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獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

対話ブログ・ステージⅡ:その後の記事(16)

2021-12-16 01:25:30 | 対話ブログ

■の文章は、シニフィエさんの対話ブログからの引用です。


■良心のかけら           投稿日: 2014年3月16日

これまでのみなさんのお話を通じて、今までには知ることのできなかったことがたくさん出てきました。でもいちばん感じるのは、地域は違っていても、創価はほとんど同じようなことを会員に要求し、それを同じように受け止め、同じような切り口で折伏をし、新聞をとり、財務のためにお金を捻出し、公明党だから正しいんだという思い込みで選挙運動に駆け回っているということ。これを創価内グローバリズムとでもいいましょうか(笑)。いわゆる独裁ですね。みんな紋切り型のことしか言えない。個性も平等も自由も民主主義もない、上から言われるがままの組織です。そしてそのような組織に疑問を感じさせないようにする見事なまでのマインドコントロール。普通の人間ならここまで人を騙し続ける人生を送ることなんて、あんまりできませんけどね。良心の呵責に押しつぶされていいようなものですが、創価の中枢幹部は筋金入りの悪ですよね。あの池田氏にはいはいと尻尾を振って生きていけるのですからたいしたものです。自分が一生を終えるときに後悔はしないのでしょうか。一般会員とは違って中枢部は自分たちのやっていることがどういうことなのかを十分わかっているはずです。しかしだれもその手の内をあかさず、のうのうと白々しいきれいごとを言い続けていくことができるのは、やはりただものではありません。学会中枢部ほど仏法の道理を完全に無視して生きている人たちだといえるのではないでしょうか。でなければこんな恐ろしいことはできませんよね。学会中枢部に良心のかけらでもあれば、ここまで多くの人が苦しまなくてもよかったのになと思います。
哲学や心理学や物理学を突き詰めていくと、どうしても宗教に近づいていきます。社会学や文化人類学などは宗教とは切り離せません。もちろんそれは学問という範疇のことですが、宗教を学問として捉えるにはやはり限界があるようです。そう言った意味では芸術は宗教へかなり踏み込んでいると思います。覚醒した今、私は自分のなかで宗教というものをどのように位置づけたらいいのかを悩んでいます。私が尊敬する作家や学者や芸術家がみな禅宗や精神修養としての座禅にとても興味をもっていて、みな実践しているところを見ると、禅というものに興味を持ち始めているところです。

 


解説

シニフィエさんが書いています。

私が尊敬する作家や学者や芸術家がみな禅宗や精神修養としての座禅にとても興味をもっていて、みな実践しているところを見ると、禅というものに興味を持ち始めているところです。

いいことですね。
私も、瞑想や禅は実践しています。
そういうお話を、ぜひシニフィエさんとしたかったものです。

対話ブログが非公開になったため、これについたコメントを参照することはできません。
詳細を書けず、残念です。
是非、シニフィエさんには、対話ブログを再開していただけることを望みます。

獅子風蓮


対話ブログ・ステージⅡ:その後の記事(15)

