★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

平凡さと奇妙さ

2022-08-24 23:00:12 | 文学


其の跡に通るものを、「何」と聞くに、「是は正しく、鳥類なるが、おのが身を大事がる」といふ。 また見に行くに、行人、鳥足の高あしだをはきて、道をしづかに歩み行く。 さてもさてもあらそはれぬ事ども也。「とてもなぐさみに、今一度ききたまへ」と、いづれも虫籠をあけて待つに、道筋も見へかね、初夜の鐘のなる時、旅人のくだり舟に、乗りおくれじといそぐ風情。 二階のともし火に映りて見るに、一人は刀・脇指をさして、黒き羽織に、すげ笠をかづき、今一人は、挟箱に酒樽を付けて、あとにつづきて行く。 「あれを」とへば、「弐人づれ也。壱人は女、一人は男」といふ。 「宵からの中に、是計りが違ひぬ。我われ見とめて、なる程大小迄さして、侍衆じや」と申す。 「いな事也。女にてあるべし。おのおのの目違ひはなき」と申せば、又人を遣はし、様子を聞かせけるに、樽持ちたる下人に少語は、「夜舟にて、其の樽心掛けよ。酒にはあらず、皆銀也。夜道の用心に、かく男の風俗して、大坂へ買物に行く」と申す。 よくよく聞けば、五条のおかた米屋とかや。

一種のゲームを思わせる話であるが、鳥足の高あしだの男が出てから俄然不思議な感じになる。そのあとの虫籠窓の中の男たちがみえ、なんだか妙な空間に入り込んだ感じである。そこでは男に見えるものが女である。酒ではなく銀である。女は米屋の女主人である。。。

研究は、平凡さのなかに奇妙さを見出すことで、これは物事を疑うよりも難しい。疑うことなら、小学生だってつねにやっている。しかし疑うだけだから、そのものは変わらず、平凡さを受けいれるしかなくなる。その苦行は、コンプレックスとなってあらわれる。かように、勉強にコンプレックスをもつように教育されてしまうと、なかなか自分に対する研究も、世の中に対する研究にも踏み切れず、つねに「学びつづける」ことになる。生涯教育って、もちろんその危険性があるわけだ。得た情報のゆらぎとして何かがおこる可能性はつねにあるけれども、われわれはもっと機能が悪い機械だと考えておいたほうがよい。心はやはり情報処理の部位とはちがうところにあるのではなかろうか。

勉強に熱中できるひとというのは、自分の姿が消える人だ。しかし研究の人はちがう。とにかく、パソコンかしゃかしゃやってる自分の姿を思い浮かべただけで不気味すぎていやになるタイプである。メタバースとやらをやってる俺の姿はもはや木曽馬のカワイイ馬糞レベルである。これに耐えられる人の心とは何であろうか。

一部で、人事のときに学歴ではなく経験がものを言うようになるのだという説が囁かれていた。一見、深そうな議論に見えるが、勉強をさぼって虫取りしてましたみたいな子どもが常に偉大であるわけではなく、むしろ怠け者のボンクラである。ほんとに、自己欺瞞も巧妙になりすぎて疲れる世の中である。もっと堂々とした世の中になってもらわないと困る。わたくしは経験といったら、ただ「純粋経験」に限ると言いたいくらいである。西田幾多郎も受験では苦労したから劣等生の味方に違いない。――そんなわけないだろう。


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