私は1979年に俳句と出会った。1960年代の終わりに聴き始めたAMラジオのニッポン放送【オールナイトニッポン】の俳句コーナーであった。当時、大学受験生のながら勉強の定番番組で、高校在学中はほとんど毎日聴いていた。明けて1970年代の前半に大学入学のため上京してからは遠ざかっていたが、ふと耳にしたのが【角川春樹の俳句教室】であった。それまでの数年間、学生運動の残り火やカウンターカルチャーの新展開の渦中に身を置いて、それらの完全消滅を見届けた。しかし、私自身の青春期は終るどころか煮え切らないまま20歳代後半に突入していた。その時、私が見た俳句とは【俳句形式】による詩の一表現形態ということであり、明治期から戦前・戦後の俳句の歴史など関心の外にあった。大学の学部は経済系であったが、関心は客観的なものとしての《政治》と個人の実存を追及する手段としての《文学》に向けられた。文学ジャンルでも、60年安保や70年安保世代の現代詩や小説に興味が集中していた。そんな中で、チャキチャキの70年安保(全共闘)世代の坪内稔典氏の『現代俳句』はとても身近でわかり易く、自己表現の言葉として親しみ易かった。しかし、70年代の終焉を迎え、今更こんなことに関わっていても何も展望は拓けないという苛立ちに変っていった。俳句形式には、その時の絶望も苛立ちも盛ることは出来ないことはあまりにも明白だった。それなのに、抜けぬけと戦後俳句だ前衛・伝統だなどという言い方は全く話にも何もならない、単なる【70年安保】という突出した時代に巡り会うことの出来た特権意識のようなものにしか感じられなかった。そのようにして、私の20歳代は【80年代】という《他界》のとば口で、早くも新しい絶望感に押し包まれようとしていた。・・・《続く》
帯文にある『過激かつ新しく!』など全くのハッタリに過ぎない。かつての《過激さ》の残滓は何の【新しさ】も生まなかった。「船団」が出発した1980年代から90年代、そして満を持して突入した21世紀に【俳句形式】の居場所などどこにも無かった。ここにあるのは、それを認めようとしない、死ぬまで【全共闘】の坪内稔典の自慰行為でしかない。