★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

生きる目当て

2021-03-14 23:34:38 | 文学


「汝は我を失んとの使にてぞ有らん。心得たり。」と被仰て、淵辺が太刀を奪はんと、走り懸らせ給けるを、淵辺持たる太刀を取直し、御膝の辺をしたゝかに奉打。宮は半年許篭の中に居屈らせ給たりければ、御足も快立ざりけるにや、御心は八十梟に思召けれ共、覆に被 打倒、起挙らんとし給ひける処を、淵辺御胸の上に乗懸り、腰の刀を抜て御頚を掻んとしければ、宮御頚を縮て、刀のさきをしかと呀させ給ふ。淵辺したゝかな る者なりければ、刀を奪はれ進らせじと、引合ひける間、刀の鋒一寸余り折て失にけり。淵辺其刀を投捨、脇差の刀を抜て、先御心もとの辺を二刀刺す。被刺て 宮少し弱らせ給ふ体に見へける処を、御髪を掴で引挙げ、則御頚を掻落す。篭の前に走出て、明き所にて御頚を奉見、噬切らせ給ひたりつる刀の鋒、未だ御口の 中に留て、御眼猶生たる人の如し。淵辺是を見て、「さる事あり。加様の頚をば、主には見せぬ事ぞ。」とて、側なる薮の中へ投捨てぞ帰りける。去程に御かいしやくの為、御前に候はれける南の御方、此有様を見奉て、余の恐しさと悲しさに、御身もすくみ、手足もたゝで坐しけるが、暫肝を静めて、人心付ければ、薮に捨たる御頚を取挙たるに、御膚へも猶不冷、御目も塞せ給はず、只元の気色に見へさせ給へば、こは若夢にてや有らん、夢ならばさむるうつゝのあれかしと泣 悲み給ひけり。

「さる事あり。」というのは、例の眉間尺のことである。父の敵を討つために眉間尺と言う男は、三寸の刃を咥えて自決、首だけになった彼は仇の楚王のもとに行き、王が首を見た瞬間、刃が飛んで王の首を切断したのだった。この挿話を思い出した暗殺者は、宮の首を足利直義にとどけなかったのだが、これはこの話を語っている作者の弱さを物語っている。面白そうだから、首を持っていけばよかったのだ。そこで首が飛び上がろうと、そうでなくとも、人の怨みの世界について読者は考えるはずである。三国志演義なんかでも、関羽の首が曹操の元に届けられて、「お元気ですか」と言ったとかなんとか語られているけれども、これは面白くしようとしたというより、――関羽というものが表現しているのは、怖ろしく傲慢で超人的に強いがつい恩義がある人には愛想よくしてしまう人間の不思議さなのである。こんな人たちを統治するためにはどうしよう……、知恵を絞るほかはない。上の暗殺者は、足利と後醍醐天皇の界隈が面倒なことになっていることを知っていた。またもや、嘆願書をとどけなかった公家と同じく、面倒を避けたのである。面倒というのはいつも存在しているが、そこに直面すると頭を使う必要がある。それが面倒なのだ。

そして、うち捨てられた宮の首に直面するのは、お世話をしていた南の御方である。日本のフェミニズムの困難はいろいろあるだろうが、ひとつには、トラウマを女性に任せるという文化の頑強さがあるような気もするのだ。平家物語でも最後は女の悲しみが中心に押し出されていた。

 概して文芸家の首には深みがある。ドストイエフスキイ、ストリンドベリイ、ロマン ロラン、皆そうらしい。ポオ、ヴェルレエヌ等は何という不思議な首だろう。彼等の詩そのものと思う。政治家では、リンカンの首がすばらしい。生きている当人に会ってみたかったといつも思う。近くではレエニンの首が無比である。レエニンの性格に関する悪口を沢山きくけれども、私は其を信じない。彼の首が彼の決して不徳な人でなかった事を証拠立てている。野心ばかりの人に無い深さと美とがある。ナポレオンよりも好い。ナポレオンにはもっと野卑な処がある。近世の支那にはまだ人物が出ないようだ。

――高村光太郎「人の首」


もう、ここまでくると訳が分からないが……。目標を狭く定めていることは確かである。鷗外は美女の項を見て恋をするのだが、光太郎は首そのものを愛してしまうのだ。おそらくだが、光太郎は暴力性を一生懸命押さえ込もうとしていたに違いない。

例えば、「前を向いて生きる」とか「自分らしく生きてゆく」とかいうのを目標にしてはいけないのは、我々の日常はほぼ失敗のくりかえしであり、そのつどその目標に照らして自分が道を誤っていることを実感することになるからである。反省すれば後ろ向きで、自分を半ば否定して自分らしくなくなるわけだからもう大変だ。目標を言っているだけのいいかげんな人ならともかく、真面目な人は、こういう目標を立ててはいけない。最近は、プロセスを分割してそのつど褒めろとか言うくせに、目標が、上のような漠然としたものが推奨されているために、いちいち矛盾しているように感じられる。だからといって、目標を歯磨きできたとか、この前より5点あがったとかで褒められても、本気で褒めてられてないことは馬鹿でもわかる。目標は具体的に、鎌倉幕府を倒すとか、あのセクトを殲滅とかにすべきだ。「太平記」の人々のように。しかし、そうすると元気がですぎるやつに殺される可能性がでてくる。

高村光太郎は天皇も仏教も信じない近代人なので、そこんとこよく分かっていた。

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