獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

石橋湛山の生涯(その43)

2024-08-09 01:00:26 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
■第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき


第6章 父と子

(つづきです)

鎌倉に初めて自分の家を新築した湛山は、2年後の大正13年(1924)には鎌倉町の町議会議員選挙に立候補する。得票は78票で、定員24人のうち3位での当選であった。
同じ頃、父親の朗報が届いた。
「おい、梅子。実家の父が身延山の法主に選ばれた。入山式に行くよ」
「まあ、お父さんが? おめでとうございます。日蓮宗の最高のお方になるわけですね」
「うん、第81世ということらしい」
湛山の父・杉田日布が日蓮宗総本山身延山久遠寺の81世法主になったのは、この年の11月であった。21日には入山式がおごそかに行なわれた。
身延山は全山を杉に覆われている。美林と言ってもよい。沢筋には小さな滝がたくさんあって、清流の地でもある。
11月下旬の身延山は、晴れていても底冷えがする。
長い石段を上りきると広い境内があって、左側に樹齢も定かでない枝垂れ桜がある。境内には、入山式に参加する檀徒や入山式の先導をする稚児たち、その両親たちの姿があって、華やいでいた。湛山は入山式の前に、20分ほど父親との面会の時間を与えられていた。書院に二人きりで座った父子の、口を先に開いたのは日布であった。
「久しぶりだな。大震災も大変だったな」
「はい。この度はおめでとうございます。法主様には……」
「湛山、法主様などと二人きりの場所では呼ぶな。父さんでいい」
「しかし……」
「儂もおまえを、湛山ではなくて省三と呼ぶから、おまえも父さんと呼べ」
「はい」
湛山は、父が今自分と二人きりになって何かを告げようとしているのだと思った。
「外の子供たちを見たか? 思い出すのに稚児髷を」(ママ)
「あの、私の?」
「そうだ。おまえが増穂の昌福寺に母さんとやってきた時の髪型だ。オションボリ」
「あっ、覚えてくれていましたか」
「忘れるはずがなかろう。さっきも境内にいる稚児行列の子供たちの姿を見て、おまえの子供の頃に重ねておった」
湛山は、30年以上も前のことを思い出して、胸に迫ってくるものがあった。
「かわいい息子の子供時代だもの」
「大分あの頃は無茶もしました。寺の屋根に上ったり、富士川で溺れかけたり……」
「儂が望月師におまえを預けたのも、意味があったからだ」
「はっ?」
「自分の子を教えるのは難しいことだから、他人の子と取り替えて教える……」
「孟子の教えですね」
「そうだ。古の者子を易えて之を教ゆ、というあれだ。儂はおまえの資質からいって自分で育てるよりも、望月師のようなゆったりした人格の人に育ててもらうほうがいいだろうと判断したのだ。結果として間違ってはいなかった」
「確かに。私もお父さんの判断と望月師の教育は正しかったと思っています」
「おまえは子供の頃から利発で才気に溢れておった。負けん気も強い。そこは儂譲りだと思っている。儂とおまえが共にいたら、いつかぶつかり合うような気もした。それで、一番信頼の置ける望月日謙師に預かってもらったのだ。それにな」
境内では、稚児行列の点呼が始まっている。ざわめきが消えて、静けさの中で子供の名前が次々に呼ばれているようであった。
「おまえは、小さなお寺で僧侶として一生を終えるような人物ではないとも思っておった。教育者か、医者かそういったことをやるのではないかともな」
「そう思った時期もありましたが、結局早稲田大学に入ったことで人生が変わったようです」 
「違うな。人生が変わったのではない。そうなるべく定められておったのだ。中学で2年落第したことも、一高を2年連続して滑ったことも、すべて今のおまえをつくるために仏が定めてあったことだ。運命だな。そう考えられはしないか?」
「言われてみると、確かにそうかもしれません。中学で大島正健校長に出会えたのは、2年の落第があったからでした。あれが1年だけの落第だったら、出会えませんでした。それに大学もそうです。田中王堂先生に巡り合えたのも、3年の時ですから。一高を2年滑って早稲田に入ったために、多くの先達との出会いにつながりました」
湛山は、父親と対談しながら改めて人生の不思議さ、人が人と出会うことの奇跡を痛感していた。 
「省三、儂は若い頃から布教に次ぐ布教に生きてきた。甲府に学校を作ったのも、東京大教院を開いたのもそのためであった。遮二無二日蓮宗の教えに生きてきて、今日の法主という地位に就けた。だが、69歳になった今日でも、儂は修行僧のつもりでいる。生涯を布教に生きていくつもりでいるからだ」
山の奥深いところでブッポウソウが独特の鳴き声で鳴いた。その声が湛山をゆったりと落ち着かせる。湛山が深く頷くのを見て、日布はさらに続けた。
「儂は宗教を通じて衆生の心を救おうと、それだけに生きてきた。だが、心を救うだけでは人々は満足しなくなっている。心に担保、つまり形あるものを望むようになったのだ。 それが、経済とか政治とかいうもののようだな」
「分かります」
「省三、おまえは鎌倉の町議会議員になったと聞いたが?」
「はい」
「それもいいだろう。物事は身近なところから始めるのがいい。宗門で言えばちょうど得度した、といったところかの」
町議になったことが、である。
「儂が宗門の頂点を極めたように、おまえはおまえの世界の頂点を極めてごらん。69歳の儂の年になるまで、おまえにはまだまだ時間がある。必ず頂点を極めることは出来よう。しかし忘れてならないのは常に衆生の心だ。日蓮上人が衆生のために生きたように、省三、人々のために頂点を目指すのだ。分かったな。これからの時代は、今以上に暗黒になろう。人が人として普通に生きるのがつらくなるような時代がくるだろう。その時にも、おまえは希望を持って生きるのだ。人々に希望を与えるために生きるのだ」
「はい」
日布の言葉は力強かった。
「省三、おまえは宗門の子だ。事あるごとに『立正安国論』や『御教書』を読み返すことじゃ。迷ったなら、日蓮上人の教えに戻ることだ。よいな。そして衆生を救う現在の日蓮たることを目指すのだ」
この時、湛山の脳裏には日蓮の言葉が浮かんでいた。
「我日本の柱とならん、我れ日本の眼目とならん、我れ日本の大船とならん」
湛山にはこの短い時間が、これまで生きてきた一生分の父親との対話に思われた。

(つづく)


解説

「省三、おまえは宗門の子だ。事あるごとに『立正安国論』や『御教書』を読み返すことじゃ。迷ったなら、日蓮上人の教えに戻ることだ。よいな。そして衆生を救う現在の日蓮たることを目指すのだ」

この言葉が、その後の政治家・石橋湛山の行動原理となるのですね。

 

獅子風蓮



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