2021-12-15 01:22:44 | 対話ブログ

■の文章は、シニフィエさんの対話ブログからの引用です。


■信じるということ         投稿日: 2014年3月8日

「できると信じる勇気さえ持てば、どんなことでも達成できる」
これはトニー・ゴードンというその筋では有名な人の保険の営業メソッドです。営業マンの心構えみたいなものですが、ちょっと怖い気もします。一見ポジティブで勇気づけられるような言葉ですが、一歩間違うと創価の活動家のような思考停止部隊のようになってしまうからです。保険の営業マンならそれでもいいのでしょうが、信仰に関してこのような考えを持ってしまうと、まさに創価学会のようになってしまうと思います。つまり創価学会は宗教を利用した営業マン育成組織なんですね。学会の上層部がお金儲けのために宗教を都合よく利用している組織だと考えるとわかりやすいのではないでしょうか。学会の各会合はそうした営業メソッドを会員に強化する研修会のようなものです。創価班も牙城会も守る会も会場維持費を節約するのに都合のいいシステムです。宗教法人は税金がかからないし、会員は学会がいくらお金を儲けて、それがどのように遣われているかを一切知らされないし、そのことに会員はまったく疑問をもたない。ちょっとでも疑問を持つと不幸になると信じ込まされているからです。まさに心をがんじがらめにされています。
生命保険というのは、もともと人間の将来に対する不安を元手にお金を集めることを考えた西洋人(ここはあえて西洋人でおさえておきます(笑))の発想です。つまり仕入れ費用がまったくかからないで、どうやってお金を儲けるかというところからのビジネスです。まあ、それが販売者と購入者が交わす契約としてのビジネスであるうちはいいのでしょうけど、創価のようにうそっぱちで人の不安を煽り、これを信じれば幸せになれる。逆にこれ以外を信じると不幸になってしまうということを、あの手この手を使って信じ込ませる。そこは他のカルト宗教と同じですね。信じた人間はまさにこの「できると信じる勇気さえ持てば、どんなことでも達成できる」と盲信して、どんなことでも言ったりやったりしてしまうのです。学会員の暴言や信じられない行動や思考回路は、本人にとってはごくあたりまえのことであって、学会員以外の人間は「正法に縁のないかわいそうな人」でしかありません。ましてや脱会者においては「地獄に堕ちる」「どうせろくな死に方はしない」と思い込んでいます。しかし、そこに現実を見る目がないことに気づかないのが学会員の大きな特徴です。人間の力ではどうしようもない大きな力を信じて、そこに依存することによって、将来の不安をごまかそうとする。つまり現実から逃避し、自分の思考を停止し、「修行(寄付と勧誘と選挙活動)」なるものに没頭する。そこに安堵感を覚える。そんな人たちのコミュニティに共感を覚え、ますます上層部の金儲けのための営業マンになっていく。ほんとうに人の人生を元手に金儲けをやってきた極悪非道の組織です。
学会員さんたちはどうしてあたりまえの話が通じないのかというのはこうしたシステムだからです。
「一度信じてしまうと、どんな不条理なことでも信じてしまう」
「疑ったら不幸になると信じている」
「人に勧めれば勧めるだけ幸せになれると信じている」
「他の宗教では不幸になると信じている」
「学会員にとって信じるということは自分で考えないということ」
私は創価から覚醒して、創価のことを自分で考えた結果、このようなことがわかりました。創価に対して少しでも疑問を持っている学会員さん、自分の人生なのですから自分で考えてみませんか。何かを信じることは素晴らしいことだと思います。ただ信じるものを間違えると、自分で考えることすらできなくなるということもあるんだと、自分で考えてみてください。


