子路問強。子曰、南方之強与。北方之強与。抑而強与。寛柔以教、不報無道、南方之強也。君子居之。褥金革、死而不厭、北方之強也。而強者居之。故君子和而不流、強哉矯。中立而不倚、強哉矯。国有道、不変塞焉、強哉矯。国無道、至死不変、強哉矯。
「中立而不倚」――中道に立って偏ることがないというのは、南方(君子)のように暴力にも我慢して穏やかに堪えることでもなく、北方(強者)のようにやたら死をおそれないありかたでもない。中道は、このような我慢と暴力のような極端なアホウがいた場合に、正道をゆくということである。中間と言っても、こういう二項対立があった場合であって、ふつうに言われている中道左派とか中道右派みたいなものは、我慢と暴力の間を右顧左眄することに他ならない。
源頼朝は能く撃てり、然れども其の撃ちたるところは速かに去れり、彼は一個の大戦士なれども、彼の戦塲は実に限ある戦塲にてありし、西行も能く撃てり、シヱクスピーアも能く撃てり、ウオーヅオルスも能く撃てり、曲亭馬琴も能く撃てり、是等の諸輩も大戦士なり、而して前者と相異なる所以は前者の如く直接の敵を目掛けて限ある戦塲に戦はず、換言すれば天地の限なきミステリーを目掛けて撃ちたるが故に、愛山生には空の空を撃ちたりと言はれんも、空の空の空を撃ちて、星にまで達せんとせしにあるのみ。行いて頼朝の墓を鎌倉山に開きて見よ、彼が言はんと欲するところ何事ぞ。来りて西行の姿を「山家集」の上に見よ。孰れか能く言ひ、執れか能く言はざる。
透谷が戦士としての文士を主張したかもしれないのは、当時、戦士としての機能を有するものが誰だったかによってだいぶ意味合いが変わってくるかも知れない。賴朝とか愛山とか山陽とか、があがっているけれども、文章に書かれているものは本当の敵ではない。透谷にかぎらず、本物の抑圧は書かれていない――いや、よく分からないから書くことができない場合が多いだろうから。そして、本当に書こうとした場合は、南方と北方とかいう言い方になりかねず、いつも戦士は中間みたいな「半端物」にみえるのを覚悟しなければならない。だから、大概は、多くの批評家たちがそうであったように、論敵に対するプロレスを演じてしまうのである。