goo blog サービス終了のお知らせ 

★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

私的唯物論

2022-10-09 23:36:08 | 文学


ひとりすぎ程。世にかなしき物はなし。河内のくに。平岡の里に。むかしはよしある人の娘。かたちも人にすぐれて。山家の花と所の小哥に。うとふ程の女也。いかなる因果にや。あいなれし男。十一人まで。あは雪の消るごとく。むなしくなれば。はじめ恋れたる里人も。後はおそれて。言葉もかはさず。

近世文学を読んでいると、我々が研究で攻撃したりもする我々の世間的常識みたいなものの存在感を感じる。平安や鎌倉時代の文学を我々がなんとなく開放感を感じて読むのは、その存在感が希薄というのがあるのかもしれない。「身を捨てて油壺」なんて、のっけから、ひとが独身でいるとろくなことはないみたいな宣言から始まっている。その例が美人である。十一人ものの男が不審な死を遂げて独身を続ける彼女は「山姥」みたいな者になり、神社の境内で躊躇いもなく射られる。

ねらひすましてはなちければ。彼姥が細首おとしけるに。そのまゝ火を吹出し。天にあがりぬ。夜あけてよくよく見れば。此里の名立姥也。是を見て。ひとりもふびんといふ人なし。

ひとりくらいは不憫だと思う者がいたにちがいないのに、この断定である。我々にとって不思議なのは、案外江戸時代なのだ。我々にとっての唯物論的なものは、こういう神も仏もないせりふを公然と言い放つ我々の「私的」なメンタリティなのである。それをわたくしは私的唯物論と呼びたい。

そういえばアメリカンコミックの「スーパーマン」に似た話として、我が国には「静かなるドン」がある。昼間はサラリーマンで夜はヤクザのドンの男の話である。スーパーマンは、昼間でもいざとなったら着替えて飛んで行く柔軟性があるが、後者は退勤まではニコニコした小男に過ぎない。しかし家に帰るとなく子も黙る総長である。――考えてみると、あれがわれわれの「私的」理想像で、仕事から解放されるとヤクザになる。というわけで、仕事とプライベートの両立だのなんだのいう人間はヤクザじみているとみている。あたりまえだが、労働の問題は、労働以外の時間に我々がどのような人間であるのかが問題にならなければ、人間的な問題とはならない。しっかりワークライフバランスをとるようになったら、労働者として本質的に劣化したみたいな現象が起こるのは、そのせいである。

報復+1

2022-10-09 02:04:46 | 文学


今はむかしのごとく。継母髪をのばし。いたづらを立。世にさかゆる時。まゝ子の幽霊きたつて。軒端より。息吹かゝるに。母のかしらにくはゑん燃付。いろいろけしてもとまらず。形も残ずなりぬ。

報復譚の一つである「執心の息筋」は、報復が最後に急激に起こるのでびっくりする。しかし、実際報復に至る過程の方がいつも長いのだから当たり前だ。復讐OKの社会が今も昔もうまくいかないのは、報復が一瞬であるのに、それまでが異様に長く、その長い苦しみはいつまでたっても報復によって解消されないからでもある。むしろ、報復しないとなにもなされないならば、苦しみの間は耐えろといっている社会になってしまう。いまでもそうなのである。

上の話は、継子いじめの復讐であるが、継子いじめが殊更我々の社会でフィクションの重要な位置を占めてしまっているのはなぜであろうか。容易に一般化してはならないが、昨今の宗教2世問題は、親が宗教者ではなくても存在している。親が宗教的な束縛として存在するのはなぜかである。宗教2世問題は、子どもが洗脳から解けた場合、精神的な帰る場所がないことが重要視されている問題で、人権を越えた人格問題である。我々の社会の場合、人権が人格の保証と結びついていないことも多いが、さいきんその兆しが見られるようになったきた。

私のまわりでは、2世問題は、学生の就職活動に絡んでいる。就職は、単に食べるための問題ではなく、親からの引き継ぎ問題になっている学生がかなり散見される。親の職業が精神的な帰る場所になっている学生にとっては、これは生存を駆けた活動なのである。なぜ、こんなナンセンスなことになってしまったのか。ひとつは、われわれからなんとなく「日常生活」の決まり切った流れが寸断されているというのがあるかもしれない。少なくとも、意識上、「変転激しい日常」というものがあるからである。しかし、これは、変転ではない。むしろ、外部からの意識への干渉の効果なのである。トラブル処理というよりもコンプライアンス違反みたいなものに怯えるということである。これには、個人では対応出来ない。以前は、「父」的な権威がその違反など撥ね付けていたのである。

賢一郎 新! 行ってお父さんを呼び返してこい。
(新二郎、飛ぶがごとく戸外へ出る。三人緊張のうちに待っている。新二郎やや蒼白な顔をして帰って来る)
新二郎 南の道を探したが見えん、北の方を探すから兄さんも来て下さい。
賢一郎 (驚駭して)なに見えん! 見えんことがあるものか。
(兄弟二人狂気のごとく出で去る)


――「父帰る」


この戯曲は、家父長制のありかたをよく示しているとはいえようが、もっというと、「父」は子に容易に移動し、また「父」に移動しうることを示しているような気がする。息子の賢一郎は、放蕩親父のかわりに「父」になっていた。しかし、父が帰ると案外簡単にその座から滑り落ちてしまう。かかる「父」を維持するために、戦後世界は、そこに職業や学歴を与えた。

「執心の息筋」の話が、「父」の死去から始まっているのは当然のようで、重い。息子の継母への復讐は、「父」の復活である。先の暗殺事件を想起させる構図である。安倍元首相には子どもがいなかった。このことが、彼の命が絶たれることを容易にしている可能性がある。復讐がありえないからである。