■信じるということ 2          投稿日: 2014年3月12日

この二つ前の項目の「信じるということ」に今もコメントが絶えず、すでに60を越してしまいましたので、続きのコメントはこちらにお願いします。
人類史の中で「信じる」ということは太古の昔から、人間の生活に深く根付いていました。人類最古の絵画といわれているラスコーやアルタミラの壁画も、命の糧となる狩猟がうまくいきますようにといった祈りのためのものだと言われます。現在見つかっている時点での遺跡ですから、実際にはもっと古くから祈りや信じるということが人間の生活の中心になっていたのだろうと推測されます。そして今もなお「信じる」ということは人間の崇高な精神活動でもあります。もっとも、信じることは、あの忠犬ハチ公のように、ご主人の帰りを信じていつまでも駅で待っているといったように、犬や猫にもあります。野良猫でも近所に餌をくれるおばさんがいたら、時計も持たないのに、きちんとえさ場に集まってきます。これだって「信じる」ことに変わりはありません。
「問題は何を信じるのか」だと思います。第二次大戦中、あの質素で思慮深く賢いドイツ人がヒトラーの演説に陶酔し、ものすごい虐殺を支援したように、人は場合によってはどんなことでも信じてしまうのだということがよくわかります。第二次大戦が終わるまで日本人も天皇は神だと信じ込まされていました。神の国である日本が戦争に負けるはずはないと信じて、特攻隊は自爆していったわけです。しかしそれを指揮していた軍や政府の上層部は日本の敗戦がわかっていました。知らなかったのは多くの軍人や一般人です。女も子どもも竹槍でB29戦闘機を撃墜するんだと本気で思っていました。連合軍が日本に乗り込んできたときには恥ずかしめを受ける前に自害しろと教え込まれていました。
戦争が終わって、すべての価値観がひっくりかえされました。日本は侵略国だったこと。天皇は神ではなかったこと。自分たちは完全に騙されていたことに気がつきました。中には、それまでの価値観で人生を過ごしてきたことが受け入れられずに、なんとか自分の人生を正当化しようとする者もいました。
自分の信じてきたことが明確に間違いだったと気づいた時、人はそれぞれに違った行動をとるようになります。ある人は、事態を冷静に受け止め、これまでの間違いを勇気を持って受け入れ、これからのことを考える。ある人は「そんなことはない」と、これまでの自分をどうにかして正当化しようとする。ある人は自分を騙していた者たちを責め復讐しようとする。ある人は、これまでとは違っても、また同じような価値観に頼ろうとする。ある人は生き甲斐をなくし、無気力な人生に陥ってしまう。ほかにもいろんなかたちがあると思います。
理屈だけで簡単にすまされないことは百も承知ですが、信じることの尊さと同時に怖さもあるということをしっかりとふまえなければなりません。
私たちはつい数年前まで、原発があんなに脆弱で、とんでもなく恐ろしいものだとは知りませんでした。知らされていませんでした。「原子力 未来に輝く エネルギー」という看板が、誰もいなくなった福島の町に今も残っています。鉄腕アトムを例に出すまでもなく、私たちは原子力と言えばこれからのエネルギーだと信じ込まされていました。そこにとんでもない危険が潜んでいることなど知らされませんでした。核の平和利用という詭弁にまんまと騙されていました。
信じるということ。創価学会では、中枢部を除いた一般会員はみな騙されてきました。巧みな情報遮蔽によって、そして巧妙なMCを常に強化するかたちで、財務、折伏、新聞啓蒙、各種会合、選挙活動をよろこんでするような人間につくりかえられてきたのです。
「騙されるほうが悪い」と、ある人はいいます。「少なくとも自分は賢いから騙されたりしない」と。それでは戦時中も騙された日本やドイツやイタリアの国民の誰もがその人よりも愚かであったのでしょうか。その人は原子力は危険だと、福島のような事故がいづれ起こると警告してきたでしょうか。
私たちは何かを信じなければ生きていけないと思います。自分を信じ、家族を信じ、人を信じ、国を信じ、人が自分ではどうすることもできない力を信じ、それが人によっては神であったり、宇宙の法則であったり、お金であったりするわけです。
そこに創価学会は信じる人の営みと弱点に目を付け、お金儲けを考え始めた。何かを信じ込ませてお金を貢がせる。病気が治る。お金が儲かる。幸せになれる。ただしこれを何も考えずに信じればという交換条件を出す。同時に信じることをやめたら不幸になるという脅迫もする。
学会員のみなさん。なかでも学会のことを少しでも疑問に思っているみなさん。自分は何を信じているのか考えてみてください。信じるべきものを信じているのかどうか。その結果、今の自分はどうなのか。自分の周りで同じものを信じている人がどのような人生を歩んできたのか。自分で考えてみてください。60数年前まで、日本は神の国だと、ほとんどの日本人が信じ込まされていたんです。いま創価学会員であるあなたが学会中枢部によって騙されていないという確証は何もありませんよ。
公明党の票とひきかえにして安倍政権が何をやっているかをみれば、おおよそ賛成はできません。逆に安倍政権に協力するかわりに見返りを得ている公明党=創価学会が世界の平和なんか考えちゃいないこともわかります。
たとえば安倍首相が異例とも言える数の外遊で行ったことは何かというと、東南アジアやトルコに原発を売り込みにいっただけではありません。

 


解説
対話ブログが非公開になったため、これについたコメントを参照することはできません。
詳細を書けず、残念です。
是非、シニフィエさんには、対話ブログを再開していただけることを望みます。

獅子風蓮


対話ブログ・ステージⅡ:その後の記事(14)

