八濱漂泊傳

ダラシナイデラシネ記

自作 自演 自力建設 の その後・・・

2014-07-19 10:34:00 | イケン!

  

 一般の人は、労働してお金を得る。

 得たお金で家を買う(建てる)。

 このプロセスのお金と消費を取っ払えば、

 家を建てる労働をする。

 というシンプルな話になる。

 私はそういう話が好きだ。

          (ブノサーマ・ラ・ハカータ)

 

ということで、

みなさんご心配の・・・・

 

自力建設作品『54帖の中庭』は、

どうなったか? というと・・・

 

名曲『さようなら世界夫人よ』にのせて、

 

  世界は僕らに愛と涙を

  絶えまなく与え続けてくれた

  でも僕等は君の魔法には

  もう夢など持っちゃいない

 

  さようなら世界夫人よ さあまた

  若くつやつやと身を飾れ

  僕等は君の泣き声と君の笑い声には

  もう飽きた

 

資本主義にはもう飽きた?気分で、

1棟目の棟上げをし・・・・

 

謎の反原発歌にのせて、

オールドトラクター ヤンマーYM1700 で、

動く実験を繰り返し・・・・

 

小津的日本的メロディーにのせて、

2棟目、3棟目を建設し・・・・ 

 

 

そして、

 

やっとこさ、

外壁の杉板下見張りを

センチメンタルに実施して・・・・

 

流通に乗ることなく廃棄される予定だった

ユニットバスの下だけ部分(新品)を、

救出して、洗浄して・・・・ 

 

 

問題は、

いつ完成するのか? ではなくて、

どう暮らしを楽しむのか? であるが、

 

正直言うと、

中学の時からの悩みである

どう生きるのか? の答えがまだ見つからない。

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 手が届くほど小さな家を 

 身の丈に合った予算で作り、 

 たっぷりと時間を使って、

 ゆっくりと暮らすのがよい 

 余分なものを引き算すれば、

 気取らずデザインせずとも良し

          (ブノサーマ・ラ・ハカータ)

 

 


いでいで いと いみじう めでたしや!

2014-07-14 18:37:20 | イケン!

 

言葉の発音を文字にすると、

固定概念にとらわれやすい。

 

たとえば、

日本語で「ドイツ」の実際は「ディエーツェ」である。

 

今では

「クリスチャン」を「キリシタン」と呼ぶ人もいない。

「イングランド」を「エゲレス」と呼ぶ人もいない。

 

反対に「ニッポン」という発音は、

外国で「ジャパン」「ヤーパン」「ジパング」だったりする。

 

また、「邪馬台国」についても

「ヤマタイコク」なんて読むから混乱が起きる。

 

実は、「ヤメテーコク」かもしれない。

 

だから、 

歴史を推理する上で

文字や表記(漢字)にとらわれると

全体像を見失った論説になったりするので、

 

私は、

ツェーツェー弁で歴史を捉えることにしている。

ツェーツェー弁歴史観である。

 

ツェーツェー弁とは、

「た行」と「さ行」を

「ツァ行」に変換すれば簡単に出来上がる。

 

 た  ち  つ  て  と

 さ  し  す  せ  そ

 ツァ ツィ ツゥ ツェ ツォ

 

たとえば、魏志倭人伝に記された

伊都国(イトコク)を例にあげて、

時系列に並べると・・・・ 

 

  伊都国  (魏志倭人伝)

   ↓

  伊斗村  (古事記)

   ↓

  伊都県主 (日本書紀)

   ↓

  怡土郡  (倭名抄)

   ↓ 

  絲州大主 (海東諸国記)

   ↓

  糸島

 

Itoshima250

 

となるが、

伊都国の伊都をツェーツェー弁で発音すると、

 

   伊都

   ↓

   イト

   ↓

  イトゥ

   ↓

  イツァ → 伊佐 諫

  イツィ → 壱岐

  イツゥ → 伊豆 出雲

  イツェ → 伊勢

  イツォ → 伊東

 

記紀に登場する国生みの

伊邪那美と伊邪那岐は・・・・

 

   伊邪那美      伊邪那岐

    ↓          ↓

  イザ ナミ      イザ ナギ

    ↓          ↓

  イヅァ ナミ     イヅァ ナギ

    ↓          ↓

  イツァ ナミ     イツァ ナギ

  イツィ ナミ     イツィ ナギ

  イツゥ ナミ     イツゥ ナギ

  イツェ ナミ     イツェ ナギ

  イツォ ナミ     イツォ ナギ

    ↓          ↓

  伊都 + 波      伊都 + 凪

 

伊都+波 とは、

糸島半島の外海=玄界灘か?

 

伊都+凪 とは、

糸島半島の内海=糸島水道 か? 

 

だとすれば、

  

イザナミ(伊都+波)が

死んだ原因は暴風雨だろうか?

 

イザナギ(伊都+凪)が禊をした

筑紫の日向の橘の小戸(福岡市西区小戸)

と糸島水道とは場所的にも符合する。

 

また、密かに、

 

伊都国の伊都(イト)の語源は、

伊豆能売神(イヅノメノカミ)ではないかと思う。

 

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伊豆能売神とは、

黄泉国から逃げ帰ったイザナギが、

筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で

禊ぎをした時に産まれた神で、

 

世の中の禍(わざわい)を直すために

神と交信する巫女のような存在である。

 

伊豆=イヅ → イツゥ とは、

 

 斎宮  イツゥ キノミヤ

 厳島  イツゥ クシマ

 厳原  イツゥ ハラ

 出雲  イツゥ モ

 伊東  イツゥ ウ

 ・・・・

 

斎(イツゥキ)とは、

「神に仕える」という意味。

 

厳島(イツゥクシマ)=伊都岐島(イツゥクシマ)も、

イツゥキマツル島=神に仕える島。

 

市杵島姫命(イツゥキシマヒメノミコト)も、

日出(ヒ イヅゥル)国も語源的には気になってくる。

 

ちょっと待てよ!

 

厳しい(イツクシイ)、美しい(ウツクシイ)

という言葉も気になってくる。

 

イツクシイ ウツクシイ の ツクシ?!

 

ツクシ=筑紫 ???

筑紫国とは、美しい国、厳しい国??

神に仕える国=筑紫国?

