★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

水無神社を訪ねる2(長野の神社7――境内社編)

2018-01-06 18:23:56 | 神社仏閣


境内社は多い。町中にあったものを集めたという話をきいた。『木曽福島町史』に載っている明暦期の棟札によると、末社は「八幡住吉八将軍津島三宝荒神」。『木曽古事記』には「皇大神宮、熊野、八幡、住吉、八将軍、津島、三宝荒神、愛宕」の七社あることになってるらしい。

石段を登って左からみてゆくと……



 

「木曽神社」とあり。社の中に木札があって左から「山村氏代々之神霊 木曽義仲公之神霊 木曽氏代々之神霊」と書いてあった。三社づくりの神棚に真ん中にアマテラスをおいておくのを真似ているのであろう。だいたい、人体から遊離したタマが、祖霊からあわよくば最高形態である神霊になるというのが、よくある考え方であったろうが――、個人だけではなく、家によってそれが可能になるとされているところがあれです。――これは、上の記述にもなかったが、いつできたんだろう。

  

本殿の右側奥にもありました。

 



「木曽乃宮」。拝殿正面に書かれている説明によると、昭和10年創建。はじめ「西筑摩郡忠霊殿」と言っていた。祭神は、「明治以来殉国英霊一千九百八十一柱」。町村会が中心になって関山公園に建てたらしい。で、敗戦後、ここに移ってきたのである。すなわち、――町村会や在郷軍人会のもとを離れ、神社団体関係と戦友有志たちによって維持されて今に至るらしい。「英霊」の数が町村別に掲げられていたが、福島上松が相対的に多いのは人口の点でわかるにしても、読書村が福島とほぼ同じ数だけいるのは興味深い。



「祖霊社」。これはなんだか新しそう。祖霊社の多くは神仏分離運動で持仏堂の代わりに建立したらしいのであるが、ここはどうなのであろう……ちなみに、



祖霊社の反対側に、本殿を挟んで、「備林献納碑」?のとなりに「大日尊」の碑もひっそりとあった。

水無神社の拝殿本殿は、境内社を後ろに従え、木曽乃宮と忠魂碑とを左右に配している。更に、木曽神社(神霊)と祖霊社も左右に配置。なかなかの戦闘的なつくりである。『木曽福島町史』には、そもそも飛騨の水無神社の祭神が誰なのか曖昧であって、ここの水無神社も高照姫命ということになってるが、みこしまくりの荒っぽさから姫の祭りじゃねえな実は神武天皇じゃねえかとか、いや神武には神輿を粉砕されて命からがら逃げたなんて事績はねえぞ、とかいろいろと議論があるのを紹介していた。みこしまくりも、どうやら少なくとも山村代官時代以降の話じゃないかとも言われていて、どうも木曽というのは、義仲の印象や、武田や織田やなにやらから翻弄されてきた歴史から、自分たちを武士的な荒っぽいイメージで囲い込んできた面があるような気がしてきた。荒々しい御嶽信仰もつよかったしね……。資本主義によって劇的な変化をしなかった地方には、こういうところも多いのかも知れない。近代のナショナリズムもこういう側面が支えていたのかも知れないナア



夏の水無神社。


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