2021-12-14 01:19:51 | 対話ブログ

■の文章は、シニフィエさんの対話ブログからの引用です。


■対話の可能性[1]         投稿日: 2014年1月2日

これまでも数人の現役活動家の方がここにコメントされてきましたが、私をはじめ、創価のまちがいに気づかれた方がいくつかの質問をされると、みなさん何の反論もすることなく去られました。それは反論できなかったのか、反論する気も起きなかったのかはわかりませんが、いずれにせよ現役活動家の方との対話はこれまで成り立ちませんでした。このブログに現役活動家の方がコメントされること自体がめずらしいことであると同時に、めったにない現役活動家さんとの対話への機会であるのですが、今回もこれまでと同じようになってしまうのかなと残念に思いつつ、それでも根気づよく対話の可能性を試みていくことの意義はあるだろうと思っています。
創価の間違いに気づいた方は、創価の矛盾をいくらでもあげることができますが、それに対して納得のいく反論を創価の方から聞いたことはありません。あるのは判で押したような学会の指導の言葉を並べるだけです。創価の間違いに気づいた方にとっては、創価の間違いは一目瞭然なのですが、現役活動家にとってそのことがどうしてもわからないのは、やはり自分自身が思考停止されていることに気づかないからだと思います。そのような組織の構造になっているからです。ですから何を言われても上からの指導の言葉以外に言葉が出てきません。まさに組織の思う壷です。これは新興宗教に共通に見られることでもあると思います。目の前の間違いが間違いと思えない。これが決定的なことだと思います。だから彼らにどんなに創価の矛盾を問いかけても、そのこと自体が見えなくなっているのだから対話が成立しないのだと思います。
では、どうやったら現役活動家の方との対話ができるのか。私は以前「コミュニケーション能力について」というタイトルで内田樹氏のツイートを紹介したことがあります。
ここです↓
http://signifie.wordpress.com/2013/09/12/408/
内田氏の言葉にあるように「私は私の立場をいったん離れる。ついてはあなたもあなたの立場をいったん離れてはくれまいか」ということだと思います。
今はお互いに対話が成り立たない。それはお互いの立場を背景に主張を続ける。一方では相手の間違いを指摘するばかりであり、一方では指摘された内容に触れることなく、上から言われたことを繰り返すだけだからです。これではいつまでたっても対話は成り立たないでしょう。そこで私はあえてここにコメントをくださるみなさんに提案したいと思います。お互いに言いたいことは山ほどあることはよくわかります。しかし、もし現役活動家のみなさんと、創価の間違いに気づいた方たちが、それでも対話を成り立たせたいと思うのであれば、一度お互いに自分の立場を離れてみてはどうでしょう。つまり創価の間違いに気づいた方は、あえてごく普通の創価のことは何も知らない一般人として話をする。これはそれほど難しいことではないと思います。そして現役活動家の方も、自分が創価学会員ではないという立場になって話を聞いてみて、考えて、意見を述べてみるという方法です。しかしこれはなかなか難しいかと思います。なにしろ普段から「創価が一番正しい」という前提でものごとを考えているのですから、そう簡単に一般的な思考ができるとも思えません。しかしそうした努力をすることによって、まったく違う考えを持つものがコミュニケーションを成り立たせるのであれば、こんなに素晴らしいことはないのではないかと思います。
まず大切なことは、武器(立場)を捨てて共通のコミュニケーションのフィールドに立つということだと思います。お互いに土嚢を楯にしてマシンガンで打ち合っていても対話はできません(笑)。
もしこの私の提案に賛同していただける現役活動家の方がいらっしゃるのであれば、その旨のコメントをいただきたいです。


■対話の可能性[2]         投稿日: 2014年1月11日

年末にお二人の活動家さんからコメントをいただいたので、せっかくのこの機会にと思い、対話の提案をしました。それから10日がたちましたが、残念ながらその後何のお返事もありませんでした。ここではこれからも活動家さんとの対話を望んでおりますので、よろしくお願いします。

 


解説
対話ブログが非公開になったため、これについたコメントを参照することはできません。
詳細を書けず、残念です。
是非、シニフィエさんには、対話ブログを再開していただけることを望みます。

獅子風蓮


対話ブログ・ステージⅡ:その後の記事(13)

