goo blog サービス終了のお知らせ 

★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

世界文学と伏せ字

2025-03-24 23:22:35 | 文学
長篇小説作家としての天外氏の力量、手腕、才幹に至ては、今更われわれが、かれこれ言ふ必要がない。その大手腕は、箇々の作品が證明してゐるところだし、夙に天下が認めてゐるところだ。殊に天外氏の作態度は、極めて良心的で、一行一句と雖も苟もしない。一作を書く前には、それぞれ遺漏な準備を整へ、調べることは調べ、経験すべきことは経験し、筆を執っても濫りには書かない。だから、天外氏の創作態度や、その作風は、自然主義文學の巨匠エミル、ゾラに比較せられた。 作品に取りかゝる準備に費される努力は、全くゾラの熱心と精力に比すべく、筆を執ってからの苦心と刻苦とは、フロオベエルに比してもいゝ。それだけに、一夜で書きなぐつた作品と違って、どの一作を取って見ても、不出来なものはない。すべての作品が、幅も、厚みも、深さもある本格的な長篇作品として、信用して讀める。


――中村武羅夫「傑作中の傑作「銀笛」と「七色珊瑚」」(『長編小説月報』昭4・11)


やっぱり、近代文学たるもの、ゾラとかフロオベエルと比較しないとだめなのである。いまは誰と比べているのだ?よく言われていることであるが。戦後の「世界文学」の流れ、ほんと観念的であって、小杉天外とか田山花袋にとってのほうが世界文学は切実である。よく知られていることであるが、サルトルの「水いらず」の翻訳が最初に雑誌にでたときの中村光夫の評(昭22)は「つまらない。低級な小説である」から始まる。ここらあたりまでは我々も世界文学のつもりだったのかもしれない。

ところで、戦後の「世界」文学が、ブルジョアデモクラットの反動であるのに対し、昭和初年代の「世界文化」はインターナショナリズムの共産主義者が旗を振っていた。例えば、勢い余ってこんな事も起こっている。



伏せ字になってへんやないか、と思うが、もともと地下に潜っているようなもんだから、彼らは伏せることによって逆に露呈するような生を生きていたのである。


最新の画像もっと見る