正林寺法華講員手引書

『折伏・家庭訪問・教化育成・法統相続・教学研鑚・邪義破折・支部組織の充実強化に活用』 法華講正林寺支部 正林編集部

過因が現果に、現因が未来果へ

2005-11-21 | 手引書⑪

 過因が現果に、現因が未来果へということは、過去の原因が現在の結果であり、現在の原因が未来の結果になるということです。
 世の中は、原因と結果から成り立っています。善いことをすれば、善い結果が生まれ、悪いことをすれば、悪い結果が生まれます。釈尊は、因果について『心地観経』に、
 「過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ」(御書571)
と説かれています。今の自分は過去に原因があり、今行っている事柄が、原因となり未来があるということです。信心を知らない多くの人は、この道理を理解できない姿が見受けられます。そこに不幸になる原因があります。
 何をどうすればいいのか、闇雲に人生を生きる人が横行しています。その場限りの欲望に翻弄され、後先考えず、六道輪廻の毎日に投げやりな人生を送っている人もいます。これも、信心を知らないために生まれている現証です。
 勤行唱題において、原因結果を明らかに見ていく眼を養うことが大事です。養うことで、悪因を止め、善因を作ることが出来ます。この積み重ねに、最高の境界、成仏があります。変動多き世の中を、勤行唱題根本に生きていくところ、順応性が身に付くため、適切な行動をとることが出来るのです。
 第二十六世日寛上人『六巻抄』の『三重秘伝抄』に、
 「十如是とは相・性・体・力・作・因・縁・果・報等なり。如是相とは譬えば臨終に黒色なるは地獄の相、白色なるは天上の相等の如し。如是性とは十界の善悪の性、其の内心に定まって後世まで改まらざるを性と云うなり。如是体とは十界の身体色質なり。如是力とは十界各の作すべき所の功能なり。如是作とは三業を運動し善悪の所作を行ずるなり、善悪に亘って習因習果有り、先念は習因、後念は習果なり。是れ則ち悪念は悪を起こし、善念は善を起こす、後に起こす所の善悪の念は前の善悪の念に由る。故に前念は習因即ち如是因なり、後念は習果即ち如是果なり。善悪の業体を潤す助縁は是れ如是縁なり。習因習果等の業因に酬いて正しく善悪の報を受くるは是れ如是報なり。初めの相を本と為し、後の報を末と為し、此の本末の其の体究まって中道実相なるを本末究竟等と云うなり云云」(六巻抄10)
と御教示のように、厳密には、原因結果の背景に、十如実相が深く関係してきます。信心することで、原因結果だけではなく、更に深く現実の本質を明らかに見ていくため、十如実相を見ていきます。日蓮正宗の信心をしなければ絶対に見ることが出来ません。勤行唱題をし、御本尊様と境智冥合するところに明らかに見えるようになります。
 十如実相は、先の『心地観経』と違い、『法華経』の法門です。つまり、権実相対されて、実教においてより勝れた教義になります。
 現実には、原因と結果だけでは、到底、判断しにくい部分があり、その部分を回避したのが『法華経』に説かれる十如実相となります。私達が、朝夕の勤行で唱える「方便品第二」です。
 毎日の勤行唱題を欠かさないところに、御本尊様から智慧を頂き、十如実相が見えてくるのであります。