獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

増田弘『石橋湛山』を読む。(その21)

2024-04-15 01:19:15 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想には、私も賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

そこで、石橋湛山の人生と思想について、私なりの視点から調べてみました。

まずは、定番というべきこの本から。

増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995.05)

目次)
□はじめに
□第1章 幼年・少年・青年期
□第2章 リベラリズムの高揚
□第3章 中国革命の躍動
□第4章 暗黒の時代
■第5章 日本再建の方途
□第6章 政権の中枢へ
□第7章 世界平和の実現を目指して
□おわりに


第5章 日本再建の方途――1940年代後半
□1)小日本主義の実現... 前途は実に洋々たり
□2)異色の大蔵大臣... 自力更正論
■3)石橋「積極」財政とGHQとの対立
□4)理不尽な公職追放

 


3)石橋「積極」財政とGHQとの対立
大蔵省内では、初めて迎えるジャーナリスト出身の異色大臣、しかも同省本来の健全財政に反した積極財政を唱える新大臣に反発する空気が強かった。これに対して湛山は、固い信念と熱情と実証的論法をもって官僚たちを次第に心服させていった。当時主税局第一課長兼第三課長であった前尾繁三郎(のち衆院議長)は、「大体、大蔵省の役人は伝統的に緊縮財政が習性となっているので、本当の石橋先生を知らず、先生の就任を歓迎する者はいなかったといってよい。現に私なども、野放図な国債論や赤字財政を主張されるようなら皆で結束して食い止めなければならないと、手ぐすね引いて待ち構えていた。ところが、就任された石橋先生は私どもが想像していた人とはまる切り違っていた」と回想している(同著『続々政治家つれづれ草』439頁)。とくにGHQ側に対し毅然たる態度を失わず、しかも自ら心骨を砕いてESS側との折衝に当たる態度は、部下から信望を集めることとなった。このような湛山に心酔した人物に池田勇人(当時主税局長、のち蔵相、首相)がいた。後述の戦時補償打切りと財産税の問題で湛山を頼りになる大臣だと惚れ込んだ池田は、湛山によって待望の事務次官にも抜擢され、いっそう湛山との絆を深めた。10年後、湛山と池田は改めて首相・蔵相のコンビを組むこととなる。なお湛山は財政演説でも、放送原稿でも、すべて自分で執筆するという珍しい大臣でもあった。

では戦後財政史に特異な一頁を残した「石橋財政」とはどのようなものであったのか。いわゆる石橋“積極”財政は、既述のとおりケインズ理論を基盤としたが、当時社会党や共産党など野党、新聞・雑誌などジャーナリズム、学界、さらにはGHQからも、石橋“インフレ”財政と酷評され、集中砲火を浴びたことは広く知られている。つまり、「金融緊急措置でいったん鎮静したインフレーションを、赤字財政と復興金融金庫融資をテコとした生産第一主義によって再燃させたものであって、資材が絶対的に不足していた当時においては、生産拡大よりインフレ促進的であった」と批判されたのである(長幸男「百年の日本人 石橋湛山③」『読売新聞』1983年6月30日)。しかしそのような批判は、瀕死の状態にあった日本経済に対する湛山の即応速効性の高い処方箋を十分考慮しておらず、しかも戦後日本資本主義の再建と発展のための「資本蓄積機構の原型を整備した点における石橋財政の役割」を軽視している(高橋誠「石橋湛山」)。石橋財政の戦後経済財政史における学問的再評価が望まれるが、ともかく現実上、このようなインフレ論に基づく批判が湛山の公職追放の伏線をなすわけである。
さて湛山が大臣在任中に直面した主要課題とは、(1)戦時補償打切り問題、(2)石炭増産問題、(3)終戦処理費問題であった。

(1)は戦時中に政府または軍部が軍需会社に対して約束した補償を打ち切る問題であった。湛山は大臣就任直後、ESS局長のマーカット (William F. Marquat) 少将より「戦時補償100パーセント課税案」を実施するよう指示された。湛山としては同案に根本的に反対ではなかったが、補償打切りによる損害が諸銀行に及び、預金者に不安を与えることになれば、日本の経済復興をますます困難にすると考えた。そこで湛山側は戦時補償の打切りを財産税で処理しようとしてESS側と折衝した。しかしESSは戦争の懲罰的意味からこれを容認せず、そのため湛山は吉田に辞意を伝えた。ここで吉田がマッカーサーに善処を要望したものの、押し切られる結果となった。結局10月にアメリカ側の意向を容れた「戦時補償特別措置法」が成立したが、大蔵省は事前に補償打切りの被害を最小とするための「会社経理応急措置法」等を国会で成立させた。しかもインフレの進行により、経済界は補償打切りの打撃を減らすことができた。GHQはこの点を重視し、湛山が資本家層を庇護するために意図的にインフレを拡大したと考え、湛山への反感を強めたのである。