 

筑紫の日向の橘の小戸の・・・・

伊都と筑紫は同じ語源なのだろうか?

 

・・・・みたいなことを考えながら、

ヒマコ相手にツェーツェー弁をしゃべってると、

 

 「アナツァ ノ ヌァマエ ハ

  ナン ヅェツゥツァ?」

 

 「ワツァツィ ノ ヌァマエ ハ

  ナン ヅェツゥツァ?」

 

 「コンヤ ノ オカツゥ ハ

  ナン ヅェツゥツァ?」

 

 「ブツァニク ヲ イツァメツェ
 
  ナツゥビ ヲ ツァキアワツェ マス!」

 

 「アア ツォウデツゥツァ。

  ツォレハ ツァイヘン オイツィツォウ!」

 

すると、

頭の中は イツゥ の疑問でいっぱいになり・・・・

   

 何時頃 の イツゥ 

 何処 の イヅゥ 

 人斬り以蔵 の イヅゥオウ 

 五木ひろし の イツゥ 

 京都いづう の イヅゥ 

 どいつもこいつも の イツゥ 

 あいつとララバイ の イツゥ 

 ファイトいっぱつ の イツゥ 

 胃痛 の イツゥ

 

どうやら、

今夜も眠れそうになく、

 

イヅェ イヅェ イツォ イミヅィウ メヅェツァツィヤ

いで  いで  いと  いみじう  めでたしや !

(いやもう 非常に すばらしく めでたいことだ!)

   

 

 

  


金刀比羅の宮は畏し舟人が流し初穂を捧ぐるもうべ

2014-07-12 02:12:02 | イケン!

 

遠くの地の者が、

金刀比羅宮へ神酒を奉納したいときに、

酒を詰めた樽を海に流す。

 

Photo

 

いわゆる、

『流し樽(金毘羅樽)』である。

 

この樽を発見した舟人は、

次々と送って丸亀か多度津の港へ届くようにし、

その付近の者が金刀比羅宮へ運んで代参する。

 

他に、流し絵馬、流し初穂、

賽銭を入れた樽なども流されて、

同じように金刀比羅宮へ奉納されたという。

 

01

 

この話は、

当時、金刀比羅宮が瀬戸内沿岸の大衆の間で

いかに熱烈な尊崇を集めていたかをよく表している。

 

Konpira

  

また、

備前児島の瑜伽山と、

讃岐金刀比羅宮の両参りの信仰もあり、

 

瑜伽山だけしか参れなかった参拝者が、

備前児島下村浦から讃岐へ向けて、

数多く『流し樽(金毘羅樽)』を流したことだろう。

 

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ところで、

備前と讃岐の国境を決めた

『樽流し伝説』の話は、

 

児島郡小川村の庄屋 菅野彦九郎 が

発案したアイデアだとされているが、

 

菅野彦九郎 の脳裏には、

流した樽は、必ず讃岐にたどり着くという

信念があったのかもしれない。

 

実際のところ『流し樽』は、

最終的に金刀比羅宮へたどり着くのだが、

 

多くの漁民や船乗りが、

信仰心によって樽を渡し繋いでいる事実を

菅野彦九郎 は見落としていたのだろう。

 

金刀比羅信仰と関係のない樽は、

ただただ潮に乗って備前側の海を通り、 

瀬戸内海の多くの島は讃岐領となった。

 

 

ぜひ、

 

泣きのもう一回!

岡山県から香川県に頼み込んで、

 

もう一度、

樽を流して国境を決める実験をしてみたい。

Tarunagashi

http://blog.goo.ne.jp/sholly/d/20110615

 

それでも、

流し樽で勝負がつかないならば、

 

岡山、香川の両県知事が対決する

お座敷『こんぴらふねふね』決戦を観てみたい。

 

おもしろきこともなき世をおもしろく。

 

 


戦後レジームの同じ穴のムジナ

2014-07-09 13:02:09 | イケン!

 

集団的自衛権行使の賛否を眺めていると、

DV(ドメスティック・バイオレンス)後の

PTSD(心的外傷後ストレス障害)を連想する。

 

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反対派は『解離性障害』と重なるし、

賛成派は『ストックホルム症候群』と重なる。

 

『解離性障害』の症状とは、

 

記憶が部分的に抜け落ちたり、

思い出すことが出来なくなったり、

自分の意志とは関係なく

急に別人格になったりする障害。

 

日本が平和を保っている理由についても、

「在日米軍+自衛隊+安保条約」という

現実が抜け落ちて、

 

建前の「平和憲法」のみを

大々的に主張している人たちを見ると、

 

ついつい、

『解離性障害』を連想してしまう。

 

 

一方、

 

『ストックホルム症候群』の症状とは、

 

2009年に起こった、

千葉団地殺人・次女連れ去り事件に

見出すことができる。

 

目の前で母親が殺されたにもかかわらず、

犯人に沖縄まで恋人気取りでついていった次女。

 

支配者(犯人)へ追従することによって、

恐怖から逃れようとする障害。

 

アメリカの戦争に、

ひたすら付き従うかもしれない集団的自衛権行使に

賛成をしている人たちを見ると、

 

ついつい、

『ストックホルム症候群』を連想してしまう。

 

 

そもそも、

日本人の救いようのない集団的PTSDの苦しみは、

アメリカによる恐怖・脅迫に起因している。

 

2発の原子爆弾を落とされて

敗戦した日本を精神分析すれば、

 

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やはり、

DV(ドメスティック・バイオレンス)後の

PTSD(心的外傷後ストレス障害)ではないかと思う。

 

このPTSDこそが、

戦後レジームの正体だ。

 

集団的自衛権行使について、

反対派も賛成派も、

戦後レジームの同じ穴のムジナのように思える。

 

PTSDの症状を重症化させず、

より早く回復するためには、

 

真正面から記憶に向かい、

全体像を認知する以外にない。

 

先の戦争を都合よく記憶喪失して、

自律的に総括できないまま、

 

アメリカの袖の下で、

のんべんだらりと茹で上がっていると、

最後の最後に、墓穴を掘らされるハメになる。

 

そんなのは御免だ。

 

 

 原爆は恐い

 恐いはメリケン

 メリケンはカウボーイ

 カウボーイはガンマン

 夕陽のガンマンはこう言った・・・・

 

 

  この世の中にはな、

  2種類の人間がいるんだ。

  銃を構える奴に、

  穴を掘る奴だ!

