獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

村木厚子『私は負けない』第一部第4章 その1

2023-05-12 01:47:58 | 冤罪

このたび、村木厚子さんの著書『私は負けない-「郵便不正事件」はこうして作られた』を読み、検察のひどいやり方に激しい憤りを感じました。
是非、広く読んでほしい内容だと思い、著書の一部を紹介したいと思います。

(目次)
□はじめに
第一部
□第1章 まさかの逮捕と20日間の取り調べ
□第2章 164日間の勾留
□第3章 裁判で明らかにされた真相
■第4章 無罪判決、そして……
□終 章 信じられる司法制度を作るために
第二部
・第1章 支え合って進もう
  ◎夫・村木太郎インタビュー
・第2章 ウソの調書はこうして作られた
  ◎上村勉×村木厚子対談(進行…江川紹子)
・第3章 一人の無辜を罰するなかれ
  ◎周防正行監督インタビュー
・おわりに

 


■第4章 無罪判決、そして……

 

基本に忠実な判決

判決の前に、裁判所から弁護団に問い合わせがありました。
「無罪の垂れ幕は出すんでしょうか」
まだ、判決を聞いていないのに、もう無罪認定していると、みんなで大笑いしました。支援してくださった方たちからは、(垂れ幕を)やってください」という声もありましたが、うちの家族は大反対。速やかに却下となりました。
2010年9月10日、法廷で、「被告人は無罪」という裁判長の声を聞いた時、心臓が大きく一つ鼓動しました。特別な感動がこみ上げてくるわけではなく、こういう時には体で感じるものなのだな、と思いました。
もちろんほっとしました。でも、大喜びというわけではありませんでした。これで喜んでしまっていては、控訴されたら辛いし、心が折れてしまうかもしれない。そうならないように、「これは第一ラウンド。控訴されてもしっかり最後まで闘うぞ」と自分に言い聞かせていました。実際、検察が一生懸命控訴の準備をしている、という話も聞こえてきていました。
私が判決で一番うれしかったのは、どんなに供述調書が具体的で迫真性があっても、そういうものは後から作り出すことも可能であるし、事件から取り調べが行われるまでの5年という時の流れが人の記憶に影響を与えたことも配慮して、まずは客観的な証拠を中心に調書の信用性を検討する、とはっきり言ったことです。刑事司法の一番本質的なことをストレートに宣言されたところに、この判決の一番の価値があるのではないか、と思いました。
検察側の主張についても、一つひとつ丁寧に検討していました。どういう角度から見ても、検察の主張は逃げ道をふさがれた格好でした。証拠採否の決定の時とは違って、判決には捜査に対する批判はありませんでした。それも、検察が控訴を断念しやすくするための工夫のようです。弁護団が、「本当に玄人受けのする判決、どうやっても控訴できないように道をふさいである」と教えてくれました。
ある新聞社の検察担当の記者が、こんなことを教えてくれました。
「判決が出るまでは控訴準備を進めていたようだけれど、判決を読んで、諦めがついたようですよ。大阪地検は憑き物が落ちたような感じになっていますよ」
もうあんなむちゃくちゃなストーリーを掲げて戦わなくてもいいんですよ、と裁判所に諭してもらったような状況ではないでしょうか。
そして、控訴期限が来る前に、証拠改竄の問題が明らかになって、9月21日に検察側が控訴断念を発表しました。
無罪判決が確定し、翌日から私は仕事に復帰しました。

 

