獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

石橋湛山の生涯(その79)

2024-10-05 01:34:00 | 石橋湛山

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
■第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき


第8章 悲劇の宰相

(つづきです)

「朝日新聞」はこの日、世論調査の結果を載せて「石橋内閣支持率」を41パーセント、不支持11パーセントと報じた。これは「鳩山ブーム」の頃の鳩山内閣支持率40パーセントを上回る数字であった。
湛山は「五つの誓い」を示した。
「これは五箇条の御誓文に倣ったものです。①国会運営の正常化、②政界・官界の綱紀粛正、③雇用と生産の増大、④福祉国家の建設、⑤世界平和の確立、がそれです。同時に内政上の目標として『一千億減税・一千億施策』を掲げます」
最後に湛山はこう結んだ。
「民主政治は往々にして国民の皆さんのご機嫌とりの政治になる。私は皆さんのご機嫌を伺うことはしない。皆さんにずいぶん嫌がられることをするかもしれないから、そのつもりでいてもらいたい」
湛山が言おうとしている民主政治とは、そういうものであった。
湛山は石田ら側近と相談して、予算案成立後の解散を想定していた。その「来たるべき総選挙」に向けて東京での演説会を皮切りに全国遊説を始めた。札幌、大阪、福岡、名古屋と一週間にわたる遊説は熱狂的な歓迎を受けた。
その直前には所縁の身延山久遠寺に赴いて、日蓮宗権大僧正に叙せられた。
1月23日、早稲田大学の大隈講堂で総理大臣就任祝賀会が開かれた。湛山は、早稲田創立者の大隈重信に次いで二人目の早稲田出身総理であった。晴れてはいたが、気温は午前中3度、午後になっても10度にしか上がらない寒い日であった。
午後2時から4時までの2時間が、老齢の湛山を蝕んだ。湛山はこの日、風邪を引いてしまった。翌日は朝から日程がぎっしりで、午後から静岡県人会の祝賀会、新聞社の論説委員会の後、湛山は疲労と風邪とでダウンした。
25日の閣議も欠席し、診断の結果、老人性急性肺炎とされた。この日から寝込んだ湛山は、言語までが不明瞭になってきた。石田は、慌てた。医師団は「脳梗塞の可能性」を指摘した。が、これは極秘扱いにされた。

(つづく)


解説
その直前には所縁の身延山久遠寺に赴いて、日蓮宗権大僧正に叙せられた。

湛山の政治思想は、私も賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、その平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

しかし、そういうふうにならないのには訳があるのでしょう。
創価学会の第2代会長・戸田城聖氏は、当時は日蓮宗を邪宗として敵視していましたので、石橋湛山をこころよく思っていなかったようです。
たしか、小説『人間革命』にも、そんな記述がありました。

詳しい内容は、この記事を参照してください。

石橋湛山をライバル視していた戸田城聖(2024-03-02)

さて最近(9/28)、朝日新聞のBeという紙面にこんな記事が載りました。

(歴史のダイヤグラム)池田大作と石橋湛山 原武史


ネットだとこちらですね。
朝日新聞デジタル連載歴史のダイヤグラム記事
(歴史のダイヤグラム)池田大作と石橋湛山 原武史

意外にも、池田大作氏と石橋湛山には、接点があったのですね。

石橋湛山は、病気で首相の座を退いたのちも、日中友好や日ソ友好のために努力しました。
その行動は、池田氏が名誉会長になったのちに世界を飛び回り行った平和外交に通じるものがあります。
私は、池田氏がひそかに石橋湛山の行動をなぞったように感じられます。
案外、池田氏は石橋湛山を評価していたのかもしれません。
(師匠である戸田氏の教えに反して……)


獅子風蓮