2021-12-13 01:15:39 | 対話ブログ

■の文章は、シニフィエさんの対話ブログからの引用です。


■今年も対話の場として続けていきます     投稿日: 2014年1月1日

あけましておめでとうございます
今年もよろしくお願いします
新年早々こんな話題はどうかと思ったのですが、ずいぶん昔のページに現役学会員さんが先日コメントされていて、それにモニカさんがお返事をされています。さらに別の学会員さんがコメントされているのですが、なにしろ昔(一昨年)のページなので、見逃されている方も多いと思いまして、ここで紹介させてもらうことにします。ここではめずらしく現役の学会員さんで、なおかつ学会を信じていらっしゃる方が二人もコメントされていますので、皆さんとの対話ができるといいなと思いました。以下にアップさせていただきます。
_____________________________
一会員さんの発言:2013年12月25日23:00
正義はそれを理解しない者にとっては何の力も持たない。
僕は巨悪に加担しとろうが、正義を宣揚し続ける。そこまでいうなら、具体的に創価学会の何が悪なのか暴露してみたら?それによってあなたの日常生活にどんな悪影響があったんですか?もしあったなら、それをあなた自身が信じる正義に即して路線変更していこう位の行動はしたんですか?どんな決意をして、どんな具体的な行動を起こして、どんな結果を出したのですか?それも書かずに批判、否定されるのは甚だ愚痴に近いですね。池田先生も言われています。組織といっても長い年月を経たら、様々ある。その中でたとえ悪い事をしてしまったとしたら、その悪に気付き、そこから同じ過ちが起きないように軌道修正していけばいいんだと。あなたはそれをしましたか?
言っても無駄と思ってるだけでしょ?
『あなたがたとえ地獄に落ちたとしても、私も一緒に地獄に落ちます。むしろ地獄の方にこそ仏界はあるでしょう。四条金吾殿御返事より』
この御本仏の境涯から見た時に、あなたが巨悪だの洗脳だのって言ってる事自体、それが何か?って聞きたいですね。別に、あなたがそう思うならあなたが正義と思えるように変えてみたら?あ、もしかしてこのコメントで変えてるつもり?単なる愚痴にしか見えないのは僕だけかな?


モニカさんの発言:2013年12月26日21:02
創価を改革?路線変更?愚痴を言ってる暇があったら行動しろと?
アホらし。そんな改革する価値もないです。こっぱ微塵になってほしいわ。
そのくらいの団体に見られているんですよ。
長い年月の間に組織が腐敗し、たとえ悪いことをしてしまったら、それを反省し、改め修正する?笑わせないでよ(^<^)
創価ほど謝らない団体、見たことないです。
キリスト教は二重人格、外道、ランクが下…謝罪したんですか?
教えの根本である教学。間違ってました。間違いを片端から絶版にする前に、未熟でした。〇〇は以下のように訂正させて頂きます。申し訳ございませんでした、と表明したことありますか?
宗門攻撃の時、ねつ造写真と記事を掲載したことに謝罪しましたか?報道機関として恥ずかしくないんですか?
創価が謝らないから、私たちが代わりに謝ってるんです。嫌な顔されても事実は認めて頭を下げてるんです。不正を告発してるんです。
人間ですから、間違いも失敗もあります。それを認めることで信頼も取り戻せているんですよ。
創価は、自分たちは絶対正義。間違ったことなどない。間違ってるのはアナタたちだ!と創立以来、言い続けてますが、それでずっと信頼されていますか?笑われ、軽蔑されていますよ。
それが「御本仏の境涯」なんでしょうか。


匿名さんの発言:2013年12月31日10:00
たまたまこの掲示板を見ました。
私は創価大学卒業し、現在50歳です。学会2世です。
組織ですから、当然、学会員も過ちも犯してしまいます。しかし、それと学会組織の過ちを混同してはいけないと思います。
私も凡人ですから、学会員同士の人間関係や組織の在り方に疑問を持つことはあります。
しかし、池田先生は、私を一度たりとも裏切られた事はないばかりか、私がどんな状況にあっても、常に励ましを下さいます。1会員の私にまで、発心できる激励を頂戴します。
学生時代に池田先生を師匠と定めた限りは、人生終わるまで弟子の道を歩みます。もちろん、それに十分値する師匠であると研鑽を重ねた今の年代になっても、思いは変わりません。
学会2世は入信動機が希薄なため、どうしても、我流に陥りがちです。御書やそれが無理でも池田先生が現代に蘇らせて、すべての講義をして下さっています。その研鑽もなく、表層的なものだけで学会や池田先生を語るのは、親御さんの信心継承がなされていなかったのでしょう。残念です。当時は、生活するのに必死だったでしょうから、我が子に仏法を語って聞かせる人が少なかったのも背景にあると、私は思っています。
信心は、「信じる心」です。個人の自由です。ただ、私は自分の体験からも我が子に語り継いでいます。
ともあれ、私は、人間として若き日に師匠と決めた池田先生を馬鹿にされると、どうしても黙っておれないので、コメントしておきます。
もしよければ、「新 人間革命」第8巻をお読みください。仏法に違背した退転者の心理や言動が正眼で書かれています。
要は、自分を正当化したいだけではないですか?
もう一度、日蓮仏法の本質を見極めるべきだと思います。事実の上で学会しか本流はありません。
(但し、組織として悪い事は直していくべきとの意見には賛成です。)
_____________________________
以上です。
どんな考えの方であっても、対話の意義を感じておられる方であれば、コメントをお願いいたします。もちろん、他人の言葉を受け入れずに自分の考えを一方的に主張するだけのヘイトスピーチなどは承認しませんのでご了承ください。

