獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

石橋湛山の生涯(その80)

2024-10-06 01:53:23 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
■第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき


第8章 悲劇の宰相

(つづきです)

「浅沼さん、お願いがあるんだ。総理の風邪が重いんですよ。31日の施政方針は出来上がっているんですが声が出なくて演説は難しいんですよ。2月4日に延期をお願いしたいんですが……」
石田は官房長官として社会党の浅沼稲次郎書記長に申し入れた。浅沼も同じ早稲田の出身である。湛山にも個人的な好意を持っていたこともあって、快く承知した。
だが、湛山の病状は一向に快方に向かわないままであった。
「三木さん、どうもまずいよ。総理大臣臨時代理を置くしかない情勢になった……」
「石田さん、弱ったねえ。代理といっても……。せめて石井光次郎さんでも閣内にいてくれたら、石井さんを指名できたのに……」
「岸さんでいくより仕方がないのかねえ」
石田と幹事長の三木は溜め息をつきながら相談した。二人とも岸に総理の代理を委託するのには反対だったのだ。
「大久保留次郎さんではどうかな。最年長だし……」
「いくら国務大臣でもな、大久保さんじゃあ国会は乗り切れないだろう。党内をまとめることも考えたら、岸さんしかないだろうな」
医師団は「肺炎のために3週間の静養を要す」と診断した。湛山は、岸を首相臨時代理に指名し、同時に両院に対して2月20日まで3週間の請暇手続きを取り、承諾を得た。
「総理、ゆっくり養生して治してください。後はお任せください。吉田先生と佐藤栄作君も自民党に入党してくれることになりました」
石田たちの苦衷は、誰にも話せないものだけに心労に近いものがあった。社会党は当然のことながら「21日以降、首相が登院できないのなら責任追及をする」と決定した。浅沼は、人を介して石田に「21日に登院して社会党の質問に答え、閣僚の答弁に責任を持つと言ってくれれば、後はまた休養されてもよい」と伝えてきた。
だが、党内外には「石田たちが延命工作をやっている」、「医師団に圧迫を加えている」などの噂まで立ち始めた。
「三木さん、駄目なら駄目でよい。その時には立派に退陣して、将来に石橋内閣の志を伝えなければなるまい」
その夜、湛山は三木と石田に、時間をかけて自分の考えを伝えた。
「昭和5年11月のことだった。首相の浜口雄幸が東京駅で凶弾に倒れて重傷を負った。そのために登院が不可能になった浜口首相に対して僕は『東洋経済新報』で鋭く辞任を迫ったんだ。〈民に信なくば立たず、信義は死よりも重し、言行一致し得ぬ場合にはその職を去るべし〉と書いた。今の僕がまさにその折りの浜口首相の姿だ。僕は自分にも他人にも厳しいと自認している。だが、このままでは他人に厳しく、自分に甘いと言われかねない。僕は、辞めるべきだと思う」
二人には言葉がなかった。

(つづく)


解説

病に倒れた湛山は、こうして潔く首相を辞める決意をかためました。


獅子風蓮



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