★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

ユジャ・ワンと犬のダンピング

2017-08-12 23:42:04 | 音楽
この前、パーヴォ・ヤルビとベルリンフィルの演奏を従えたユージャ・ワンがプロコフィエフのピアノ協奏曲第2番を弾いている動画があったので――それを聴いていたら、夏であるがのんびり昼寝している場合ではないような気がしてきた。昔、わたくしもこの曲の楽譜を持ってきてちょっと練習してみたことがあるが、第一楽章のカデンツァなんか、ごく一部しか弾けなかった。腕と指が痙攣して、焦って近くにあったムヒをぬってしまったのは、楽しい思い出だ。

フルトヴェングラーの一九四〇年代の演奏というのは、狂ったようなアッチェレランドがすごくて、それをある種のナチスだとか言う人もいるが、この表現はちゃんと演奏の歴史で意味があるので(たぶん)、いいのではないだろうか。しらんけど。

対して、疲弊しているうちに世界的に恐ろしく後れをとるのはいつもの我々で、爆弾が降ろうとも馬鹿が威張り出そうとも、あるいはひょんなことで自分が威張ってしまおうとも、勉強と頭脳の訓練を続けないと後世のためによくない。



とはいえ、林達夫のような碩学でさえ、フランス敗戦以降の?昭和15年あたりにはいよいよ疲弊していたことが『歴史の暮方』に収められた文章をよむと分かる。大学院の時に結構一生懸命林達夫は読んだはずであり、結構ありがたがっていたのであるが――、今日「歴史の暮方」とか「新スコラ時代」を読んだら、すごく疲労感があらわな愚痴っぽい文章で、案外隙みたいなものもあって、我々はこれではいかんのではないかと思った。それに比べれば「犬のダンピング――逆宣伝文学について」なんかが面白かったが、これもしゃれていて鋭いとはいえ、何かが足りない。「全世界の犬のために十字軍を!」この末尾の言葉に代わるものがあればよいのだが――。


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