★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

月報雑感

2019-03-20 23:44:40 | 文学


全集には「月報」というモノがついていて、これが案外独特な文化を創っていると思う。批評でもなければ、感想でもない。しかし、本文よりも最初に読まれるかもしれない雑文。本に寄り添って、ときどき読んでいる本から滑り落ちて、綴じられていないので床にばらける。執筆メンバーは、批評家に限らない。作者と人的つながりがあった家族、編集者が登場する。

『吉本隆明全集14』の月報は、藤井貞和、水無田気流、ハルノ宵子の執筆であった。

ハルノ宵子は娘である。吉本の妻和子は『寒冷前線』という句集をだしていて、これはわたくしも昔読んだことがあるが、結構イキで天才的な感じであった。ハルノ曰く、吉本の才能は、集中力と継続力みたいなもので、「才能」のようなものではないが、しかし妻のそれは「才能」であった、と。そうかもしれない。14巻は『初期歌謡論』が載っているが、なんだろう――結局、吉本は自分の「うた」をうたっているのである。この長大さは、ほとんどシュトックハウゼンの電子音楽のたぐいといえるのではないだろうか。

これにくらべると、寺山修司の『暴力としての言語』なんか、ソレルの所謂、フォースとは異なるヴァイオレンスを話し言葉的なものに求めているいるが、――ほとんどボクシングの練習を10分でやめている雰囲気であって、結局、この「暴力」というやつ、学生の運動のそれも含めて直ぐ疲れるものであった。吉本が逆らっているのは、そういう暴力なのである。

まあ、現在は、寺山が社学同の学生に対して、社会契約的な法だけじゃなく「内なる法」――「「エロス的現実の「法」快楽の原則」を忘れるな、みたいなことを言っているような――こんな水準すら忘れられようとしている。このエロスが、なんだかベッドシーンみたいなものとして開花してしまったのは誰のせいなのか。決して村上龍とか村上春樹だけのせいではない。

上の月報のうち、水無田気流の文章は、現代詩人とアカデミズムを架橋する存在らしく、明晰なものだった。しかしわたくしがあまり理解できないのは、彼女が吉本と一緒に講演会?をやったときにお腹の中にいた子どもが、いまでも吉本の映ったビデオを観ると嬉しそうに寄っていくみたいなエピソードが最後にくっついていることであった。このエピソードは必要なのか。


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