ブログ・プチパラ

未来のゴースト達のために

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鈴木謙介氏の論文と優しいパブロフの犬

2009年06月13日 | 思想地図vol.3
『思想地図 vol.3』鈴木謙介論文「設計される意欲ー自発性を引き出すアーキテクチャ」を読む。

鈴木論文によると、最近、アーキテクチャという用語は「人々に不自由感を与えることなく、設計者の思い通りに人々を操作する統治技術」という意味で用いられることが多くなったという。どちらかというと「悪い」イメージをもたれている。

しかし「誰か」が「悪い意図」を持って「設計」してる、という考え方は、見えるものまで見えなくするので捨てたほうがよい。

当たり前の話で、「意図」がいつも「思い通り」実現する、という事はあり得ない。
マクドナルドの椅子の固さが、客の回転率を上げるという話にしても、
そんな簡単に人の行動を調節できるものか、と私も前から思っていた。
たとえば痔になるほど椅子が固ければ、客が離れてしまう。
また、もしマクド(関西圏ではマックではなくマクドと略称する)の椅子が、ふかふかで柔らいものだったりすると、それはそれで落ち着かないので店に入りにくい感じがする。

あるいは椅子にトゲトゲをつけて、客はみんな「空気椅子」の状態で耐えなければならないとなったら、絶対に客が集まらないと普通予想されるが、やってみたら、その予想に反して、「健康に良い」とか「体を鍛えられる」とかの理由で、「空気椅子」マクドが一時的に大ブームになるかもしれない。で、そのデータを利用して、他のファストフード店やレストランが真似してみたら、大失敗して、その失敗の原因が、調べてみると「椅子の固さ」ではなく何か別の要因に帰せられるものであることが判明したりする。とにかく現実は、アーキテクチャといっても、いろいろな要因が絡み合って一筋縄ではいかないはず。
まあ考えてみれば当たり前の話。

鈴木謙介氏は、次のような「常識的」な見方から出発することを提案する。

(鈴木氏論文より引用)
「アーキテクチャによって促される人々の自発的行為は、設計者による人々への「洗脳」などではなく、設計者と利用者の間の相互作用と、両者を取り巻く多くの変数-先ほどの例で言えば店の立地やコーヒーの味、店員の制服などーとの相関から生み出された結果と見なすべきなのである」

現代のアーキテクチャは、無理に人を統制するようなものではない。
むしろ自発性を生み出す仕掛けのようなものとして現れる。
この仕掛けをうまく利用できる可能性はないのか、というのがこの論文の主眼。

(鈴木氏論文より引用)
「アーキテクチャとは、制御しようとする環境の内にある人々の動きを事前に予測しながら、人々が自由に選択することと、そのシステムにとって望ましい状態を維持することを両立させるための、絶え間ないプロセス」

「人々が自由に振舞うことを前提にして、諸変数との関わりの中で設計を不断にアップデートするという発想」

ビジネスでいう Plan-Do-See サイクル込みで、アーキテクチャの時空間を考えないといけない。
うまくいくと、ビジネスや教育の現場でも「いい方向」で活用できるかもしれない。
でも、そういう「仕組み」を作って、これを従業員の自己啓発に利用するというのは、「やりがいの搾取」(本田由紀氏)になる可能性がある。

本田由紀氏は、職場の「サークル・カルト性」というのが、従業員のやる気を引き出し、それが、若者の低賃金長時間労働を可能にする「やりがいの搾取」になっている、と論じているらしい。

鈴木氏は、それを受けて、でもそれを全否定していては駄目で、そういうのを「うまくコントロール」できる方法を考えないと、みたいな話をする。

私としては、本田由紀氏が感じているような「気持ち悪さ」もよくわかるし、今の若者が「お金」ではなくむしろ「自己実現系の魅力」にひかれて、仕事にのめりこんでしまう傾向がある、というのも事実で、確かにそれを全否定しているだけでは駄目だとも思う。

私自身も、時々そういう「もやもやとした気持ち悪さ」を周囲の人間、および自分に感じることはあるのだ。
若者が、「仕事」に自己の物語をそこに重ね合わせることのできる有意味感みたいなものを求めていて、なんとなくそういう目的をもって集まってくる人たちがいて、、やけにテンションの高い喋り方で「自分語り」をしていて、ちょっと「サークル」とか「カルト」みたいな雰囲気を漂わしている、というのは実際に私の近くで見聞きしたりすることがある。

また、私は1976年生まれだが、自分だって「意味への飢え」は昔から強烈に感じていて、そういうカルト的・サークル的な空間に惹かれたり反発したりというのを繰り返してきたという歴史がある。

だからそういう「やりがいの搾取」にハマってしまう若者達の「気持ち」と、同時に「気持ち悪さ」もわかる、という感じがある。

そういう私からは、鈴木氏もそういうアンビバレント(と言うのか)なモヤモヤっとした感情を持って、本田由紀氏の「やりがいの搾取」論を読み解いているように見えた。

やたらと従業員に配慮するマネジメント手法は、一部の人には「気持ち悪く」見えるかもしれないけど、ある意味そういう流れが出てくるのは仕方がないと私は思う。いろんなことをしないと、現代の状況では、労働者からモチベーションがなかなか引き出せない。
で、そういうきめ細やかな「配慮」をしているうち、職場が学校に似てくる、と鈴木氏は言う。

