坪内による三鬼の〈モダニズム〉批判から、40年もの年月が過ぎ去った。世紀末を挟んで、すでに21世紀も10年代後半に入ったが、現在もこの批判は有効であろうか。答えは否である。そのいちばんの理由は、批判すべき〈モダニズム〉の温床となり、政治・社会・文化の全メカニズムを支え続けた資本制(生産力)の高度化が、1970年代に沸点に達し、明けて80年代初頭に至って勃興した【ポストモダン】に取って替わられたことである。
ポストモダンの内実は、次の二点に要約される。第一に、生産優位(労働価値)の経済から、量から質への《消費》の高度化の進展である。第二に、この《消費》の多様性を生み出す《情報》の高度化である。人々は自らの肉体感覚に裏打ちされた主体的な価値判断より、多種多様なマスメディアによって日夜、一方的に与えられる選択肢から、より合理的で迅速な商品の選択を要求されるようになった。謂わば《情報》と《消費》の寡頭制である。人間の全領域を席巻していった巨大な時代の変化の渦中で、日本近代にあっては本質的に没主体の架空の肉体言語に過ぎない【定型言語】などひとたまりもなかった。
1970年代は、私の20歳代とピタリと重なる。青春期が終った後の倦怠感を一掃するかのように始まったこのなし崩しの〈変容〉は、あまりにも根底的で容赦の無いものであった。・・・《続く》