肉を食べないようになっても、豊かな食生活が送れますよ」というベジタリアンからのメッセージで、あくまで生き物たちの「幸福の増進」を心掛ける功利主義者の面目躍如たるものがある。

…ふと思ったのだが、シンガーのような功利主義者たちと、「すべての生きとし生けるものたちよ、幸いであれ」と願う「仏教徒」はどこかで共通の関心をもてるのかもしれない。環境を大事にしよう、と思っている人たちの多くにとって、どうも「功利主義的発想」というのはかなり違和感を感じるものであるらしいが、「功利主義的仏教徒」というのはあり得ない話ではない。「人間の尊厳」を信じるキリスト教徒と、「縁起」を信じる仏教徒とは功利主義への親和性という点で、かすかに違いがあるようだ。

このあたりはもうちょっと考えてみないと…。(→関連記事:功利主義者シンガーと仏教徒の思いー「すべての生きとし生けるものが安穏であるように」2010年02月08日

1 コメント

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Unknown (Unknown)
2011-12-11 00:35:42
シンガーは功利主義と言いつつ苦痛の否定ばっかしてるとこが仏教っぽいですね。
肉食の否定のとこで「肉食は贅沢であって必需品じゃないからダメ」みたいに言ってますが、本当の功利主義なら「肉食で人間が得る快楽」マイナス「動物の苦痛」を定量的にはかるべき。
肉食が健康に悪いってのも古い栄養学というか最近の長寿研究の成果に反してます。動物性たんぱくと植物性たんぱくが1:1が理想と言われてますし、油も動物性と植物性の比がそんなもんです(昔は植物油は良くて動物油はダメみたいに言われてた)。
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