★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

ピアノ浪曼派

2018-12-24 23:10:24 | 文学


薄井敏夫は『コギト』が始まったとき、「明暗」「ピアノの記」といった作品を続けて書いている。「明暗」では、ピアノの好きな兄妹の家の没落が、「ピアノの記」は、前者を思わせる家にピアノを習いに来ていた女子たちに憧れた青年(今はピアノ教師)が描かれている。「明暗」では、当時映画館にかかっていた「間諜X72」でマレーネ・ディートリヒが弾くピアノが話題になっていた。小説では書かれていないが、それは「ドナウ河のさざ波」で、荒々しいタッチでなかなかの演奏であった。語り手の女の子はこの演奏にケチをつけていて、兄がそれをたしなめていた。「ピアノの記」では、女々しい主人公を慰める女子がいる一方、主人公を馬鹿にする女子やピアノの音を騒音としてしか認識しない住人の存在が仄めかされていて、この著者の狙いが、没落階級の、というより、ある種のジェンダー論に近い感じの、弱さの擁護にあったことは確かのように見える。保田與重郎にもそんな要素があるが、かれはそれを難解さに隠すので……

考えてみると、ジイドの「狭き門」みたいな話にしてもいいのに、そうしないのが『コギト』同人たちのような気がする。保田與重郎ではないが、なによりも対象に「惚れる」ことを重視していたのかもしれないが……。薄井氏がピアノに対する浪漫を捨てていないのであろう。とはいえ、文化は、やはりその目新しさに幻惑されているうちは、自分の問題にならないのではなかろうか。自分の問題にするということはどういうことかと言えば、ほとんど変化も進歩もしないような状態に耐えられるということである。そこを避けて通ると、ロマン派は必ず何かおかしなことをやらかすというのが私の実感である。



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