畑倉山の忘備録

日々気ままに

(魂の中小企業)1級建築士、荒波をゆく

2014年12月31日 | その他
(魂の中小企業)1級建築士、荒波をゆく(前編)


朝日新聞デジタル
2014年12月9日22時0分


 わたしは、おおくの女性経営者に話をうかがってきました。みなさん、凜(りん)として、強くて、まぶしいくらいに輝いています。
 こんかい登場していただく東平豊三さん(49)も、すごい人です。1級建築士です。46歳で太陽光発電ベンチャー「eーflat」(イー・フラット)を立ち上げました。スタッフは女性5人、男性1人。起業してたった5年ですが、今年度の売り上げは30億円を見込んでいます。
 大成功をしている、だけではありません。このコラムで取り上げるのですから、波乱の半生をおくってきました。それを笑いとばすところが、また彼女のかっこいいところです。
 おや、そこのあなた。浮かない顔をしていますね。えっ、男の名前じゃないかですって? ははーん、「豊三」を「とよぞう」と読みましたね。正解は「ゆたみ」。とうひらゆたみ、さんです。
 のちほど触れますが、彼女は兵庫県の国立明石工業高等専門学校、略して明石高専で建築をまなびます。30数年まえの高専には、ほとんど女子はいません。理系女子、リケジョなんて言葉、もちろんありません。
 入学して、はじめての出席とり。教師は、「とよぞう」と読みます。男だと思っているのです。東平さんは、はいっと手をあげます。すると、教師がいいました。「ことしは1人、女性がいましたね」
 いまも、まちがわれるそうです。会社に営業か何かの電話がかかってきて、社長を出してくれというので、東平さんが受話器をとります。「あんたじゃない。社長を出せ」っていうのです。「わたしが社長です」というと、「とよぞうを出せ」。あまりに失礼なので、「ちゃんと調べて電話をかけてください」と電話を切ったことがあるそうです。
 では、彼女のドラマをはじめましょう。
     ◇
 1965年、東京五輪があった翌年に、東平は、兵庫県の山間地にうまれた。家の窓から、ヤッホーと叫ぶと、こだまがかえってきた。建設業をいとなむ兼業農家だった。
 保育園では、ほとんどしゃべらない女の子だった。ともだちがいないので、砂場でひとりで遊んだ。お昼寝の時間、先生は寝なさいというけれど、寝なかった。目だけでも閉じていればいいのに、ぱちっと目をあけていた。
 保育園の先生が、母親にいった。「この子の将来が不安です」
 半年ほど登園拒否をしていたこともある。ともだちもいないし、おもしろくないからだった。家で図鑑や絵本、近所のおねえちゃんが貸してくれる本を、かたっぱしから読んでいた。母は、病気です、と保育園に説明していた。
 この頑固さ、一徹さは、いまも変わらない。だから、いまの東平がいるのだろう。
 小学校に入った。本の虫だったので、勉強の地盤ができていたのだろう、成績は優秀だった。テストで100点、100点、100点。「ゆたみちゃん、すごーい」とクラスメートから言われる。授業で、先生が東平さん指名する。「ゆたみちゃんだったら答えられるでしょ」
 注目されるようになって、性格が明るくなった。さらに、キューリー夫人やマザー・テレサなどの伝記を読みまくったので、正義感がめっちゃくちゃ強い少女に育った。高学年になったころには、級友たちを注意しまくっていた。
 「道の端っこを歩きなさい」「いじめちゃだめじゃない、先生に言いつけるわよ」
 そして、すでに身長が150センチ越えと、いまと同じぐらいあった
 そんなでっかい少女が、正義感まるだしで、みんなに注意し、怒っていた。だから、級友たちからの人気は、なかった。だから、人気者がなる生徒会会長にはなれず、副会長だった。今風に言えば、面倒くさい子供だった。
 でも、この正義感がなければ、いまの東平はない。
 中学は、小学校からの持ち上がり。ばつぐんの成績だった。ところが、しだいに成績が落ちていく。反抗期に入ったことにくわえ、両親が毎日のように大げんかしていたことが、おそらく原因である。