 

 

  


奥山に猫又といふものありて・・・・

2014-07-03 19:24:50 | センチメンタル

 

祖母の父親=曾祖父は、

児島郡滝村(現 玉野市滝)で生まれ育った。

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曾祖父が子供の頃、

滝の家には、雄の三毛猫が居た。

 

その三毛猫は、

成長するのしたがって、

尻尾が二股に分かれ、

 

人間の言葉を理解し、

人間の言葉をしゃべりはじめた。

 

毎夜毎夜、

 

その三毛猫と曾祖父は、

ひそひそと何かを語り合っていたいう。

 

祖母いわく、この話は実話である。

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滝村の三毛猫は、

猫又(ねこまた)と呼ばれ、

児島郡一帯でたいそう評判になったそうだ。

 

・・・・

 

やがて時が経ち、

曾祖父は、腕の良い指物大工となり、

 

水車を造らせると、

その腕にかなう者はいなかった。

 

しかし、

ある日の事、

 

曾祖父は、

自分でこしらえた水車に轢かれて

若くして死んだ。

 

猫又は、毎夜毎夜、

曾祖父に何を話しかけていたのだろうか?

 

私は密かに、

祖母の母親=曾祖母は、

猫又の化身ではないかと思っている。

 

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曾祖母は、

神通力に優れ、身のこなしが軽く、

滝村で一番、木登りが上手かったという。

 

 

 


天正9年 八浜合戦

2014-06-30 01:28:59 | イケン!

 

天正9年3月。

 

直島高田浦の浜辺に、

船大工たちが叩くツバノミの音が、

賑やかに共鳴して響き渡る。

 

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                           直島本村

 

沖合にひしめく直島の小早船は、

胴が太くぼってりとして、

船合戦よりも荷役に適した船形をしている。

 

その小早船に囲まれて浮かぶ

輪抜きの船印を掲げた安宅船の矢倉にて、

小西弥九郎が、無駄のない手つきで濃茶を立てる。

 

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                           輪抜き船印

  

小西弥九郎とは、後の小西行長のこと。

商人の身ながら宇喜多と羽柴秀吉との

連絡役を務めている。

 

小西弥九郎を直島に呼んだのは、

直島当主の高原次利である。

 

次利は、海賊の大将らしく、

髪は茶色く縮れ、浅黒く潮焼けした顔に

鋭い目だけがぎょろっと光る。

 

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                           高原城

  

茶の湯の作法など習う気もなく、

椀を鷲掴みしたまま矢倉の障子窓に腰かけ、

東の海を見渡しながら濃い茶を一気に飲み干し、

次利は、小声で弥九郎に訊ねる。

 

「直家殿は・・・・?」

 

弥九郎は、次利には包み隠さず正直に答える。

 

「はい。おそらく・・・」

 

宇喜多直家は尻はすの病にて

この年の2月に死去した。

死の事実を知るものは近親者のみで

外部には一切伏せられていた。

 

利次は、顔色ひとつ変えず、

続けて話しかける。

 

「ここの海も、村上の軍船がうじゃうじゃしとる。

 兒島の胸上も番田も毛利に押さえられてはのう。

 こげんな中、宇喜多から加勢の催促、

 来る日も来る日も、うるそうてかなわん。

 陸の大名どもは都合のよい時だけ

 海賊を利用する魂胆が丸見えじゃ」

 

堺の商人らしく、

落ち着き払った口調で弥九郎は答える。

 

「宇喜多方にしてみれば、

 こたびの毛利方との戦は避けられぬゆえ

 必死でございましょう。

 目と鼻の先の兒島で、

 常山、麦飯山、八浜両児山が戦場となれば、

 毛利方は村上の水軍を大挙差し向けるは必至。

 宇喜多方の水軍では心もとないゆえ、

 直島の高原水軍の加勢が

 どうしても必要なのでございましょう。

 しかしながら、こたびの戦、

 何か腑に落ちないものがございます」

 

そこへ、

備前八浜の豪商、山下祐徳が遅れて現れる。

高原次利とも、小西弥九郎とも

深い仲の祐徳は宇喜多きっての御用商人。

もともとは武士であり、南朝方楠家の末裔である。

 

Hachihama

                            備前八浜

 

祐徳は宇喜多からの要請で、

鉄砲、樟脳、兵糧の買い付けに忙しく、

ひっきりなしに九州へ船を出している。

 

「これはこれは祐徳殿、

 お忙しい折、お呼び立てして相すまん。

 先ほどから、弥九郎殿の立てる苦い茶を

 飲まされておるところじゃ」

 

祐徳は、潮気を含んだ羽織を脱ぎながら、

湯気の向こうで茶を立てる弥九郎を見て

会釈を交わし、次利に言う。

 

「次利殿は、毛利の腹が知りたいのでありますな」

 

次利は板の間に腰を下ろし、祐徳に言う。

 

「そうじゃそうじゃ。知りたいのは毛利の腹じゃ」

 

弥九郎が、祐徳に茶を差し出しながら言う。

 

「毛利に腹はなし、と私は読んでいますが・・・」

 

祐徳は作法どおり茶碗を愛でながら答える。

 

「さすが弥九郎殿。そのとおり。

 毛利がこだわるは面子のみと私も読んでおる」

 

「どういうことじゃ?」 と次利は理由を聞く。

 

祐徳は答える。

 

「私どもの船が西国へ下る折は、

 決まって毛利方に積み荷を調べられまする。

 当然、上方へ上る戦道具の鉄砲や樟脳は、

 没収されると思いきや、何の咎めもなく、

 村上殿に帆別銭さへ払えば、 

 船は自由に往来できるので

 拍子抜けをしているところでございまする」

 

柱にもたれかけ、脚を投げ出し、

懐手に首を掻きむしりながら次利が言う。

 

「ということは、毛利は織田勢と

 面と向かって戦う意志は無いということか。

 なるほど、因縁つくらずじゃな。

 さすれば毛利がこだわる面子とは、

 織田と優位に和睦するための条件ということか。

 面子やら、和睦の条件やら、

 ほんに、陸の大名は面倒くさいのう。

 で、宇喜多はどうじゃ?」

 

祐徳が答える。

 

「宇喜多方がほしいのは信用。

 織田方からの信用と毛利方からの信用でござる。

 つまり、

 宇喜多方がすべきことは、

 織田方に忠誠を誓う儀式と、

 毛利方に詫びを入れる儀式でござる」

 

少し考えて、次利は言う。

 

「忠誠を誓う、詫びを入れる儀式とは・・・・

 要するに、それ相応の首級(しるし)を

 毛利に差し出すということか?

