獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

妙法の万葉集:友岡雅弥さんの言葉 その7

2023-05-26 01:48:25 | 友岡雅弥

師弟不二ARCHIVEより、引用させていただきました。
このインタビューが、友岡雅弥さんの思想を知るのに、一番の近道だと思ったからです。


投稿者:京都乃鬼 投稿日:2019年 4月10日(水)05時25分10秒   通報 編集済
京都乃鬼新聞
2019-4-9

特別企画
=妙法の万葉を紡ぐ=

「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編)

第7回(※印は弊社解説)

1999年から2000年にかけて大きな大変に大きな変化が起こったんです。

それは何かというと、1999年10月の第一次自自公連立政権ですね。

実は長年に渡って自民党は巧妙に創価学会及び公明党を取り込もうとする策略が模索されていたのです。

さかのぼると、まず宗教法人法の改正(※自社さ政権時代の村山内閣、1995年12月)で創価学会が揺さぶられた。

(※後に自民党の野中広務幹事長は語る)

(※野中が自公連立政権作りを成し遂げた後、有力支持者の一人が「どうやって学会・公明党とのパイプをつくったんですか?」と野中に聞いた。
すると野中はこう答えたという。

「叩きに叩いたら、向こうからすり寄ってきたんや」)

(※「叩く」とはどう言うことかと言えば、実は「野中は恐い」と言っていた秋谷会長は、1995年12月に宗教法人法改正法案の件で国会に参考人招致されたが、後ろから見ていた公明党女性議員が秋谷会長の足がブルブル震えていたのを見ていた)(鬼笑)

(※先生は戦おうとしていたが、秋谷会長が権力にすり寄った象徴的な瞬間である)

当時、橋本龍太郎が四月会の件で学会に謝ってきたというのは表面上のことで、実は学会が自民党の集票マシーンになるのを条件に追及を止めさせた。
それで自公連立が成立したんですよ。

(※背景:1995年より自民党の機関紙自由新報に「シリーズ新進党=創価学会ウオッチング」を掲載。池田先生個人に対して執拗にネガティブキャンペーンを開始。)

(※1998年衆議院選挙で自社さ政権のうち社会党が惨敗(63議席から15議席)したので、橋本龍太郎首相は社会党の代わりに本格的に公明党との連立にシフトする。
その為に自民党幹部や総裁が謝罪したが、実は信平レイプ事件についてのみ謝罪。)

(※その後、1998年、参議院議員選挙大敗で責任を取った形で橋本龍太郎首相が辞任する。)

(※次に第一次小渕内閣が誕生するが、まだ状況が整なわず、1999年の第二次小渕内閣時で第一次自自公連立政権となる)

つづく

提供は
敵からは恐れられる
味方からも怖れられる
京都乃鬼新聞社でした。

 


解説
1999年から2000年にかけて大きな大変に大きな変化が起こったんです。

それは何かというと、1999年10月の第一次自自公連立政権ですね。

実は長年に渡って自民党は巧妙に創価学会及び公明党を取り込もうとする策略が模索されていたのです。

さかのぼると、まず宗教法人法の改正(※自社さ政権時代の村山内閣、1995年12月)で創価学会が揺さぶられた。

当時、橋本龍太郎が四月会の件で学会に謝ってきたというのは表面上のことで、実は学会が自民党の集票マシーンになるのを条件に追及を止めさせた。
それで自公連立が成立したんですよ。

 

このへんの経緯はすでに知れ渡っていることですね。
自民党の野中幹事長は、藤井富雄氏と暴力団組長との密談ビデオを使って創価学会と公明を揺さぶったと言われています。

そうすると、友岡氏は、創価学会と公明のスキャンダルを隠蔽するために、創価学会首脳は自民党の脅しに屈して、自公連立が成立したことを認めたことになります。
これは大変なことです。その責任は池田氏に及ぶでしょう。
創価学会首脳は、追及をやめてもらう代償として、創価学会員を「自民党の集票マシーン」として差し出したわけです。
結果として公明党は政権与党としていい思いをしてこれたのだからよかったではないかという創価学会員はいるかもしれませんが、公党として一番大切なはずの政策の違いなどを投げ捨てて、ただただ創価学会と公明の保身のために成り立った自公連立ですから、後ろ暗いところを引きずったものとなるわけです。

平和主義と反権力を貫けないのも当たり前です。


獅子風蓮