 「こんなんじゃ勉強できない。ふたりとも大嫌いだ」
 そう言い捨てて、しばらく、東平は祖母の家で暮らした。大きな屋敷に、ふたり。祖母は、「あんたは本当にかわいそうだ」と言ってくれた。東平のいうことを、はいはいと聞いてくれた。
     ◇
 さて、高校受験である。いくら落ち気味とはいえ、東平の成績だったら、進学校に入ることができた。大学への道が広がっているはずだった。
 だが、父親がいとなんでいた建設会社が倒産していた。父はこういった。
 「おまえには悪いけれど、大学には行かせてやれない。高校を卒業したら働け」
 勉強ができるのに残念だ、もったいない、と東平は思った。そして、進学先として探し当てたのが、高専だったのだ。
 高校と大学を合体させたカリキュラムを、5年間でする。国立なので、私立と比べたら、授業料は安い。これだ! 
 本当は本の虫、つまり文系女子だった。なのに、バリバリの理系の道を選んでしまったものだから、たいへんなことになった。
 応用数学、応用物理……、ぜんぜんわかりません。
 構造力学ですか……、やばいです。
 家にお金がないから高専にいっているので、バイトざんまい。さらに、高専までは片道2時間かけての通学。勉強する暇もなかった。
 おそらく、入試の成績はトップクラスだった。ところが、まっさかさまに落ちての超低空飛行。先生たちは、女子で留年させたらかわいそう、と心配してくれた。
 応用数学のテストでは、零点をとった。担当の先生が、追試の問題を予告してくれて、必死に暗記した。
 応用物理では、試験も追試も零点。東平は、担当の先生のところにいった。「先生、わたし留年するのかなあ」。リポートを書いて許してくれた。
 本人の名誉のために、付け加えなくてはなるまい。4年生からは専門分野になる。建築を学びはじめてからは、成績があがってきた。きちんと5年間で卒業できた。
     ◇
 水回りのリフォーム会社に3年いて、大阪の設計事務所に転職した。1級建築士になりたいと思ったのだ。そこは、高専の先輩ばかりがいた。みんな1回の試験で合格していた。「東平さんも、1回でパスするさ」と言われていた。
 プレッシャーを感じての、1級建築士試験。そして……、落ちた。
 事務所でいわれた。「初めてだ、落ちた人は」
 そもそも夜10時、11時まで仕事をしてマンションに帰る、それから、どうやって勉強するんだよ。東平は言った、心の中で。
 2回目も、ダメだった。
 3回目の試験。こんどこそ、と東平は思った。関門は、学科だった。でも、こんかいは無事にクリアした。あとは、設計図をかく実技である。3時間で二階建ての図書館を設計せよ、が試験だった。こっちは自信があった。
 ところが……。1時間半たっても、基準になる1階のプランがまとまらない。このままじゃ、やばい。「がんばって」と励ましてくれた母の顔が浮かぶ。頭がパニックになった。
 「すいません、トイレにいきます」
 トイレですわりこんだ。母が持たせてくれたお守りを見つめた。どうしよう、どうしよう。何とか心を落ちつかせ、試験会場にもどる。すでに残り1時間半になっていた。
 ところが、不思議なことに、猛然と描きはじめることができた。まずは2階から、そして1階と描いた。合格。1993年、1級建築士の免許をえた。東平、28歳のときである。
 免許はとった。でも、体調をくずしてしまった。ビル建築などを役所に申請する担当だったが、これがかなりのプレッシャーになっていたのだ。申請を通らなければ、建築ができない。建築できなければ、設計事務所の商売はあがったりである。
 通勤電車の中で、おなかがいたくなる。事務所が入るビルのエレベーターのまえにたつと、また、おなかがいたくなる。〈もうこれは続けられないかな。いったん休もう〉
 東平は、事務所をやめた。そして、遠距離恋愛していたふたつ年下の彼のもとへ。結婚し、横浜で暮らしはじめた。
 人材バンクには登録していた。川崎の建設会社の社長が、面接に来てください、と連絡をくれた。
