
ひとりすぎ程。世にかなしき物はなし。河内のくに。平岡の里に。むかしはよしある人の娘。かたちも人にすぐれて。山家の花と所の小哥に。うとふ程の女也。いかなる因果にや。あいなれし男。十一人まで。あは雪の消るごとく。むなしくなれば。はじめ恋れたる里人も。後はおそれて。言葉もかはさず。
近世文学を読んでいると、我々が研究で攻撃したりもする我々の世間的常識みたいなものの存在感を感じる。平安や鎌倉時代の文学を我々がなんとなく開放感を感じて読むのは、その存在感が希薄というのがあるのかもしれない。「身を捨てて油壺」なんて、のっけから、ひとが独身でいるとろくなことはないみたいな宣言から始まっている。その例が美人である。十一人ものの男が不審な死を遂げて独身を続ける彼女は「山姥」みたいな者になり、神社の境内で躊躇いもなく射られる。
ねらひすましてはなちければ。彼姥が細首おとしけるに。そのまゝ火を吹出し。天にあがりぬ。夜あけてよくよく見れば。此里の名立姥也。是を見て。ひとりもふびんといふ人なし。
ひとりくらいは不憫だと思う者がいたにちがいないのに、この断定である。我々にとって不思議なのは、案外江戸時代なのだ。我々にとっての唯物論的なものは、こういう神も仏もないせりふを公然と言い放つ我々の「私的」なメンタリティなのである。それをわたくしは私的唯物論と呼びたい。
そういえばアメリカンコミックの「スーパーマン」に似た話として、我が国には「静かなるドン」がある。昼間はサラリーマンで夜はヤクザのドンの男の話である。スーパーマンは、昼間でもいざとなったら着替えて飛んで行く柔軟性があるが、後者は退勤まではニコニコした小男に過ぎない。しかし家に帰るとなく子も黙る総長である。――考えてみると、あれがわれわれの「私的」理想像で、仕事から解放されるとヤクザになる。というわけで、仕事とプライベートの両立だのなんだのいう人間はヤクザじみているとみている。あたりまえだが、労働の問題は、労働以外の時間に我々がどのような人間であるのかが問題にならなければ、人間的な問題とはならない。しっかりワークライフバランスをとるようになったら、労働者として本質的に劣化したみたいな現象が起こるのは、そのせいである。