(2)は大蔵省の直接の管轄ではなかったが、予算歳出上関与することになった。石炭は当時唯一のエネルギー源であり、石炭の欠乏はまた唯一の交通機関であった汽車の運行を困難とし、それは食糧輸送を停滞させ、都市に餓死者さえ予想させた。したがって湛山は石炭増産を死活的問題として重視した。そこで当時の年間産出量2000万トンを3000万トンに供給拡大することを商工省(現在の通産省)と申し合わせ、緊急措置として資金(しかも業者が望む「新円」)を供出した。石炭関係業者の自主的増産を期待したからである。ただしGHQ側の金融財政政策の重点は、猛威をふるうインフレの終息にあり、その意味で大蔵省側の補助金支出の方針は、「財政支出の削減」と「財政収支の均衡」に逆行する政策とみなされた。それでも湛山は石炭増産のためには金の出資以外にないと判断し、補助金だけでなく、復興金融金庫からも大いに融資させた。この方針はのちに「傾斜生産方式」へと受け継がれて石炭増産を実現することになるが、この措置がGHQ側の不評を買い、石橋蔵相はインフレーショニストであるとのイメージが出来上がったのである。

(3)の「終戦処理費」とは進駐軍の諸経費のことであり、連合国はそれを敗戦国日本の義務と定めた。この費用がほぼ日本の国家予算の3分の1程度を占めるほど膨大であり、実はインフレ膨張の一要因でもあった。日本政府に対してインフレ防止を要求しながら、実は占領軍側がインフレを助長するとの矛盾があった。この終戦処理費および同質の占領軍用「特別住宅建設資材費」を一種の賠償とみなしていた湛山は、7月の昭和21年度財政演説において、それら費用の合計が総歳出の約36パーセントを占める事実を明らかにした。しかも当時は歳出が歳入を大きく上回る“変態予算”であったため、いかに占領軍関係予算といえども、黙視できないと判断した。そこで湛山はこれら費用の削減を決意した。
11月、GHQに対して地方の進駐軍が発注する工事の乱脈ぶり(将校などが日本の業者から賄賂を取ったり、業者が甘い汁を吸う例も少なくなかった)を通知すると同時に、占領軍があらかじめ6ヵ月前に建設計画を立て、日本政府が独自の立場から請負業者を選択できるようにすること、支出を最低限に切り詰めること等を列挙した要望書を提出した。当時の占領軍と日本政府との不平等な関係を考えれば、要望自体、相当な勇断であった。続いて12月、湛山は国会の秘密会でこれら占領費の詳細を報告し、住宅地やゴルフ用地費、生鮮野菜用のプール建設費、将校への花や金魚などの宅配費など実例を挙げて現状を説明した。そしていかに戦争勝利国とはいえ、日々の食事も儘ならない窮状に喘ぐ日本国民の立場からすれば、許容の限度を超えていると訴えた。『シカゴ・サン』紙の特派員マーク・ゲイン (Mark Gayn) の『ニッポン日記』(213~4頁)は、その際に石橋蔵相は、終戦処理費が「日本経済を破綻に瀕せしめようとしている」旨説明したと記述している。
ここに至り、GHQ内部のみならず地方の占領軍からも、石橋蔵相は占領行政に抵抗する反米的国家主義者であるとの空気が強まった。彼らからすれば、終戦処理費は戦勝国の特権であり、敗戦国側が口出しするとはもってのほかとの聖域意識が一般的であったからである。湛山追放工作が本格化するのはこの頃からであった。

 

 


解説
ここに至り、GHQ内部のみならず地方の占領軍からも、石橋蔵相は占領行政に抵抗する反米的国家主義者であるとの空気が強まった。彼らからすれば、終戦処理費は戦勝国の特権であり、敗戦国側が口出しするとはもってのほかとの聖域意識が一般的であったからである。湛山追放工作が本格化するのはこの頃からであった。

GHQの湛山追放工作は、理不尽としかいいようがありません。


獅子風蓮



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