負けてはいけない

こんなに早くゴールが訪れるとは予想していませんでした。何年も闘わなければならないのだろうな、と思っていましたし、何年かかっても、最後まで闘うんだ、と常に自分に言い聞かせていました。
それは、一つは私にとって、信用とか名誉というものが、とても大事だったからです。それをなくしてしまったら、これまで社会人として生きてきた自分の人生、その根幹が壊れてしまうような気がしました。もう一つは、最後まで闘う姿勢を子どもたちに見せることが、親としての責任だと感じていたからです。
検察の卑怯なやり方に「負けたくない」「負けてはいけない」という強い思いがありました。お金や時間は、検察の武器になります。闘い続ければ、お金がかかるし、時間がかかる。ここで諦めれば、早く終わってやり直せるというささやきが聞こえてきます。でも、お金や時間を利用して相手を攻撃するのは、兵糧攻めと同じ。そういうやり方に負けてしまうことがとても嫌でした。
とはいえ、そういう攻撃に対して、誰もが闘えるわけではない。生活の事情で闘いを断念せざるをえない人は少なくないでしょう。幸い私の場合は、夫がいて収入はあるので、すぐに生活に困るわけではない。役所でも、応援してくれる人はたくさんいて、夫はみんなに親切にされながら働けているわけです。こんなに、闘う環境に恵まれている人はめったにいないかもしれない。だったら、私はとにかく最後まで闘おうと思いました。
「勝つ」「勝ちたい」という言葉は自分の頭に浮かんできませんでした。そうではなく、「負けない」「負けたくない」という言葉が常に私の中にありました。それは、たぶん、私は戦って勝ち上がってきた人間ではないので、「勝つ」ということへの執着がないからでしょう。
私が社会人になった頃は、女性はコピー取りやお茶くみをやるのが当たり前で、男性より昇進のスピードも遅いのが普通。子どもを持っている女性の先輩は、親と同居の人が多いのですが、うちは夫婦だけで子育てをしていましたから、常にハンディを背負っていました。なので、何事も「勝てる」とは最初から思っていない。職場に迷惑をかける状況になったらあきらめるけど、それまではがんばって、やれるところまでやってみよう、という感じでやってきました。局長や次官になったではないか、お前は勝ち組だと言われるかもしれませんが、昇進というのは結果なんです。たまたまポストが空いたとか、たまたまやった仕事が評価されたとか、「たまたま」が重なった結果、今の立場があるだけ。私が勝ちを取りに行ったものとは違います。子どもの病気など、これまでの間にも、仕事を続けられるかどうか分からないというピンチは、何度もありました。だから、今回のような不利な状況から始まる闘いには慣れていた、と言えるかもしれません。
これが、役所やビジネスの世界で、トップを目指してやってきて、いい結果を出し、勝ち上がってきた人であれば、もっと辛かったでしょう。刑事司法の世界は、有罪率99パーセントですから、なかなか勝てません。特捜部の事件はなおさらです。しかも、こちらが仕掛けていくのではなく、守りの闘いです。負けないための闘いです。私の場合は、そういう仕掛けられた闘いが性格的に合っていたのかもしれません。

 