 しかし、宇喜多の誰の首を差し出すんじゃ?

 まさか、嫡男八郎(秀家)殿の首じゃあるまい」

 

弥九郎が答える。

 

「おそらく、与太郎基家殿の首級。

 これから始まる八浜の芝居じみた合戦で

 与太郎基家殿の首が毛利に取られれば、

 毛利殿と宇喜多殿の双方の面子も立ち、

 これまでの遺恨も帳消しとなりましょう」

 

次利は怒ったように言う。

 

「与太郎基家殿の首級と引き換えに、

 毛利が兒島から兵を引くことになれば、

 とりあえず、備前は丸く収まる。

 とは言え、おぞましい話じゃ。

 何も知らない基家殿が気の毒でならん。

 しかし、毛利から織田方に差し出すものも必要であろう」

 

弥九郎が答える。

 

「それは備中高松城、清水宗治殿の首級と

 備中・備後・美作・伯耆・出雲の領地でござる

 清水宗治殿が討たれたとなれば、

 他の毛利方の武将、誰ひとり和睦に異は唱えません」

 

次利はふんと笑い、呆れたように言う。

 

「しかしのう、面子とか忠誠心で駆り立てられて

 間に入って命を落とす武将が哀れじゃ。

 おそらく直家殿の筋書きじゃろう。

 梟雄、死してなお恐るべし。

 陸の怪物のすることは、狂気の沙汰じゃ」

 

弥九郎は、宇喜多直家を弁護するように言う。

 

「然るに、宇喜多直家殿の

 どちらつかずの振舞いがあったからこそ、

 毛利殿も羽柴殿も救われたのかもしれません」

 

次利は妙に納得して言う。

 

「そうじゃのう。直家殿は底知れぬ男じゃ。

 流した血も大きいが、直家殿が居なければ、

 何倍もの血が中国で流れたことよのう」

 

弥九郎も祐徳も口をそろえて言う。

 

「たしかに」

 

毛利と宇喜多の腹が見えて安心したのか、

次利は雄弁に語りだす。

 

「わしとおぬしらとは旧知の仲じゃ

 互いに海の自由を知り、陸の不自由を知るものとして

 海賊の本心を言おう」

 

弥九郎と祐徳が身を乗り出す。

 

「実はのう、

 笠岡の村上景広殿から使いがやってきて、

 兒島の海でおしぐらんご(押しくらべ)を

 やろうと言ってきおった」

 

弥九郎が聞き返す。

 

「おしぐらんご?」

 

次利が説明する。

 

「そうよ、合戦では無く、おしぐらんごじゃ。

 つまりじゃ、互いに船を派手に走らせて

 船合戦ごっこをしようという申し出よ」

 

                            おしぐらんご 

 

祐徳が合点して言う。

「戦をするふりということでござるか」

 

空の茶碗を板間にどんと置き、

次利は、にやにやしながら言う。

 

「そうよ、海の人間がよ、

 なんで陸の人間のために命を捨てにゃならん。

 村上景広殿が毛利に加勢するふりをすれば、

 わしは宇喜多に加勢するふりをするまでよ。

 互いに派手に小早船の10艘でも焼き沈めれば、

 宇喜多も毛利も納得するであろう。

 それよりも、八浜合戦の次は備中高松城じゃ。

 足守川を遡る軍船が必要じゃろう。

 ここは、羽柴殿に味方をすれば商売になる。

 ほら、直島本村はツバノミの音でうるさかろうて。

 祐徳殿の金でぎょうさん船を仕立てとるところじゃ」

 

弥九郎は感心して言う。

 

「なるほど、それは妙案。次利殿らしい海賊の所業。

 人をくった面白き話」

 

祐徳もにやりと笑みを浮かべ、

 

「船もたくさん要りますが、

 これからは石の値が上がりましょう。

 早速、飽浦や阿津の備前石工を手配しておりまする」

 

次利はしみじみと言う。

 

「ほんに、わしは海に生まれてよかった。

 陸の不自由はまっぴらごめんじゃ。

 面子とか、儀式とか、なんぼ命があっても足らんわ。

 しかしなぜ、

 陸の人間は血で血を洗うことをくり返すのかのう。

 殺生の業が深すぎて、誰も極楽浄土へ行けはしまい」

 

弥九郎は言う。

 

「殺生の業から救われるために、

 武将は茶の湯を好みまする。

 刀掛けに刀を預けて、丸腰で茶人と向かい合い、

 身体を禊ぎ、心を洗い、穢れを落とすために

 無常の境地で、いっぷくの茶を飲み干しまする」

 

次利は、さっぱりわからないと顔で答えて、

ひとりつぶやく。

 

「キリシタンの弥九郎殿が、

 無常の境地を語るのも面白い。

 わざわざ穢れて、わざわざ穢れを落とす?

 茶の湯とは窮屈で面倒くさい儀式よのう」

 

それから数か月後、

高原次利、小西弥九郎、山下祐徳の予測通り、

八浜合戦にて宇喜多八郎基家は毛利に討ち取られる。

(一説に味方の鉄砲の玉に当たり討死したという)

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                          八浜与太郎様

 

翌 天正10年、

備中高松城は壮大な水攻めの末、陥落し、

城主清水宗治は船の上で舞を踊った後、

「浮世をば 今こそ渡れ もののふの 名を高松の 苔に残して」

という辞世の句を詠み自害した。

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                           備中高松城水攻め

 

備中高松城水攻めでは、

直島高原水軍と八浜の豪商山下祐徳が、

足守川の荷役を一手に請け負い、

 

秀吉が明智を討つために行軍した

奇跡の中国大返しにおいても、

上方へ上る海上荷役で功を成したという。

  

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                           高原氏墓標群

 

『八浜合戦』『備中高松城水攻め』は、

織田と毛利が和睦するに相応しい、

手の込んだ大芝居だったかもしれない。

 

 

 


ファイナルハウス

2014-06-28 00:03:38 | イケン!