 「わたし、結婚したばかりで、毎日遅くまで仕事できないんです」
 「1時間短くてもかまいません」
 1級建築士という肩書は強いのである。新築アパートの設計などをこなした。リフォーム部門を立ち上げ、「すべてを100万円ぽっきりでします」という商品を企画、大ヒットを飛ばした。
 仕事は順調だった。ところが、私生活が、とんでもないことになっていた。結婚した翌年には娘がうまれ、しあわせな家庭が築けると思ったのだけれど……
     ◇
 結婚4年目、東平33歳のときのことである。夫がサラ金に手をだしていたことがわかった。ありとあらゆるギャンブルに手をだし、サラ金数社から300万円の借金をしていたのだ。
 東平は自分の貯金で、夫の借金を、ぜんぶ返した。
 ホッとしたのもつかのま。半年もしないうちに、夫はまた借金。
 ショックだった。奈落の底をみるような気分だった。夫の両親とも相談し、サラ金から借りることができないような措置をした。
 そうしたら、夫は、友人に泣きついていた。
 「会社でミスをして、穴をあけてしまった」
 「お客さんとマージャンをすることになっていたんだが、マージャン屋に来なかった。店にいた人たちと卓を囲んだら、えらいことになった」
 そう言って、友人たちから借金をしていたのだ。東平は、懸命に返済しつづけた。わたしは何のために働いているんだろう。強烈な疑問で頭がいっぱいになった。
 あるとき、娘が熱をだしたので、病院に連れて行こうとおもった。財布にお金がなかった。娘をおんぶして、銀行にいった。口座に5~6万円のこっていたはずだから、そこから引き出し、病院にいこうと思った。
 ところが、残高はゼロ。夫がカードで引き出していたのだ。
 東平は、ATMのまえで、泣いた。あわてて実家の父に電話し、事情を説明したら、すぐにおカネを振り込んでくれた。娘を病院につれてさえいけないなんて、これはダメだ。
 35歳で別居した。夫を追いだし、娘との2人暮らしをはじめた。ときどき夫は帰ってきた。東平にも娘にも、やさしかった。でも、お金に超ルーズなのは、治らなかった。38歳で結婚生活にピリオドを打った。
 娘は自分についてくる、と東平は思っていた。ところが、娘から拒否された。「わたし、小学校を変わりたくない」と。
 東平は娘に、勉強しなさい、などと口うるさく言っていた。これが嫌だったようだ。
 「わたし、おとうさんとすんでみようかな」
 ショックだった。けれど、思い直した。夫は、娘と暮らしはじめたら立ち直ってくれるかもしれない、と思った。
 しばらく時がたった。娘が東平のところにきた。「おかあさん、わたし、いっしょに暮らしていい?」
 ワンルームマンションで、娘と暮らしはじめた。小学校をかわりたくないというので、川崎から横浜の小学校へ、こっそり通わせた。
 「お金に関しては、もっとひどいこともされました、ははは」
 そう笑い飛ばす東平。これ以上は聞くのをやめておこう。
     ◇
 さて、38歳でシングルマザーになった東平。私生活はたいへんなことになっていたが、仕事は順調だった。
 夫の借金問題を解決しようと奮闘するなかで、子どものころに原点がある性格が、前面にでるようになった。
 保育園のとき、先生の言うことをきかなかった負けん気、である。
 小学生のとき、同級生たちを注意してまわった正義漢、である。
 これがいかんなく発揮され、東平は不動産業界で知られる存在になっていく。
 もっとも、そのことがまた、東平の足をひっぱることになる。東平は、ふたたび、どん底におちるしかも、こんどは、仕事がらみだった。(つづく、敬称略)
     ◇
 中島隆(なかじま・たかし) 朝日新聞編集委員。福岡県生まれ。鹿児島支局をふりだしに、経済部記者、名古屋報道センター次長、東京生活部次長、「ニッポン人脈記」チームなどをへて、2012年4月から現職。著書に「魂の中小企業」(朝日新聞出版)、近著に「女性社員にまかせたら、ヒット商品できちゃった」(あさ出版)。就活生向けの朝日学情ナビでコラム「輝く中小企業を探して」を連載中。