検察はなぜ引き返せなかったのか

一方の検察、特に特捜検察は、「巨悪」と闘い、勝ってきたという自負があります。そのために思い込みが生じ、それが自らの思考を縛ってしまったのかもしれません。
今回の事件で、上村さんは相手が本当の障害者団体と思い込み、問題を先送りしている間 に督促され、手続きを踏むのをさぼって「ええいっ」と自分で勝手に証明書を作ってしまった。障害者団体に迷惑をかけてはいけないと思い込んでしまった。そういう人の思考や心境が、「巨悪」を敵にする発想では理解できず、歪んだレンズを通してしか、事態を見られなかったのではないでしょうか。
しかも、「勝ち」にこだわりすぎて、何度も引き返すチャンスがあったのに、それをすべて活かせませんでした。なぜ、この組織はこんなにも、引き返せないのでしょうか。真相が分かることが、最も大事なことではないのでしょうか。それとも、引き返すことが「負け」と思っているのでしょうか?
そして、そのプロセスで多くの人間が、フロッピーディスク改竄の事実を知っていて隠していました。すべてが極秘裏に対応され、裁判ではずっと「村木は犯人だ」と主張し、懲役1年半を求刑しました。いったい検事という職業は何のためにあるのでしょうか。
今回の事件を振り返ると、國井検事はひどいとか、前田元検事はとんでもないことをやったとか、大坪元特捜部長はもともと危ない人だったとか、そういう個々の検事の資質や行為だけの問題にしてはいけないと思います。組織としての対応が問題だったのです。それを変えるには、個々の検事の倫理観に訴えるだけではなく、仕組みを変えなければなりません。
検事たちは、使命を与えられ、走り始めると、とにかくひたすらそれに向かってまじめに突き進んでしまう。それは、ある種の本能なのでしょう。それが困難な事件を解決するために活かされることもあるのでしょう。でも、今回のように、一丸となってストーリーどおりの調書作りに励んでしまったり、問題が発覚しても途中で止められず、最後まで走り続けてしまうことにもなります。だから、途中で止める仕組みを作っていく必要があると思います。いくら倫理憲章を作っても、精神論では根本的な体質を変えることはできません。それは、検事のような立場に置かれた人間の性(さが)でもあるからです。
そう思うのは、自分自身でこんな体験をしているからです。
私が、労働省(現在は厚生労働省)に入って2年目に、地方の労働基準監督署で見習いをやりました。労働基準監督官は、司法警察員でもあるので、労災で死亡事故があった場合など、立ち入り調査を行ったり、関係者を尋問したり、場合によっては逮捕したりする権限があります。私は見習いだったので、そういう権限はなく、ただ話を聞いて聞き取り書を作るだけでした。そうであっても、会社の人は、悪いと分かっていて事故につながるようなことをした、というような証言を引き出せないか、と思ってしまいました。もちろん、言ってもいないことを書こうとか、嘘でもいいから言わせようとか、そんなことは思いません。思わないけれど、故意に何かをしたという証言を引き出さなければ、という発想が、自分の中に生まれるんです。「人が一人亡くなったのだから、誰に責任があるのか明らかにしなければ」「事業所が隠している事実を明るみに出さなければ」という気持ち。 それは、一種の正義感です。私のような見習でも、そんな気持ちになったのです。
警察官や検察官は、そういう正義感をたくさん育てながら、仕事をしているのでしょう。だから、必ず「責任を取らせなければ」という方向にバイアスがかかる。自分たちの見立てが間違っていても、相手が隠しているんじゃないか、責任を逃れようとしているんじゃないか、という方にばかり発想が働いてしまう。自分たちの見立てそのものが違っているのではないか、というふうになかなかなりにくい。だから、間違った方向に突き進んでいる時に、それを止めるには、個々の警察官や検察官の自覚を育てるだけではなく、きちんと止められる仕組みを入れないとダメだと思うのです。

 

 


解説】】
検察、特に特捜検察は、「巨悪」と闘い、勝ってきたという自負があります。そのために思い込みが生じ、それが自らの思考を縛ってしまったのかもしれません。
(中略)
「勝ち」にこだわりすぎて、何度も引き返すチャンスがあったのに、それをすべて活かせませんでした。なぜ、この組織はこんなにも、引き返せないのでしょうか。真相が分かることが、最も大事なことではないのでしょうか。それとも、引き返すことが「負け」と思っているのでしょうか?
(中略)
警察官や検察官は、そういう正義感をたくさん育てながら、仕事をしているのでしょう。だから、必ず「責任を取らせなければ」という方向にバイアスがかかる。自分たちの見立てが間違っていても、相手が隠しているんじゃないか、責任を逃れようとしているんじゃないか、という方にばかり発想が働いてしまう。自分たちの見立てそのものが違っているのではないか、というふうになかなかなりにくい。だから、間違った方向に突き進んでいる時に、それを止めるには、個々の警察官や検察官の自覚を育てるだけではなく、きちんと止められる仕組みを入れないとダメだと思うのです。

「なぜ、この組織はこんなにも、引き返せないのでしょうか」
私も、本当に不思議に思います。私などは、ここの検察官の責任を追及したくなります。
しかし村木さんは、個々の検事の資質に問題があるのではなく、冤罪の歯止めとなる仕組みが必要なのではないかと考えます。

冷静ですね。

 

獅子風蓮