 

私は、もう15年ほど前から、

終の棲家は路上と決めている。

 

今、自作している自邸

『54帖の中庭』が完成した後に、

路上生活するための箱を制作するつもりでいる。

 

そんな折、頭で描いている

イメージどおりの箱が、

私の住む町、八浜を通り過ぎた。

 

山口宇部から、

この車(寝台)を引いて旅をしているそうだ。

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旅人 芳澤さん なんと御年72歳!

 

四国一周、九州一周、北海道一周を終えて、

最後の本州一周にチャレンジ中だとか。

 

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まったく無駄のないシンプルな箱、

フラットルーフがイカしている。

 

いろいろと貴重な路上生活の

ノウハウをお聞きしてお別れした。

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後ろ姿もかっこいい。路上に幸あれ。

 

不思議なもので、 

私は、この手の人に

遭遇する確率がすこぶる高い。

 

そういえば、

昔よく遭遇したユニックハウスの人も、

山口宇部の人だったなあ。

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かくゆう私の路上生活ハウスは、

15年の間、紆余曲折を経ながら、 

頭の中でグルグル堂々巡り。

 

リートフェルトちっくな箱とか・・・・

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バウハウスちっくな箱とか・・・・

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投入堂ちっくな箱とか・・・・ 

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日本の不可解な住宅事情に対案を示すために

九州を遊行をした『対庵』とか・・・・

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などなど、

 

浮かんでは消え、消えては浮かび、

 

最後に到達したのが、

一遍聖絵ちっくな 遊行車箪笥!

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早く、

制作に取り掛かりたいと思いつつ、

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問題は、

終の棲家という・・・・

 

出発したら最期、もう戻らないという

私のテーマ設定にある。

 

寺を建てず、宗派を立てず、

生涯を遊行僧として過ごした一遍上人。

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一遍聖絵を見れば、

いかに層の人々が、

この男に熱狂したかがうかがえる。

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私の眼差しも、

社会の底辺を捉えたい。

 

路上こそ身の捨てどころ。

高原次郎兵衛・・・捨聖まであと何年?

 

 


『奥ノ院』

2014-06-10 00:09:41 | イケン!

 

ここは京都貴船の御社、

荒れ果てた奥ノ院。 

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深秋の丑の刻、逆さ五徳に蝋燭灯し

藁人形に五寸の釘を打つ女がいた。

 

白装束の裾から見える

透きとおるようなふくらはぎに、

びんと力を入れてつま先立ち、

袖をめくり色白のか細い腕で鋭く釘を打つ。

 

トン、ト、トン、ト、トン・・・

トン、ト、トン、ト、トン・・・

Sekienushinotokimairi_ushi

  

打つ釘の音色に合わせ

恨みにさいなむ女の、

唸るように唱える呪いの文言が

新月の闇の奥々へ染み渡る。

 

その一部始終を、

朽ちた板壁の節穴から

じっと見ていたひとりの翁がいた。

奥ノ院の祠を旅の宿とする遊行の捨聖である。

 

四日目の丑の刻、

捨聖の翁は女の前にゆっくりと現れて言う。

 

「女よ、毎夜毎夜、熱心なものじゃ」

 

女は突然現れた捨聖の翁に驚いて

尻餅をついたまま声も出ない。

 

捨聖の翁はやさしく言う。

 

「驚くな、驚くな、わしは遊行の僧じゃ。

 女よ、そんな業をして何になる。

 何を恨み、何を妬み、何を苦しむのか」

 

女は顔を伏せて答える。

 

「私にはどうしても気が納まらぬ訳がございます。

 その苦しみから逃れるために

 ここでこうして丑の刻詣りをしております」

 

捨聖の翁は言う。

 

「ほう、子細は聞かぬがそれは辛かろう。

 だがな、毎夜毎夜、藁人形に釘打つ音色を

 聞かされるわしも辛い」

 

女は眉間をくぐもらせて答える。

 

「藁人形に釘を打ったところで、

 恨む相手が死ぬると信じている

 わけではございません」

 

捨聖の翁は言う。

 

「では、なぜこのような業を行うのじゃ」

 

女は額に手をかざして答える。

 

「ここでこうして業を全うすれば

 私の心が安らぐ気がするのです。

 どこの誰だか見知らぬ僧の方、

 どうかここは見過ごし下され。

 あと三日でこの業も終わりとなりまする」

 

捨聖の翁は言う。

 

「では、あと三日だけ釘打つ音色を聞こう。

 業が終わった後で話すことがあるゆえ、

 また、ここへ現れよう。待っておるのじゃ」

 

女は伏せたままうなづく。

 

それから三日の間、

トン、ト、トン、ト、トン・・・と

漆黒の丑の刻に釘打つ音が木魂して、

 

最後の日に、

よりいっそう感極まった音色を残して

女は業のすべてを終えて、

その場に崩れ果てすすり泣いた。

 

奥ノ院の祠の中から

捨聖の翁がゆっくりと現れて女に言う。

 

「釘打つ音色が苦しみに満ちておった。

 心安らぐどころか

 ますます苦しそうに思えるが・・・」

 

捨聖の翁に救いを求めるように

女がとぎれとぎれに答える。

 

「そのとおりでございます。

 業を終えたところで何も心は安らぎません。

 釘を打てば打つほど恨みがつのり、

 ますます苦しみが増して、

 気がどうにかなりそうで

 恐ろしいばかりでございます」

 

「ほうほう、そうかそうか。そうであろう。

 釘打つ音色は正直なものじゃ。

 トン、ト、トン、ト、トン・・・

 トン、ト、トン、ト、トン・・・」

 

捨聖の翁は口で釘打つ音真似をして続けて言う。

 

「藁人形に釘打つ音色は

 あらゆる悪霊を呼び寄せて

 お前の身体に宿り、心を蝕み、気を狂わせる。

 憎しみ、恨み、妬み、争い、執着、迷妄・・・・

 これら一切の罪が因縁因果となって凶事を招く。

 恨みをはらすどころか

 自らの心と身体を病んでどうする?

 女よ、死ぬでない!」

 

心を見透かされた女は、

すがるように捨聖の翁に言う。

 

「どうすれば、私は救われるのでしょうか?

