このたび、村木厚子さんの著書『私は負けない-「郵便不正事件」はこうして作られた』(中央公論新社、2013.10)を読み、検察のひどいやり方に激しい憤りを感じました。
是非、広く読んでほしい内容だと思い、著書の一部を紹介したいと思います。
(目次)
□はじめに
第一部
□第1章 まさかの逮捕と20日間の取り調べ
■第2章 164日間の勾留
□第3章 裁判で明らかにされた真相
□第4章 無罪判決、そして……
□終 章 信じられる司法制度を作るために
第二部
・第1章 支え合って進もう
◎夫・村木太郎インタビュー
・第2章 ウソの調書はこうして作られた
◎上村勉×村木厚子対談(進行…江川紹子)
・第3章 一人の無辜を罰するなかれ
◎周防正行監督インタビュー
・おわりに
保釈の決定
起訴後は、毎日誰かが面会に来てくれました。夏休みの間は、次女が大阪のウィークリーマンションで一人暮らしをして、毎朝来てくれました。拘置所に寄ってから、予備校の夏期講習に通っていました。面会時間は10分ほど。話題はもっぱら、ごく普通に茶の間で話すようなことばかり。「○○ちゃんがどうした」とか、新しい服を買ったとか、本当に他愛のない話です。娘の話があまりにおかしくて、立ち会いの刑務官が必死に笑いをこらえていることもありました。そうやって明るく励ましてくれた家族には、本当に助けられました。
起訴されてから2回行った保釈申請は認められず、10月になって、弁護団が3度目の保釈の申請をしてくれました。裁判所は一度保釈決定を出したのですが、検察側が準抗告をして、猛烈に反対しました。その理由ですが、被告人はマスコミに追いかけられているので、逃亡する恐れがある、というのです。さらに、調書に署名を拒否したことがあるとか、上司の立場で職員たちに圧力をかけて証拠隠滅をするのではないか、とも書かれていました。私は、自分のことが報道で出てから逮捕されるまでにたっぷり時間があったわけですから、「圧力をかけるつもりでいるなら、その間にとっくにかけているわ」と、怒るよりむしろ笑ってしまいました。残念ながら、保釈決定は取り消されてしまいました。それでも、この時点では私もまだ元気だったのですが、11月になって気温がだんだん下がってくると、この石造りの建物は冬には相当寒くなりそうだというのが分かってきました。1月から裁判が始まるのに、体調管理ができるかしらと、不安に感じ、できるだけ早く出たい、という気持ちが募ってきました。4度目の保釈申請でもやはり検察は反対しましたが、裁判所が保釈を認めてくれました。検察がまたも準抗告しましたが、この時は保釈が維持されました。ただ、保釈金は1500万円という高額。複数の定期預金を解約するなどして、調達してもらいました。
ようやく勾留が終わる
11月24日午後7時過ぎ、拘置所を出る間際、職員が「村木さん、ここ(拘置所)を出てからの方が大変よ。ここの生活も大変だったかもしれないけど、ここはほんとに安全なんだから」と声をかけてくれました。実際、そのとおりでした。
タクシーで拘置所を出ると、雨の日だったのに、カメラを持った報道陣がたくさん待ち構えていて、あっという間に車が囲まれました。車の前に立ちはだかる人、車の窓にカメラを押しつけてフラッシュを焚く人……。仕方がないと腹をくくって、できるだけ平然としていようと思いました。運転手さんは、さすがプロで、尾行してくる車はすべてきれいにまいて、ホテルまで運んでくれました。
勾留されていた期間は164日間。その期間を数字でまとめると、こうなります。
面会に来てくださった方 約70人
いただいた手紙 約500通
体重 6キロ減
読んだ本 150冊
ホテルで一泊し、翌日、記者会見を行いました。弘中弁護士が、「記者会見をやるので、その後追いかけ回したり家に押しかけるのはやめてほしい」とマスコミに申し入れたのです。大阪の友人が、プロのメイクさんを連れてきてくれて、髪をきれいにしてもらい、久しぶりのお化粧をしてもらいました。娘が夏休みを大阪で過ごした時も、地元の方には、本当にお世話になりました。
記者会見には、夫も一緒に出てくれました。この時の記者の質問は丁寧でした。事件の問題点が少しは理解されてきたのかな、と思いました。記者たちは約束を守り、その後は追いかけられるようなことはありませんでした。やはり会見はやってよかった、と思います。弁護団は、その後も裁判のたびに記者に論点を詳しく説明するなど、報道の対応も引き受けてくれました。保釈になった時、女性の弁護士さんにこう言われました。
「村木さん、家に戻ったら、子どものお弁当を作ろうとか、掃除をしようと思ってるでしょ?でも、1ヵ月は何もしない方がいいわよ。絶対に疲れているんだから」
そのとおりでした。まず、拘置所の中ではずっと座っている生活だったので、足が弱っていました。駅の階段も一気に上がれないほどでした。人としゃべる機会が少ないので、のども弱っているのには驚きました。それに、本当にマスコミに張られていないかと気になって、外に出るのが怖い状態もしばらく続きました。この間は、買い物は家族にしてもらっていました。私がいない間、ベランダの鉢植えは夫が一生懸命水やりをしてくれていたのですが、最後の1ヵ月、また海外出張があり、すべて枯れてしまいました。植え替えなければ、と思いながら、なかなか気力がわいてきませんでした。実際に体が動いたのは、5月のゴールデンウィークに入ってから。半年間拘置所に入っていて、外に出て身体が回復するのにやはり半年かかったわけです。
