■の文章は、シニフィエさんの対話ブログからの引用です。
■対話の可能性[1] 投稿日: 2014年1月2日
これまでも数人の現役活動家の方がここにコメントされてきましたが、私をはじめ、創価のまちがいに気づかれた方がいくつかの質問をされると、みなさん何の反論もすることなく去られました。それは反論できなかったのか、反論する気も起きなかったのかはわかりませんが、いずれにせよ現役活動家の方との対話はこれまで成り立ちませんでした。このブログに現役活動家の方がコメントされること自体がめずらしいことであると同時に、めったにない現役活動家さんとの対話への機会であるのですが、今回もこれまでと同じようになってしまうのかなと残念に思いつつ、それでも根気づよく対話の可能性を試みていくことの意義はあるだろうと思っています。
創価の間違いに気づいた方は、創価の矛盾をいくらでもあげることができますが、それに対して納得のいく反論を創価の方から聞いたことはありません。あるのは判で押したような学会の指導の言葉を並べるだけです。創価の間違いに気づいた方にとっては、創価の間違いは一目瞭然なのですが、現役活動家にとってそのことがどうしてもわからないのは、やはり自分自身が思考停止されていることに気づかないからだと思います。そのような組織の構造になっているからです。ですから何を言われても上からの指導の言葉以外に言葉が出てきません。まさに組織の思う壷です。これは新興宗教に共通に見られることでもあると思います。目の前の間違いが間違いと思えない。これが決定的なことだと思います。だから彼らにどんなに創価の矛盾を問いかけても、そのこと自体が見えなくなっているのだから対話が成立しないのだと思います。
では、どうやったら現役活動家の方との対話ができるのか。私は以前「コミュニケーション能力について」というタイトルで内田樹氏のツイートを紹介したことがあります。
ここです↓
http://signifie.wordpress.com/2013/09/12/408/
内田氏の言葉にあるように「私は私の立場をいったん離れる。ついてはあなたもあなたの立場をいったん離れてはくれまいか」ということだと思います。
今はお互いに対話が成り立たない。それはお互いの立場を背景に主張を続ける。一方では相手の間違いを指摘するばかりであり、一方では指摘された内容に触れることなく、上から言われたことを繰り返すだけだからです。これではいつまでたっても対話は成り立たないでしょう。そこで私はあえてここにコメントをくださるみなさんに提案したいと思います。お互いに言いたいことは山ほどあることはよくわかります。しかし、もし現役活動家のみなさんと、創価の間違いに気づいた方たちが、それでも対話を成り立たせたいと思うのであれば、一度お互いに自分の立場を離れてみてはどうでしょう。つまり創価の間違いに気づいた方は、あえてごく普通の創価のことは何も知らない一般人として話をする。これはそれほど難しいことではないと思います。そして現役活動家の方も、自分が創価学会員ではないという立場になって話を聞いてみて、考えて、意見を述べてみるという方法です。しかしこれはなかなか難しいかと思います。なにしろ普段から「創価が一番正しい」という前提でものごとを考えているのですから、そう簡単に一般的な思考ができるとも思えません。しかしそうした努力をすることによって、まったく違う考えを持つものがコミュニケーションを成り立たせるのであれば、こんなに素晴らしいことはないのではないかと思います。
まず大切なことは、武器(立場)を捨てて共通のコミュニケーションのフィールドに立つということだと思います。お互いに土嚢を楯にしてマシンガンで打ち合っていても対話はできません(笑)。
もしこの私の提案に賛同していただける現役活動家の方がいらっしゃるのであれば、その旨のコメントをいただきたいです。
■対話の可能性[2] 投稿日: 2014年1月11日
年末にお二人の活動家さんからコメントをいただいたので、せっかくのこの機会にと思い、対話の提案をしました。それから10日がたちましたが、残念ながらその後何のお返事もありませんでした。ここではこれからも活動家さんとの対話を望んでおりますので、よろしくお願いします。
【解説】
対話ブログが非公開になったため、これについたコメントを参照することはできません。
詳細を書けず、残念です。
是非、シニフィエさんには、対話ブログを再開していただけることを望みます。
獅子風蓮