 


解説
参加者の間で活発な対話がなされているようです。

対話ブログが非公開になったため、これについたコメントを参照することはできません。
詳細を書けず、残念です。
是非、シニフィエさんには、対話ブログを再開していただけることを望みます。

獅子風蓮


対話ブログ・ステージⅡ:その後の記事(12)

2021-12-12 01:13:57 | 対話ブログ

■の文章は、シニフィエさんの対話ブログからの引用です。

●の文章は、それについたコメントの引用です。


■私が鬱になったわけ[4]      投稿日: 2013年12月11日

(前略)
私は生まれた時からとにかく学会が一番なのだと叩き込まれて育った人間ですが、いつのころからか、「学会の世界」と「普通の世界」とわけて考えるようになっていました。普段は普通の世界で普通の常識で生活をして、それでも「学会の世界」が正しいと信じていました。学会活動をしているときは学会の世界の常識になりました。当然、理屈に合わないことも出てきます。でもそうなると自分の頭の中が突然ぼやけるんですね。不思議なものです。この30年間、私が当時の婚約者と別れるやりとりをしたときのことが、どうしてもよく思い出せないでいました。彼女が突然30年ぶりに私の前に現れて、私がなぜ彼女と別れたのかを、あらためて話をすることでようやく思い出すことができたのです。それは私にとって耐えることができないほどのショックでした。彼女が自宅に帰ってからも、何度か電話で話をしました。その度に自分では思い出せなかった数々のことが鮮明に思い出されて、その度に私は電話口で号泣してしまいました。彼女は言います「あのころのあなたは完全に洗脳されていた。私にはそれがよくわかったし、もう私にはどうしようもできない世界の人になっていた。だから私もあきらめるしかなかった」。そしてこう続けました「あれから私は何人かの人とおつきあいをしようと思ったけど、そのたびにあなたのことがどうしても忘れられなくて、悲しくてもうこの街にいることさえできなかった。だから行ったこともない遠くの街の人とお見合い結婚をしたの。その人はとても誠実そうな人だったから、もうそれだけで結婚を決めた。お見合いのときに一度会って、二度目に会ったときは結納のとき、3度目は引っ越しのとき。4度目に会ったのは結婚式だった。夫には悪いけど、私にはあなたを忘れるための誰かが必要だった。それだけのために結婚したようなものだった」。そう聞いたときに、私は自分の人生だけでなく、彼女の人生も変えてしまったのだということにはじめて気がつきました。それも自分が信じていた信仰のために。
ごめんなさい、もう少し先まで書くつもりでしたが、ちょっと無理みたいです。


●モニカ (2013年12月11日 17:20)
自分だけでなく、他人の、一人の人生を変えてしまう……そうなんです。だから責任がある重大なことなんですよね。
それを、功徳がほしかったら折伏しなさいとか、宿命転換するには折伏しかないとか、とんでもない指導がまかり通ってましたね。
相手も幸せになれるけど、ようするに自分に得がいくんですよ。かかえてるアナタのその悩み、解決したいでしょ。ね!だから諦めないで挑戦するのよ!
幹部は数を集計して、目標だ、結果だ、成果だと、人の人生をポイントのように換算している実態。
こんな指導もよく聞きました。
「罵られても功徳は同じよ。罵られた分だけ業をとってもらえるの。感謝しなくちゃね。離れていったらそのくらの友人だったってことよ。」
罵るというのはよほどのこと。そうとう失礼なことを言われたか、傷つけられたか、不愉快に思ったか。
相手をそこまで不快にさせたり、二度と会えないと思わせてしまった罪を、どう負えばよいのでしょうか。自分は正しいことをしているのだから悪くない。そういうことでしょうか。
自分は正しい。この世でいちばん正しいことをしている。だから悪くない。
離れていくのはそのくらいの人だった……そのくらいの人。偉いんですねえ、創価って。
かけがえのない一人を、駒かポイントの一つと思ってなければできない発言です。
私も身内を含め、7人を折伏した暗い過去を持ちますが(笑)、確かに慈悲という意識はありました。自分の功徳というより、必死に相手のことを思い祈りました。しかし、ならばこそ、もっともっと勉強すべきでした。
一人の人生をも左右する思想に対して、もっと責任を自覚すべきでした。自分の軽率さに腹が立ちます。
連絡の取れる関係の人には、誠心誠意を尽くして謝っているところです。