「身柄拘束」が強いる苦しみ
逮捕、勾留といった厳しい出来事から心が回復するには、さらに時間がかかるようです。無罪が確定して職場に復帰した当初は、マスコミに追いかけられた場所の近くを通ると1年以上たっているのに心臓がドキドキしました。当時、立ち入り禁止区域にまで入り込んで待ち伏せをされ、慌てて走って逃げた場所です。その時に、心臓がドキドキし、息ができず、手足がガタガタと震えたことを思い出してしまうのです。
そういった恐怖感は、日が経つにつれ、仕事の忙しさに紛れて薄まっていきました。ところが職場復帰をしてかなり時間がたったころ、不思議なことに気づきました。悲しいことやいやなことがあっても落ち込まない。大きな経験をしたから動じなくなったのかなと思っていたら、うれしいことがあっても大喜びしていないことに気づきました。どうやら、拘置所にいる間、感情を抑え込んでいたせいで、感情の振れ幅が狭く抑え込まれてしまったようです。そんな状態がしばらく続いた後、大きな法案を担当して、国会対策に走り回る中、アドレナリンがわーっと出て、目に見えないガラスの壁が破れたように、本当の感情が戻ってきた瞬間を経験しました。事件から3年近く経っていました。
「これでもう大丈夫」と思ったのですが、まだそうとも言えないようです。先日、法制審議会特別部会で、身柄拘束の大変さを、自分の経験を紹介しながら話していると、急に声が震え涙が出そうになってしまいました。まだこういうことが起きるのかと驚きました。これが、「身柄拘束」というものだと思います。
私は、起訴と同時に接見禁止が解け、短時間とはいえ毎日面会があり、手紙も来て多くの人と接することができました。とても恵まれた立場でした。それでも、この時のトラウマはずっと残るのです。社会から隔絶されたうえに、接見禁止が続いて、ずっと人と普通に話せない状態に置かれれば、感覚が狂ってしまうでしょう。判断力が通常のように働かなくなる恐れは、十分あると思います。長期間拘束されれば、釈放された後にも、長く影響が残るでしょう。上村さんは、私より拘束期間は短かったですが、40日間連日取り調べがあったので、本当にきつかったと思います。上村さんは、勾留がこれ以上続くのが恐ろしく、断腸の思いで私の関与を認める調書にサインをしたと、その間の苦悩を切々と被疑者ノートにつづっています。それを見れば、「身柄拘束」がいかに厳しい基本的人権の制約であるか分かるはずです。しかも、勾留が虚偽の自白や供述を得る道具として利用されているのは、明らかです。
「身柄拘束」は、それ自体が「罰」だと思います。裁判官や検察官、学者や国会議員など、制度を考える人たちの多くは、身柄拘束をされたことがないので、なかなか実感が持てないかもしれませんが、私は、なぜ裁判も始まっていないうちから、このような「罰」を受けなければならないのかと思います。「身柄拘束」については、もっとルールを明確にし、厳格に行うべ きです。
【解説】
逮捕、勾留といった厳しい出来事から心が回復するには、さらに時間がかかるようです。無罪が確定して職場に復帰した当初は、マスコミに追いかけられた場所の近くを通ると1年以上たっているのに心臓がドキドキしました。当時、立ち入り禁止区域にまで入り込んで待ち伏せをされ、慌てて走って逃げた場所です。その時に、心臓がドキドキし、息ができず、手足がガタガタと震えたことを思い出してしまうのです。
(中略)「身柄拘束」は、それ自体が「罰」だと思います。裁判官や検察官、学者や国会議員など、制度を考える人たちの多くは、身柄拘束をされたことがないので、なかなか実感が持てないかもしれませんが、私は、なぜ裁判も始まっていないうちから、このような「罰」を受けなければならないのかと思います。「身柄拘束」については、もっとルールを明確にし、厳格に行うべ きです。
あれほど精神的にタフな村木さんですら、逮捕、勾留といった厳しい出来事から心が回復するには長い時間がかかったのですね。
創価学会中枢の方針に逆らったという理由で、創価学会員が組織の上の人から査問を受けたり除名になったりすることが最近頻発しているようです。
今、友岡雅弥さんのことを調べていますが、創価の良心ともいわれた友岡さんは聖教新聞の記者として取材するかたわらホームレスの人や東北の被災地の人のためのボランティアに力を注いでいました。
しかし、学会本部としては、そういうボランティア活動を優先する態度は許せないといって、友岡さんを長時間査問し、友岡さんはPTSDにまでなったそうです。
おそらく、それにより体力を著しく損なった友岡さんは、ボランティアに赴いた東北の地で命を落とすことになります。
ネットの世界で、創価学会執行部による「間接殺人」と呼ばれている事件です。
これまで信頼していた組織から、手のひらを反すような査問を受け、プライドをくじかれ、取材の出張費は不正に得た金だといって返却を迫られ、そうとうなダメージを受けたのでしょう。
ある意味、友岡さんは、創価学会執行部から冤罪を受けたと言えます。
友岡さんについては、亡くなってからネットで知ったので、あまり詳しくはありませんが、彼のことを知れば知るほど、死ぬには惜しい人物だったと思います。
彼をよく知る人たちは、どうして彼の冤罪を晴らすべく、立ち上がらないのでしょうか。
不思議でなりません。
獅子風蓮