 どうか、私をお救いください。お願いします。

 私には帰る所もございません」

 

「そんなことは簡単なことじゃ」 

 

「簡単、なこと?」

 

捨聖の翁はやさしい目をして、

うなずきながら言う。

 

「心からありがとう、と1万回唱えるのじゃ」

 

「1万回?」

 

「そうじゃ、ありがとうを1万回唱えると、

 身体の中にある悪い因縁因果が毒となって下る」

 

「はい」

 

「次にもう1万回、

 心からありがとうと唱えるのじゃ。

 すると今度は、瞳から涙が溢れる。

 はじめはどろどろとした涙が出て、

 しだいに澄んだ涙となる」

 

「はい」

 

「さらにもう1万回、

 心からありがとうと唱えるのじゃ。

 すると今度は不思議なことに

 吉事が向こうから飛び込んでくる」

 

「はい」

 

「そうすればもう、意識せずとも

 自然に心からありがとうと唱える癖がつく。

 お前のまわりは吉事でいっぱいになる」

 

「はい」

 

「帰る所がないのなら、

 しばらくわしと一緒に遊行するがよい。

 わしはこれから備前児島瑜伽の神託を得るため

 西国へ下るところじゃ。

 なあに、かの一遍上人も女人連れで遊行したと聞く」

 

「はい、ありがとうございます。

 私も備前児島の瑜伽を見とうございます。

 何とお礼を言っていいのやら」

 

「礼などはいらぬ。

 お前はそのうち吉事でいっぱいになろう。

 吉事のおこぼれを、

 また迷う人に授ければよいことじゃ」

 

「ありがとうございます、

 迷う人に幸を授けることができれば

 まこと仕合わせなことでございます。

 心からありがとうございます」

 

こうしてふたりは西国へ遊行に旅立ち、

旅の道中、捨聖の翁は救った女に、

 

毎夜毎夜、涅槃寂静を説いて心をほぐし、

毎夜毎夜、諸行無常を説いて苦を滅し、

毎夜毎夜、諸法無我を説いて身を清め、

 

女は捨聖の翁に導かれるまま、

歓悦とともに、

四諦(苦諦、集諦、滅諦、道諦)の境地に達し、

切ない声で感謝の念を何万回も唱えつづけた。

 

女は魔法にかかったように

捨聖の翁に身も心も帰依することで

すっかり病も失せ、青白い肌に精気が戻り、

見違えるほどに心身共に平穏となり、

日々、晴々とした気分になった。

 

毎夜毎夜、

夜伽する女の顔をながめながら

捨聖の翁は仕上げの算段を練っていた。

 

「さて、室津か、日比か、下津井か、

 はたまた鞆までか・・・」

 

実はこの翁、

遊行の僧とは真っ赤な偽物で、

 

潮待ちの播磨室津の船宿で、

備前牛窓へ渡る船には乗らず、

 

ふいに、

この女に飽きたと一言告げて

馴染みの人買いに売りとばした。

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京おなごは器量も良く、

西国では高値で売れるもの。

室津の妓楼の主人が思わぬ高値を付けたという。

 

翁は金を懐に入れると、

すぐさま京へ踵を返し、

 

京都貴船の御社、荒れ果てた奥ノ院の祠に

再び身を潜めてつぶやく。

 

「それにしてものう、

 ここ奥ノ院は衆人のへそみたいなところよ。

 こそこそと世迷い人が現れ、

 こそこそと世迷い事を言うて帰る。

 世の中、誰もかれも幸せそうに見えて、

 皆、大嘘ばかり。大法螺吹きじゃ。

 神様に自分のことばかり願ごうて身勝手なものよ。

 皆、欲をきれいごとで包んで暮らしておる。

 ほんに俗人、哀れよのう。

 今夜はどんな世迷い人が現れるのか。

 金のもつれか、縁のもつれか、

 男色に女色、何でもよいが、

 人を救うはわしの天命、楽しくて仕方ないわい」

 

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京都家元フランチャイザー物語

2014-06-05 00:13:30 | イケン!

 

京都を離れて、

京都の文化を知ることは多い。

 

また、

京都の錬金術を知ることも多い。

 

京都以外の人は、

京都文化を妄信的に追従してしまう傾向がある。

 

京都は、

そんな京都追従の人から

莫大なお金を吸い上げる。

 

お花、お茶、お香、着物、舞踊、仏教・・・・

 

表ナントカ、裏ナントカ、

ナントカ流、ナントカ宗、ナントカ派・・・・

 

月謝代、道具代、免状代、戒名代・・・・ 

 

わけのわからぬ代金を

全国津々浦々の妄信信者から吸い上げる。

 

まるで広域〇〇団のように、

全国に張り巡らした支部から

京都本部に上納金が納められる。

 

その莫大な上納金が京都文化を支え

さらに、さらに京都文化は他を圧倒する。

 

そんなフランチャイザー京都のお土産で、

もらってうれしい物は・・・・

 

『松風』☆☆★★

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ケシの実と白味噌の焼き加減が絶品である。

昔は、阿片の味がしたのだろうか??? 

 

そして、 

もうひとつは・・・・

 

『大徳寺納豆』☆☆☆

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これが曲者で、

いやになるくらい美味い! とにかく美味い!

 

こんなに素朴な食べ物を

こんなに高級な味覚に押し上げる京都文化には

ただただ感服してしまう。

 

京都のお坊さんは庶民に内緒で、

こんな旨いものを食べていたのだろうか?

 

京都文化に対しては、

斜に構えたいんだけど・・・・

 

圧倒的な差を見せつけられると、

平伏叩頭、跪座低頭、匍匐膝行してしまう。

 

あゝ、京都はいろんな意味で憎い。

 

 

 


備前の歌人 平賀元義

2014-05-31 03:05:23 | シーパラダイス

 

かつての美しい児島湾を 

詠んだ歌を探してみると、

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備前の歌人 平賀元義 に突き当たる。

Miyanoura

 

 柞葉(ははそは)の母をおもへば児島の海

 逢崎(あふさき)の磯なみたち騒ぐ

 

 病の母を思えば、児島の海に突き出た

 逢崎(八浜町大崎)の磯に波が立ち騒ぐ

            ・・・・という意。

 

Hachihama

 

「母」と「児」の漢字が

対になって母子の強い絆を表し、

立ち騒ぐ磯の波と

元義自身の胸騒ぎが重なり合う。

 