●GAIA (2014年1月13日 22:55)
シンフェニ様
はじめまして。私(男)は学会員ではありませんが、学会2世の女性の方との結婚を考えています。
私は内田樹さんのファンで、内田樹・創価と検索してあなたのブログを見つけました。
今いろいろと結婚を考えるに当たって悩んでいる事があり、もし何かアドバイス頂けたら幸いです。
彼女の家庭は、父・母共に学会員です。
母親が幼い頃に両親を無くし、引き取られた親戚が創価学会の家庭であった為、その時に入信したと聞いています。父親の方は、母親と結婚するに当たって入信したそうです。
母親の方はかなり学会活動に熱心な方で、父親はほどほどだそうです。
子供は彼女を含めて2人とも生まれた時から創価学会に入っています。また、彼女は中学から創価の学校に通い、アメリカ創価大学を卒業して今に至ります。
私自身は無宗教ですが、家は浄土真宗の仏壇が置いてあります。
彼女と出会った時は純粋に彼女の人柄に引かれ、付き合い始めてすぐに彼女が学会員である事は知らされていました。
彼女自身は会合に参加するなどの学会活動はやっていますが、人に創価を広めるような活動はいっさいやっていないようです。むしろ信仰心が弱い事が原因で母親と衝突し、今では家でもあまり会話をしていないと聞いています(ちなみに彼女は今実家暮らしです)。
私は彼女に連れられて2度ほど同中というものに参加した事がありますが、その時にはそれほど危険な団体には思えませんでした。むしろ、その時語られていた考え方自体は納得させられるものだと感じた程です。
そんな彼女と1年の交際を経て婚約し、彼女の事を私の実家に招いて両親に紹介しました。しかし、両親の反応は彼女の人柄には好意を抱いたものの、創価の人と結婚するのは反対だとハッキリ言われました。
反対された理由は
・創価の仏壇を家に置いたら、自分たち(浄土真宗)の仏壇が置けなくなってしまう
・創価学会がらみで余計なトラブルに巻き込まれる可能性がある(たとえ学会員でなくても、妻が学会員という事で何かをお願いされたりしないか? 創価学会が世間から評判が悪いから、余計な事で自分たち自身の評判が悪くならないか?)
・親戚にも最近相手が創価という理由で婚約が破談した方がいる。その手前、自分の息子が創価の人と結婚するというのは親戚に顔向けできない・・・
等です。
ちなみに破談した親戚というのは、相手(男性)側が学会員であり、女性(親戚)側の父親が結婚を認める条件として創価を脱会する事を突付けた所、相手側が諦めて去っていったとの事でした。
ちなみに私の両親は彼女に創価を脱会しろとまでは言いませんでしたが、できれば脱会して欲しいと願っています。
私の親は相手が創価の人だと知ってから、それなりに世の中に出回っている情報を集め、かなり創価に対する悪いイメージを持っています。
ともあれ私は親に反対されようとも彼女と結婚する気でいましたが、彼女の方から「私は学会を抜ける事は出来ないから別れた方があなたにとって幸せになる。私がいるとあなたの家族が幸せになれない」と言って別れを切り出されました。
私は必死で引き止め、今はこれまで通り2人でどうやって結婚するかを考えている所です。
(もし創価が理由で別れたら、自分は一生後悔するだろうと思いました。お互い本当に愛し合っている仲なので・・・)
彼女のご両親への挨拶はこれから行く所です。
そこで反対されればまた考えなければいけませんが・・・
別に実害がなければ彼女が創価を抜ける必要まではないと思っていましたが、みなさんのコメントを読んだりするとやっぱり問題はありそうだと感じています。
彼女自身と話していても、やはり創価のマイナス面については目をつぶっているというか、深く考えないようにしている節が見られます。ただ、彼女はあくまで自分と向き合う為に創価を信仰していて、それを人に勧めたりしようとは思っていないと言っています。(ただ私には勧めてきましたが・・・。出来れば夫婦で同じ考えで歩みたいという事で。でもそれはハッキリ断りました。)
私の本音としては、彼女が創価を脱会した上で結婚してくれたらベストだとは思います。
ただ今の彼女にとって創価は抜けられるものではないようですし、ご両親の元にいる彼女を説得する事は難しいと思います。
仮に説得出来たとしても非常に長い時間がかかると思っていますので、まずは結婚した上で彼女が脱会できるように少しずつ働きかけようと思っています。
私の両親には反対されても最終的には自分の判断で結婚しますとは伝えてあります。
長々と脈絡無く書いてしまい、失礼しました。
これから彼女と一緒になろうとする上で、彼女や彼女のご両親、また自分の両親にどのように関わっていくのがよいのか、よろしければアドバイスをお願い致します。