19世紀イギリスの教育を分析した論文を引用して、子供達を遊ばしておいて、その性格や気質をよくわかった上で、つまり内面にも踏み込んで、優しく、きめ細やかに、監視・統制をより精緻にしていこうという、「牧人=司祭型権力」、そういう概念を紹介する。

毛細血管のように行き渡る権力だ。

これも「怖い」感じはするけど、でもこれもまた先の職場の「やりがいの搾取」の話と同じで、それが「いい」か「悪い」かは程度問題、バランスの問題になるんだろう、と私は思う。「思いやり」がなさすぎる学校や職場が、いいものだとは思えないので。

私が今働いている場所、大阪の小さな会計事務所なのだが、自分のこれまでの経験や見聞きしたことを考え合わせても、あまりにも大雑把に労働者を働かせている職場が多い気がしていて、鈴木氏がこの論文で紹介しているような、従業員の細かい分類をして「配慮」してくれる「牧人司祭型権力」が浸透するような経営手法はちょっと魅力的で、「うらやましい。もっと大阪の中小企業も見習えよ」と思うくらいである。

鈴木氏は実は、その次の「牧人司祭」がいなくなる世界のことを論じているのだから、私のいる場所からすると「もっと先の話」になるのかもしれない。

鈴木氏によると、環境管理型権力が浸透すると言われる現代のような状況で、誰かリーダー、司祭がいるわけでもなく、いわば牧人なき羊の群れが自発的に組織をなして動く、という状況が理想とされるようになってきている。そうした側面を分析することに力点を置いたほうが、現代社会への理解が高まるはずだ、ということを言っている。

しかし、あまり具体的な話にはつながらないようだ。

私は、教育や職場とアーキテクチャの作動の話をするのだったら、スキナーの行動主義心理学の応用の話と結びつけたら、もう少し具体的になって面白いかもしれないな、と思った。

人間を動物として、つまり「反応の束」として見て、その行動の意味や制御方法を考えるスキナーの行動主義心理学は、今ではかなり発展していて、教育や経営などいろいろなところに応用されているらしい。「アーキテクチャによる人間=動物の管理」というテーマにぴったり当てはまるような動向と思えるのだが、『思想地図』では触れられていない。

アマゾンで調べたらいろいろと関連本を見つけることができる。

私がたまたま手元に持っているのは、

山本淳一・池田聡子著『できる!をのばす行動と学習の支援―応用行動分析によるポジティブ思考の特別支援教育』日本標準(2007/04/20)

という、行動主義心理学を応用する教育法を紹介した本だ。

生徒たちの適切な行為を増やして、不適切な行為を減らすためには、行動と環境の相互作用に着目して、そこに介入すればよい。
行動原理というのは、ごくごく単純なものである。
複雑に見える行動も、単純な原理で分析できるのだから、「先行刺激」(A)「行動」(B)「後続刺激」(C)の前後関係をよく分析して、適切な環境を設定し、行動をうまい方向へシェイピングすればよい。(ABC教育法)

悪名高き「スキナー・ボックス」で鳩がエサの出るボタンをつついたり、ベルを鳴らすとパブロフの犬が涎を流したりする実験から、いつまにかこんな実践的で「生徒に優しい」教育法が生まれていたりするのだ。やっていることは、犬のしつけやイルカのトレーニングの原理と基本的に変わらないはずだが、なんとなく優しい。

問題行動があったとして、個人の心の奥、内面などに問題点を探したりせず、環境と個人の相互作用に着目して、適切な行動に「強化刺激」を与えたり、不適切な行動に、例えばわざと刺激を与えず自然と「消去」されるのを待ったりする。私はこの教育法に好感を持った。なんか合理的で「いい」と思う。
(スキナーの行動原理は、たとえば人をからかって喜ぶクソガキに対しては、叱るより無視するほうが効果的、といった経験とも合致)

たとえば、内気で無口な生徒のコミュニケーション・スキルを高めるなんていう目的にも、この方法が使えるという。

スキナーの行動主義は、ある意味人間に優しい。
それは「行動」への無理のない誘導方法を開発しているからだろう。
鈴木論文での関心範囲と通ずる部分もあるのではないかと思った。

「若者達」へ向ける鈴木謙介氏の眼差しには「優しさ」が含まれているのを感じるが、ある意味、パブロフの犬も優しかった。パブロフの犬は涎を垂れ流しながら、人間の「仕方のなさ」について思いを巡らしていたのだと思う。


関連記事:じぶんの無反省な信念体系を揺るがす書物ーピーター・シンガー『動物の解放』2010年02月06日
(→『思想地図vol.1 特集・日本』で東浩紀氏が触れていた功利主義者ピーター・シンガーを取り上げています。「動物の管理」ということで、ちょっとだけ関係してくるかもしれません。)

関連記事:「社会政策学」vs「労働経済学」の対立はまだある?-濱口桂一郎『労働法政策』を読む③(終)2010年01月28日
(→少しだけ『思想地図vol.2』の大澤信亮氏の『私小説的労働と組合-柳田國男の脱「貧困」論』という論文からの引用があります。鈴木謙介氏と大澤氏は共に1976年生まれで、どちらも若者の労働問題に関係ある話なので、ここで「関連記事」にしました。)