今ではすっかり干拓地となって

海の情感が失われた八浜町大崎であるが、

 

江戸時代の、磯の波が打ち寄せる

美しい大崎の風景がよみがえる。

 

Nadasaki

  

平賀元義が児島湾を詠んだ歌は他に・・・・

 

 射干玉(ぬばたま)の月おもしろみ彦崎ゆ

 逢崎さして吾磯づたふ

 

 妹に恋ひ汗入(あせり)の山をこえ来れば

 春の月夜に雁なき渡る

 

などがある。 

  

平賀元義の人生は面白い。

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寛政12年(1800)、

下道郡陶村(現倉敷市玉島)で生まれ、

岡山城下で育ち、学問は独学。

家督を継がず、奇矯な振舞いを重ねる。

 

文政3年(1832)年に脱藩し、

諸国を彷徨し、女人遍歴数知れず。

とにもかくにも、女たらしで手が早い。

 

たびたび歌の中に登場する

吾妹子(わぎもこ)とは、

逢瀬を彩った愛人のことだという。

 

平賀元義の生涯は、困窮につぐ困窮。

最期は路傍の溝にはまって頓死したという。

 

後年、正岡子規によって発掘され、

 萬葉以後一千年の久しき間に萬葉の眞價を認めて

 萬葉を模倣し萬葉調の歌を世に殘したる者實に

 備前の歌人平賀元義一人のみ (墨汁一滴)

と評されて広く知られるようになった。

 

正岡子規が、

吾妹子先生と呼んで絶賛する

平賀元義の数ある歌の中では、

 

岡山城下五番町石橋の上の

吾妹子を読んだ歌が好きである。

 

 五番町石橋のうへに我が麻羅を

 手草にとりし吾妹子あはれ

 

 五番町石橋の上で立ちションしてる最中、

 いきなり男根を掴んできた可愛い女よ。

           ・・・・という意。

 

江戸時代、

確かに八浜の町を歩いた 平賀元義

 

また憧れる人が増えてしまって、 

・・・・困った。

 

参考: 先人の風景 平賀元義(山陽新聞)

 

 


日比の松太郎、田井の才次郎、八浜の浮田幸吉、直島の高原次郎兵衛利定

2014-05-29 01:41:14 | シーパラダイス

 

文化2年(1805)、

日本はロシアの通商要求を拒絶。

 

文化3年、

ロシアはエトロフ島を攻撃し蛮行事件を起こす。

 

文化8年、

ロシア海軍少佐ゴローニン艦長日本に捕らえられる。

 

文化9年、

海商 高田屋嘉兵衛はクナシリ島沖で

ロシア軍艦ナディア号に捕らえられ、

カムチャッカに抑留される。

 

 

この事件の結末は、

 

高田屋嘉兵衛の真摯で誠実な交渉術によって

リコルド副艦長と日本政府を説き伏せ、 

ゴローニン艦長の釈放、両国の和解へと解決に至る。

 

いわゆる、ゴローニン事件である。

 

 

この時、

 

高田屋嘉兵衛と共に行動していたのが

児島郡日比村(玉野市日比)の

水主(かこ)松太郎である。

 

後にこの話は、

日比の松太郎の口述書として

『児嶋郡松太郎漂流記』にまとめられる。 

 

日比の港が

活き活きとしていた時代の話である。

Okayama_085a (大正2年頃の日比港)

 

 

話のついでに、

この1800年前後の時代には、

 

同じく児島郡八浜(玉野市八浜)金剛寺の檀家

田井村に住む水主 才次郎が、

千七百石積みの神力丸にて江戸へ向かう途中、

 

紀伊潮岬沖で船頭他18名とともに遭難して、

遥かフィリピン北のボゴス島漂着し、

  

バタン、ルソン、マカオ、広東、乍甫を経て、

1年半後、長崎に無事帰国した時代である。

          (神力丸バタン漂流記)

 

また、

 

同じく児島郡八浜(玉野市八浜)の

世界で初めて空を飛んだ鳥人幸吉こと

浮田幸吉岡山城下を所払いになって

水主をしていた時代であり、

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また、

 

直島高原氏の分家

福岡藩士 高原次郎兵衛利定が、  

幕府によって取り潰された高原氏の

かつての島の繁栄を偲び、

直島 極楽寺山門に懸額を寄進した時代である。

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日比の松太郎・・・・ 

田井の才次郎・・・・

八浜の浮田幸吉・・・・ 

直島水軍末裔 高原次郎兵衛利定・・・・ 

 

同じ時代を生きた海の男たちが、

同じ海域で遭遇していた可能性は高い。

 

 

  

 

 

  


よそもの、わかもの、ばかもの、ものもの音頭

2014-05-26 09:56:09 | イケン!

 

 曲者 悪者 正直者

 ものものしく騒いだ 獣道

 もの悲しい哀歌 町に流れりゃ

 渡世者が 物申す

 モノマネよろしく 三度笠

 物差し片手に チャンバラごっこ

 奸物 ケダモノ斬った 今宵の酒の

 肴は 干物か 煮物か 酢の物か

 地物 初物 どんな代物 宝物

 汚れ物あつめて 洗濯すれば

 春物 夏物 秋冬物に

 色物 白物 漂白剤か

 漂泊するは 流れ者

 本物 偽物 まがい物

 古物 傷物 刃物に荒物

 叩き売るのはやくざ者

 男物でも 女物でも 景気は左前

 よそもの わかもの ばかもの 金いらず

 祝いめでたの 若松さまよ

 阿呆者 仕掛けた花咲く賭場に

 数寄者寄り合い 枝も栄ゆりゃ葉も繁る

 こちの座敷は祝いの座敷

 鶴と亀とが舞い遊ぶ

 ショウガネエ~

 アワレイナカノ マチハクチハテ

 ショウガネエ~

 よー シャン シャン

 まひとつしょ シャン シャン

 よーと三度 シャシャン シャン

 

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 地方の名言!

「よそもの、わかもの、ばかもの に金はいらん」

 

 

 


 金網の鴨

2014-05-17 22:48:16 | イケン!