●モニカ (2014年1月14日 12:57)
シニフィエさん宛てのご相談ですが、参考になればと発言させて頂きました。
彼女のご両親、ご自分のご両親にこう言ってみてはいかがでしょうか。
「私は彼女の信仰を尊重します。その代り、世間が不快に思わないようなやり方、あくまで自分と向き合う範囲でと限定させます。仏壇は小さなおずしだけにして、普段は棚にしまうなりして工夫します。
活動で家庭をおろそかにしたり、親戚に公言して何かを頼んだりは一切させません。創価に使うお金も自由というわけにはさせません」(なんなら一筆書いて契約するというのは?アメリカ生活の経験があるなら、契約に抵抗はないのでは?)
こういう場合、どちらが一方的に言い分を通すと破たんします。どうしても結婚したいのであれば、半分づつ折れてみればどうですか?折れるという言い方に抵抗があるなら、作戦、手段と考えてはどうでしょう。
GAIAさんは、彼女さんを本気で愛してらっしゃるようですし、直接害がなければよいのであれば、まずはこの条件は呑めませんか?
創価が上げ潮な団体なら私は勧めません。が、明らかに衰退しています。(特に若い世代)
頭がカチンコチンな中年女ならむつかしいですが、若い女性ならかならず覚醒する、と思うからです。また、どっぷり組織につかせないことが重要なんですよ。
覚醒する、という根拠は、GAIAさんの情熱ですね。真摯に相談してくるその姿勢に私は感動しました。
「俺の愛の力の方が強い!」そのくらいの心意気でいてほしいです。
そして余裕を持つというか、創価の悪口は、ストレートな悪口じゃなくて、ジョークにして言ってください。会合に誘われたら、険しい顔して拒否ではなくて、ひやかしで行くか~と軽い気持ちで参加とかね。
これが効くんですよ。相手は感謝こそすれ、言い返してきません。
ちなみに私は、子どもの頃から熱心な、学会どっぷりの青春を送った者ですが、同時に未入会で学会嫌いの夫と、大・大・大恋愛で結婚しましたよ。
この愛を成就するためなら、と頭も情熱も使いました。
お互いに、相手のいるところではお互いを不愉快にはしませんでした。双方の親族の前でもそれは同じです。
他のことでは喧嘩しましたが、信仰を理由に喧嘩になったら負けだと思いました。
結果…夫婦円満のまま、私は後に覚醒。むしろ主人の方がよき理解者になって、「え~止めちゃうの?!俺は続けた方がいいと思うよ。極端なやつだなあ。いいとこ取りしてればいいじゃないか」と言われたくらいです。
今、主人には、心の底から感謝しています。


解説
この記事をはじめて読んだ時、シニフィエさんの心の痛みが胸に突き刺さり、印象的だったコメントをいくつかメモに残していました。
モニカさんがいうように、自分が幸せになるための折伏、数値目標を達成するための折伏をして、他人の人生を狂わせてしまうなんて、ひどい話ですね。

獅子風蓮