★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

佐藤通次の『皇道哲学』を

2017-08-13 23:42:11 | 文学
間違って二冊も所持していたわたくしですが、皆さんいかがお過ごしですか。

佐々弘雄といえば、婦人運動の紀平悌子、および連合赤軍のときの例の淳行氏のおやじであるが、新人会出身、九大事件で大学を追放されたあとは新聞業界畑と政界で動きまわった人である。どうも、戦前は大学を追い出された左翼的な知能が、かえって民間に根を張って、みたいな事態がみられるが、こういう人たちの転向の内実も面白いテーマだろう。尾崎秀実とかと一緒に昭和研究会で活躍していたし、右翼的なひとと人脈もあった。朝日内の権力闘争の結果、戦争末期には論説主幹ともなって、八月一五日の有名な社説「一億相哭の秋」も彼が書いたと言われている。今の社説とは違い、何かただ者ではない迫力のある、だからこそ「ああこれだから日本はダメだったんだ」と感じさせる記事であるが、佐々がかいていたのだ。

このように、こういう人たちは、表面上も右だか左だか分からないところがあるが、――最近は研究が進んできているが――、当時は観念右翼や浪曼派が、昭和研究会みたいな国家社会主義みたいなものに反抗してつかまったりしていたことをはじめとして、とまあ思想はいろいろとあったのである。全貌はいまでもよく分からない。戦争責任はトップがとればいいと思うが、それとは別問題に……いろいろあるのだ。現在も所謂「日本会議」的なものだけに目をとらわれていると危険であるとわたくしは思う。


最近、戦後の『世代』を少しづつめくっているのであるが、そこに佐々の書いた「歴史の動因と主体」(昭和二十一年)という文章があった。そこに、「歴史観についての学園の一事例」とあって、具体名は伏せてあるが、おそらく小田村寅二郎とか田所廣泰とかの精神右翼団体「日本学生協会」(のちの「精神科学研究所」)と昭和研究会などの対立の記述がでてくる。前者は昭和十八年には東京憲兵隊によって潰されてしまうのであるが、顧問には近衛文麿がいたし、三井甲之などもいた。立場は、当時の憲法(つまり天皇の政治)を徹底的を守る護憲主義、反革新・反軍政・反長期戦であった。いまでいえば案外、「9条護憲」みたいなところがある。(最近、天皇主義者を自称する者が左翼の中にも現れて、日本の伝統としての平和主義を保守しようとし、天皇を袖にする安倍らの改革派と対立する様はそっくり)井上義和氏が詳しく研究していた気がするが、それはともかく、問題はこれに対する佐々の総括である。

――彼は、その対立を非常に対照的なものとして止揚しようとしている。曰く、学生の方は反動的ではあるが直観的にみるべきものがあり客観性なし。革新団体(昭和研究会)の方は、客観的であるが現状肯定で経済科学主義であり、東條政権の要職に就き戦争をあおる「俗衆的な追随」に陥った。「一方は非常識だがよき常識を示し、他は常識的だがとんでもない非常識で國を過っている」。で、結局、経済だけじゃなく文化とか本能(理法)も大事だよ、「絶対平和主義で突破しうる筋」があるのでがんばろう、みたいな結論になっているのだが、本当にこれでよかったのであろうか。本文を読むと、昭和研究会的な語彙もみえるし、あまり戦前とかわっていないような気がするが、――結局、本当のところを彼は書いていないと思う。このような形式的な止揚は、戦争当時からよくある叙述形態であるので、むしろ戦争や偽装転向の原因といってもいいかもしれないが、本当にあった動きは別だと思うのである。それこそ、右左含めて何を言っていたか、以外の考察が結局必要だと思う次第だ。


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