正林寺法華講員手引書

『折伏・家庭訪問・教化育成・法統相続・教学研鑚・邪義破折・支部組織の充実強化に活用』 法華講正林寺支部 正林編集部

信じることで智慧を得る「以信代慧」

2005-11-21 | 手引書⑪

 智慧は、生きていく上で必要なことです。智慧がなければ、有意義に過ごすことは出来ません。知識と智慧は、混同されやすいですが、根本的に違います。知識は頭に入っているだけで、智慧は実生活に密着したものです。日蓮正宗の信心は、知識を身に付けるものではありません。智慧を御本尊様から頂き、生活を快適にしていくものです。
 知識だけでは観念的になり、自己満足に終わります。信心を知らない多くの人は、多くの知識に溺れ、その結果、様々な弊害が起き、世の中を混乱させているのが現実です。智慧は身口意の三業にわたるものですが、知識は、意である心の部分で止まる習性があります。知識は、現場で具体的に応用を効かせて行かなければいけません。知識だけでは、宝の持ち腐れであり、頭でっかちで終わります。信心は、知識の弊害を回避して、智慧に変えていき、生活をより快適にするのです。
 信じることで智慧を得るとは、「以信代慧」であり、三大秘法の御本尊様を信じることによって、人生の苦難を生きる智慧を得るのです。人生には四苦八苦という嵐が予期せぬ時に現れます。この苦難に備え、信心をして心の準備を毎日行うのです。それが御本尊様に向かう勤行唱題です。
 勤行唱題する中に、個々の生活に起こりうる、苦難に対する智慧を御本尊様が、冥の照覧のもとに、さり気なく功徳を冥益という姿で注いで下さるのです。私達はここに日々、感謝申し上げなければいけません。それは、毎月の御講に参詣することで、御報恩申し上げることが出来ます。御報恩申し上げなければ、冥の照覧において、冥罰を未来に得ることになります。
 日蓮大聖人は『四信五品抄』に、
 「慧又堪へざれば信を以て慧に代ふ。信の一字を詮と為す。不信は一闡提(いっせんだい)謗法(ほうぼう)の因、信は慧の因、名字即の位なり。」(御書1112)
と御指南であります。「以信代慧」について仰せになられた御書です。不信という、御本尊様を疑えば、謗法の因となって地獄に堕ちる原因をつくります。
 信じることで智慧の原因をつくり、苦難を乗り越える、大聖人の御精神に通じる精神を養うことが出来るのです。人生の苦難を乗り越える精神を養うところは、気持ちが落ち着かない仕事場や家庭では出来ません。様々な雑念が生まれ、正しい智慧を得ることが出来ません。反対に邪智が身に付き、人生を崩壊させる智慧が多く存在します。この邪智に汚染されない智慧を身に付ける場所が、日蓮正宗の寺院になります。現当二世に渡る有り難い智慧を本堂に在す、御本尊様から智慧を頂くことが出来るのです。寺院参詣により、御本尊様の智慧に浴することが出来ます。
 各家庭に安置されている、御本尊様でも智慧を得ることが出来ます。毎日、規則正しい生活の中で、欠かさず朝夕の勤行を行うことです。そして、月に一度は日蓮正宗の寺院に参詣し、本堂の御本尊様に御題目を唱える習慣を持ちましょう。仕事や生活に追われる毎日には、何時の間にか、心に汚れが付くものです。心の汚れがあると、智慧が得難くなります。寺院に参詣することで、智慧を得やすくする働きがあり、智慧は御本尊様を信じて、雑念を払拭させ気持ちが落ち着いたとき、御題目を唱えるところに有り難い智慧が生まれます。