 

 きっちり時間どおりに

 係の人間がやってきて

 たっぷりと餌の入ったバケツを

 ひっくり返す

 

 ケージに閉じ込められた鴨たちは

 無言で餌をむさぼる

 

 いつものように係の人間は

 暗い眼で鴨たちを眺めまわし

 いつものように鴨たちは

 その暗い眼に怯えながら

 無言で餌をむさぼる

 

 ケージの中で鴨たちの飢えはない

 たっぷりと餌が分け与えられ

 どの鴨たちも丸々と太っている

 丸々と太ることが宿命なのである

 

 丸々と太った鴨から順に

 係りの人間に連れ出され

 ケージから消えてゆくこともまた

 宿命なのである

 

 Small

 

 ケージを囲う金網は錆びて

 頼りないほどくたびれている

 おそらく簡単に

 くちばしで引き破れるだろう

 

 だけど誰も金網を引き破り

 脱走を試みる者はいない

 ケージを逃げ出したところで

 生きてゆくために餌を捕らえる術も

 生きてゆくために危険から身を守る術も

 持ち合わせていないのだ

 

 脱走して飢え死にするよりは

 抵抗もせず、何もせず、

 与えられるたっぷりの餌を

 貪る生き方が幸せなのだ

 

 時折、金網の向こうの空に

 自由に飛びまわる鴨の姿を見ても

 うらやましいとも思わない

 

 自由が不自由であることを

 ケージの鴨たちは、知っているのだろうか

 

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 いや、

 そんなことを考えることすら不毛なくらい

 もう何世代にもわたって

 ケージの鴨たちは、あきらめているのだ

 

 

 


能古島と大津島

2014-05-15 22:29:23 | イケン!

 

筑前五ヵ浦廻船とは、

福岡藩米の大坂・江戸への輸送、 

参勤交代や長崎警備の海運を

担っていた廻船集団である。

  

福岡黒田藩より廻船業を許された五ヵ浦とは、  

残島(能古島)、今津、浜崎、宮浦、唐泊の

五つの浦である

 

福岡今宿に住んでいた頃は、

自前の和船『勝丸』で博多湾の五ヵ浦を巡り、

特に能古島へは何度も通った。

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そんな行動を、 

『ひとり五ヵ浦廻船ごっこ』と言って

楽しんでいたのは、もう7~8年前の話。

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あの頃も今も、筑前五ヵ浦廻船と言っても、 

誰も知らないマイナーな歴史話なのだけど、

 

 寛延元年(1748年) 

 筑前五ヵ浦廻船 能古島の船が、 

 周防大津島沖で遭難して、

 十人の水夫(かこ)が命を落とし、 

 地元の人たちは名も知れぬ十人の水夫を

 手厚く供養した・・・・

  

という昔話は、もっと誰も知らない歴史話。

 

2010年、福岡~岡山の勝丸回航では、

その大津島を訪ねて十人の水夫の墓参りをした。

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大津島では十人墓』と呼ばれ、

260年を経た現在もなお、 

地元の『十人墓を守る会』の人たちの手によって

丁寧に供養されている。 

 

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そもそも、

筑前五ヵ浦廻船 能古島 の船が

大津島沖で遭難した話は、

  

昭和47年、

高田茂廣氏の功績によって掘り起こされ、

 

能古島と大津島の両島に『十人墓を守る会』が設立され、

交流が始まったという。 

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毎年7月7日には供養祭があり、

能古島の人たちも参列していたのだが、

この年、2010年は高齢のため参加できなかったという。

 

そんなタイミングで、

福岡から木造の和船に乗った私が

 

ひょっこりと『十人墓』を訪ねたので、

地元の人たちは大変喜んでくれた。

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しきりに、

昔、能古島へ旅行した思い出話を

 

「お花がいっぱいで、

 とてもとても綺麗だった!」 

 

と話してくれた。

  

能古島のお花は届けることができなかったけれど、 

能古島の海を知っている私の和船『勝丸』は、

  

この海で命を落とした十人の水夫に、

故郷、能古島の潮気を届けることができただろうか。 

 

せっかく掘り起こされた貴重な歴史が、 

高齢化という現象によって、

またまた埋もれてゆくようで・・・・ 

 

大津島は、

とてもセンチメンタルな想い出となった。

 

海難事故と供養・・・・

能古島と大津島との交流・・・・

 

めまぐるしい時代のスピードに、

かき消されないよう、願うばかりである。

 

 

 

 


児島半島宮浦に墜落したB29

2014-05-12 23:31:52 | イケン!

 

1945年6月29日、 

テニアン基地を発進したB29爆撃機約141機は、 

同日未明、岡山市街を無差別爆撃した。

 

市街地の73%を焼き尽くし、

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非戦闘員である市民1,737人を大虐殺した。

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実はこの時、1機のB29爆撃機が

機体番号44-61573、第58航空団468所属) 

児島半島宮浦、金上池近くに火を噴きながら墜落し、

乗員11名が命を落としている。 

  

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子供の頃、

飛行機マニアだった私はこの話を聞いて、

B29の残骸を拾いに行こう!と興奮した記憶がある。

 

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事故の後、宮浦の村人たちは、

バラバラに散った米兵11名の遺体を集め、

山腹に埋葬し、十字架の墓標を建てた。

 

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その十字架を訪ねようと、

ヒマコとふたりで山を登った。 

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今では登山道に、わかりやすい看板が

設置してあるのでありがたい。 

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墓標へはすぐにたどり着けた。 

劣化して縦半分に裂けたコンクリート製の十字架は、

年月の重みをズシリと伝えてくれる。

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十字を切って、神妙に手を合わせて黙祷すると、

藤の花に集うクマンバチの羽音が、

B29の機音のように聞こえてくる。

 

戦後、

アメリカ進駐軍は宮浦の村人に大変感謝し、

B29乗員全員の遺骨は本国に帰還されたという

 

空襲での犠牲者と、

戦死した米兵の命を考えながら、

 

戦争はつくづく愚かなことだと、

心底理解するまでずいぶん時間がかかったなぁ・・・と、 

金上池から児島湾を眺めながら思った。

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それにしてもまた、

墓の好きなやつ! と言われるんだろうなあ。

 

でも、

 

生きている人間よりも、

死んだ人間のほうが、

いろんなことを教えてくれるのは確かだ。

 

生きている人間の言う

「豊かな未来」には気を付けよう。

 

欲望を煽りながら、

自然環境を、誰かを、記憶を、心を、何かを・・・・

犠牲にするトリックが仕組まれている。