正林寺法華講員手引書

『折伏・家庭訪問・教化育成・法統相続・教学研鑚・邪義破折・支部組織の充実強化に活用』 法華講正林寺支部 正林編集部

我見を捨てた信伏随従の大切さ

2005-11-21 | 手引書⑪

 「信伏随従」とは、信じ伏し随従することです。信心では、正しい師に「信伏随従」していくところに即身成仏があります。間違った思想に「信伏随従」すると不幸になるわけです。
 その反面、自分はこう思うという我見は、三惑が邪魔している証拠です。心に汚れが付着していることを恥じましょう。入信以前に身に付いた、謗法の垢が、見思惑となって現れ、心の汚れである謗法の垢を御本尊様が表面に出して頂いた証拠であります。つまり、心の汚れが洗い流されている段階です。素直に、心の惑いに従うことなく、正しい師に「信伏随従」していく信心を全うしましょう。その惑いは、冥益により徐々に弱められ消滅していき、六根清浄の因を、また一つ積ませて頂くことを歓ぶことです。
 日蓮大聖人は『御義口伝』に、
 「信とは無疑曰信(むぎわっしん)明了なるなり、伏とは法華に帰伏するなり、随とは心を法華経に移すなり、従とは身を此の経に移すなり。所詮今(いま)日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る行者は末法の不軽菩薩なり」(御書1778)
と「信伏随従」について御指南であります。「信」とは、無疑曰信という、疑い無きを信と曰うことです。疑い信じない人は、信伏随従できません。「伏」とは、法華である「下種三宝」に帰依し伏することです。「随」とは、我慢偏執を改め、心を柔和にして、法華の心である「下種三宝」に、気持ちを冥合させることです。「従」とは、身口意の三業である、私達の身を経の心に移します。つまり、信心以外に生まれる、心の災いを止めていくということになる「戒」の意義があります。そして、御題目を唱えることが口業となり、「信伏随従」には、身口意の三業を調えることが重要であるといえます。
 「信伏随従」することで得られる御利益は、「信」により、素直さや正直さが養われ、「伏」において、我見を誡めた耐え忍ぶ「忍辱衣」が身に付き、「随」においては、柔和という心に柔軟性が出来上がり、変動多き世の中に適応し易い能力が培われ、「従」においては、正しい教えに従うことで、悪道に行く災いを防ぐことになります。以上の御利益があるわけです。この上に、様々な形で、私達の生活の場に、有り難い冥益が目に見えてきます。
 日蓮正宗の信心は、時の御法主上人に「信伏随従」していくことが重要です。そこに、以上の御利益が顕現されます。
 我見が「信伏随従」の妨げとなりますが、我見とは『一代聖教大意』に、
 「見惑とは一には身見亦我見とも云ふ」(御書87)
と日蓮大聖人が御教示のように、三惑である見思惑の見惑です。現実を歪めて見る、見方であります。歪められているものを事実であると見るのが、我見ということになるのです。「信伏随従」することで、我見を払拭させ、歪められたものが明らかなものへと見えるように変わるのです。創価学会の方は、見思惑が心の災いをなすため、物事が正しく見えなくなっています。そのため、日蓮正宗を誹謗中傷するのであります。勧誡を受け心の汚れ見思惑を洗い流すことが必要です。
 お互いが、我見を用いて議論するところには、非常に哀れな感じを受けます。歪められた見解同士が、議論をしても、当然、話は纏まらず、共通点を持たなければ先に進みません。
 日蓮正宗の信心は、我見を捨てた「信伏随従」が大切なのであり、我見を捨て御本尊様を疑うことなく信じるところに幸せがあります。