獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

石橋湛山の生涯(その33)

2024-07-13 01:02:20 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
■第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき


第5章 小日本主義

(つづきです)

この年は湛山にとって、もうひとつ人生の大きな出来事があった。
岩井梅子(当時は、うめ。後に梅子と自称)との結婚である。
湛山がまだ『東洋時論』の編集に携わっている頃のことだ。
「石橋君、君はいくつになるのかな」
三浦からそう尋ねられたのが、きっかけであった。もっとも三浦にしてみれば、最初からそのつもりで質問している。
「この9月で28歳になりましたが」
「28歳といったら十分に一家をなしてゆける大人だ。論文でも君は政治、経済、文芸とさまざまな分野の人々に知られるようになっているし、これからはそういった方面の多くと親交を結ぶことも増えてくる。その時に……」
まだ独り身でいるということは、半人前と見做される、と言うのである。
「結婚して家庭を持って初めて男は一人前として、世間様から扱われるんだよ。これは決して理不尽なことではなかろう。他人様の判断だから……。どうかね? 僕に誰か紹介させてくれないか?」
三浦の胸の中には、湛山に相応しいであろう一人の女性があった。
「妻の実家に近いところの出身の娘さんで、むかし妻が尋常高等小学校で教鞭をとっていた頃の教え子なんだ。福島県の生まれだが、その岩井という家はかつて米沢上杉藩の家老職を代々務めた名門だという。今は彼女が、葛飾郡の東小松川松江小学校で教師をやっている。どうかね、一度会ってみないか」
縁談である。湛山は複雑な胸中を、言葉には出来なかった。まだまだ給料も安いし、家庭を持てば当然生まれるであろう子供に対して、しっかりした父親になれる自信もなかった。だが、いつかは結婚をしなければならない。……ふと、甲府中学に通っていた頃に付き合ったことのある年上のあの看護婦の顔を思い浮かべた。ぼんやりして記憶の彼方にある顔だったが、初恋であった。
それ以来、恋だの愛だのには無関係でここまできた。社会問題としての婦人問題には興味があったが、自分自身と関わる個人としての女性には無縁であった。湛山はしばらく猶予を欲しいと思いながらも、三浦の好意に甘えることにした。
「三浦さんのお勧めでしたら喜んで」
プラグマティズムの湛山でも、まさか結婚だけは体験した後で、というわけにもいかない。ここは信頼する三浦銕太郎の目を信じるしかないだろう、と決めたのであった。また、そのほうが気持ちが楽になる。
こんな経緯があって、湛山が初めて梅子に会ったのはこの年の6月であった。
「実はここにいる彼女の従兄弟の石沢徳三郎君は、私の学校時代(東京専門学校)の級友でね……」照れたように話す三浦に、初対面ながら湛山に対しても笑顔を絶やさない石沢徳三郎は、
「僕の下宿先によく遊びにきていたんだよ。偶然知り合いだった貞さん、この三浦君の奥方だがね。貞さんがやってきて、一目惚れ、というやつだよ」
愉快そうに言って、三浦夫妻を交互に見た。
「一目惚れだなんて……」
三浦は、日頃湛山の前などではめったに見せない狼狽の表情を浮かべた。
「一目惚れだろう。何しろ、山下という苗字を三浦に変えてもいいから、一緒になりたい、ってことだったじゃあないか」
確かに三浦は、元の名前は「山下銕太郎」であった。
「まあ、その話はそのあたりでいいじゃあないか」
三浦は照れ隠しのように徳三郎の話を遮って、梅子に話題を戻した。
「梅子さんは生後10ヵ月でお父さんと死別しているんだ。だが、お母さんとお兄さんが真っすぐに育ててくれた」
父親のないことを庇うように三浦が告げると、湛山はにっこり笑って、
「僕も同じようなものでした。小学生の時分に他家にやられたんですから。もっとも、そのお陰で強くなれましたから、今は本当に感謝しておりますが」
「梅子さんの小学校の担任が家内だったんだ。東京に出てくるように勧めたのも家内だった。そこで梅子さんは石沢君のところに下宿して、今の小学校に勤め始めたという次第だ」
初めての顔合わせで、二人とも、お互いに好印象を抱いた。湛山には、梅子が職業婦人であることが気に入った。それも小学校で4年生の女子を担任しているという。話していても気持ちがいい。話していて、梅子には、湛山がしっかりした考えを三浦や石沢の前でも堂々と、互角に述べるのを聞きながら、湛山が4歳年長なだけでなく、もっと年が離れているような気がした。
(父親が生きていたら、こんな人だったかもしれない……)
その頃、女性が働くことに対して嫌悪する空気が強かったなかで、湛山は梅子に対して「女性が職業を持つことは有意義なことですよ」などと肯定したことも、梅子には好感の一因になった。だが、互いに好感を抱きつつも、結婚に漕ぎつけるまで多少の障害はあった。
「父親がいない分だけ慎重になっているんだ。兄さんとお母さんが同意しなければ返事が出来ないなんて言ってるんだが。なあに、梅子さんだって石橋君のことは好いているんだから、僕らに任せておいてくれよ」
しかし三浦夫妻と梅子の従兄弟である石沢徳三郎夫妻が熱心に話を進めてくれた。

余談ながら、湛山が『東洋時論』10月最終号に書いた社論「維新後婦人に対する観念の変遷」は、小学校教師という職業婦人であった岩井梅子との縁談が影響しているように思われる。
湛山はこの社論の中で、維新後の日本人の女性観の変遷を辿り、いわゆる「良妻賢母」を〈不徹底なる実用主義〉と呼び、〈女子が職業婦人たることを以て何らか自己の品位の低下であるかの如く考える〉のは間違っていると断じた。そして〈この救済策として、我が社会の速やかにその良妻賢母主義の教育を廃し、而して彼ら婦人をば一日も早く社会経済上の彼らの地位を自覚し、これに処するの途を講じ得るが如き者にする手段を採らんことを希望する者である〉と結んでいる。
挙式はこの年の11月2日である。梅子は、教師を辞めず、勤務を続けることになっていた。それが湛山の希望であった。
媒酌人は、三浦銕太郎・貞夫妻である。

(つづく)


解説

こうして湛山は、お見合いで梅子と結婚しました。

お見合いではありましたが、お互いが相手を個人として尊重しあう、リベラルな結婚だったようです。

 

獅子風蓮



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