http://digital.asahi.com/sp/articles/ASGD831TKGD8ULZU001.html?iref=comkiji_txt_end_s_kjid_ASGD831TKGD8ULZU001


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(魂の中小企業)1級建築士、荒波をゆく(後編)


朝日新聞デジタル

2014年12月23日22時0分

   まずは、前編のおさらいから。
 東京・銀座にある「e-flat(イー・フラット)」という会社は、太陽光発電ベンチャーで、リフォーム、不動産売買などもしています。
 社長は、2010年にここを起業した東平豊三さん、49歳です。
 「ひがしだいら・とよぞう」ではありませんよ、「とうひら・ゆたみ」です。もちろん、女性です。
 子どものころから負けん気の強いひとです。間違ったことはたださなければ気がすまない、正義感の強いひとです。
 1級建築士です。設計事務所や建設会社で、バリバリはたらきます。ただし、私生活はたいへんでした。ギャンブルにはまった夫の借金返済の日々に飽き飽きし、38歳で離婚。娘ひとりを抱えたシングルマザーになるのです。
 でも、仕事ぶりは業界で知れわたる存在になっていましたので、へっちゃらでした。
 それでは、後編のスタートです。
 東平さんは、とある不動産会社に転職しました。1級建築士の肩書と、実力をいかんなく発揮し、リフォーム部門をたちあげ、大成功をおさめます。役員にばってきされました。ここまでは良かったのです、ここまでは……。
     ◇
 社長がいて、ナンバー2がいて、ナンバー3がいて、そして女性の東平。そんな4人が取締役だった。
 東平は、間違いや不正をたださなくては我慢できない正義感の持ち主である。とはいえ、いっしょうけんめいに働いているひとに、あんたはダメだ、というようなひとではない。
 だから、社長は、許せた。ぴんとはずれな判断も仕方ないか、と思っていた。
 我慢できなかったのは、ナンバー2だった。いつも電話しているので、仕事熱心なひとだな、とはじめは思った。ぜーんぜん違った。知人の女性と話をしていたのだ。
 東平とナンバー2は、ときどき、いっしょに取引先に出向いた。ところが、ナンバー2は、自分だけ社有車でいき、東平には電車を使わせた。会社に帰るときも、電車で帰って、と放り出された。ぐーっとこらえて、東平は電車で帰社する。ナンバー2は、それからかなり遅れて帰社した。
 いっしょの車で行動するのを相手の女性が嫌がるから、というのが理由だった。
 東平は、社長に苦言を放った。「あのひと、どういうつもりなんでしょうか」
 ほんとうは、東平のはらわたは煮えくりかえっていた。東平は、取引先からの信頼があつく、ばつぐんの営業成績を残していた。働かないナンバー2、ぴんとはずれの社長のために稼いでいるわけじゃないのに。
 もっとも、東平は覚悟していた。会社のなかであまり好かれてはいないんだろうな、と。小学生のとき、道の端っこを歩きなさい、などと同級生に注意していた。あのとき、そうだったように。
 ところが、尊敬されていた。「いっそのこと、東平さんが社長になってくれたほうがいい」「東平さん、独立しちゃいなさいよ」といった声もあった。
 ある日、東平のパソコンに、へんなメールがきた。社長とナンバー2がやりとりするメールだった。間違って、東平のところに送られてきたのだ。
 読んで、おどろいた。東平を追い落とす策略をねるメールだった。
 人間は、悲しい生き物である。ねたみ、嫉妬が過ぎると、策略、謀略で追い落とそうとする。わたしも男だからよく分かるのだが、男の方がその傾向が、圧倒的に強い。
 間違いメールがきた翌日、東平は、社長に喫茶店に呼び出された。そして宣告される。
 「あしたから来なくていいから」
 そう来たか。
 「理由をおしえてください」
 「分かっているだろ」
 「分かりません」
 押し問答がつづく。そして、東平のパソコン、携帯電話を取り上げられた。取引先との癒着、クーデターの動きを調べるためだったようだ。もちろん、何も出てくるわけがない。仲がよかったナンバー3は、社長たちについた。東平は、クビになった。
 東平の人生設計が大きく狂う。川崎市内にマンションを買おうと持って、手付金をはらっていた。でも、あきらめるしかなかった。私立中学に通っていた娘は、部屋に引きこもりがちになった。中学をやめなくてはいけないかも、と不安だったのだろう。
 東平自身、頭の整理がつかなかった。
 〈いきなりクビなだなんて、全く理解できない。どうしたらいいの?〉
 やる気がおこらず、東平自身も引きこもり状態になった。まわりの人たちが心配してくれた。気持ちを奮い立たせて建設会社をめぐる就職活動もしたけれど、45歳で年収500万~600万円、という仕事がない。「建設業で女性がいきなり管理職はむずかしい」「年収が高い職はないだろう」と言われた。
 一日中、悩んだ。そして、疲れて寝る。友達とも会うのもおっくう。仕事にしか自信がないのに、その自信を奪い取られた。東平は、自分という人間そのものを全否定された、と感じていた。
 そんなとき、励ましてくれた女性がいた。彼女の名は、榎仁美(えのき・ひとみ)。東平の12歳年下である。「東平さん。会社をつくって、いっしょにやりましょうよ」
 東平が榎とはじめて会った、いや、見たのは、東平をクビにしたあの会社の面接だった。役員だった東平は、すっかり榎を気にいった。ハキハキしていて、頭の回転がはやい。そこは、ふたりともいっしょ。慎重派の東平と、行動派の榎と。性格がちがったので、かえって馬があった。
 じつは、東平がクビになって2カ月後に、榎もあの会社をやめていた。会社の雰囲気がおかしくなったからだ。男性社員たちは、下手なことをいったら、会社をクビになるかも、とビクビクしていた。男たちは、会社にすがりつく。こんな会社に未練はないわ、とさっさと、榎はやめた。
 そして、東平と榎は、2010年、会社をつくった。資本金は東平だけが出し、榎はあくまでも社員。榎は思った、共同経営にすると、どんなにふたりが仲良くても、もめる、と。だから、自分はあくまでも社員で、と考えたのである。
 知人の知恵も借りて、社名を考えた。東平、東平……、東は英語でEAST(イースト)でしょ、平らは、英語でFLAT(フラット)よね。EAST FLAT、EAST FLAT、略して、EFLAT。ちょっとおしゃれにして、「e-flat(イーフラット)」にしましょ。
     ◇
 はじめは、高齢者関連の施設をつくろうと考えた。ふたりで、不動産会社や地主などを営業してまわるが、ぜんぜんダメ。
 午後4時になったら、営業するところがない。ジタバタしてもしょうがない、よし、飲みに行こう。
 店をあけている居酒屋を意地でもさがして、飲んだ。ビール、しょうちゅう。「なんとかなるわ」「でも、方針転換も必要よね」。ああでもない、こうでもない。そして夜11時ごろ、おひらき。翌朝、またふたりで営業である。
 リフォームの仕事をはじめ、倉庫の管理など、コツコツと仕事を広げた。ポッと出の女性だけの会社だったので、設計図をタダで描かされたり、宴会でお酌係をさせられたりもした。
 東平と榎は誓い合った。
 「正々堂々と、企画力、技術力で勝負よ」
 「わたしたちは、ただの建設屋ではない。不動産屋ではない。だれにもできない仕事があるはず。それを探すのよ」
 2011年3月11日、東日本大震災がおきた。東京ディズニーランドがある千葉県浦安市は、おおきな被害にあった。東京湾を埋め立てた土地が、いわゆる液状化現象でゆるゆるになり、おおくの家が傾いた。
 傾いた家を元に戻してあげたい。東平と榎は、そんな思いにかられる。
 物を持ち上げる「ジャッキ」と呼ばれる装置をつかって家を引きあげれば、傾きは修正できて平らになる。大きなジャッキをもつ業者に頼めば、やってくれる。平らにする、これこそ、文字どおり、「e-flat」の仕事である。
 浦安市全域に、チラシをまくと、10棟ほどに頼まれた。東北の復旧の邪魔にならないよう、西日本の業者に頼んで、傾いた家を引き上げ、平らにした。ありがとうございました、とお客から感謝される。
 ポッと出の会社だけれど、実績をつむと、信用がましてくる。リフォーム、建築、不動産と仕事がふえていった。そして、太陽光発電。50キロワット以下のシステムを設置して土地ごと分譲する、という仕組みを考えた。関東各地で、あわせて4万6千坪、電力にして12メガワット分、230区画を販売している。
 太陽光など再生可能エネルギーの受け入れをめぐり、大手電力が受け入れを中断する問題がおこっている。もっとも、東京電力は関係ない。そして、東平の会社では、受け入れることが確実でなければ、区画を販売することはない。そのあたりは、東電や役所としっかり連携している。榎のばつぐんの行動力が、いかんなく発揮されている。
 売り上げは今年度、30億円になる見通し。スタッフはいままで女性6人だったが、この10月、男性スタッフが入社してきた。東平をクビにしたアノ会社でいっしょだった、元部下である。
     ◇
 離婚、謀略。東平さんは、男たちに振り回されてきました。
 彼女のカッコイイところは、「社会勉強をさせてもらいました。感謝しています」と笑い飛ばすところです。
 痛い目にあってきたのに、東平は「正々堂々と、決してひきょうなことはしない」と決心しています
 そこが、女性の強さなのかもしれません。
 わたしは、中小企業の世界を取材してまわっています。そこには、輝いている女性がたくさんいます。シリウス、プロキオン、ペテルギウス。あの冬の夜空に光る大三角のように。(一部敬称略)
     ◇
 中島隆(なかじま・たかし) 朝日新聞編集委員。福岡県生まれ。鹿児島支局をふりだしに、経済部記者、名古屋報道センター次長、東京生活部次長、「ニッポン人脈記」チームなどをへて、2012年4月から現職。著書に「魂の中小企業」(朝日新聞出版)、近著に「女性社員にまかせたら、ヒット商品できちゃった」(あさ出版)。就活生向けの朝日学情ナビでコラム「輝く中小企業を探して」を連載中。


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